重要文化的景観という文化財が遠野市には2カ所ある。国の指定では遠野市の土淵・山口集落と荒川高原牧場の二つをまとめた形となっているけど、実際は地理的にかなりかけ離れており、これは景観なのだからやはり2カ所というべきではないかと思う。ま、土淵・山口集落の景観は、遠野物語に書かれているような日本の山国の片田舎の暮らしぶりを今に伝えるという意味で価値があるということなのだろうけど、荒川高原牧場の場合は、土淵・山口のような集落の景観とは違ってその名の通り牧場というのであるから、少しくその意味や価値が異なるのだろうと思う。
そのようなことを考えながら荒川高原牧場に向かったのだった。牧場といえば、今の時代、山間地にはどこにでもある当たり前の景色であり、北海道などへ行けば普通の風景なのだけど、この荒川高原牧場がそれらと異なるのは、今の時代ではなく、江戸時代もしくはそれ以前の時代から営まれてきた牧場であるということだ。今の時代の感覚で表記すれば同じ牧場ということになってしまうのだろうけど、より正確にいうなら荒川高原馬飼い場という様なことになるのかも知れない。
荒川高原牧場は、遠野の市街からは北の方に20kmほど離れた附馬牛(つけもうし)という地区にある標高1000m近い高原にある放牧地である。ここがなぜ重要文化的景観に指定されているのかといえば、往時のこの地区の暮らしぶりの中で、重要な産業であった馬の生産(=馬産)のための共同放牧地としてこの牧場がその昔の原形を今に残しているからということらしい。
この牧場に関しては「夏山冬里」ということばがある。これはこの地における古来からの馬の飼い方を表象するもので、夏は馬を山に放して飼い、冬は里の我が家の曲がり屋の一角に入れて飼うというやり方を意味している。この地方では、馬という動物が人々の暮らしに必要欠くべからざる存在として、深く係わっていたということがわかる。柳田国男の遠野物語に出てくる「オシラサマ」というのも馬に関わる神様として有名だ。そのことをちょっと引用して紹介したい。
「昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。又一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。ある夜父はこのことを知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこのことを知り、驚き悲しみて桑の木に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧を持って後ろより馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に上り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。云々」(遠野物語六九)
馬と人間の娘が夫婦になるというところから神が生まれたということであるから、その昔からこの地方では人と馬とが深い関わりを持っていたということなのであろう。祀られているオシラサマは、真に素朴なもので、桑の木の枝を10センチほど切ってそれに布を巻きつけて作った、ちょうどテルテル坊主のような形をしており、外国人からは偶像崇拝の見本のように思われてしまうかも知れない。しかし、この地方ではその昔から真面目な信仰の対象として、馬と人間の信頼関係を深める神として崇敬されてきたということなのであろう。
さて、その荒笠高原牧場へ行って見ることにした。地図とナビに従って県道160号線を猿ケ石川に沿って北上する。途中に遠野ふるさと村という小さなテーマパークのような施設があり、それを通り越してしばらく行くと、道が別れているのを右手の方に向かう。その辺りから猿ケ石川は荒川となり、高原の方に続いているようだった。その荒川に沿った道をしばらく登ってゆくと右手に荒川駒形神社というのがあった。駒形というからには馬を祀っている神社に違いないと思った。帰りに寄ることにして更に坂を上る。道が狭くなるのではないかと心配したが、それは無用だった。新緑がまぶしく輝き、荒川の急流が音を立てて渓谷を作っていた。途中断続的に小さな集落があり、随分山奥まで人が暮らしているのだなと思った。しかし20分ほど走るとさすがにもう人家は無くなって、ただ森の中を道が続いているだけだった。
間もなく牧場の入口近くにある牧舎らしき建物のある場所に到着した。まだ放牧の時期が始まっていないらしく誰もいなかった。その近くに重要文化的景観についての説明板があり、そこには次のように書かれていた。
「『遠野物語』の原点を成す「馬産」に関する代表的な景観地で、早池峰山周辺の準平原に広がる牧草地を利用しつつ地域の基幹産業として継続的に営まれてきた「夏山冬里方式」に基づく独特の放牧に関する土地利用のあり方を示している」
とにかく牧場を見てみようと、少し先まで車を進める。直ぐ右手にようやく春を迎えて草が伸び始めた牧場が広がっていた。牧場は案内板によると1,416haの広さだという。今自分たちが住んでいる守谷市は約36㎢であるから、この牧場は守谷市の約40%の広さがあるということになる。牧場に沿って造られている道を少し先の方まで行くと、北の方に早池峰山と思しき大きな山が、山頂付近に雪を冠して鎮座していた。
荒川高原牧場の景観。正面北方の冠雪の山が早池峰山。その少し下に見える緑地は、この草地につながる同じ牧場の一部である。山の背を曲がって続いている。
牧場は高原というのか、山稜の背のような少し平らになっている場所に作られていて、ちょうど山中に開発されたゴルフ場のような感じで草を囲っていた。細長く続いており、北海道のように山全体を丸坊主にして牧場化しているのとは違って、山は山として大事にされている印象を受けた。
その昔は夏になるとここに馬を連れて来て放牧したとはわかっているけど、どのようにして此処まで連れて来たのかなと思った。今ならトラックなどに載せてくるのだろうけど、そのようなものがなかった時代には、春の終わり頃の農事が終わった後、馬と一緒にここに歩いてやって来て、しばしの別れを惜しんだのかもしれない。そして、秋には恋人に会いに行くような気分で、愛馬を迎えに行ったのではないか。そのようなことを想像すると、何だか微笑ましい気分になった。夏の間の牧場の管理はどのようなやり方だったのだろうか。あれこれと思いを巡らすと、いろいろな疑問が芽生えて来て楽しい。
馬たちはこのような澄んだ空気の高原に放たれて、大いなる開放感を味わったのではないか。冬の里での飼い主と一緒の暮らしもそれなりの嬉しさを味わえる時間だったのかも知れないけど、それ以上にこの高原牧場での暮らしは、馬たちにとっては快適な天国だったように思われる。早池峰の山の連なりを遠望しながら、じっくりと夏山の放牧のことを想った。牧場の全てを見るには時間不足で、ほんの一部しか見られなかったのだけど、重要文化的景観をたっぷりと味わうことが出来て満足した。
5月半ばの今の季節は、まだ桜の花が残っていて、此処にも東北を代表する大山桜が牧場の脇に何本かその艶やかな姿を見せてくれて嬉しかった。又、牧場の脇の森の中には、山菜の王様といわれるタラの木が何本もあって、幾つもの芽を出していた。それらを少々分けて頂き、思わぬ山の恵みを享受したのだった。今の時代、この牧場での放牧が馬なのかそれとも牛なのか、誰もいないので訊ねることもできなかったけど、恐らく牛に変わっているのかなと思った。
帰りには、駒形神社に参詣して、改めて往時の人々の暮らしの中で、馬という生きものがいかに大事にされていたかということを確認したのだった。遠野は街中近くよりも、やっぱりこの夏山の馬飼い場に来て見ないと、その昔をイメ―ジするのは難しいのではないかと思った。最後に荒川駒形神社の解説板(遠野市作成)を紹介したい。
左は荒川駒形神社の拝殿前の鳥居。木製で幾重にも鳥居が建てられているが、半ば朽ちかけているのがあるのは、もはや馬産とは縁が薄れた人間のご都合主義の表れなのか。右は奉納されている木製の白馬。こちらも大事にされているようには見えなかった。
駒形神社:馬の守護神で通称「荒川のお駒さま」といわれた。昔この地は小国・宮古方面への通路で、交通量も多かったが、この神社の前を通る時は、乗馬者は必ず下馬して礼拝して通ったといわれる。阿曽沼氏時代に馬の神として蒼前駒形明神を祭ったのが始まりといわれる。伝説によれば、東禅寺の無尽和尚が祈願したところ、早池峰山神霊が白馬に乗って現れた。無尽和尚がそのお姿を書き写そうとしたが、写し終わらぬうちに消え去り、白馬の片耳を写しかねてしまった。この片耳の欠けたままの馬の絵を祭ったのが、この駒形神社であるという。又阿曽沼氏の牧場があった頃、ここに年老いた白馬いて、ここを他の馬が通りかかると戦いをいどんで、追い返して通さなかったので、この白馬を祭神の化身といったとも伝えられる。附馬牛町には、この他にも大出早池峰神社境内、小出地区、桑原地区、荒屋地区、和野地区に駒形神社があるが、これは往時の馬産の隆盛と馬産信仰との関係を物語るものである。(遠野市)
(2014年東北春旅より)
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