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名歌「荒城の月」と 上杉謙信の「陣中の作」

2021-09-18 06:05:43 | 文学
名歌「荒城の月」は明治31年(1898)東京音楽学校(現・東京芸術大学)の求めにより、詩人、土井晩翠が作詞し、天才、瀧廉太郎が作曲して完成し、ヨ-ロッパにまで紹介された日本を代表する歌です。

 一、春高楼の花の宴 めぐる盃影さして
   千代の松が枝わけ出でし むかしの光 今いづこ。

 二、秋陣營の霜の色 鳴き行く雁の数みせて
   植うるつるぎに照りそひし むかしの光 今いづこ。

 三、いま荒城のよはの月 變らぬ光たがためぞ
   垣に殘るはただかづら 松に歌ふはただあらし。

四、天上影は變らねど 榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ あゝ荒城の夜半の月。 

一方、戦国時代、越後の龍といわれた武将、上杉謙信は、天正五年(1577)越後の春日山を出陣し、越中、加賀を平定して能登の七尾城に入り、戦勝の酒宴を催し将兵を慰労しました。この時、賦したのが七言絶句「九月十三夜陣中作」です。

 霜満軍營秋気清
 数行過雁月三更
 越山併得能州景
 遮莫家郷憶遠征

 「読み方」

 霜ハ軍營ニ満チテ秋気清シ
 数行ノ過雁 月三更
 越山併セ得タリ能州ノ景
 遮莫(さもあらばあれ)家郷遠征ヲ憶フ

 「訳」
 霜の気が陣営に満ちて、秋の気配が清らかである。月の光の中を、雁が幾列も並んで飛んでゆく。時刻は三更(十二時)となった。越後の山に能登の景を併せることができた。故郷に残した家族がわが身を案じていようとも、それはどうでもよいことである。

さて、ここでは、「荒城の月」と「陣中作」の共通点を考察しました。
「陣中作」の中にある、陣・月・秋・数行・過雁は、「荒城の月」の二番の詩の中にことごとくあります。陣→「植うるつるぎ」、数行→「鳴き行く雁の数みせて」

もはや共通点というよりは、「陣中作」が「荒城の月」の出典と言って良いかもしれません。謙信公を敬愛した土井晩翠が「陣中作」を愛唱しており、「荒城の月」の作詞の際に、謙信公に酷似した詩想を懐いたのではないかと思われます。しかし、「陣中作」は戦勝・祝宴の喜びの詩であり、「荒城の月」には落城の悲哀が漂っています。
後日、土井晩翠が会津若松での講演(昭和21年)で自ら語ったのですが、「荒城の月」のモデルは、会津の鶴ヶ城であることがその理由だと思われます。
不肖は、銃を取って戦った山本八重が、鶴ヶ城落城の前夜に詠んだ無念の絶唱を想起します。

明日の夜はいつこの誰かなかむ(眺む)らん
なれし大城(おしろ)にのこす月影

八重は後に上京して、夫の新島襄と共に、同志社大学の発展に尽力しました。

土井晩翠 「土井晩翠詩集」 角川文庫 
石川忠久 「漢詩のこころ」 時事通信社




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