yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

剣客 森要蔵と森寅雄

2010-07-10 07:51:48 | 歴史
森要蔵は会津藩の支藩、上総飯野藩 保科家の藩士でした。剣道を好み、江戸で腕を磨き、千葉周作の道場、玄武館の四天王と言われるまでになりました。要蔵は、当時にしては珍しく髭を生やしており、あごから胸まで垂れていました。その関羽ひげが白くなり始めた頃、戊辰戦争が起きました。この時要蔵は主君保科正益(まさあり)と別れ、照姫に従って会津入りをし、若松城籠城戦に参加し、城の郊外にある雷神山の守備隊を指揮しました。西軍の大将は土佐の板垣退助でした。雷神山は西軍にかこまれ、西軍は山麓から大砲を撃ちこみながら山上に攻め登ってきました。大砲には適わず、要蔵は隊員の大半を失いました。あとは山上から駆けおとすように斬りこみをかけるしかありません。その先頭には、常に要蔵と息子の虎尾(森寅雄とは別人)の姿がありました。当時、虎尾はまだ十五、六歳の少年で、白い陣羽織と義経袴をはいていました。父の要蔵が危なくなると、息子の虎尾がかけつけ、息子が包囲されると父がかけつけて囲みをやぶりました。この両人の動きを山麓から見上げると、まるで舞を見るようであった、と後に板垣退助は語ったそうです。板垣は銃撃を止めさせて、せめて父子を銃弾による死からまぬがれさせようとしましたが、しばらく後、松の根元に関羽ひげと白い陣羽織が相かさなって斃れたとのことです。この森父子の奮戦を、後に東大総長になった山川健次郎も見ていたとのことです。後に山川は、森父子の話をするたびに涙をこぼしたそうです。

 さて、森要蔵には「ふゆ」という娘がいましたが、彼女は野間氏と結婚しました。その息子を野間清治と言いました。清治は講談社を興しましたが、彼の一人息子が野間恒(ひさし)でした。清治の妹の子供を寅雄といいます。寅雄の名は先祖の虎尾に因んだものです。清治はこの子をひきとって養育しましたので、恒と寅雄の従兄弟は兄弟のように育ちました。剣の道には血筋があるのでしょうか。野間家の道場で腕を磨いた二人は共に剣道に優れ、天才的な強さであったとのことです。二人は昭和八年の昭和天覧試合に出場し、全国の強豪を破って共に決勝に進出しました。普段は寅雄の方が少し強かったらしいのですが、勝ちを若い恒に譲ったのか、恒が優勝を果たしました。野間恒はその後、惜しくも若くして病没しました。
 剣の天才、森寅雄は、その後アメリカに渡り、養蜂業者の下で働いていましたが、暇をみては棒を振ったりして、剣道のことは片時も忘れることがありませんでした。ある日、アメリカの友人が「アメリカにも剣道と似たものがある。」と言い、ロス・アンジェルスのフェンシング・クラブに寅雄を連れて行ってくれました。最初、フェンシングに慣れていなかった寅雄は負けましたが、工夫をこらして研究し、めきめき上達しました。そしてロス・アンジェルスの選手権大会に出場して優勝し、ついで全米大会でも優勝しました。渡米してから僅か二年足らずでした。寅雄の寅を取った「タイガー・モリ」と言う名は、アメリカのフェンシング界で知らない人がいない程になり、寅雄は昭和11年のベルリン・オリンピックの非公式のコーチに頼まれるまでになりました。太平洋戦争の敗戦の後、彼は日本の剣の道をアメリカに残そうと考え「アメリカ日本剣道連盟」を設立しました。ローマ・オリンピックの時もアメリカのフェンシング・チームの正式コーチとしてローマに渡りました。その後、剣道とフェンシングの普及のために道場をロス・アンジェルスに作り、「ノマ道場」と命名しました。
1969年、寅雄は門人に居合術を教えている最中に剣を抜いた瞬間、心臓発作により絶息しました。まさに剣を抜いたままの姿勢で斃れたということです。享年五十四歳でした。思えば、千葉周作の子息達や野間恒、森寅雄など、剣の天才には早世する人が多いようです。

      司馬遼太郎 「余話として」  文藝春秋社
      中村彰彦 「名剣士と照姫さま」 徳間書店
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2 コメント

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森要蔵の戦い (池月映)
2022-02-07 18:07:14
戊辰戦争150周年、森要蔵が戦った白河口を調査した結果、雷神山の戦い、板垣退助、山川健次郎が見たというのは創作されたものです。「二本松藩戊辰戦史」「斎藤一」(新選組)の史料で、会津藩、仙台藩、二本松藩、新選組の共同作戦が明らかになりました。白河口には雷神山が3ヶ所あります。要蔵は6月12日、月1日に戦い、戦死したのは宿泊した上羽太村の手前の戸ノ内地内で地元では調査すみです。宿泊した橘家に龍の文様を施した小柄、芥子鞘の小刀を与えました。要蔵さんの姿は「白河だるま」に似ており、映像作品が期待されております。
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コメントにお礼 (yosh388)
2022-02-08 06:37:13
池月様、大変勉強になりました。コメントをありがとうございました。
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