山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第105回>

2018-09-07 04:10:24 | くるま旅くらしの話

【今日(9/7:金)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンター →(D・R5他)→ 函館港フェリー乗り場 → その先未定

 

【昨日(9/6:木)のレポート】 天気:曇り時々晴れと雨の荒天

<行程>

道の駅:真狩フラワーセンター →(D)→ 真狩湧水 →(D)→ 道の駅:ニセコビュープラザ →(D)→ 道の駅:230ルスツ →(D)→ 真狩フラワーセンター(泊)

<レポート>

 いやはやとんでもない一日となった。昨日は台風騒動が夜になってようやく収まり、やれやれという感じで眠りに着いたのだが、明け方近くの3時過ぎに突然携帯のメールが鳴り渡り、何事かと開いて見たら、何と地震が発生したので揺れに気をつけろという主旨の内容だった。思う間もなく揺れが来てしばらく続いた。車の中では大した揺れとも感じなかったが、これはかなり大きな地震かもしれないという感じはした。それで、直ぐにTVをつけて見ると、何と安平町では震度6強だという。昨日の台風では各地にかなりの雨も降っており、何事も無ければ良いがと気になった。しばらく各地の地震の震度などが報道されていたが、その内に厚真町で土砂崩れが発生したとの災害の報道があった。大事にならなければいいがとしばらく報道を見ていたが、その後も同じような内容の繰り返しだったので、しばらく見るのを止めることにした。まだ真夜中であり、災害の状況が克明に解るわけでもなく、夜が明けてからでないと判らないと思った。外に出て見ると、街灯は消えていて、道路の方へ行って見ると信号も消えているではないか。ここは震源からはかなり離れており、震度も4との報道だったので、まさか信号までが停電で消えているとは思わなかった。何だか変だなと思った。

 そのあと今日のブログの投稿を終え、しばらく眠ることにした。5時を少し過ぎた頃に知人から電話があって、北海道が大変なことになっているけど大丈夫?との安否を案ずる電話だった。ここは大丈夫との報告をした後、もう一度TVをつけて見ると、まさしく大変なことになっていた。厚真町の土砂崩れは、想像を絶するような規模の山崩れとも言うべき恐ろしい景観が映し出されていた。家も納屋や倉庫なども一気に呑み込まれたような、恐ろしい映像だった。その後も各地で大小様々な被害の様子の報道が続いており、これは一大事件だなと思った。

 そのあとも多くの知人や身内からのメールや電話での安否の問い合わせがあり、もはや寝ているどころの候ではなくなった。起き出して対応に迫られる。それをしながら、こんなに多くの人たちに心配して頂けるなんて、自分達は幸せ者だなと思った。9時近くなって、ようやく自分達のひと騒動は収まったのだけど、TV報道で見る被害の状況は凄まじくて、これはもう間違いなくとんでもない大事件だと思った。厚真の山崩れでは40名近くの方たちの行方・安否の確認が出来ていないという。又亡くなられた方も2名を数え、各地の道路状況や家屋の倒壊・破損も数多く発生しているとのこと。札幌市内では特に清田区の状況が厳しいようで、そこに住まわれている知人のことが心配になった。電話をするとご本人と話が出来て、ご無事だと追うことで安堵したのだが、話では本棚が倒れたりして室内はめちゃくちゃの様子だった。手伝いに行くこともままならず、こんな時の歯がゆさを思った。とにかく怪我無しで安全を確保されておられたのが何よりのことと思うしかない。2次災害などが起きないよう祈るばかりである。

 そのあとここにずっと居続けるのもムダのように思い、真狩湧水を汲んだ後、まだ残っている訪問予定先の蘭越町や寿都町の郷土館などを訪ねようかとニセコの道の駅まで行ったのだが、何しろ全道が停電中で、全信号が消えている状態なので、道道から国道5号線に入る交差点は警察官が手信号で車の通行を捌いており、このため長い渋滞が出来ており、国道に入るのに10分以上もかかるといった状況だった。この状況を見て、他の場所でも同様な現象が起きていないとも限らないので、今日はやはりどこへも行かずにじっとしていることが肝心かなと思った。

 そのまま真狩の道の駅に引き返すのもつまらないと考え、ルスツの道の駅まで行って見たのだが、今日は地震停電のため閉店とのこと。いつもの豆腐屋さんまで行って見たのだが、こちらも豆腐作りなんてとんでもないといった様子で空振りとなる。やはり真狩が一番かと考えて道の駅に戻る。午前中の主な出来事といえばそのようことだった。

 午後になって天気は再び不安定になり、晴れて太陽の熱射を浴びるかと思えば、たちまち曇って雨が落ちて来るという、気まぐれがハイレベルな天気となった。もうどこへ行くのも諦めて、ここで過ごす覚悟をする。真狩の道の駅の売店も全部閉まっており、いつもと変わらないのは1カ所ある水汲み場だけ。電気が使えないので、トイレも使用不可の状態。北海道の苫東厚真火力発電所の設備が毀損したということで、今のところ復旧の見通しは立っていないとのこと。その後の報道では、完全復旧までには1週間以上を要するとのことだった。

インフラの中で、今日では一番の基幹となる電力がこの状態で先が見えないというのは、国としても道としても再発防止の重大な課題となるのではないか。信号だけではなく、人々の暮らしのあらゆる面に絶大な影響を及ぼしていることを改めて強く感じた。何しろ、札幌市等では、情報をTVだけに依存している人は、肝心のTVを見ることも叶わず、地震で一体何が起こっているのかも判らないという人が続出しているというのだから、これを防ぐために何をどうすべきかという課題は重要だと思う。そのことを一番に思った。

いい加減な昼食を済ませ、そのあとは少し眠ることにした。相変わらず羊蹄山は雲の中で何も見えず、黒雲がバラバラになって奔っている。こんな時は寝るのが一番なのだ。2時間ほど眠って、16時過ぎに携帯が鳴って目覚める。邦子どのに出て貰ったら、どうやら嫁御と孫たちからだったようだ。夢うつつに聞いている内に目醒めて、正気を取り戻す。外に出て見ると、依然として信号は消えていて、北電の発電復帰は容易ならぬ状況だったというのが解った。本当に一週間もこのままの状態が続いたとすれば、これは前代未聞の歴史に残る事件だなと思った。

同時に11日逢うことになっている九州からのK君夫妻のツアーも、もしかしたら中止となるのではないかと思った。電源の供給がなければ、空港もホテルも機能不全になるのである。電話でそのことを話したら、業者の方では明日の15時までにどうするかを決断するということだったので、自分達の行動もその結果を待って決めることにした。もし会えない事態となるのならば、これはもう旅を切り上げて帰途に就くしかないなと思った。全道が電源が供給不能なこの状態で止まっていても、旅の安全が確保されるのは困難だろうという判断である。

全くとんでもないことになったものである。外の天気は何事も無かったように快方に向かっているようで、雲に隠れていた羊蹄山はてっぺん近くに綿雲をほんの少し巻いて雄大な姿を見せていた。地震のことなどどこ吹く風という、何事も無かったという風情である。大自然というのは、人間どもとは無関係に己の道を行っているのだなと改めて思った。

真狩高校の庭から見た羊蹄山は、何事もなかったように泰然としててっぺんに雲をからませて聳えていた。

消えたままの信号機。どこへいってもこの状態なので、交差点の通行は慎重でなければならない。この状態が1週間も続くというのだから、信じられないというしかない。

その後夕刻になってK君達から電話があり、やはりツアーは中止となったとのこと。このままではここに居ても暮らせるかどうか分からなくなるので、明日は取り敢えず函館まで行って、船便の状況を見て青森に渡るかどうかを決めることにした。何だかまさに竜頭蛇尾というのか尻切れトンボというのか、勢いの消えた尻つぼみの旅になりそうである。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第104回>

2018-09-06 03:51:22 | くるま旅くらしの話

【今日(9/6:木)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンター → 未定

 

【昨日(9/5:水)のレポート】 天気:曇り時々晴れと雨(不安定)

<行程>

終日、道の駅真狩フラワーセンターに滞在、宿泊

<レポート>

 いやはやとんでもない一夜だった。風の恐ろしさは想像以上だった。近くの倶知安町では、風速42km/時以上を記録したというから、この辺りでも30m以上の突風が吹いたのではないか。朝起きて車の回りを見ると、吹き飛ばされた樹木の小枝が散乱し、車の壁には草や木の葉が幾つもくっついていた。幸い車の方はどこも壊れたりしてはいなかったし、心配していたTVのアンテナも無事だった。両側の車も異常は無く、皆無事だったので安堵した。北海道の夏を旅していて、これほどの恐怖を感ずる経験は初めてだった。それにしても異常気象は北海道への台風の襲来を常套化してしまうのだろうか。まだ家に着くまでにあと半月ほどはあるので、その間に同じような台風が来ないで欲しいものだと願うのみである。

 昨夜は邦子どのも自分もあまり寝ていないので、今日は他所へ行くのは止めて、ここに1日留まって午睡をするなどして、台風後の不安定な天気をやり過ごすことにした。雨雲が空を奔っており、曇りなのだが、何時又驟雨がやって来るか分からない状況である。かと思うと空の一部の雲が割れて青空が覗いて、急に暑さがぶり返して来たりして、うんざりする天気なのだ。

 今日は早朝の歩きは諦めるしかない。傘を持って歩けるような天気なら決して諦めないのだが、台風の後というのは突然傘を吹き飛ばすような風が吹いたり突然大粒の雨が降りかけたりしてくるので、止めた方が無難なのである。

 ということで、その後もずっと車の中で時を過ごす。やらねばならない仕事?は溜まっているのだけど、こんな天気で、このような場所ではとてもその気になれない。となれば、只のグータラをして過ごすしかない。晴れ間が出た時に水を汲んだりしただけで、TVも悲惨な被害状況ばかりの報道なので、もう見るのも嫌になり、そうなるともう為すこといえば寝るだけ、ということになる。2時間ほどの午睡で昨夜の借りは取り戻した感じになった。

 14時過ぎに空の雲がちぎれて動いており、青空も見えているのでもう大丈夫かなと歩きに出かける。今まで歩いたことの無かった豊浦町の方に向かうことにした。羊蹄山からは離れるような方向となる。念のために傘を持って行くことにした。真狩中学校の脇を通って、30分ほど歩いてゆくと、前方に見えていた青空がいつの間にか消えかかっていた。気になって振り返ってみると、何とニセコの方から雨雲が走ってこちら真狩村の方にやって来るではないか。こりゃいかんと、急いで戻ることにした。しかし車に戻るのは間に合わず、スコールに見舞われて折りたたみの小さな傘は辛うじて半身をずぶ濡れから守っただけだった。

 このような暮らしぶりをくどくど書くこともあるまい。とにかく今日は旅の一日としては番外ということになる。さて、明日はもう台風の名残は消えてくれるのだろうか。

 

 ※追記(9月6日3時40分記)

このブログを発信する少し前に、枕元の携帯が鳴ってエリアメールが届いた。道南地方で地震が発生。強い揺れに備えて下さい、という内容だった。そのすぐ後に車がしばらく揺れる地震が来た。TVをつけてみたら、何と安平町では震度6強だという。その他千歳空港も6弱など石狩、胆振を中心にかなりの揺れだったことが解った。ここ真狩村は震度4だった。外を見ると、街灯は消えていたが照明が点いている建物もあるようなので、停電にはなっていないようだが、詳しいことはよく判らない。。とにかく自分達は安全の中にいる。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第103回>

2018-09-05 06:45:49 | くるま旅くらしの話

【今日(9/5:水)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンター → 未定

 

【昨日(9/4:火)のレポート】 天気:曇り時々晴れ後遅くなって雨

<行程>

道の駅:真狩フラワーセンターに滞在するも、午前中に道の駅:230ルスツと道の駅:とうや湖まで買い物に出かける

<レポート>

 再び真狩の道の駅に戻って、昨夜は夜中にかなり雨が降ったようで、早くも台風の影響が出ているのかと思った。朝方は雨は止んでいたので、1時間ほど散策に出かける。畑の中の道を6kmほど往復した。羊蹄山は全くの雲の中で、どこにあるのかすらも解らないほどだ。道の脇には広大なジャガイモ畑や大豆畑、そしてこの地の特産の百合根の畑も幾つか見られる。長い一本道は上下にうねりながら真っ直ぐに5~6kmほどはあるのだろうか。どこまで行っても真っ直ぐに続いているので、どこで折り返そうかと迷うほどだった。このような景色も旅の早朝の歩きならではの恵みなのである。真狩村には一つが5町歩くらいはあろうと思われるジャガイモ畑もあって、村の主力の産物となっているようだ。地味だけど豊かさを感じさせる景観だった。

 さて、歩きから戻って、今日は終日ここにいて台風が遠ざかるのを待つだけの一日である。しかし、台風がやって来るのは最速で見積もっても夕方からとなるようなので、午前中は隣の留寿都村やその隣の洞爺湖町の道の駅に行って、気に入っている産物を手に入れることにした。洞爺湖町では、先日手に入れた黒モチとうきびを、そして留寿都村ではいつもの豆腐である。

 9時半過ぎ先ずは洞爺湖町の道の駅:とうや湖へ。もし無かったら、別のとうきびでも止むを得んなと思いながら売り場を覗いたのだが、ちゃんと並んでいたので安堵した。今の時代のとうきびと較べて、見てくれも悪く、形も小さいので、この味を知っている人以外は目をくれる気にはならないのだろうと思った。一昨日と同じ2袋6本を買い入れる。そのあとは、留寿都村の道の駅の裏の方にあるキャンプ場に行き、買ってきたとうきびを早速茹でることにした。台風が来るとあってなのか、それとも9月になって帰還の時が来たのか、駐車場には1台しか車は無かった。その車も間もなく出掛けて行って、自分達だけとなった。1時間近くかけて茹でる作業を終える。ここに何時までもいるわけにはゆかないので、そのあとはルスツの道の駅に行って豆腐を買った後、真狩の道の駅に戻る。台風が来るというのに青空が広がって、真夏の灼熱の太陽が光を注ぎかけて来る。何だか騙されているような気がして落ち着かない。風は少し強く吹いていて、時折激しく車を揺すったりしているけど、これは未だ台風の風ではない筈だ。このような状態で夜を迎えるのは、なんだかバカバカしい感じもする。ま、我慢が肝心ということなのであろう。

 17時を過ぎて回りが暗くなり出すと、周囲に1台の車も無く広い駐車場の隅にポツンと泊っているのが不安なのか、邦子どのはだんだんと無口になり、風が吹く度に益々口を閉ざすようになってきた。隣接するガラス張りの大きな温室が台風の強風で破壊されてこちらに倒れ掛かって来るのではないか、などと想像しているのであろう。この人の想像力は、果てしなく悪い妄想へと転化発展していく傾向があり、そうなると最早それを止める手立てもない。困ったもんだと思いながら過ごしていると、大型のキャンピングカーが2台入ってきた。どうやら連れの方たちらしく、ここへ避難のため来られたらしい。その2台の車が隣の駐車レーンに入ってくれたので、邦子どのも少し表情が和らいだようだった。少しするともう1台のキャンピングカーが反対側のレーンに入って来て、SUN号は両脇をガードされる形となったのである。これは願っても無い最高のガードの形である。これで邦子どのもようやく台風を待つ決心が固まったようだった。

 風は次第に強まってきたが、雨は降らない。少しは降っているのかもしれないけど、雨音が天井を叩くほどの降りではないようだ。今回の台風は、この地では恐らく風台風ということになるのであろう。その後益々風の勢いは強まり、車を揺らす度合いが酷くなりだした。風の音に敏感な邦子どのは2階の寝床に横たわるのは耐えられないようで、下のソファに居を構えている。いつものことなのだが、今回の台風の風は特別のようである。12時近くなると、本番が近付いたかのように風が益々強くなりだした。風というよりも巨大な空気の塊が魔物のように車目掛けてぶちかましをかけて襲ってくるという感じだ。今までこの車で様々な天候に出会っているけど、風に関してはどうやら今夜が一番の経験となるような気がした。車は東西の方向に西側に頭を向けて駐車しているのだが、強風が襲ってくるのは東側の方なので、車の後部の方が揺れ動くのである。横からではないので、倒れる心配はないなと思った。左右でガードして頂いているからである。後ろから突然強力な力で押されて走りだすかと思うほどの風の塊が打ち当たると、一瞬ヤバイなという気持となる。そのようなことが何度も繰り返されて、0時を過ぎ、2時半を過ぎて、4時頃になってどうやら風の峠も過ぎ去ったようで、時々吹き返しの風が強めに吹く程度となってきた。

 このようなことを書いていると限がない。自分達はどうにか恐怖の一夜を無事に送って朝を迎えているけど、全国各地ではとんでもない被害が続出しているようで、災害に遭われた皆様には心からお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い回復を祈っています。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第102回>

2018-09-04 06:11:36 | くるま旅くらしの話

【今日(9/4:火)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンターに終日滞在予定(台風の通過を待つ)

 

【昨日(9/3:月)のレポート】 天気:曇り後時々雨

<行程>

東大沼キャンプ場 →(D)→ 留の湯 →(D・R5他)→ 七飯町歴史館 →(D・R5)→ 道の駅:なないろななえ →(R5)→ 道の駅:くろまつない →(R5)→ 道の駅:ニセコビュープラザ →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

<レポート>

 東大沼キャンプ場は四方を大きな樹木に囲まれた林間の中にあり、駐車場も大木に囲まれているため、地デジのTVは受信できないし、BSも樹木の枝ぶりをよく観察してアンテナを向けないと映らない。どうにかBSだけは見られるように場所を選んで設定しているのだが、BSはどういうわけなのか天気予報は殆ど報道されておらず、台風が近づいているときなどは、困惑することが多い。ま、ネットでの受信はどこでもほぼ大丈夫なので心配は無いのだけど、情報量が少ないのでうっかりすると見落とすこともある。今度の台風はかなり勢力が強いらしく、北海道もその影響を免れないようなので、安全な場所へと避難を考えなければならない。このキャンプ場はこのような場合、樹木が災いするのである。というのもこの辺りの樹木は風に弱いからである。土地がやせている所で育っており根を張るのが脆いようなのだ。何年か前に台風に見舞われたあとここへ来たことがあるのだが、エゾマツなどの大木が何本も根こそぎ倒れていて、その処理にチエンソーが唸りを立てて稼働しているのを見たことがある。どこかのキャンプ場では、大木の下になって亡くなった人もいると聞いている。

ということで、今日は移動中心の1日となる予定である。月曜日なので、資料館等の大半は休館日となっているのだが、その中で七飯町の歴史館だけが開館されているのは、誠にありがたいことである。予定としては、先ず近くにある留の湯に入って汗をおさめた後歴史館を訪ね、そのあとは取り敢えず黒松内町の道の駅を目指すことにしている。

9時過ぎに出発して10分ほどで留の湯に。このキャンプ場に来た時は必ずと言っていいほどここに来て湯に浸ることにしている。昨日は遅かったので止めにしたのだが、朝風呂も悪くない。ここには二つの入浴箇所があるのだが、自分達はいつも安政の湯というのに入ることにしている。柔らかく心の中までも揉みほぐして疲れをとってくれる感じのする湯で、浴槽に手足を延ばすと、生きているのを実感できるような温泉なのだ。料金の500円也を少しも高いとは思わない湯は、北海道の中でもここだけのような気がする。今日もたっぷりとその気分を味わった。朝一番に近い時間の入浴は、却って疲れを呼び戻すとも考えられるのだが、出たあとゆっくりと汗を納め着替えを済ませば、決してそのようなことはない。

すっかり清々しい気持になって、そのあと七飯町の歴史館に向かう。この大沼公園も七飯町の一部なのだが、歴史館は町の中心部の役場の近くにあるようで、それは大沼公園からは山一つ越えた反対側となるようである。いつも函館新道の高速道で通過してしまっているので、七飯町の中心街がどこにあるのかも知らず、訪ねるのは今日が全くの初めてなのである。今日は函館新道には入らず、その横のR5をそのまま直進する。少し行くと道の両側に立派な赤松の並木が続いているのを不思議に思った。あとで知ったのだが、この道は赤松街道とも呼ばれ、何かの記念樹として随分昔に植樹されたらしい。内地でもなかなか見られなくなっている立派な松並木だった。

直ぐに町の中心部に着いて、歴史館は直ぐに判った。立派な建物なので驚いた。昨日の函館市の博物館とは雲泥の差がある。何だか大都市函館の凋落とこの七飯町の活気を比べ見る感じがした。あちらは有料、こちらは無料なのである。中に入るとこの町の歴史を世の中に広く知って貰いたいという意欲の伝わる展示解説がなされているのを感じた。中央に暮らしの象徴としての茅葺の家が作られており、その周辺にこの町の四季ごとの暮らしの解説とその季節ごとに係わりの深い民具や農具等が展示されており、解りやすかった。その向こうのコーナーにはこの町の歴史とおもな出来事等が順を追って解説されていた。この地は函館に隣接しており、歴史は古い。江戸時代の中ごろから定住する和人もいて、アイヌ等を介しての交易に係わっていたということである。しかしこの町の発展は、戊辰戦争の最後の函館での戦いが終焉した後の開拓から始まっているようである。

七飯町歴史館。歴史館という名称を冠している建物は少ない。この町の意欲のようなものを感じさせる堂々たる建物だった。

その核となっているのは、明治政府が設けた開拓のための四官園(東京、七飯、札幌、根室)の一つがこの地に設けられたことにある。この官園は、一口にいえば、洋式農業技術センターであり、外国人指導者を招いて、欧米式の農業の在り方を学ぶ基盤としたものだった。七飯の官園は、農業、牧畜、林業、養蚕の広範に渡る、製造・加工までに至る経営内容を含むものであったということで、それらのことについて詳しく紹介されていた。このようなことを初めて知ったのだが、この官園がその後の北海道の開拓に果たした役割と貢献は実に大きなものだったに違いない。東京や根室のことは殆ど何も知らないし、札幌のこともクラーク博士のことや農学校のこと走っていても名前だけのレベルであり、ここへ来て初めて官園なるものの存在と考え方を知ったのだった。拝み小屋に始まった開拓は、これらの施策によって、新たな力を得たのであろう。大いに勉強になった。1時間ほど見学した後、歴史館を後にする。

そのあとは、ひたすら台風から遠ざかれる安全な場所を目指すだけである。先ずは近くの道の駅:なないろななえに行って軽く昼食を済ます。先ほど歴史館へ来る前に山川牧場近くの店で入手したローストビーフのサンドイッチを食する。これは邦子どのお気に入りの格別のサンドイッチで、自分もそれに合わせて食べることにしたのだが、正直なところ自分としては十勝や摩周の豚丼の方が好みなのである。邦子どのは大満足のようだった。今度来た時は、これはもう邦子どのに自分の分も譲ることにしようと思った。

そのあとは、天気が悪化して風が出て来て白波の立っている噴火湾沿いのR5をひたすら走って、黒松内の道の駅に着いたのは、15時過ぎだった。ここに泊ってもいいと考えていたのだが、その理由の一つに、この道の駅では邦子どのの好物のピザパイがあり、今日はもう終わりに近づいているので手に入れられないので、明日それをゲットしてからもっと北の方へ向かおうと考えていたのだった。しかし、店の人に訊いて見ると、明日は休みだという。それじゃあここに泊る意味は無いと考え、少し足を延ばして真狩の道の駅まで行ってしまおうと決める。真狩村は羊蹄山の西部にあり台風の風向きを考えると避難には有利という判断である。反対側にある京極町の道の駅は駐車場が坂の状態にあり、その上に風が当たったのでは溜まったものではない。

ということで、それから1時間余りひたすら走り続けて17時少し前に道の駅:真狩フラワーセンターに着く。考えてみれば3日前にここを出たばかりで、それが帰り戻ったということになる。もうほくほく祭りのジャガイモ掘りも終わって、道の駅に泊る車も殆ど居ないようだ。今夜も静かな夜を送れるなと思いながら錨を下ろす。そのような気分だった。それにしてもこの台風の狂気は何時になったら収まるのだろうか。明日はとにかくここにじっとしていて、通り過ぎ去るのを待つしかない。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第101回>

2018-09-03 05:42:22 | くるま旅くらしの話

【今日(9/3:月)の予定】 

東大沼キャンプ場 →(D・R5他)→ 七飯町郷土資料館 →(D・R5他)→ その先未定(台風の影響を避けるため、黒松内方面へ行く予定)

 

【昨日(9/2:日)のレポート】 天気:晴れ

<行程>

道の駅:とうや湖 →(R230・R37他)→ 長万部町郷土資料館 →(R5他)→ 八雲町郷土資料館 →(R5他)→ 函館市博物館 →(D・R227他)→ 北斗市郷土資料館 →(R227・R5・D他)→ 東大沼キャンプ場(泊)

<レポート>

 今日で今回の旅に出てから丁度100日が経った。この3カ月は長い様な短い時間だった。9月に入ってもう二日、時間が経つのは真に早い。あと半月ばかり存分にこの北の大地の歴史を知り、頭を悩ましながら帰途に就くことにしたい。そのようなことを思いながら洞爺湖町の道の駅の朝を迎えたのだった。

 朝の歩きには付近の農道を1時間ばかり往復した。今朝は雲一つない快晴で、気温も15℃くらいになっていて、もはや秋だなと思わせる天気だった。この辺りは畑が多くて、大豆や小豆それに山芋やビ-ツ等が栽培されているのが目立った。目前に羊蹄山が聳え立ち、左方にはニセコアンヌプリ等が並び立ち、なかなかの展望だった。目立つのはサミットの開かれた山頂に建つホテルの白い建物だった。このような見知らぬ大地を早朝に散策出来るなんて何という幸せなことだろう。改めて自分の70年以上の来し方を振り返り、現在という時点の意味合いを噛みしめる気持となった。そのまま車に戻って、別の現実に戻る。

 さて、今日は残っている渡島エリアの郷土館等を巡る予定で、先ずは長万部から開始しようと考えている。豊浦町も訪ねたいのだが、今日は日曜なので開館されているか判りにくい情報しかないので、後回しにすることにした。久しぶりに太平洋を見たりしながら、10時少し前に長万部の町民センターの中にある郷土資料室に着く。ここは日曜でも開館されていたが、訪問者は自分たち以外にはいないようで静まり返っていた。早速中に入って見学を開始する。渡島、檜山エリアの市町村はどこも松前藩支配の影響を強く受けており、明治となる前から交易、開拓等が開始されていることが解るのだが、この地も又ユーラップ(=遊楽部)場とかオシャマンベ場と呼ばれた場所で、運上屋等も開かれていたことを知った。江戸時代からの交通の要所であり、それは明治以降も現在でも、例えば鉄道にしても道路にしても、ここを起点として小樽や札幌に向かう道と、噴火湾を室蘭、苫小牧を経由して札幌に向かう道とがあり、重要な役割を果たして来ていることが解る。アイヌの人たちとの交易も盛んだったけど、関係は悪化し、シャクシャインの反乱を引き起こすという事件もあった。年表にはかなり詳しく様々な出来事が記載されており、まだそれらをしっかり確認出来ていないので、この町の来し方については漠然とした状況にある。いずれ改めて整理することにしている。

 そのあとは隣の八雲町の郷土資料館へ。30分ほどで到着する。ここは独立した資料館で、展示内容も充実していて解りやすかった。八雲町はアイヌ地名由来の町の名ではなく、尾張徳川家の殿様が名付けた町だという。明治になって家臣たちの困窮を救うために殿様が北海道の開拓先の調査を命じ、往時ユーラップと呼ばれたこの地の開拓を決め、入植させたということである。その他斗南藩の会津の人たちや福井の大野藩などの係わりもあったようだが、一番力開拓のとなっているのはやはり尾張藩ということであった。しかし、殿様は一度もこの八雲の地を訪れたことは無かったというから、北海道の開拓というのは、現代の感覚ではなかなか理解するのは難しいなと思ったりした。この町についても追って自分なりにその来し方をまとめてみたい。

  それから付け加えるとすれば、北海道のお土産として木彫りの熊が有名だが、あの木彫りはこの地が発祥だったというのは意外だった。もっと奥深い山地など、如何にも熊がいそうな場所でアイヌの人たちが始めたのではないかと考えていたのは、大間違いで、大正時代に農村工芸に係わる品評会(農村美術工芸品評会)をこの地で開催したのが、この木彫りの熊が現れた始まりだったとのこと。面白いなと思った。他に鉱山等もあったということで、多くの歴史の出来事に富んだ町なのだということを知った。

 さて、そのあとなのだが、昼前に八雲の見学が終わったので、この後は予定では森町に行って郷土館を見たあとは、早めに休むことを考えていたのだが、思ったよりも順調に進んだので、思い切って函館まで足を延ばし、函館の博物館も訪ねておこうと決めたのだった。というのも、明日は月曜日で多くの博物館や資料館が休みとなるため、1日空けなくてはならなくなり、加えて明後日以降は台風の影響が強くなるので、可能な限り道南エリアを避けて安全な場所に避難しておきたいという考えもあって、大場所である函館を先に見ておこうと思ったからなんだった。ということで、森町の郷土館はパスして、函館に向かうことにした。

 途中食事を済ませた後、函館に向かって車を走らせ、市内に入って函館山の麓にある青柳町の公園の中にある博物館に着いたのは13時半頃だった。駐車場が見つからず、ようやく見つけた駐車場はどこも満車で、仕方なく違反とはならないであろう場所に車を止め、そのあと急坂だらけの公園内の道を上って、ようやく博物館の建物に辿り着いたのだった。しかし、邦子どのが受付で館内に函館市の開拓の歴史に係わる展示・解説はないのかを確認したところ、無いという返事だった。函館は明治以前の昔から和人が住んでいた場所で、他の場所とは違うのだというような話だった。従って、他と同じような開拓の歴史等に係わる常設展はしていないとのこと。縄文遺跡やアイヌの人たちの暮らしぶり、自然環境と動物たち等の展示などが中心らしいので、入るのは止めて戻ることにした。博物館はかなり古い建物のようで、何しろ坂に造られた公園の上部にあるので、この博物館の存在も何だかとってつけた感じがしてあまりいい気分にはなれなかった。この函館の地については、別の切り口からアプローチしなければダメだなと思いながら車に戻る。

 まだ14時を過ぎたばかりで時間があるので、隣の北斗市の郷土資料館を訪ねてみることにして向かう。15時少し前について、開館されているのか少し不安だったが、大丈夫だった。それから1時間ほど写真を撮りながらじっくり見学をする。この町は大野町と上磯町とが平成の大合併で北斗市となったので、年表には元の両町を分けての出来事が詳しく掲載されて展示されていた。年表を辿ると、函館も長万部も八雲も木古内も皆含まれて同じ時代を辿って来ていることが良く解り、函館のことも博物館などを見なくても容易に想像出来る気がした。

学芸員の方なのか、解説して下さった方は縄文土器や茂別舘等の発掘に直接係わっておられて、舘跡の発掘では青磁などの茶器が数多く出て来たと話されていた。この地辺りまでは、明治となるかなり前から津軽の十三湊とつながる交易・交流が盛んであり、和人の定住者もいたということなのであろう。米作りについても1692年に松前藩の命により野田某という人が米の試作をしたという記録があり、これを持って北海道の水田の発祥の地となっていると書かれていたが、今まで幾つか見てきた、その地での米作り発祥の地という記念碑や案内板の中では、この地が一番古い年代だなと思った。条件的に恵まれていたのであろうから、その通りではないのかと思った。今日の最後はとても満足した気分で見学を終えることが出来て、気持が明るくなった。

そのあとは、今日の泊りは、この辺りに来るといつも泊ることにしている大沼公園の中にある東大沼キャンプ場にすることにして向かう。途中山川牧場に寄り邦子どの用のヨーグルトなどを購入してキャンプ場に着いたのは17時少し前だった。思ったよりも多くの車が泊っており、テントも数が多かったのは意外だった。最後の夏を楽しもうと道内近所の愛好者がやって来ているのだろうと思った。ここはトラックなど入って来ることは無く、安心して静かな夜を送る。

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第100回>

2018-09-02 05:48:55 | くるま旅くらしの話

【今日(9/2:日)の予定】 

道の駅:とうや湖 →(R230・R37)→ 豊浦町郷土資料館 →(R37他)→ 長万部町郷土資料館 →(R5他)→ 八雲町郷土資料館 →(R5)→ 森町郷土資料館 →東大沼キャンプ場(泊)

 

【昨日(9/1:土)のレポート】 天気:曇り後晴れ

<行程>

道の駅:真狩フラワーセンター →(D・R5・R393・D)→ 赤井川村郷土資料館 →(D・R393)→ ホピの丘牧場 →(R393・R5・D他)→ 真狩湧水 →(D)道の駅:真狩フラワーセンター →(D)→ 道の駅:230ルスツ →(R230)→ 道の駅:とうや湖(泊)

<レポート>

 家を出てから今日で99日を迎える。明日は100日目となる。今までの長旅の期間記録を変え続けている。体調の方は特に問題は無いのだが、何となく疲れのようなものを感じているのはやはり老化が一歩進んだということなのか。昨夜も昨日の内に目が覚めて、今日になってから1時間ほど起きるのを我慢したのだが、1時過ぎには起き出してブログの記事を書き出した。この時間帯になると妙に元気になるのは、やはり老人の証明なのだろう。二度寝をして6時近くになって起き出し歩きに出かける。

 明日はこの地の祭りとイベントがあり、ジャガイモ掘りなどがあるので、どの畑を使うのだろうと下見に行くことにした。何年か前そのジャガイモ掘りを一部始終見たことがあるのだが、それを思い出したのである。自分はジャガイモ大好き人間なので掘りたい気持ちは膨らむのだけど、今回はそのような余裕はない。今年も先回と同じ畑が使われるようで、もうその準備は整っているように見えた。しばらく歩いてゆくと真狩川の岸辺につくられた公園に細川たかしの像があった。それは朝9時から18までの間彼の持ち歌をうたう仕掛けになっているのだけど、7時前の時間では、ただ像が建っているだけだった。この村は、本当に彼の存在を名誉であり大切と思っているようで、この他にも碑が幾つか建てられている。彼は良いふるさとを持って幸せ者だなと思いながら車に戻る。

 8時を過ぎると道の駅周辺が何だか慌ただしくなり、農家の軽トラなどが走り来たって、構内の一部ではフリーマーケットなどが開かれて始めていた。今日から祭りが始まり、明日のイベントへ繋がっているようである。それらの準備などで大忙しが始まったようである。早めに移動した方が良かろうと、9時少し前には出発することにした。

 今日はただ一カ所、赤井川村の郷土資料館を訪ねるだけである。この資料館は、ネットで調べた限りでは、月に2回しか開館されず。それは毎月の1日と15日となっていた。今日は1日なのだが、役場は土曜で休みの筈だから、もしかしたらダメなのかもしれないとの予感はあったけど、とにかく巡り合ったチャンスなのだから行って見ることにした。

 道の駅を出て、ニセコに出てR5を北上して倶知安からR393を小樽方面に走って、新しくオープンした赤井川の道の駅の角を左折し、しばらく走ると赤井川村の中心街に出た。先ずは役場に行って訊いて見ることにした。今日は土曜休日なので、誰もいないときは諦めようと思っていたのだが、幸いに出勤されている方が居られてよかった。奥の方に教育委員会の部屋があり、そこへ行って訊くと、今日は休みで閉館だとのこと。担当の者がいなので、開館は明後日になっているという。ガッカリしたが折角のチャンスを逃すわけにはゆかないと、事情を話したら特別に見せて頂けることとなった。役場からは少し離れた場所に資料館があるということで、車でガイドして頂いた。

 元中学校の校舎を用いた郷土資料館は普段あまり見学する人も少ないらしく、やや湿った重い空気に満ちた状態だった。先ずは村の歴史年表を見せて頂いたのだが、張り出されているそれは、何と毛筆の手書きで書かれており、日光に当った箇所は薄れてしまっていて読める状態ではなかった。かなり重要と思われる資料等もあるように思われたのだが、その殆どが読みにくい小さな印刷物などで掲示されていて、多くを知ることが難しい状態だった。案内頂いた方も、今年4月からの初めての職場で不慣れという話だったので、質問することは止めて退散することにした。追って別の切り口から調べてみようと思った。

 その後、小樽方面へしばらく走ってホピの丘牧場という所に行き昼食とする。ここは邦子どののお気に入りの場所で、もう一度行きたいと何度かせがまれていたので、丁度好都合だった。ここはソーセージ類が美味しいらしく、何やら盛り合わせのようなものをオーダーしていた。肉にあまり関心のない自分は珍しくジンギスカン定食なるものをオーダーしてみた。北海道ではジンギスカンは定番料理の一つであり、それを学ばなければと思った次第。臭みも無く肉も柔らかくて、先ずは美味なりというべきだなと思った。

 そのあとは今日の宿は道の駅:230ルスツの裏の方にある公園の駐車場に泊ろうと考え、その前に真狩湧水を汲むことにして来た道を戻る。R393はメープル街道とも呼ばれ、道の両側に樺の木が多く見られる。かなりの長い急坂があって老体のSUN号には厳しくて油断ならぬ道なのだが、それなりの変化もあって面白さもある道なのである。その長い坂を上り下って平野部に出て、やがて倶知安の市街地に入る。そこからはメイン国道のR5に入ってしばらく走り、ニセコから真狩方面への道道に入り、間もなく大量の湧水の溢れる場所に車を止める。真狩湧水である。ペットボトル10本ほどを満たす。これでしばらくは飲料水の心配は無くなった。それにしても毎日大勢の人がここに水を汲みに来るのだが、決して絶えることは無い膨大な伏流水なのである。目の前の羊蹄山を見上げながら、この湧水が最初にこの山に雨として降ったのは何年前なのだろうかと、改めてその不思議を思ったりした。

 そのあとは真狩村の道の駅のある通りを通ったのだが、お祭りの前夜祭なのか本番なのか、かなりの人出もあって賑やかな雰囲気だった。間もなく留寿都村の道の駅:230ルスツに到着。

 ここでいつもの清水豆腐店の木綿豆腐を一丁買い入れる。普通の豆腐のサイズの2倍の大きさなのだが、その硬さ加減は自分の理想に近く、全国の豆腐の中でも自分の有数の気に入りの品質なのである。因みに他の豆腐では、富山県五箇山の堅豆腐と熊本県五木村の豆腐、それに埼玉県秩父は吉田町の七兵衛豆腐などが好きなのだ。

そのあと泊りを予定していた道の駅の裏の方にあるディキャンプ場の駐車場へ行ったのだが、かなりの数のくるま旅の車も泊っており、以前はここに泊ったこともあったので、大丈夫なのかと思っていたら、17時を過ぎたら別の場所に移らなければならないことになっているという。それならば早めに移動した方が良いと考え、この場所に泊るのを止めて、洞爺湖町にある道の駅:とうや湖に行って泊ることにして出発する。10分ほどで到着。青空が広がって上天気となったのだが、風が強くてTVのアンテナがグラグラ動いているといった塩梅で、風の止むのを待ちながらの泊りとなった。

ところで、この道の駅で今年は未だ出会っていない念願のとうきびを見つけることが出来て大感動した。それはモチとうきびといわれるもので、自分達が育ち盛りだった頃にはとうきびの主流を占めていたものである。現在のとうきびと比べると、1本の豆の粒数が少なくて大きく、基本は8列しかないものが多い。甘みは少ないのだがモチモチ感があって、要するに大人の味のとうきびなのである。現在のとうきびは甘さは優れているけど、優れ過ぎていて粒は小さくて柔らかいものが多くて、自分には何だかがっかりする味なのである。だから滅多に食べようとは思わないのだが、邦子どのはそちらの方が好みらしくこれは自分には理解しがたい世界である。ま、人それぞれだから、こだわる必要はないのだと思う。時代感覚からいえば、自分の方がズレていて取り残されているということなのかもしれない。このモチとうきびは、壮瞥町の道の駅で、前川さんという自分と同世代の方がつくられたのをいつも手に入れていたのだが、この4年のご無沙汰の間に、もはやもう作るのを止められてしまっているのではと諦めていたのだが、ここで新たな発見をして本当に嬉しくなった。早速2袋を買い入れて直ぐに茹で作業に取り掛かる。今夜は先ほどの豆腐といい、この黒モチとうきびといい、今顔の旅の中では、運命的なご馳走に恵まれた夜となった。食べ過ぎないように留意しながら、酒を選んで、夜を迎える。

こうして見ると、ややグロテスクな感じがして美味そうには思えないかもしれないけど、自分たちの世代の人たちにとっては、懐かしさの籠もった季節の食べ物だったのである。

 

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‘18年 北海道生誕150年の今めぐり旅 レポート <第99回>

2018-09-01 02:30:06 | くるま旅くらしの話

【今日(9/1:土)の予定】 

道の駅:真狩フラワーセンター →(D・R5・R393・D)→ 赤井川村郷土資料館 →(D・R393・R5・D他)→ 道の駅:230ルスツ(泊)

 

【昨日(8/31:金)のレポート】 天気:雨後曇り一時晴れ

<行程>

道の駅:スペースアップルよいち →(R5・R276)→ 岩内町郷土館 →(R276)→ 共和町かかし古里館 →(R276・R5・D)→ 真狩湧水 →(D)→ 道の駅:真狩フラワーセンター(泊)

<レポート>

 今日もどんよりとした雲が空を覆う朝だった。4時前にブログの投稿を終え、5時少し前に歩きに出かける。ここに泊った時はいつも余市川を海に向かって歩いて、港の中を散策することが多いのだが、今日は反対に余市川を遡って見ようと考えた。最初は近くにある余市川橋から左岸を行くことにした。川の左岸・右岸というのは、川下(=河口)に向かっての左右を言うのである。両方の堤防には散策の道が整備されているようなので、それを行くことにした。10分ほど歩くと直ぐに次の橋に着いた。それを横切って、次の橋まで歩くことにした。ところがそのあと40分近く歩いてもなかなか次の橋が現れない。しかし決めたことは実行しなければならない。散策道も最初は幅広くて歩きやすかったが、次第に狭くなり、やがて雑草の中の小路となった。所々蜘蛛の巣があったりして、真に歩きにくいのである。こりゃまずいなと思いながら歩いていると、ようやく鮎見橋というのに到着した。よし、ここからは右岸を行くことにしようと橋を渡って右岸に出て、10分ほど歩くと何とそこから枝分かれして支流の川が流れ込んでいるではないか。これじゃあ、まともに戻れないなと考え、引き返して元の左岸を戻ることにした。川の堤防の散歩というのは、少し大きな川になると、このようなことが起こることが多い。結局2時間と少し歩いて車に戻る。万歩計は1万4千歩を超えていたので、8kmくらいは歩いていたのだと思う。

  歩きながら思ったのは、大正の頃この地に初めてやって来てウイスキーづくりを決意した竹鶴政孝という人は、その工場の傍を流れる余市川を見てどんな思いをめぐらせたのだろうか。そしてその夫と共に遠いスコットランドからやってきたロタ夫人は、さてさて、どのような感慨を持ってこの川を眺めたのだろう。そのようなことを想った。往時のこの辺りといえば、まだまだ付近に原生林が残る湿地帯だったに違いない。本当に意思の強い人たちだったのだなと思った。丁度今、BSの朝ドラで再放送されているので、良いタイミングだなとも思った。

 さて、今日は後志エリアの岩内町と共和町の郷土館を訪ねる予定でいる。それが終わったら、真狩湧水を汲んで道の駅:真狩フラワーセンターに行って泊ることにしている。このエリアは前回も通っているのだが、郷土館には寄らずにいた場所だ。それをフォローするのが今日の目的である。

 9時少し前に出発して、先ずは隣接するニッカウヰスキーの直売所のある所に寄る。ここへ泊ると必ずそうすることにしているので、今日も又同じ行動。寄る理由は邦子どのの買い物趣味など。自分は、今はウイスキー以外には殆ど何の興味もない。そのあとは只管R5を走り続け、途中からR276に入って、先ずは岩内町の郷土館へ。

  岩内町は海の町、漁業の町でもある。何度も来ているのだが、郷土館を訪ねるのは初めてであり、従ってこの町が一体どのような歴史を持っているのかも初めて知ることなのだ。郷土館の前にホップが植えられていて、そこに「野生ホップ発見の地」と書かれた碑があった。このホップを育ててつくられることになったのが、後のサッポロビールということらしい。中に入ると、町の歴史が丁寧に説明されていた。年表に従って見ていくと、そこには明治以降の輝かしい歴史が記されていた。開拓使が置かれて、最初に支所が置かれたのがこの地だったとのこと。往時この地に茅沼炭鉱というのがあり、国策として石炭のニーズを満たすためにそのような措置がとられたらしい。更にはニシンやスケソウタラの豊漁で賑わい、豊かな財政を持ったこの町は町費百億円以上を投じて港の整備を行ったという。往時の道内では、最前進の取り組みを持つ町だったようで、茅沼炭鉱の他にも、函館に次いで道内2番目の鉄道馬車が走ったとか、道内最初の水力発電が開始された、アスパラガス発祥の地であると、往時の町の隆盛を示す事柄が大きく取り上げられて展示・説明されていた。

  明治40年代に人口は1万2千人台となり、最高時は2万8千人にも上ったという。しかし今では110年前とほぼ同じの1万1千人台となっており、更に減少の歯止めはかかっていないようだった。北海道の日本海側の各市町村では、いずれもニシン漁を中心とする輝かしい繁栄の時代を経験していることが解るのだが、現状と未来はかなり厳しいものとなっているようだ。現在の岩内町がどのような状況なのかは定かでない。追って調べてみたい。

 岩内町の後は、来た道を戻って、共和町のかかし古里館という資料館へ。ここは漁業の町の岩内とは対照的に、地味な農業を基盤とする町である。昭和30年に、小沢村、前田村、発足(はったり)村の三村が合併して共和町となったとのこと。かかし古里館は、元の小学校校舎を利用して歴史を証明する物品や学校風景を展示し、新しく建てられた建物の方に町の来し方の説明が丁寧になされていた。

  この町は、農業が基盤だけど、その他にも国冨鉱山という金・銀・銅を生産する製錬所もあったようで、それを継承する事業は現在でも残っているようである。詳しいことは追って整理してみなければ解らないけど、北海道各地には隠れた産業が点在しているようである。館員の方に岩内町との関係を訊いたら、分村などの関係は無く、別の道を辿ってきたとのこと。「あちらは獲るのが中心、こちらはつくるのが中心の町」との答えが返ってきた。獲(採)るものはそれが無くなれば終わりとなり、つくるものは無くなることは少ないというような意味に聞こえて、象徴的なことばとして耳に残った。

 岩内町の寂れに歯止めがかかり、つくる世界を早く見出せばいいなと思った。共和町は着実に前進している印象を受けた。なお、「かかし」というのは、この町の守り神的な存在として扱われているようで、手づくりの案山子を競うイベントなども開かれているようで、館内には何点かの力作が展示されていた。

 これで今日の訪問は終わりである。買ってきた弁当を食べた後、真狩方面へ向かう。ニセコから道道に入り、途中羊蹄山の伏流水が吹き出している真狩湧水を汲んだ後、

 道の駅に到着する。何度目になるのか、何だか戻って来たという感じがする道の駅だ。道の駅の真向かいに真狩高校があり、その校庭にテントが幾つも張られているので、何だろうと思ったら、明日はジャガイモ掘りなどのあるイベントが開催されるということだった。年に一度のこの村の収穫祭のようなものなのであろうか。明日はかなり混みあうことになろうから、ここに居てはならないなと思った。何だか二人とも疲れてしまって、午睡の後もいい加減な夕食を摂って再び眠りが必要となり、そのまま夜を送ることとなった。

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