山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

‘15年 佐渡一国を味わう旅 レポート <第11回>

2015-06-11 06:01:18 | くるま旅くらしの話

【今日(6/11)の予定】 

  小木港 → 羽茂本郷(草刈神社) → 宿根木散策 → 西三川散策 → その先未定

 

【昨日(6/10)のレポート】     

<行程>

 道の駅:芸能とトキの里自宅 → 小佐渡丘陵海岸の探訪(津神神社 → 風島弁天 → 松ヶ崎 → 赤泊港) → 小木港(泊)

<レポート>

今日から12日までの間は小佐渡エリアの探訪をすることにして、今日はまだ通ったことが無い両津から小佐渡の海岸線を走る道を小木までちんたらと行くことにしている。佐渡は北部に金北山という1100mを超える大佐渡山脈があり、南部は600m級の山に止まった小佐渡丘陵が伸び、この二つの山地に挟まれて国中平野が広がっている。丘陵といってもそれほどなだらかな丘ではなく、海からは直ぐに200mを超える高さの山が迫っており、小佐渡の海岸線もそれなりに急崖を含んでいるに違いない。まだ通ったことはないけど、実際どんな風景があり、どんな人に巡り会えるのか楽しみである。

昨日は終日ぐずついた天気だったが、今日は朝方はまだ少し雲は残っていたものの、次第に青空が顔を出して、出発の準備が整った9時頃には上天気となっていた。昨夜も数台の泊りの車があったが、皆さんの出発は早くて、8時を過ぎる頃には残っているのは自分たちの1台だけとなっていた。佐渡に上陸以来5日間も同じ場所に泊っている自分たちの車は、佐渡の地元の人たちにとっては、目立つ存在に違いない。一体何をしに来ているのだろうと不思議がられているのかもしれない。しかし、地元の人たちの顔を見ることはめったになく、挨拶を交わすのは、道の駅を利用している旅の人たちばかりである。人口6万2千人の人たちは、日中何処でどんな暮らしをされているのか、さっぱり見えてこないのが不思議である。

9時過ぎ出発して、両津の港の近くから佐渡を一周する県道45号線に入る。この道も恐らく小木に着くまでの間には離合も難しい個所があるに違いない。そのような所で大型の車に出合わないことを願いながらの走行だった。しばらく走ったのだが、道は中央線のある立派なもので、もしかしたらこのまま小木まで大丈夫なのかも、などと勝手に思ったりした。水津という港の少し手前を通りかかった時に、海岸に突き出た小さな山塊に、何やら神社の様なものがあり、そこに渡る朱色の欄干橋があるのに気づき、ちょっと寄って見ることにした。行ってみると津神神社というのがそれだった。案内板によると、ここは大川集落という所らしく、その昔は北前船などの交易船が風待ちに寄る港であったらしく、それなりの歴史を持った場所だったということ。神社の先には私設の灯台も設けられていて、それには善宝寺と名付けられていた。灯台を寺の名で呼ぶというのは初めて知ったことである。大川集落では往古の暮らしの姿を忘れないようにと、版画に表現して、屋外版画美術館という活動をされていた。何枚かの版画が家々の板壁などに掲示されていて、力作が多かった。このような活動を知ったのも初めてのことである。とてもいい寄り道だった。

   

大川集落、津神神社への朱の橋。この橋の先が津神島であり、そこに神社があり、その先に灯台がある。

   

善宝寺と名付けられた灯台。この辺りは岩礁が多いので、この灯台は多くの船乗りの生命を救ったのだと思う。

その後も道脇にある小さな神社などに寄りながらのんびりと海岸線の道を辿った。しばらくは幅の広い良い道だったのだが、少し行くとやはり予想通りの細道を走ることとなった。幸いなことに走る車は殆どなく、離合を余儀なくされることも殆どなく通行することが出来た。1時間ほど走って松ヶ崎という所に着く。道脇に「街並み保存集落」とあったので、車を止めてそちらの方へ歩いて行ってみることにした。行ってみると、そこは古代の駅が置かれた場所で、大宝律令に基づいての駅なのだから、もう1300年以上も昔のことである。往時佐渡には3つの駅が設けられ、この地はその一つだったとのこと。鎌倉時代に佐渡に流された日蓮上人が初めて佐渡の地を踏んだのもここだったとかで、それに因むお寺や故事につながるケヤキの大木などが今でも残っているのを知った。集落の各家々には屋号の書かれた表札が思い思いの形で掲出されており、この地の人たちの昔につなげようとされている努力の様なものが伝わってきた。しかし、この場所も表を歩く人影は見られず、時折り老人が自転車で通り過ぎるだけだった。相棒がなかなかやって来ないのでどうしたのかと戻って見たら、どこかの家の玄関先で、そこのおばあさんと何やら話し込んでいた。行ってみると、例によって家族のことや身の上話(?)などまでに入り込んで、散策も忘れているようだった。80歳になられるというその方は、若々しくて、久しぶりに話し相手に恵まれて嬉しそうだった。相棒も喜んでいるから、まあ、めでたし、めでたしという所か。イカの一夜干しの店があったので、買おうと入ったのだが、最低でも5枚以上を束ねたものしかなく、冷蔵庫には収める余地が無いので断念した。相棒は深層海水で作った塩などを求めていた。遠い昔につながる場所に立ち寄ることが出来て、いい時間だった。

   

鎌倉から身を拘束されて佐渡へ配流となった日蓮上人が、この松ケ崎に上陸して、最初の夜を過ごしたのがこの欅の下だったとのこと。この樹は2代目との説もあるとかだが、かなりの大木で弱った枝は入られて防腐の手当てがなされていた。

その後は昼食に何か魚でも食べられる所はないかと車を進めたのだが、海岸線の集落の中には店など皆無で、赤泊という新潟県の寺泊港との船の便の発着する港に期待して行ったのだが、食事OKの看板を掲げる店はあっても皆営業はしておらず、看板に偽りありだった。やむなく小木まで行ってしまおうと向かう。12時少し過ぎに小木港について、車を駐車場に入れる。さすがにこの場所では開店休業というようなことはなく、港近くに寿司屋を見つけて入ることにした。久しぶりにちらし寿司を食したが、美味かった。酒があればもっといいのにと思ったけど、まだ宿を決めていないのだから飲むわけにはゆかない。

そのあと、車を港近くの駐車場に移して、今日はここで一夜を過ごすことにした。カンカン照りの暑さで、もうこれ以上動き回るのは身体によくないと判断した次第。近くにトイレもあり、店や交番などもあり、泊るには道の駅よりも安全かもしれない。確か、9年前もここに泊ったような気がする。小木港も直江津とつながるフェリーの発着場があり、丁度今は新造船の「あかね」が出航前の準備の最中だった。腹が膨れると目の皮が弛むというのは健康な証であり、これはしっかり守らなければならない。ということで、それから2時間ほど午睡を楽しむ。相棒はどこかへ出かけて行ったようだけど、自分が起き出す頃には下のソファで眠っていた。風があるので凌ぎやすいのだが、直射日光は厳しくて、暑さはジワリと膨らんでくる。夕刻までしばらく車を出たり入ったりしながら過ごすこととなった。

  

小木⇔直江津間に就航の佐渡汽船新造船の「あかね」新潟⇔両津就航の船に比べてスピード等の性能には格段の差があるようだ。今度は直江津から乗ってみたいものだと思った。

日が落ちると涼しくなって、又付近の喧騒も消え去った。今夜は野菜炒めに焼きそばのメニュー。不足しがちの野菜の補給には向いているメニューである。調理は、麺類は自分が殆ど担当することになってしまっており、今夜もそれに従うこととなった。一杯やった後はホンの少しTVを見て、直ぐに寝床の中へ。相棒はその後もTVを見続けていたようである。旅に出ると、眠り優先である。TVなどどうでもよい。

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