山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第99回>

2018-09-01 02:30:06 | くるま旅くらしの話

【今日(9/1:土)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンター →(D・R5・R393・D)→ 赤井川村郷土資料館 →(D・R393・R5・D他)→ 道の駅:230ルスツ(泊)

 

【昨日(8/31:金)のレポート】 天気:雨後曇り一時晴れ

<行程>

道の駅:スペースアップルよいち →(R5・R276)→ 岩内町郷土館 →(R276)→ 共和町かかし古里館 →(R276・R5・D)→ 真狩湧水 →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

<レポート>

 今日もどんよりとした雲が空を覆う朝だった。4時前にブログの投稿を終え、5時少し前に歩きに出かける。ここに泊った時はいつも余市川を海に向かって歩いて、港の中を散策することが多いのだが、今日は反対に余市川を遡って見ようと考えた。最初は近くにある余市川橋から左岸を行くことにした。川の左岸・右岸というのは、川下(=河口)に向かっての左右を言うのである。両方の堤防には散策の道が整備されているようなので、それを行くことにした。10分ほど歩くと直ぐに次の橋に着いた。それを横切って、次の橋まで歩くことにした。ところがそのあと40分近く歩いてもなかなか次の橋が現れない。しかし決めたことは実行しなければならない。散策道も最初は幅広くて歩きやすかったが、次第に狭くなり、やがて雑草の中の小路となった。所々蜘蛛の巣があったりして、真に歩きにくいのである。こりゃまずいなと思いながら歩いていると、ようやく鮎見橋というのに到着した。よし、ここからは右岸を行くことにしようと橋を渡って右岸に出て、10分ほど歩くと何とそこから枝分かれして支流の川が流れ込んでいるではないか。これじゃあ、まともに戻れないなと考え、引き返して元の左岸を戻ることにした。川の堤防の散歩というのは、少し大きな川になると、このようなことが起こることが多い。結局2時間と少し歩いて車に戻る。万歩計は1万4千歩を超えていたので、8kmくらいは歩いていたのだと思う。

  歩きながら思ったのは、大正の頃この地に初めてやって来てウイスキーづくりを決意した竹鶴政孝という人は、その工場の傍を流れる余市川を見てどんな思いをめぐらせたのだろうか。そしてその夫と共に遠いスコットランドからやってきたロタ夫人は、さてさて、どのような感慨を持ってこの川を眺めたのだろう。そのようなことを想った。往時のこの辺りといえば、まだまだ付近に原生林が残る湿地帯だったに違いない。本当に意思の強い人たちだったのだなと思った。丁度今、BSの朝ドラで再放送されているので、良いタイミングだなとも思った。

 さて、今日は後志エリアの岩内町と共和町の郷土館を訪ねる予定でいる。それが終わったら、真狩湧水を汲んで道の駅:真狩フラワーセンターに行って泊ることにしている。このエリアは前回も通っているのだが、郷土館には寄らずにいた場所だ。それをフォローするのが今日の目的である。

 9時少し前に出発して、先ずは隣接するニッカウヰスキーの直売所のある所に寄る。ここへ泊ると必ずそうすることにしているので、今日も又同じ行動。寄る理由は邦子どのの買い物趣味など。自分は、今はウイスキー以外には殆ど何の興味もない。そのあとは只管R5を走り続け、途中からR276に入って、先ずは岩内町の郷土館へ。

  岩内町は海の町、漁業の町でもある。何度も来ているのだが、郷土館を訪ねるのは初めてであり、従ってこの町が一体どのような歴史を持っているのかも初めて知ることなのだ。郷土館の前にホップが植えられていて、そこに「野生ホップ発見の地」と書かれた碑があった。このホップを育ててつくられることになったのが、後のサッポロビールということらしい。中に入ると、町の歴史が丁寧に説明されていた。年表に従って見ていくと、そこには明治以降の輝かしい歴史が記されていた。開拓使が置かれて、最初に支所が置かれたのがこの地だったとのこと。往時この地に茅沼炭鉱というのがあり、国策として石炭のニーズを満たすためにそのような措置がとられたらしい。更にはニシンやスケソウタラの豊漁で賑わい、豊かな財政を持ったこの町は町費百億円以上を投じて港の整備を行ったという。往時の道内では、最前進の取り組みを持つ町だったようで、茅沼炭鉱の他にも、函館に次いで道内2番目の鉄道馬車が走ったとか、道内最初の水力発電が開始された、アスパラガス発祥の地であると、往時の町の隆盛を示す事柄が大きく取り上げられて展示・説明されていた。

  明治40年代に人口は1万2千人台となり、最高時は2万8千人にも上ったという。しかし今では110年前とほぼ同じの1万1千人台となっており、更に減少の歯止めはかかっていないようだった。北海道の日本海側の各市町村では、いずれもニシン漁を中心とする輝かしい繁栄の時代を経験していることが解るのだが、現状と未来はかなり厳しいものとなっているようだ。現在の岩内町がどのような状況なのかは定かでない。追って調べてみたい。

 岩内町の後は、来た道を戻って、共和町のかかし古里館という資料館へ。ここは漁業の町の岩内とは対照的に、地味な農業を基盤とする町である。昭和30年に、小沢村、前田村、発足(はったり)村の三村が合併して共和町となったとのこと。かかし古里館は、元の小学校校舎を利用して歴史を証明する物品や学校風景を展示し、新しく建てられた建物の方に町の来し方の説明が丁寧になされていた。

  この町は、農業が基盤だけど、その他にも国冨鉱山という金・銀・銅を生産する製錬所もあったようで、それを継承する事業は現在でも残っているようである。詳しいことは追って整理してみなければ解らないけど、北海道各地には隠れた産業が点在しているようである。館員の方に岩内町との関係を訊いたら、分村などの関係は無く、別の道を辿ってきたとのこと。「あちらは獲るのが中心、こちらはつくるのが中心の町」との答えが返ってきた。獲(採)るものはそれが無くなれば終わりとなり、つくるものは無くなることは少ないというような意味に聞こえて、象徴的なことばとして耳に残った。

 岩内町の寂れに歯止めがかかり、つくる世界を早く見出せばいいなと思った。共和町は着実に前進している印象を受けた。なお、「かかし」というのは、この町の守り神的な存在として扱われているようで、手づくりの案山子を競うイベントなども開かれているようで、館内には何点かの力作が展示されていた。

 これで今日の訪問は終わりである。買ってきた弁当を食べた後、真狩方面へ向かう。ニセコから道道に入り、途中羊蹄山の伏流水が吹き出している真狩湧水を汲んだ後、

 道の駅に到着する。何度目になるのか、何だか戻って来たという感じがする道の駅だ。道の駅の真向かいに真狩高校があり、その校庭にテントが幾つも張られているので、何だろうと思ったら、明日はジャガイモ掘りなどのあるイベントが開催されるということだった。年に一度のこの村の収穫祭のようなものなのであろうか。明日はかなり混みあうことになろうから、ここに居てはならないなと思った。何だか二人とも疲れてしまって、午睡の後もいい加減な夕食を摂って再び眠りが必要となり、そのまま夜を送ることとなった。

コメント
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