yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

会津藩 飛地

2016-03-04 06:27:25 | 歴史
「会津藩家世実記」によれば「寛永12年(1643年)7月、会津へ御所替え、御加増三万石、御拝領、ほかに五万石御預かり地仰せを蒙らる」とあります。即ちこの時、保科正之公に会津転封が命じられ、会津保科家は二十八石あまりの大藩となりました。直ちには公称二十八万石と言われなかったそうです。それは徳川御三家の水戸藩も二十八万石でしたので、会津藩がこれを凌駕すると障りがあると三代将軍、家光公は気配りをしたということです。会津藩は、この時、会津の所領のほかに各地に飛地を拝領しました。越後・魚沼の小千谷、浦佐、小出島、六日町、十日町、塩沢、越後・北部の赤谷、津川、水原などがこれにあたります。越後はかつて上杉家が統治した大国でしたので、幕府はこの地を分割統治する方針でした。その一つとしての役所である小千谷陣屋は、越後・魚沼の飛地を統治していました。
小千谷陣屋が1854年に改築された時の図面によれば、本陣は間口5間、奥行き16間の建物
で、構内に数軒の役人の役宅がありました。建築費は3200両もかかりました。明治になると新政府の出先機関として民政局に変わりました。陣屋の近くには小千谷舟改番所もありました。
これは、信濃川と支流湯殿川の合流点にあり、「女・穀物・武具・走り者」等の通行を監視し、
運上金の取り立ても行いました。


中村彰彦「慈悲の名君 保科正之」 角川選書
渡邊三省、他 「にいがた歴史紀行11 小千谷市・北魚沼郡」 新潟日報事業社
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