このところ腹が立つ出来事ばかりが続いています。何もかも蹴飛ばしたくなるような気分で毎日を過ごさなければならないのは、老人になった証なのだとは思いますが、同じような心模様の人は必ずしも老人ばかりではないような気もしています。しかし、今日の話題は老人の、まあ、妄話としてお聞き頂きたいと思っています。
最初の話は、先日発生した笹子トンネルのコンクリート製天井板の落下事故です。これは単なる腹立ちなどではなく、黒い恐怖入りの、この国の近い将来のインフラを揺るがす前兆をも暗示している恐るべき内容の事故でした。朝TVを見ていたら、いきなりこのニュースが飛び込んできました。笹子トンネルは何度も通っており、関東エリアに住む者ならば、誰でも知っている場所の一つだと思います。その昔、笹子峠は甲州街道の難所として、旅人を苦しめた場所の一つでしたが、明治になって鉄道の敷設に合わせてトンネルが掘られ、往時は日本最長のものと名をなしていたのでした。今回トンネル事故は、鉄道ではなく、高速道のために新しく掘られたものであり、中央高速道では、恵那山トンネルに次いで2番目の長さであるとのこと。上り下りとも夫々4700mを超える距離があり、実際に走ってみても長さは十二分に味わえる感じがします。そのトンネルの入り口(実際は出口だった)から煙らしきものが吹き出しているのが画面に映っており、辛うじて脱出してきたというNHKの記者の方の半分押しつぶされた車を見た時はぞっとしました。よくもまあ、このような状態で通過して来られたものだ。まさに危機一髪でした。生命事なきを得て良かったなあと思いました。同時に、後続車もあったことだろうから、それらの方たちは大丈夫なのだろうかと、心配は膨らむばかりでした。結果的には、9名の方が亡くなられたとか。真にお気の毒で、ご家族や身近な方への同情を禁じ得ません。心からご冥福を祈念いたします。
この事故は他人ごととは思えません。私の場合は、現在年間2万kmほどのくるま旅の走行をしていますが、この中にはかなりの距離のトンネル走行が含まれていると思います。日本国は四囲を海に囲まれた山国であり、大小数多くのトンネルがあります。一体幾つほどの数となるのか見当もつきませんが、どこへ旅するにしてもトンネルなしで目的地に着けるということは、長距離の旅ではあり得ないことです。ということは、必然的に今回のような事故に遭遇する危険性を孕んでいるということです。
トンネルというのは、地中深く閉ざされた空間であり、それはもしかしたらピラミッドの内部よりも暗い、永遠に陽の届かない場所なのです。そのような場所に、旅をしている車が、ある日突然閉じ込められたとしたら、これはもう想像するだけでも発狂するほどの恐ろしい出来事です。恐らく事故に遭遇したなら、一瞬にしてあの世行きでしょうから、発狂する暇もないということなのでしょうけど、いずれにしてもその恐怖感には計り知れないものがあります。
今回の事故で腹が立つのは、明らかに人災だからです。人災というのは、人間の驕(おご)りがもたらすものです。驕りというのは、生きものとしての謙虚さを失った状態を指します。私自身を含めて、人間という動物は、常に驕りに誑(たぶら)かされ易い存在のようです。驕りの前提には比較(=比べる)という無意識的な心の働きがあります。何かと、誰かと比べて自己の優位性を確信した時、或いは誰も為し得ないようなことを成し遂げたと思いこんだ(錯覚を含む)時、人はたちまち驕りや思い上がりの天辺(てっぺん)への道を辿り始めるのです。今回の事故は、道路を経営管理する企業の、トップから第一戦に至る全員の、安全に対する驕りと思い上がりに起因するものであり、特に上層部の責任は重大だと思います。
世の中に存在する全てのものにとって、とりわけて生きものにとって、「安全」というのは生き長らえるための絶対的な必要要件です。安全は、先ず自分自身でそれを確保することが第一ですが、それには限界があり、特に外部要件や環境については、それに直接係わる者が万全を期すことが求められます。誰がどう係わっているのかが不明なケースが多いこの頃の世界環境ですが、今回のトンネル事故に関しては、その責任は明らかです。トンネルを造った人とその後のメンテナンスを担当する人です。勿論これは個人の問題ではなく、組織やその運営を絡めた経営のあり方に係わること全てを含めて明らかにするという問題です。これからそれらの事柄が明らかにされてゆくことと思いますが、最終目的は責任を問うことだけではなく、二度と、どのような種類の事故であっても決して起こさないということです。そのための未然防止の体制をつくりあげ、着実に運営することを忘れないようにして欲しいと思います。
今回の事故の直接・間接の原因は追って明らかにされると思いますが、もう一つの腹立ちの源は、国のインフラ整備の基本姿勢が龍頭蛇尾的になっているということです。政治家の立ち居振る舞いを見ていると、とにかく格好良いことを言いたがり、為したがる傾向があり、新しいものを造ることにばかり大声をあげ、その関係者の関心を引き票田を増やそうとする、そのような安っぽい人物ばかりが目立ちます。ま、必要なことは大いにやるべきだと思いますが、忘れてならないのは、新しいものばかりでは世の中は成り立って行かないということです。社会インフラのような必要不可欠のものは、永遠に新しい状態を持ち続けなければならないということなのです。しかし、社会インフラの現実は、初めは鳴り物入りの威勢の良さであっても、その後は手当の大切さを放棄している感があります。
ものごと全てには初めと終わりがあります。道路もトンネルも橋も或いは電気やガスなどのエネルギー関係諸設備、上下水道など人々が生きるための基盤となるもの全てに共通していることは、初めと終わりがあるということであり、インフラ故にどの項目も終わらせられないということです。昭和の戦後の復興初期を経過して、昭和40年代以降、我が国のインフラ整備は急速に進められ、ある意味では華やかにそのスタートを切ったのですが、それから半世紀近くの時間が流れて、それら諸インフラの多くが終わりへのスピードを速めて来ています。いわゆる経年劣化という奴ですが、このスピードは、もし何の対策もしなければ加速度的に早まるものが多いのではないかと思います。今回のトンネル事故は、経年劣化を問題にするには些か早いような気もするのですが、その要素も含まれているとするならば、多くの現在のインフラに係わる重大な課題を提示する象徴的な出来事のように思えます。
今、我が国では私のような高齢者世代を中心とする医療制度や社会保障制度のあり方やその費用の確保等に関しての議論が大きく取り上げられていますが、ここに新たにインフラに対する維持改善のための費用が追加されることになるわけです。これをケチっていると、今回のような事故の犠牲者が何人も出てくることになります。突然橋が落下して車が何台も川に落ち込んだ、高速道の高架が小規模震度の地震で落下して走行中の車が下のビルに突っ込んだ、だとか或いは又もや大地震で原発が制御不能になったとか等々、全て可能の範囲内の出来事のように思います。そしてこれらを防ぐには膨大な費用がかかることになります。思えば、高齢者に対する社会保障費というのは、人間の経年劣化に対する社会的手当てのことなのかもしれません。現実の世の中は、人間だけではない、インフラという物に対する社会的手当ても求められているのです。
ところが、インフラについては、初めばかりが強調されていて、その後の手当てに関しては為政サイドでの取り組みが、場当たり的というのか、長期的なメンテナンス計画があるのやら、重視しているのやらさっぱりわからず、現実は問題が発生する度に騒がれ、いつの間にかうやむやになって、同じ出来事を繰り返している感じがするのです。この頃は、その昔もそうだったのか、政治家や官僚連中は面倒なことは先送りすることばかり考え、当面の楽を求める傾向が強く、口先でごまかす技術を磨くことに腐心しているかの感がします。
腹を立ててばかりいても仕方ないのですが、糠に釘の愚痴ではあっても、せめて一言吐かずにはいられない心境なのです。このトンネル事故という事件に併せて、実はタイトルにあるように、もう一つ腹の立つ出来事があったのですが、長くなりますので、その繰り言は次回にしたいと思います。やはり同根の経年劣化に係わることです。経年劣化というのは、我が身自身に係わることなので、腹が立つのかもしれません。今日はここまで。
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