山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

畏友の叱責

2010-06-01 05:20:33 | 宵宵妄話

私の畏友といえば、それはもう亡き安達巌一人なのですが、実はもう一人私自身の中にもっと恐ろしい畏友が住み着いています。この畏友は、30年ほど前からそろそろと私に近付いてきて、20年程前にはすっかり定着してしまいました。その名はトークンです。トークン(=糖君)というのは、私が勝手につけた名前で、一般的には糖尿病と呼ばれています。

畏友というのは、敬服する友という意味ですが、畏友の「畏」という字の意味は、漢和辞典によれば、古い字形では鬼が棒を持って打つという意味を表わしており、音の読み方では「威()」という字に同じということだそうですから、畏友というのは、襟を正して向き合わなければならない、そのような厳しさを持った尊敬する友ということになります。

トークンなどと軽いトーンで呼ばせて頂いていますが、内心ではやっぱり、どこかきっちりけじめをつけて向き合わなければならない友である、と恐れを抱いている存在なのです。世の中では良く「一病息災」などといいますが、あれは自分が抱えた一つの病に対してしっかり向き合った健康管理を実行して初めて言えることばであって、持病が一つあればそれで息災などとは決して言えない話です。

初めて正式に(?)糖尿病の宣告を受けたときは、ちょっぴりショックでした。というのも、原因不明の病で1ヶ月も勤めを休まざるを得なくなった時の様々な検査の結果が、糖尿病からという診断だったからです。糖尿病の三大合併症といえば、目と腎臓と足の指先の壊疽が上げられますが、その時の私の場合は、これら合併症とは殆ど関係の無い症状で、とにかく体が急に言うことを聞かなくなって歩くこともできないような状況だったのでした。実のところ、振り返ってみてあれは糖尿病が原因などではなく、別の鬼の霍乱(かくらん)現象だったのではないかと思っているのですが、その時に血糖値が200を超えるほど高かったのも現実ですから、全く無関係ではなかったのだとは思います。

その後トークンとの本格的なお付き合いが始まりました。トークンとの付き合いの基本的な考え方は、この病は一度罹ってしまったらあの世に行くまで治らないものであること。ただし、正しくきちんとルールを守って病の管理をすれば、治った状態を維持し続けられるということ。ルールというのは、血糖値を一定のレベル(概ね110以下)に保つこと。ヘモグロビンA1Cという血液検査のデータ値を概ね6%以下に保つということ。私の場合はこの二つの指標レベル以下を確保することがルールであると考えています。

つまり、トークンとの付き合いは、このルールを守らなければ合併症につながる病となりますし、このルールをきちんと守れば健康な身体を維持できるということなのです。では、どうすればこのルールを守れるのかといえば、これには3つの方法があり、①は食事②は運動③は医薬品というものです。

糖尿病の基本原因は、摂取した食べ物のカロリー量が多すぎて、これを消化する際に必要なインシュリンというホルモンが不足してしまい、その結果消化された栄養素が、血液の中に完全に溶け込めないまま、血糖の状態で体中を血液に混ざって運ばれてゆくため、その血糖が細い血管の中で詰まってしまい、血行不良を起こして、必要な栄養が供給されなくなり、やがてその部分の組織が壊れて機能しなくなるというものなのだそうです。三大合併症はその典型なのです。

ですから、トークンとの付き合いは、要するに血液中の血糖を如何に少なくルールに沿って維持するかということにあり、出来る限り医薬品に頼らずに食事と運動によってこれを実現・維持するかにあるのだというのが、私の考え方なのです。医薬品の助けを借りるのは必要最小限が望ましいというのは、どんな良薬でも副作用が皆無などいうものは無いと考えるからです。薬を飲めば病が治るというのは明らかな間違いであって、身体を治すことができるのは、その身体が本来持っている生命力だけなのだというのが私の考え方であり、医薬品はその生命力の働きをホンの少しばかり手伝うに過ぎないと思っています。

どうやらいつの間にか糖尿病の理屈のような話となってしまいましたが、何しろトークンとは20年来の付き合いなものですから、彼の特徴というか、付き合い方については、トコトン研究(?)しましたので、その耳学問といえば、かなりのものだと愚かな自負を持ってしまっています。

ところでその耳学問で膨れ上がった重さに我を忘れた私は、最近少しばかり足の指先が痺れる感覚に襲われるようになりました。これは拙(まず)いなと思いました。合併症の一つの末端血流不足の前兆に違いありません。放置しておけば組織が壊れて壊疽となり、最悪の場合は指の何本かを切り落とすということにもなりかねません。そうなったら、88歳までは旅に出たいという願いも空しくなってしまいます。

こうなった原因は明白で、5年ほど前から病院に行くことを止め、それまで僅かに飲んでいた薬を飲むことも止め、最初はコントロールしていた食事の摂取レベルも次第に崩れて量が増え、守ってきたのは1日1万4千歩以上を歩くという運動だけでした。病院に行くことを止めたのは、受診するのにいつも3時間以上も待たされ、診察はたった2~3分で、後は薬の処方をして貰うだけという、バカバカし過ぎるその内容に腹を立て、これからは自己管理でやるからもう病院へは行かないと決めたからなのでした。

最初の勢いは良かったものの、愚かで弱い人間でしかない私が、妥協のレベルを抑えきれずに下げてゆくのは、予め想定されていた通りであり、気がついてハッと正気になれば、足の指先が痺れ出したという次第です。どんなに頭でっかちになって公言したとしても、それを実現・実行しなければ全くの虚言に過ぎず、それは己自身を欺いているということでもあります。今は、その後ろめたさに囚われ自己嫌悪に陥っている状況です。こんなザマでは、何処かの総理大臣のことなどを悪し様にいうことはできないなと、これ又反省しきりでもあります。

ということで、只今はトークンの厳しい叱責を受けているところです。改めて病院(今度は別の病院にしました)に出向いて、検査を受け、処置を指示して貰いました。ルールの数値をかなりオーバーしていましたが、想定の範囲であり、この後のお付き合いの襟を正せば、ま、指を切り落とすなどという無様(ぶざま)な状況には至らないで済みそうです。それにしても油断大敵ですね。大言壮語は己を欺く始まりだなあ、と改めて深く反省している次第です。いやあ、畏友のお叱りというのは、キツイものですなあ。しかし、ありがたいものです。

コメント
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