江戸落語の「八っさん、熊さん」に代表される江戸の下町の庶民を江戸っ子というようです。漱石の小説「坊ちゃん」の主人公も江戸っ子気質の持ち主です。
「気前がいい」、「見栄っ張り」「腹に何も無い」というわけで、「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」(口は悪いが腹にこだわりがなく気性がさっぱりしている。口先だけで意気地がない意)などとも言われます。将棋の第14世名人、木村義雄も江戸っ子の父、下町の下駄職人に育てられました。生粋の江戸っ子と言っていいでしょう。以下は木村さんと彼の父のエピソードです。
下町住人の倫理では、義理人情とか意地とか情け深さとかいうことが妙に重んじられました。そうした倫理の枠内で育った木村さんは、父から「男という者は自分の有利になることは言うべきでない」という観念をいつしか植えつけられました。また、よく「手めえの得することは言うない」という調子で子供たちを戒めたということです。後日、将棋の世界で種々の会議があった時などに、木村さんは父の教えを守り、自分が得になるような案を主張することを控えたということです。
ある時、幼い木村少年が囲碁の先生の家で「夕食を食べていけ」と言われました。食卓に座ると麦飯が出ていました。木村少年の家は当時随分貧乏でしたが、父が江戸っ子の職人気質で、飯だけはいつも真っ白でないと気に入らなかったそうです。そこで、木村少年はそれまで麦飯を一度も食べたことがなかったので、先生の家で出された麦飯を食べなかったそうです。先生は大変怒って「俺のところで飯が食べられないようでは弟子にしない」とひどく叱りつけました。木村少年が家に帰ってこのことを父に話すと、父は「子供がイヤなものを食えというのは無茶だ。そんな先生のところはやめちまえ」と怒ったので、木村少年は囲碁をやめることにしました。そういうところが父の職人気質の頑さでした。と木村さんは回顧しています。この後、木村さんは将棋の修行をして名人にまで昇りつめました。囲碁の先生のところで麦飯が出たお陰で、木村さんはその後将棋の道に向かいました。つまり将棋界の発展と大名人の誕生の蔭に麦飯があったという事です。
木村義雄 「勝負の世界」恒文社
「気前がいい」、「見栄っ張り」「腹に何も無い」というわけで、「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」(口は悪いが腹にこだわりがなく気性がさっぱりしている。口先だけで意気地がない意)などとも言われます。将棋の第14世名人、木村義雄も江戸っ子の父、下町の下駄職人に育てられました。生粋の江戸っ子と言っていいでしょう。以下は木村さんと彼の父のエピソードです。
下町住人の倫理では、義理人情とか意地とか情け深さとかいうことが妙に重んじられました。そうした倫理の枠内で育った木村さんは、父から「男という者は自分の有利になることは言うべきでない」という観念をいつしか植えつけられました。また、よく「手めえの得することは言うない」という調子で子供たちを戒めたということです。後日、将棋の世界で種々の会議があった時などに、木村さんは父の教えを守り、自分が得になるような案を主張することを控えたということです。
ある時、幼い木村少年が囲碁の先生の家で「夕食を食べていけ」と言われました。食卓に座ると麦飯が出ていました。木村少年の家は当時随分貧乏でしたが、父が江戸っ子の職人気質で、飯だけはいつも真っ白でないと気に入らなかったそうです。そこで、木村少年はそれまで麦飯を一度も食べたことがなかったので、先生の家で出された麦飯を食べなかったそうです。先生は大変怒って「俺のところで飯が食べられないようでは弟子にしない」とひどく叱りつけました。木村少年が家に帰ってこのことを父に話すと、父は「子供がイヤなものを食えというのは無茶だ。そんな先生のところはやめちまえ」と怒ったので、木村少年は囲碁をやめることにしました。そういうところが父の職人気質の頑さでした。と木村さんは回顧しています。この後、木村さんは将棋の修行をして名人にまで昇りつめました。囲碁の先生のところで麦飯が出たお陰で、木村さんはその後将棋の道に向かいました。つまり将棋界の発展と大名人の誕生の蔭に麦飯があったという事です。
木村義雄 「勝負の世界」恒文社