慶応4年8月23日の朝、西軍が鶴ケ城下に侵入して来ました。西郷頼母邸は郭内の中でも最も大手門に最も近い所にありました。そこで頼母の妻、千重子をはじめ家族の全女子9人と、その頃西郷邸に身を寄せていた親戚の者12人を加えて合計21人が自刃しました。その数は白虎隊19人の飯盛山での自刃を凌ぐ大きさであり、誠に正視するのが憚かられる壮烈悲惨な最期でありました。頼母の母の律子が、妻の千重子とその子女に向かって「私共も入城して殿様のために尽くしたいと願っておりますが、幼い者まで連れて行っては、反って籠城の妨げになります。それよりも藩のために身を捧げて、自刃する覚悟を致しました。そなた達も今こそ、その覚悟をする時です。ただ、生きることばかり考えて、女として最大の恥辱を受けることがあってはならないと思います」と話したとのことです。子女達は快く同意して、それぞれ辞世の和歌を認めて自刃しました。無理もないことですが、この頃から西郷頼母の言動は常軌を逸したものになり、「君命」という温情ある口実をもって城外に追放となりました。<o:p></o:p>
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