山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

'11北海道くるま旅( 第21日)

2011-07-03 05:40:20 | その他
《今日の予定》
終日別海町ふれあいキャンプ場に滞在


《昨日のレポート》
朝方はかなり涼しかった。雲が多く今日は北海道らしい気候が味わえるかなと思った。昨日に引き続き遠出は避けて、ここでグータラな一日を過ごす考えだ。ということは特段書くこともないということ。

それで、今日はゴミ処理のことを少し書いてみたい。くるま旅にゴミ処理は不可欠の重要課題なのだが、実はこのテーマはくるま旅なんぞの問題ではなく、国家的或いは全世界的・全人類的な問題なのである。少しオーバーな書き出しとなったけど、実際各市町村自治体に於けるゴミ処理対応予算は、相当な割合を占めている。このことに無関心な人は意外と多いのではないか。
私もその一人だったのだが、くるま旅を始めて以来、旅先でのゴミ処理に悩まされてきて、この問題の深刻さに気づかされたのである。現在ゴミ処理は地方自治体に任されており、市町村によってその取り扱いは区々である。分別がやたらに細かく厳しい所があるかと思えば、これで良いのかと疑問を抱くほどのラフな所もある。実にバラバラなのだ。そして一番の疑問は分別されたゴミが実際どのように処理されているのかという疑念である。市町民に厳しい分別を強いながら、引き取ったゴミを業者に丸投げし、その業者が東南アジアの国に運んで棄てているなどという話を聞くと、怒り心頭に発するのである。
私はゴミというのは我々の暮らしの負の遺産だと思っている。大量生産大量消費の現代には、それらの営みの結果大量の負の遺産としてのゴミが発生する。発生したゴミはきちんとしたルールのもとに処理をしないと、環境に重大な影響を及ぼすことは自明のことである。
しかし現実の世の中は、生産・販売・消費には目の色を変えても、その後のゴミ処理はただ厄介者としか思っていない向きがある。何年か前までは公園などの公共施設にあったゴミ箱は、今は殆ど見当たらなくなり、最近では自動販売機にさえも空き缶回収箱が無い所もある。こぞって大衆のマナー低下などを責めて、ゴミ箱を撤去したりしているけど、コマーシャリズムのエゴとしか思えない。何かか狂い始めているとしか思えない。
私はゴミ処理問題は又、国家的な対応を求められるテーマだと思っている。しかし、国を運んでいる政治家達にはその様な問題意識は無いようだ。現状の体制を改め国として、人間の営みの負の遺産に対処する法律をはじめとするシステムの再構築が提案されでもって良いのではないかと思っているけど、その様な話題はまだ一度も耳にしたことがない。ま、今の世はそんなことの前に直ぐにも手をつけなければならない課題が山積しているということなのであろう。
こんな事をオーバーにいうのは、例えば現状も未収束の原発事故の最大の問題点が、使用済み燃料としての核物質(=ゴミ)の処理方法が科学的には安全性を証明出来ていないということだ。地中深く埋めてしまえば大丈夫だなどというのは、簡便法の一つに過ぎず、問題の本質的な解決にはならない。だから原発に対する不信は拭えないのである。つまり、原発は安全・安心の持てるゴミ処理のシステムが未完成のまま、電力という美味しい部分だけを先取りしているだけなのだ。
このように欲望を充足させることばかりに現を抜かし、その結果として残るものに対して無関心の傾向は今の世に充満している。くるま旅をする様になって回を重ねるに連れて、益々ことの重大性と現状の深刻さを感じている。
国家というものが、或いは人間社会というものがどれくらい完成に近づいているのか、それを測る物差しは、コンピューターや利便性がもてはやされる世界ではなく、それら使用済みのあらゆるゴミが、その後に生きてゆかなければならない人たちのために何の弊害も危険ももたらさない、ゴミ処理のシステムがどれほど構築され、機能していることではないか。
テントの中で、この地で使われているゴミ袋に、分別の難しさを感じながらゴミを仕分けしながら、あれこれとこの大きな問題のことを思ったのだった。よそ者の持ち込むゴミは一片たりとも受け入れないなどと公言した知事さんが居るとかいないとか。今の日本は、まあ、こうやってゴミを処理できるだけで満足しなければならないレベルの国なのだと、しみじみ思ったのである。
(ヒマなので老人の大げさなグチは、止まることを知らないのであります)
コメント
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