yoshのブログ

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習志野と秋山好古

2012-05-03 05:58:58 | 歴史
習志野(ならしの)は千葉県にあります。甲子園で市立習志野高校が活躍し、優勝したことでも有名になりましたが、この地名を初めて見る人にとっては正しく読むのは難しいかも知れません。
明治政府は明治6年に「徴兵令」を発布して、軍政の近代化を進めました。この年の4月に即位された明治天皇はこの時点で22歳でした。当時「大和田原」と呼ばれていた現在の習志野原で陸軍近衛兵の天覧大演習が実施され、天皇が臨席されました。この演習には長州、薩摩、土佐の近衛部隊4個大隊2800人を紅白二軍に分けて総軍が演習しました。西郷隆盛も陪席したということです。この壮観勇壮な部隊訓練を見学された天皇は演習終了後に各部隊指揮官を褒めるお言葉の中で、指揮官として卓越した活躍をした篠原国幹(しのはらくにもと)を例に挙げ、「今後将官らは篠原に見習え」と言われたことから「習へ篠原」「習志野原」という命名になったということです。
さらに明治天皇は次の御製を残されました。夏草も 茂らざりけり もののふの 道怠らず 習志野の原
つはものの駒のたつがみうちみだれ 秋風さむし 習志野の原

また下図のようなご宸筆「睦仁 習志野原」をしたためられました。



こうした事もあり、陸軍においては習志野は特別な場所として見られていたようです。

さて、日清・日露戦争に備えて、騎兵旅団長秋山好古は習志野において騎兵を訓練しました。彼は日清・日露戦争で功があり、陸軍内で累進して、最後は陸軍大将、教育総監になりました。予備役編入後、請われて、郷里松山の北予中学の校長になりました。この事は、中学校の関係者が校長就任の依頼に来た時に、彼の即断で決まったということです。陸軍大将が地方の中学の校長を勤めるというのは、当時としては大変異例のことでしたが、全く意に介さなかったということです。彼は青年の教育に期するものがあったようです。

好古の中学校校長時代のエピソードを二つ。
  校長就任に際しては、「週に一、二度来校いただければ」との申し出に対し、「引き受けた以上は毎日出勤」と言った話も有名です。また時刻に厳格な好古は毎日決まった時刻に出勤したので、近所の人々は秋山校長の姿を見て時刻が確認できたということです。
 軍国主義的風潮が高まる中、北予中学でも「軍事教練」の時間が設定されました。「軍事
教練」に派遣された将校が変に張り切って時間をオーバーすると叱責したということです。好古の胸中には「学生の本分は勉学」という基本理念があったのでしょう。
また、ある年の卒業式で来賓の県知事が遅刻した折には、定刻時間となったため知事の来るのを待たずに開式させ、遅れて到着した知事には最後に挨拶させたということです。

好古(幼名、信三郎)が子供の頃の秋山家は貧しく、弟の真之(幼名、淳五郎)が生まれた時に、弟が寺にやられそうになりましたが、好古は「あのな、お父さん。赤ん坊をお寺へやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」(註・豆腐ほどの厚さの札束の意)と言って反対し、その話は取り止めになったということです。この時もし好古の反対がなかったら、日本海軍は秋山真之を擁することもなく、日本海海戦の勝利もなかったことでしょう。
なお、彼は旗本佐久間家の娘、多美との間に、二男四女をもうけました。(長男、信好氏の子息、哲兒氏は東京都に今もご健在です。)好古は古武士のような剛直な武人でしたが、家庭ではやさしい人であったそうです。また、長男、信好氏が勤務銀行からヨーロッパへ長期派遣が決まった時には、「絶対青い目の女子を連れてくるなよ。絶対バクチに手を出すなよ」と申し渡したそうです。自分への自戒でもあったのか、弟・真之の親友、広瀬武夫のロシア留学時代の話を思ってのことだったのかは不明ですが。余談ですが、好古はハンサムだったので、フランス留学時代には大変人気があったそうです。

      『秋山好古と習志野』 監修 山本良二  2011年




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