山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第114回(旅を終えて)>

2018-09-16 05:28:01 | くるま旅くらしの話

【旅を終えて】

  旅は終わった。112日。11,235km。訪問した郷土資料館・博物館など約140カ所。112日というのは、約3カ月半となり、11,235kmというのは約3千里ということになる。このような短い期間で3千里もの旅が可能なのは、まさに現代文明のもたらしてくれる科学技術の進歩の賜物なのであろう。

蝦夷の地を6度も訪れ、その様子を克明に伝えた松浦武四郎という偉大な探検家が費やした時間は、何十年にも及ぶ長期だったし、その足跡も微細を極めていた。その功績が光を放ってから150年という時間が経過した今、北海道という大地は、往時の姿を留めている場所は殆どなくなり、熊たちが生息する場所も追いつめられる時間が刻々と迫っているかの様である。

今年の北海道の旅は、格別のものだった。今まで20回近くの北海道行は、只の享楽的なものだったのだが、今回は初めて目的的な旅となった。それには第一に、明治の初めにそれまで蝦夷と呼ばれていた北の大地が、北海道となってから150年の節目を迎えるということを期して、この150年の来し方を訪ねてみようという思いを目的としたこと。それに重ねて今年が家内と一緒の人生を歩み始めてから50年となるので、ちょっぴりメモリアルな旅にしたいという思いがあったのである。

5月の26日に家を出て、6月の1日に函館に上陸して以降の北海道の天気は要約すれば涼しさを通り越して「寒い」という印象が強かった。それは7月になっても8月になっても続いており、時々夏がやって来て暑さが膨らむ時もあったけど、長続きはしなかった。全国的には猛暑がさまざまな事件を引き起こしているというのに、自分達の暮らしの軌跡の中では、それに関わらなかったのは幸運というべきなのか疑問を感ずるほどだった。天変地異の多い今年なのだが、自分達の旅の中では、旅の終わり頃になって、とんでもない台風と大地震に見舞われることになった。否、その前にも大雨で警報のエリアメールが何度も鳴り渡ったこともあった。しかし、その中で最大の恐怖は台風の強風だった。難を逃れようと真狩村の道の駅に待機して台風を迎えたのだが、真夜中の強風は半端ではない風の塊を車の後部にぶっつけてくれて、恐らく瞬間では30m超の風速があったのではないか。ニュースでは、近くの倶知安町では40mを超える風速を記録したとあった。北海道の台風来襲は珍しくも無くなったが、これほどの勢力の台風は稀なのではないか。その台風が過ぎる間もなく、今度は深夜に携帯のエリアメールが鳴って、見れば地震の揺れに注意ということだったが、間髪をいれず揺れがやって来て、しばらく続いた。それは厚真町の山崩れの大惨事の発生となり、北海道全体が1日以上も停電となる事件となった。ブラックアウトとかいう、電力という暮らしの巨大インフラのダウンは、現代文明の世の在り方の脆さを思い知らされる感じがした。大自然との闘いは、北海道では現在もなお続いていることを表象するような出来事だった。

さて、肝心の目的である北海道150年の来し方についてであるが、これを一口にまとめていうのは難しい。敢えて言うならば、開拓の歴史は光と影のせめぎ合いであり、多分に光よりも影の方がどの市町村においても強く潜んでいるのではないかと思った。開拓の原点とも言える「拝み小屋」を見たならば、そこに未来への希望だけが光っていたとは思えない。現実は誰もが重い影を引きずっていたのではないか。150年間その重い影を引きずりながら、無数の挫折を振り払って、現在の北海道があるのだと思った。この150年間は驚異的な速さで北海道を変えていったように思う。それは縄文という食料採取の暮らしから弥生という米生産の時代をパスして、一気に近代化を果たし、現代につなげたというほどのものなのではないか。北海道に弥生時代というのは無かったのだ。石器時代から縄文、擦文の時代を経て、江戸時代となっても暮らしのスタイルを変えなかったアイヌの人たちは、明治という時代になって、一挙に入り込んできた和人たちに有無をいう間もなく取り込まれ、暮らしの環境を一変させられたのであろう。どの市町村に行っても歴史資料館の中にアイヌの人たちの暮らしのことを語るコーナーが設けられているのは、和人の罪滅ぼしのような感じがしてならなかった。影の部分に懸命に光を当てている感じがしたのである。

様々な光と影を垣間見た感じがしているのだが、その中で印象として残っていることを2,3挙げてみることにしたい。先ず思ったのは、明治という時代がどのような実態だったかということを知らないと、開拓の歴史はつかめないなということ。思うに江戸時代というのは差別の時代だった。極端に言うと、幕末に仮に三千万人の人口があったとしたら、その三千万人を、天皇を頂点として三千万人分の順位をつけて差別するのが当たり前の感覚だったのである。明治になって「士・農・工・商」が廃されたといっても、いっぺんに暮らしの感覚が転換できるわけではない。これを転換させるには、民間の力では不可能だったと思う。従って先ずは官主導で開拓の環境づくりが進められたのだと思う。しかし、官の中でも力関係は建前とは別に本音のところでは、相当に差別心が働く状態だったに違いない。北海道の全ての土地は国有から始まっており、それが民間に払い下げられるまでの官の力の中に差別の意識が無かったとは到底思えず、開拓地の選定などに当っては、権力者による旧弊は拭われなかったのだと思う。北海道の開拓の始まりは官の天国だったのではないか。開拓地の大半が不在地主だったというのも、そのことを証明しているといえよう。そして、もしかしたら北海道では官というものの存在が今の時代でも最優遇されているという見方が続いているのではないか。各市町村を回ると、立派な役場や様々な公共施設が市街地の中心部に建てられており、その中で仕事をする者のプライドのようなものを感ずるのである。勿論現代ではその腰の低さは、明治の往時とは比較にはならないのだけど。

次に思ったのは、開拓の最大のインフラとなる道路の建設に多くの囚人が寄与している、否寄与させられているということ。今回の旅で、初めて月形町の樺戸集治監を知った。集治監というのは現在の刑務所である。つまり、何らかの法を犯して罪を問われている人たちを集めて居る場所である。罪の重い人が多く収監されているのは勿論なのだろうが、その罪の性質といえば、この時代ではいわゆる政治犯、思想犯も又重罪に値していたわけである。時の政府や国の思想を無とする人たちを放置しておくことは、国の基盤を固める上で大きな障害となると考えた為政者側は、容赦なく反体制者を捕らえ、重罪としたのだった。殺人者も政治犯も、刑務所内で罪を償うのではなく、開拓のインフラとなる道路建設に使役するという発想は、当時の政府にとって何よりの妙案だったに違いない。かくして多くの囚人たちは過酷な労働を強いられながら何本かの基幹道路をつくり上げたのである。これは囚人道路と呼ばれて、その後の開拓に大きな力となったのである。往時の囚人たちは使い捨ての労働力としてしか考えられず、耐えきれずに死亡しても弔いも出さずに路傍に打ち捨てられていたという。それを供養する場所が現在でも何箇所かあるという話を聞き複雑な気持ちとなった。

開拓の歴史の中で、どこの市町村を訪れても凄いなと尊敬することが一つある。それは開拓に入った人たちの子孫に対する教育への取り組みである。どんなに貧しくとも、粗末であっても子どもたちの教育に関しては決して疎かにしなかった。その精神はすごいなと思った。拝み小屋と同じような粗末な学校が開拓場所の各地につくられていたのである。この教育に対する熱心さは、現代のそれとは甚だ異質なのではなかったか。開拓の精神を後代に繋ぐためには、親以上の知識や技術が不可欠であり、それが子どもたちを幸せに導く原動力となることを、小作人であっても重視する精神がどこの村にも溢れていたのである。これこそが現在の北海道をつくり上げた原動力ではなかったかと思った。

もう一つ思ったのは、光と影の鮮明な歴史を刻んだ領域があることだ。その代表的なのが炭鉱というものであろう。空知エリアには幾つもの良質な石炭を産出する場所があって、黒いダイヤとして我が国のエネルギーの主役を果たしていた時は、万人の人口を有する町が幾つも存在したのだが、今は見る影もなく寂れている。それは空知エリアだけではなく、他のエリアにも見られる現象である。ある歴史資料館を訪ねた時、そこの館員の方が話されたことばが心に残っている。「採(獲)ることによって栄えた町は、それを採(獲)り尽くすと凋落する。だけど、育て、作ることによって支えられている町は凋落することは無い」 漁業や鉱業はその資源を採りつくしてしまうと一挙に繁栄の坂を転げ落ちることになるけど、農業などのモノをつくる産業は生き残れる、ということなのであろう。北海道の未来は、モノをつくり、生み出す働きによって支えられて行くのだなと思った。それが具体的に何なのかは解らないけど、150年でここまでつくり上げられた北海道は、それを維持するためにも様々な領域・分野でモノを生み出し、つくって行かなければならないのだなと、そう思った。

これから今回の旅の後楽が始まる。当分の間は楽しみよりも苦しみの方が多いのかもしれない。しかし、この苦しみは明るい苦しみなので、正確には苦しみなどではなくやはり楽しみなのであろう。これから1年くらいかけて、この旅の成果をまとめてみたい。どのようなものとなるのか、今は見当もつかないのだが、それで良いのだと思っている。

家内にとっては、資料館や博物館めぐりはかなりハードなものだったらしい。50周年記念だと話す度に、「わたしは、このような苦労の多い旅を記念行事とは考えたくない」と拒否され続けていた112日間だった。確かにそうなのかもしれない。もっと楽しくて、幾つものご馳走にありつける旅でなければ、50周年を祝うことにはならないのであろう。しかし、もう旅は終わってしまったのだ。このような金婚の迎え方も面白いではないか。そう思って諦めて貰うしかない。

旅の間にはいつもに増して大勢の方から励ましやご心配を頂いた。やはり旅というのは、自分勝手に好きなことを好きなだけやるというものではなく、多くの方たちとの係わりの中から、それらの力に支えられて成り立つものなのだということを、しみじみと感じたのだった。お世話になった皆様に心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。(2018.9.15記)

 

※この後しばらくブログを休むことにします。旅の間、長文でくどく且つ誤字やおかしな表現箇所の多かった文章の発信をお詫びするとともに、飽きもせずにお読み頂いたことにお礼申し上げます。

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2 コメント

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Unknown (かつ まさお)
2018-09-16 22:07:30
ご無事で帰還されなによりです。

本当に
いろいろな事があった夏でした。

今年ほど
秋の空気を
ありがたく思った年も
ありません。

北の大地には
北の大地の大変さが
あったことでしょうが
いつか
わが旅車で
北の大地を巡りたい…
という思いは強くなるばかりです。

しばらく
ブログをお休みされるとか…。

また
旅の心を
教えていただける日を
楽しみに
待ちたいとおもいます。

ありがとうございました。
返信する
ぜひ北の大地へ (馬骨拝)
2018-09-18 03:50:14
いつもお声をいただきありがとうございます。北の大地でお会いできたらいいですね。北の大地もだんだん混み合ってきている感じがしますが、忘れられている名所は無数です。ぜひ実現させてください。
返信する

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