弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

徳大寺有恒著「ぼくの日本自動車史」

2014-08-03 14:24:27 | 趣味・読書
徳大寺有恒さんの「間違いだらけのクルマ選び」が最初に発行されたのは1976年です。
今では想像もつかないでしょうが、そのころの国産乗用車の大部分は、「外見の見てくれを重視し、そのためには車内の居住性や前方・後方視界は二の次」「走る・曲がる・止まるの基本性能が十分に発達していない」という状況でした。自動車雑誌は存在し、新車の批評がそこに掲載されるのですが、そもそもそれらの雑誌は自動車会社からの広告収入で成り立っており、ライターもそられ雑誌との契約で生活していましたから、ズバッと本質を指摘する評論が存在しなかったのです。ユーザーも、自動車とはそんなものだと思いこまされていたのでしょう。
そこにこの本が登場し、当時の国産車をめった切りにしました。
本を読む限り、なるほどと納得させられることばかりです。その後、我が家でクルマを選ぶ必要が生じるたびに、その年の「間違いだらけ・・」を購入し、クルマ選びの指針にしていました(間違いだらけのクルマ選び間違いだらけのクルマ選び(2)日本にミニバンが誕生した頃)。

その徳大寺さんが、終戦直後から1976年まで(つまり最初の「間違いだらけ・・・」を出版するまで)の間、次々と登場した国産車のほとんどにご自身が乗りまくった経験に基づいて書かれた本があると知り、読んでみました。
文庫 ぼくの日本自動車史 (草思社文庫)
徳大寺有恒
草思社

徳大寺さんは昭和14(1936)年生まれです。戦前に徳大寺さんの父親は東京でGM系列のディーラーに勤めていました。戦時中、一家は水戸に疎開します。あるとき、親子三人で上野駅に着いたところで激しい空襲にぶつかってしまいました。上野の地下壕に飛び込むと、中には戦災で親を失った浮浪児たちがあふれかえっていました。「このときの印象は強烈だった。ぼくは中学生ごろまで、あのときの、親を失った子どもたちはどうしただろうかと、何かあるたびに思い出したものである。」

戦後、一家は水戸に落ち着きました。小学生の頃から徳大寺氏はクルマが大好きでした。戦後すぐはアメリカ車の時代です。水戸から東京に遊びに出ては、米国軍人に接収された家に並んだアメリカ車を見て回りました。

徳大寺氏が中学生になる頃、父親は水戸でタクシー会社をはじめていました。そしてそのころ、徳大寺氏は実際にクルマを運転し始めるのです。中学2、3年の頃には、町中で普通にクルマを運転していたというから驚きます。アニメ「イニシャルD」の藤原匠君が実在していたかのようです。
そして16歳になったとき、小型四輪自動車免許を取得しました。

クルマ好きの徳大寺氏は、以後ずっと、その時代に登場する車種に必ず搭乗し、そのクルマの性格を自分で確認してきました。父親のタクシー会社が所有するクルマはもちろん、あらゆるツテをたどって、全車種を経験しようとする執念です。そしてこの経験が、徳大寺氏のクルマ批評の根幹となっています。

水戸高校時代、クルマに夢中だった徳大寺氏は全然勉強しなかったようです。特に数学は全く勉強しなかった。入試で慶応は失敗、青学と立教は合格しました。そのとき成城大学を知り、実際に見に行って、徳大寺氏はすっかり気に入ってしまいました。一次試験は終わっていましたが、二次試験で若干名を募集すると言うことで、受けたら合格しました。成城では自動車部に入りました。

夏休みに水戸に帰ると、お盆の期間中は父親のタクシー会社で運転手として手伝っていました。「当時、一日走ると、親父の会社の運転手さんの中では、ぼくがいちばん稼ぎをあげた。なんとなれば、ぼくは他の運転手さんより三割方は速かったからである。砂利道ではすべてのコーナーで四輪ドリフトしてラリードライバー並みのスピードで走った。そのためどのお客さんも、降りるとヘナヘナとなってしまう。えらい神風タクシーぶりであった。」
めちゃくちゃですね。ここでも藤原匠です。
会社は電話でタクシー予約を受け付けます。ときどき電話番の女の子が、予約を黒板に書き忘れます。『忘れられたお客さんから、「クルマが来ない」と電話がかかってくると、女の子の顔色がみるみる青ざめるので事情はすぐわかる。』
こんなときは徳大寺氏の出番です。『6キロ地点のところにいる客を、あと10分で駅まで連れて行かなければならないといった場合、ぼくが行くと絶対に間に合ってしまう。ぼくは田舎の砂利道を120km/hぐらいで飛ばしたからだ。』
『後年、ぼくはトヨタのワークスドライバーになってグランプリにも出場したが、たいした成績をあげることはできなかった。そこでグランプリはやめてラリーに転向したところ、こいつは嘘のように勝ち続けた。そのときのテクニックは、この水戸のタクシー時代に学んだものである。実際、ぼくの生涯であれほど飛ばした時期はこのときをおいてほかにない。よくもまあ、人もあやめず、自分も死なず、ここまで来られたものだ。』

プリンス・スカイラインが登場したのは1957年です。
このころ、自動車の販売先としてタクシー・ハイヤーを無視することはできません。そして、当時の道路は無舗装の砂利道で、でこぼこだらけです。でこぼこ道をタクシーとして突っ走っても壊れない頑丈さがクルマに要求されていました。
登場したスカイラインは、リアサスペンションにドディオンアクスルという複雑なメカニズムを採用しました。乗り心地と操縦性の高いバランスを目指したためです。しかし、当然ながらタクシー業界には評価されず、足回りが弱いという評判が蔓延してしまいます。

大学を卒業した徳大寺氏は本流書店に勤務します。ここには、クルマ関係のいろんな人が客としてやってきました。『ところが、不勉強でノータリンのクルマ青年だったぼくはその人たちから相手にされなかった。だって、口を開けば、やれトライアンフだMGだとばかりいっていたのだもの。五十歳を過ぎたいまになってつくづく思うが、男は若いうちから勉強していないとダメだ。勉強とは大事なことなのだ。』

会社を1年で辞め、徳大寺氏はカー用品の会社を始めました。会社は急成長し、徳大寺氏の金回りも良くなりました。
このとき、1967年、日産はブルーバード510型を発売しました。徳大寺氏はすぐに、1600SSS4ドアセダンを購入しました。510は実によく走り、徳大寺氏はほんとにいいクルマだなあと思いました。(このクルマ、私の大学時代にも“ブルーバードSSS”の名で有名でした。友人の父親が所有しており、このクルマで長距離ドライブに出かけたこともあります。当時私は免許を持っておらず、リアシートに乗っているだけでしたが。)
しかしこのブルーバード510型は、トヨタのコロナに勝つことができなかったのです。サスペンションの形式を見ても、実際の走行性能を見ても、ブルーバードはコロナに比べて月とスッボンほども性能が違いました。しかし、徳大寺氏をはじめ、多くのユーザーはコロナのゴテゴテアクセサリーと、太いタイヤにだまされてしまったのです。
日産は510の販売で失敗し、その後のブルーバードは、コロナに見倣ったゴテゴテの装飾過剰路線に入り込むのです。

1965年に発売されたスバル1000は、FF車で、すばらしい名車でした。しかし売れず、5年後にレオーネへとモデルチェンジしました。

徳大寺氏はこうして、1976年に至るまでの(多分)ほとんどすべての国産車について、実際に運転したフィーリングに基づいて評価を行っていきます。この本を読むと、日本の戦後自動車史(76年まで)を理解することができます。

徳大寺さんが始めた会社は、連鎖倒産のような形でつぶれてしまいました。その心労がたたってか、徳大寺さんは糖尿病性の高血圧症状で倒れてしまいます。その病気での入院中、ヒマなので原稿を書きはじめました。それが、「間違いだらけのクルマ選び」のもととなった原稿でした。
糖尿病がおさまったあと、徳大寺さんはファッション雑誌の編集部へフリーランスの編集者として転職しました。そこで三輪幸雄さんという編集者に出会い、意気投合します。その三輪さんに書きためた原稿の出版について相談すると、三輪さんは草思社の社長、加瀬昌男さんを紹介してくれました。原稿を一読した加瀬さんは「書き直してくだされば出版しましょう」といいました。

原稿書き直しの直前、徳大寺さんはフォルクスワーゲンのゴルフを購入しました。
会社を潰した徳大寺さんは貧乏でした。そこに、ヤナセに勤めていた友人がゴルフを買わないかと訪ねてきたのです。ヤナセは、新しく登場したゴルフを2000台、日本に輸入したのですが、ぜんぜん売れなかったのです。徳大寺さんの経済状態はゴルフを買える状況ではありませんでしたが、奥さんの協力もあり、何とか購入しました。
『このゴルフはすごかった。ぼくは人生であんなにすごいクルマを経験したことはそれまでなかったし、おそらく、もう将来もないんじゃないかと思う。・・・ブレーキもよく効くし、ハンドリングも素晴らしい。そいつは当時の国産車など問題としていなかった。』
『このゴルフの体験をベースにぼくは最初の原稿をすべて書き直した。』
当時徳大寺氏は国産車メーカーの広報車に1年かけて全部乗りました。その結果、国産車もけっこういいんじゃないかと思うようになり、最初の原稿もその結論に沿って書かれていました。それが書き直した二度目の原稿は「ゴルフみたいなすごいクルマがあるじゃないか」という趣旨に大きく変わっていました。

「間違いだらけのクルマ選び」は1976年11月に刊行されました。年が明けて、本は爆発的に売れていきました。ある新聞記者が当時のトヨタ社長の豊田英二氏に「読みましたか」と質問したところ、英二氏は「読んでいる。社内にも読めといった」と答えたそうです。結局、正・続あわせて104万冊が売れました。

徳大寺さんは、それ以前から本名の杉江博愛で自動車雑誌に記事を書いていました。本名でAJAJ(自動車ジャーナリスト協会)にも加入しています。協会は徳大寺有恒が杉江さんであることを嗅ぎつけ、退会を勧告してきました。協会の査問会に呼び出されたとき、ある理事が「われわれはメーカーと仲良く、協調関係でいきたいのだ」とついホンネを漏らしたので、「じゃあ、AJAJという団体はメーカーが大事なのか、読者が大事なのか」と聞き返したところ、「もちろんメーカーだ」という答えでした。徳大寺さんはその場で、「本日限り、私から辞めさせていただく」と絶縁状を叩きつけました。
その後はじめて、徳大寺氏は出版社の社長と記者会見を行い、覆面を脱いだのです。

終章で、徳大寺氏は言います。
「いまの国産車は、走る、曲がる、止まるに関してはもはや世界的レベルにあると行っていい。」
「ところがである。それらの多種多様な現代の日本車には、なぜか魅力がない。ファンの胸をときめかせてくれる訴求力がないのだ。」

私の印象をいいます。
「間違いだらけの・・・」が出版される前、日本車は、徳大寺氏が批評したようにヘンテコなクルマが多かった一方、それぞれが個性的でした。当時のクルマは一目見て車種を言い当てられます。
それが「間違いだらけの・・・」以降、日本車は、基本性能を追求する一方で個性が消えていきました。最近のクルマは車種を言い当てることができません。
私は、これが「間違いだらけの・・・」本の功罪であると思っています。この本のおかげで、日本車からはヘンテコなクルマが一掃されました。しかし、基本性能を追求すればするほど、クルマの外観はみんな似てきてしまったのです。

それはさておき、私がずっとクルマ選びのバイブルとしてきた「間違いだらけの・・・」が生まれるまでのいきさつ、そして徳大寺氏が小さかった頃からのクルマとのつきあいの全貌をこの本で知ることができました。
楽しい本です。
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