山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

安達巌のこと(寸略伝)

2009-05-19 02:10:57 | くるま旅くらしの話

昨日の世界障害者絵画展の話で、かなりの部分が安達巌への思いのことに傾いてしまいました。それで、今日は洋画家安達巌画伯のことについて、ちょっと書きたいと思います。ちょっというのは、もし本気で書き出したならブログの365日分を占めてしまうかも知れないからです。安達画伯は故人となりましたが、私のこれからの人生の中でもずっと生き続け、影響を与えてくれる人物なのです。今日はその簡単な紹介です。(文中敬称略としてあります)

 

安達巌は、私より1年前、大阪の大正区で生まれました。恵まれた環境ですくすくと成長していったのですが、時の戦雲は次第に暗さを増し、やがて太平洋戦争へと突入して行きました。町工場の多かった大正区は戦火を浴びて、全てのものが灰燼(かいじん)に帰しました。安達家も例外ではなく、それまで営んできた鉄工所は跡形も無く破壊されつくし、安達一家は身寄りを頼って転々と住まいを求めるという事態に追い込まれてしまったのでした。戦後間もない頃の巷(ちまた)には、同じような事情で親戚にお世話になる人たちは溢れるほど居ましたし、斯くいう私自身も一家離散の一時期を体験しています。

そのような厳しい状況の中で、巌は国民学校の1年生となり、国民学校はその翌年から新制の小学校となったのでした。両親の元、活発に育った巌は、小学校低学年で早くも鉄棒の大車輪ができたというほどのスポーツ万能の子どもでした。当時、子どもたちの間では小鳥を飼うというのが流行っており、手乗り文鳥の欲しかった巌は母にそれを買って欲しいとねだったのですが、食べることに精一杯で余裕のない暮らしではとてもそれが叶うはずもあませんでした。

そこである日、巌を含めた仲間の子供たちは、近くの電車の変電所の屋上付近に雀が巣を作っているのを知り、それを捕りに行こうという相談がまとまったのです。いざ変電所に着いて見ると、その高さに恐れをなして屋上まで上がろうという子は居ませんでした。こんな時、巌のスポーツ万能の負けず嫌いの精神はつい前に出てしまうのです。勇を鼓して鉄塔を登り屋上に辿り着いた巌は、雀の巣の直ぐ近くに3万3千ボルトの高圧線が走っているのなどつゆ知らず、巣の中の小さな卵と近くの別の巣に雛のいることを知り、勇んで手を伸ばしたのです。そのとき、あっという間もなく巌の手は送電線に吸い寄せられたのです。そして、その瞬間から巌の人生は想像もつかなかった障害者の世界に真っ逆さまに落ち込んでいったのでした。

辛うじて生命だけは助かったものの、両手をは失い、足の指も何本かが吹き飛び、もはや母の手を借りずには何ごとも出来ない、大好きだった学校へも行けない、今まで想像も出来なかった、孤独な境遇の少年となってしまったのでした。巌の将来に期待の大きかった父は、落胆のあまり家を飛び出し、滅多に戻って来ないようになってしまったのです。巌、わずかに9歳の時でした。母の愛情に縋(すが)りながら、家の中で疼(うず)く身体の痛さにじっと耐えるだけの毎日を送っていたのです。

ところがようやく傷が癒え、事故から1年経ったころ、身命を賭(と)して巌を守ってくれていた母が、ある日巌を励ますことばを語りかけながら、急に巌にもたれかかるようにして倒れ、そのまま命が絶えてしまったのでした。巌のことを思って、自分の食事は碌に食べることもなかったのでしょう。栄養失調が最大の起因でした。当時は栄養失調で命を失う人が大勢いたのです。今の飽食の時代では想像もつかないことですが、栄養失調というのは、栄養が不足しているなどという生易しいものではなく、命をつなぐ食物を摂取できないために、それが限界に達して、ある日突然命が途絶えるのです。巌の母の頑張りもついに限界を超えてしまったのだと思います。

それから後の巌の生き様は、私たちの想像も及ばぬ艱難辛苦(かんなんしんく)の連続でした。両手が無いといって、全てを他人に依存することが叶うのならまだしも、親戚とはいえ、いつまでも可哀想と面倒を見てくれるほど世の中は甘くは無かったのです。母を失い呆然自失だった巌は、やがて自ら何でもしなければならないことを思い知ったのでした。パンツの上げ下げ、着衣のやり方等々健常者にはなんでもないことも、両手の無い身には至難の業なのでした。その修練の話を聞いたとき、私は冷や汗を掻きながら己の思いあがりと怠慢の来し方を思い知らされたのでした。特に口と舌を使って針に糸を通し、ズボンにホックをつける作業まで出来るようになった時の話を聞いたときは、言い表せない感動と共に安達巌の凄さと人間の可能性の大きさに目を見開かされた思いがしたのでした。

それからの巌の生き様については、無数のエピソードがありますが、それらは措くとして、彼の絵との出会いとその後の取り組みにについて少し話したいと思います。

遊んでくれる友達もなく、学校へも行けず、一人ぼっちの時間を過ごすしかなかった巌にとって、たった一つの楽しみは絵を描くことだったのです。道端で拾ったちびた鉛筆を口にくわえ、新聞に挟まっていた広告紙の裏に、思いつくイメージを描くことから始めたのでした。しかし、それが思い通りになるまでには、血のにじむような努力があったのです。実際にやってみれば誰にでも直ぐに判ることですが、鉛筆を口に咥(くわ)えて何かを書こうとしますと、体は鉛筆を書くための道具とは認識せず、食べ物として受け止めてしまうのです。その結果唾液やよだれが止めどなく流れ出るということになってしまい、下に置いた用紙は濡れてグチャグチャになってしまうのです。これを克服するにも相当の努力を要したのでした。

また、絵の具を買うなどは夢のまた夢であって、鉛筆で書いた絵に色をつける時は、千切ってきた野草の花などを潰して作った自家製の絵の具を使うだけなのでした。桜の花びらを集めてその汁を絞ると、かすかですが桜色が紙に染まるのです。それでも嬉しくて更に懸命に努力を重ねたことを、懐かしそうに話すのを聞いたことがあります。どこに誰と言う師匠がいるわけでもなく、安達巌の絵は全くの独学の積み重ねによって、生まれ育って行ったのでした。

少年時代の終わりの頃、巌はもうこの世に自分が生きている意味が無いと鉄道自殺を図ったことがあると聞きました。しかし、走ってきた列車に触れる寸前に自ら跳ね飛んで死を思いとどまったのでした。そして、そのときから彼のこの世への、生きるということへの挑戦、チャレンジが始まったのでした。

まずは何としても仕事を得ようと、町の中の工場などを片っ端から、自分を何でもいいから使って欲しいとお願いして回ったのです。しかし、両手がない巌を見ると、どこへ行っても採用を断られ、追い飛ばされる状況だったと言います。しかしついに努力の甲斐があって、ようやくある小さな会社が彼を拾ってくれたのでした。その会社の屋根裏に住まいを確保して頂くことが出来た巌は、懸命に仕事に打ち込みながらも、絵への精進を欠かすことはありませんでした。彼の20代前半の青年時代はそのようにして過ぎていったのです。

そしてある時、住んでいた布施市(現東大阪市)主催の展覧会に応募出品したところ、それが見事に入選を果たしたのでした。ところが巌の凄いのは、その時頂いた賞金の殆(ほとん)どを、恵まれない人たちのために使って欲しいと、名前も告げずに寄付をしてしまったのです。いつしかそのことが話題となり、探し当てられて新聞に取り上げられ、大きなニュースとなったのでした。この事件()がきっかけとなり、巌には様々な人との係わりが生まれ、生活は大きく変わってゆくようになるのです。

その中に大石順教尼との出会いもありました。大石順教尼については、「無手の法悦」(春秋社刊)というご自身の著に詳しくのべられておりますが、明治、大正、昭和の世を、両手のない女性として多難の人生を歩みながら、その半生を絵筆を口にくわえて絵や書を通して多くの障害者の支援に尽くされた偉大な方です。その順教先生に弟子入りして学ぶこともできたのです。

 

   大石順教著「無手の法悦」(春秋社刊)

翌年には世界身体障害者芸術協会との出会いがありました。この協会は、ヨーロッパのリヒテンシュタインに本部があり、世界中の、障害者ながらも絵をはじめとする芸術活動で自立を目指す人のために、育成支援を行なっている団体で、日本にも支部があり、そこのオールメールというドイツからのボスに認められ、支援を受けられることになったのです。

それからの巌は、絵画一本を仕事と決め、本格的に絵の勉強に取り組むこととなります。幾つかの絵画展に出品し、数多くの受賞を果たしています。世界身体障害者芸術家協会の正式会員ともなったのでした。画家としての基盤を固める中で、巌は機を見ては障害者施設や小・中学校等への自作品の寄贈(そのほとんどは100号の大作です)を進んで行なっています。それは、障害のある者が描いた絵を見ることを通して、同じハンディを持つ人たちや未来を担う子どもたちが、自分の可能性に気がつき、元気を出して欲しいという彼の願いが籠められたものであり、その願いと言うのは、死の直前に亡き母が巌に向って話した、「世の中、人のために、あなたよりももっと困り、悩んでいる人たちを助けるために、男として力になりなさい」という、母との約束の実践なのです。

やがて巌は、健常者に伍して少しも引けをとらない優れた技量を持つ一流の洋画家となったのです。大学での絵の指導や、地域の絵画展の審査委員長などの活動をしながら、何よりも障害を持つ後輩や仲間のためにと絵を描き続け、指導に力を入れたのでした。やがて彼を慕う多くの弟子を持つ身となり、これからが活躍の本番というときに、身体が燃え尽きてしまったのか、あっという間に帰らぬ人となってしまったのでした。

ここまで書いてきて、とても中途半端な紹介に、申し訳なく、我ながら呆れ返っています。波瀾万丈の彼の人生をちょっとなどという考え方で紹介するのはとても無理なのです。それでも、ほんの少しでもいいのですが、安達巌とい絵描きの生き様を知って頂けたら嬉しく思います。(明日は肝心な彼の絵のことについて紹介させて頂くつもりです)

私と安達画泊との出会いは昨日書いた通りですが、十数年のお付き合いの中で、人間というのは、困難をどれほど乗り越えたかによって値打ちが決まるものなのだということを、心の深い所で教えて頂いたのです。「私の学歴は小学校中退です」というのが彼の口癖のようなものでしたが、最高学府に学んだはずの自分など足元にも及ばぬ、人間としての練磨された輝きを彼の中に見出し、心を打たれたのです。それ故に彼は私にとって、永遠の畏友なのです。

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