山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大相撲はもっと心を鍛えよ

2010-06-27 06:20:36 | 宵宵妄話

サッカーのワールドカップや、参院選挙のニュースに交じって、大相撲力士や親方などの野球賭博の話が世間を賑わせています。麻薬問題や横綱の暴力事件などが片付いたと思ったら、この業界では、かなり力士が相撲ではなく野球を使った博打にうつつを抜かしていたというのですから、呆れて物が言えません。

この分だと、来月11日から始まる名古屋場所の開催は難しいのではないかと思われます。賭博行為に係わったと申告した力士はともかく、真面目に稽古をして本番に臨もうとしている力士たちにとっては、たまったものではないという話でありましょう。それらの人たちの気持ちを思うと、軽薄にして愚かな行為に走った一部の連中に対して怒りがこみ上げてくるのを抑えることができません。

私は相撲ファンの一人だと思っています。熱狂的ではありませんが、子供の頃は相撲を取るのが好きで、決して弱くはなかったと自認しています。いろいろな技も仕掛けてみて効いたこともあり、それが決まったときの快感もわかっているつもりです。只見ているのとは違って、多少ともその競技の経験があれば、それをプロとして精進している人たちの苦労も理解できるというものです。

今頃は相撲といえば、子供たちの中では特別の者たちだけが、道場などに通って取り組むだけになってしまっているのでしょうが、私たちが子供であった60年前の頃は、学校などでもごく普通に遊びの一つとして、運動場の隅っこなどで興じていたものでした。TVもなく、場所が始まると、ラジオや新聞の報道に胸を躍らせて聴き入り、写真に目を見張ったものでした。このような話をすると、時代遅れの笑い話に聞こえてしまいますが、少なくとも相撲が国技であるということを、小学生や中学生が何の疑いもなく信じていた時代でした。

懐旧の話は老人の愚痴となってしまうので、なるべく昔の話はしたくはないのですが、相撲が国技であるということに関しては、50年前頃までは、国民全体にそれが当然という一体感があったように思います。私が小学生の頃は、横綱といえば、東富士、千代の山、鏡里、吉葉山などが居り、よくわからないままに、俺は千代の山が好き、いや俺は吉葉山だ、などと大声で話をしたものでした。その後栃錦や若の花が活躍し、その後は何といっても超人気があったのは大鵬でした。子供の好きなものの3代表が「巨人、大鵬、卵焼き」といわれた時代が続きました。

それから長い時間が流れて、次第に相撲も様変わりをしてきたような気がします。それがどのようなものであっても、時間の流れと共に変化してゆくのは世の常でありますが、国技である相撲が一番変わってきたところといえば、それは力士のグローバル化の方向に流れが動いたということでしょう。一見、日本人の力士が弱くなったとの印象がありますが、それは裏返しすれば、優れた人材が世界中から集められる方向に動き出したということでもあると思います。アメリカやヨーロッパでは、他のスポーツが盛んですから、相撲部屋に入門を希望する人はそれほど多くはないと思いますが、モンゴルを初め、中国などがその気になれば、強い人材は幾らでもいるように思います。

ま、そのことは措くとして、ここで心配になるのは、国際化の問題と相撲は国技であるということのギャップです。近代スポーツに関しては、それが国技であっても国際化に殆ど違和感などないのだと思いますが、相撲は千年以上も前から我が国に生まれ育ったスポーツであり、いわゆる相撲道として、精神的な或いは文化的な面でも固有の考え方というかある種の哲学のようなものを持っているように思います。それがグローバル化に耐えられるようなものなのか、外国出身の力士に本当に理解されるものなのか、懸念を覚えるのは、私だけなのでしょうか。

朝青龍が横綱なのに、勝ってガッツポーズをしたというのが話題となり、横綱としてあるまじき振る舞いだと批難されたことがありましたが、これなどはまさにグローバル化による国技としての精神の浸蝕現象を呈した事件であったと思います。

私は、国技としての相撲をそのまま国際化するのには無理があると思っています。四十八手の決まり技だけを教えれば良いというものではなく、日本国という国の文化とものの考え方を外国出身者に解らせることが必要であり、それは相当に強要的なものとならざるを得ないように思います。それに反発して言うことを聞かないまま横綱などになってしまうと、朝青龍のようなことが起こるのでしょうが、これから先は彼以上の問題児が誕生する恐れがあるように思います。このことについては、私は大相撲の国際化というのが本当に必要なのかについて、最初から疑問を感じています。高見山や小錦関には相当の我慢をさせて気の毒だったと思っています。国技であれば、100%日本人でやるべきだと思っています。幾ら国際化の時代といっても国技と呼ぶものを形だけにとらわれて世界流にしてしまえば、柔道のようなものとなってしまうに違いありません。柔道の現在の姿が必ずしも間違いだとは思いませんが、もし相撲がオリンピックの競技種目などになったとしたら、それはもはや国技などではないと思うのです。国技というものは、もっともっとその国において全ての側面において磨き上げなければならないものなのではないかと思っています。このことについては、又機会があったら少し論じたいと思っています。

しかし、今回の問題は、相撲のグローバル化とは本質的には無関係です。真に軽薄でお粗末極まりない人間が混ざっている相撲界の現状に多大な疑問を感じます。親方や大関までもが場所中に博打に係わっていたというのですから、どちらが本職なのかわからないと批判されても何もいえないでしょう。

このような出来事が何故起こるのかといえば、それはこの業界の幼稚さにあるように私は思います。皆幼い感じがするのです。身体を鍛え、技を磨き、そのことに集中して強くなるというのは素晴らしいことではあるとは思いますが、横綱や大関などといってもまだ30代前のようやく本当の成人になりかかった世代です。普通の世界では、サラリーマンであれば役職にも付けない世代かも知れません。それが実力次第で頂点に上り詰めることができるのですから、これはやはり特殊な世界だと思います。つまり、言いたいのは、よほどにしっかりとものの考え方というか、相撲の道というものについて教え込んで徹底させておかないと、独活(うど)の大木や裸の王様のように、見かけだけの、世に受け入れられない人物が生まれてしまう危険性があるように思います。

武道の「道」においては、「心・技・体」の大切さが強調されますが、相撲道においてもこれは変わらず、常に力士が心得、心がけなければならない事項だと思います。一般の教育論としても、「知育・徳育・体育」などということが強調されますが、人間社会の中で範を示す立場・世界にいるという自負を示すためには、これらの視点は極めて大切だと古来より考えられてきたのだと思います。

しかし、今の時代はこれらの視点のどれかが急速に軽視されてきているように思うのです。どれかといえば、相撲道においては「心」の視点です。誘惑の多い今の世の中では、若者としてやりたいことは幾らでもあると思います。しかし、その欲望を発散させる手立てとして、賭博などを選ぶとは、或いは麻薬などに手を出すとは言語道断です。現在の相撲界には心即ち精神的な側面の鍛錬が多大に不足しているか或いは欠落しているように思うのです。これは徳育不足ということかも知れません。世に範を為すというのが、少なくとも関取と呼ばれ、親方と呼ばれる人たちには、心がけとして求められ又、実践が求められていると考えます。そのようなことはどうでも良い、勝負に勝ちさえすれば、あとは自分の好きなことの何をやっても良いというのであれば、それは相撲道などではありません。

この厳しい指導を行なう力が相撲協会にあるのか疑問です。今回の賭博事件だって、その調べようがまるで小学生の学級での盗難事件の犯人探しの如きレベルの低さです。罰するのは軽くするから、正直に申告しなさい、という調べ方なのです。その結果を見て、事の重大さに気がついて、申告前の約束を反故にするのもやむを得ないなどといっているのですから、これは結果として全力士に対する信義を裏切ることになり、協会の関係責任者の問題認識の甘さが窺われます。単に首のすげ替えをするだけでは、この甘い体質は治るとも思えません。

これだけではなく、文科省が相撲協会とどのような関係にあるのか良くわかりませんが、所轄の財団法人に関わるというだけで、今頃ノコノコ出てきて偉そうに物を言っているというのも気に入りません。相撲という国技を管轄監督する直接の責任は文科省にはあるのかないのか、よく判りませんが、もしあるのであれば、もっと早くに協会の甘い体質に対して厳しい注文をつけておくべきだと思います。

さて、長くなりますので、止めにしたいと思いますが、恐らく穿(ほじく)り出せば、野球賭博だって申告しなかった者も居るでしょうし、他にも反社会的な行為に係わるようなことを、大した罪の意識も無しに行なっているようなことが、まだまだ内在しているかも知れません。このような問題に対して、今のところは問題の実態を明らかにすることが大切なのでしょうが、その結果が判明した時には、処罰などでお茶を濁すのではなく、「心」すなわち「精神」を如何に厳しく鍛えるか、親方連中を含めて協会を挙げて全力で取り組む必要があると思います。

もしそれができないのであれば、もはや国技など言うのはやめて、プロレスなどと並ぶショービジネスとして本物・インチキを適当に取り混ぜてお客さんに楽しんで貰うのをモットーとする商売に切り替えた方がいいように思います。そして本来の相撲の方は、アマチュアに限定して文科省が直営して国技としての存続に磨きをかけるような道を考えるべきではないかなどと思っています。日本という国が失われてゆくのを目()の当たりにしている感じがして、なんともやりきれないこの頃です。

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