今年は、伊勢神宮が20年に一度の遷宮、出雲大社が60年に一度の遷宮が行われる年に当たり二つの遷宮が重なります。神力が十全に発揮されるように、社殿や宝物などを一新し、神様に移っていただく重要な儀式です。天照大御神を祀る伊勢神宮は、690年、持統天皇の御代に第1回の式年遷宮が行われ、今年で1300年余になります。
伊勢神宮では明治37年7月、日露戦争のさなかに、時の芳川内務大臣と田中宮内大臣が参内し、「式年遷宮の古法改正」について上奏しました。両大臣は「遷宮の用材の確保が難しくなっています。今度の遷宮では、柱を土中に建てる古法を改め、柱下に礎石を置き、コンクリートで固めれば200年もちます。その間にヒノキが育って、大材を得るのも楽になります」と、遷宮の一種の合理化策を提案しました。しかし、明治天皇はこれを退けました。天皇が侍従に語られたところでは、天皇は「近年、建築法が進歩し、そういうことを言い出す者が必ず出てくると思っていたが、それは大変な間違いだ。神宮はわが国固有の建て方だ。これを見て建国の古いことを知り、祖先があのような質素な建物で立ち居されたこともわかる。現在のこの建て方は永世不変でなくてはいけない。建築法が進歩したからといって、レンガとかコンクリートで造るべきではない」との判断を伝えたそうです。両大臣は優れた識見を持ち、多くの功績を残した人物でしたが、こと遷宮については明治天皇の理解に及ばなかったようです。両大臣の進歩的進言をいれていれば、むろん今日の遷宮はなかったのです。さて、明治天皇は、さらに注目すべき言葉を残しています。「大材が足らないなら御扉(みとびら、正殿の扉)なども一枚板でなければならないわけでもない。継ぎ合わせて形を整えればよい。それに材はヒノキに限らない、他の木でも差し支えない。そうすれば大材が不足することはない」と語られたそうです。「遷宮の外見より精神が大切」との戒めは、噛み締めるべき認識だと伊藤和史氏は書いています。
伊勢神宮では明治37年7月、日露戦争のさなかに、時の芳川内務大臣と田中宮内大臣が参内し、「式年遷宮の古法改正」について上奏しました。両大臣は「遷宮の用材の確保が難しくなっています。今度の遷宮では、柱を土中に建てる古法を改め、柱下に礎石を置き、コンクリートで固めれば200年もちます。その間にヒノキが育って、大材を得るのも楽になります」と、遷宮の一種の合理化策を提案しました。しかし、明治天皇はこれを退けました。天皇が侍従に語られたところでは、天皇は「近年、建築法が進歩し、そういうことを言い出す者が必ず出てくると思っていたが、それは大変な間違いだ。神宮はわが国固有の建て方だ。これを見て建国の古いことを知り、祖先があのような質素な建物で立ち居されたこともわかる。現在のこの建て方は永世不変でなくてはいけない。建築法が進歩したからといって、レンガとかコンクリートで造るべきではない」との判断を伝えたそうです。両大臣は優れた識見を持ち、多くの功績を残した人物でしたが、こと遷宮については明治天皇の理解に及ばなかったようです。両大臣の進歩的進言をいれていれば、むろん今日の遷宮はなかったのです。さて、明治天皇は、さらに注目すべき言葉を残しています。「大材が足らないなら御扉(みとびら、正殿の扉)なども一枚板でなければならないわけでもない。継ぎ合わせて形を整えればよい。それに材はヒノキに限らない、他の木でも差し支えない。そうすれば大材が不足することはない」と語られたそうです。「遷宮の外見より精神が大切」との戒めは、噛み締めるべき認識だと伊藤和史氏は書いています。