山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

天神で迷子

2012-10-14 04:07:32 | 旅のエッセー

 天神という地名は全国至る所に存在するけど、ここで天神というのは、福岡市の天神である。福岡をご存じでない方でも、博多と天神の地名くらいはご存じなのではないかと思う。黒田藩支配下だった福岡は、街の中央を流れる那珂川の中州を挟んで、東側が町人の町博多であり、武士の方は西側が住まいとなっていたとのこと。天神はその武士の住まいの一角であった。西鉄の福岡駅ターミナルを中心に、ビジネスの中心街となって発展して久しい。

 その天神を8年ぶりで訪れたのだが、迷ってしまったという話。迷ってはいけない筈の者が迷ったというのには、恥ずかしさもあるけど、怖さもある。というのも福岡は30数年前に7年間も住んだ町で、その頃天神にあった事務所には4年間も通っていたのであり、幾ら時間が経ったとは言え、又そのスピードが速いと言っても、迷うなんて、自分にとってそんなはずがない出来事だったからである。

 九州の旅は8年ぶりのことで、福岡は東区の香椎に住む知人宅近くから、バスを利用して天神に向かった。各駅停車のバスに乗ったのは、高速道などを行くよりも、昔を思い出しながら福岡の街の様子が判るのではないかと思ったからである。しかし、実際バスに乗ってみると、記憶の中では確かに此処にあった建物や店などが、消え失せて全く変わっており、只ひたすらにあれよあれよと移り変わる車窓を驚き眺めるばかりだった。1時間近く掛かって終点の天神のバス停に着いたのだが、しばらくそこがどこなのかが解らなかった。目印になるものが消えうせ、変わり果ててしまっていると思った。暫く周辺を眺め、とりあえず少し歩きだして、ようやく自分の居る場所を知り得たのだった。

 8年ぶりといっても、前回は天神の方へは立ち寄らなかったので、自分は十数年ぶり、家内は30数年ぶりということになる。30数年前の福岡は、現在の西鉄福岡ターミナルは、まだ着工すらしていなかったように思う。往時の天神の交差点の角には地元の老舗百貨店が店を構えており、博多の方の老舗と覇を競っている感じがあったのだが、今はそれらの土地は、中央から進出した店舗で埋まってしまっている。もはや昔の福岡の街の面影は、遠い過去となってしまっている感じがした。

 不動産屋を訪ねる所用があって、あらかじめ天神のその住所等も調べておいたので、直ぐに見つかるはずと思っていた。アポイントの時間には少し早すぎるので、時間調整のつもりでわざとゆっくり昼食を摂ったりしていたのだった。ところが、時間近くになってそこへ向かうと、どこなのかさっぱり判らない。どうやら目的のビルの近くにいるらしいのは判るのだけど、当てにしていた目印が見当たらないのだ。ネットの地図で調べたメモは、さっぱり役立たなかった。約束の時間に遅れそうになり、やむを得ず電話をかけて場所を確認して、ようやく間に合ったという惨敗ぶりだった。

天神の表通りを一筋裏に入ると、雑居ビルが群れ連なっており、それらの中から目的の建物を探すというのは、初めての来訪者にはかなり難しいものだなと、改めて思った。いつも何か新しくなっている福岡のこのエリアでは、自分の様な者は、明らかに新参の田舎者に過ぎない、と念を押されたような気がした。

 それにしても大都市の変貌というのは凄まじいものだと思う。そこに住み、通い慣れている者の目には、その変貌の速さも性質もあまり感じられないのは、新幹線や航空機に乗って、車内や機内を見ている人たちと同じことであろう。しかし、外部にあってそれを見ている者からは、目前の電車や飛行機は、矢の様な速さですっ飛んでゆくのである。福岡という大都市に呑み込まれている人たちにとって、この変貌はどんな意味を持っているのだろうか。

 時々思うのだけど、現代人はどうしてそれほど急いで変化を求めなければならないのか、明日が今日と同じであってなぜいけないのか。一体誰がこの世を引っ張り、それほどに変化を求めているのか知らないけど、百年前の過去と現在が少しもつながっているようには思えないのである。化け物的な狂奔的なスピードで、人類はこれから先どこへ向かおうとしているのか。今の世の在り方は、人類の歴史に幸福や安心をもたらすのではなく、むしろその反対の状況を招来しているのではないかと思えて仕方がないのである。

 三十数年前の記憶にすがって訪れた天神だったが、そこで迷子になったという事実は、自分にとって衝撃的だった。しかし、それ以上に、世の中がこんなに急激に変貌してしまっていいのだろうか、という大いなる疑問をも覚えたのだった。現実の世の中が、後戻りすることはないのかも知れないけど、その変化のスピードがあまりにも早すぎると、自分が今どこに居るのか、どこへ行ったらいいのかさえも判らない、そのような迷子が溢れ出てくるような気がしてならないのである。高齢化社会は、過去だけにしかアクセスできない迷子が溢れ出る時代ではないか。そんな風にも思ってみた。

自分が迷ったからといって、そんなオーバーなことをいう奴があるか、とのお叱りを受けるかもしれない。だけど、迷子ばかりの世の中なんてもんは、そりゃあ、世の中と呼ぶべきものじゃねえ、というのが開き直った自分の心情なのである。     (2012年 九州の旅から 福岡県)

 

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