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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

大崎善生『将棋の子』講談社

2022年03月06日 | 本・新聞小説
自由、民主、人権、平和・・・人間が尊いものとして追求してきたものに、過去の独裁主義で対向し核までちらつかせて地球を震いあがらせる・・・。国外に避難する120万の人の列、これが21世紀の今起こっている現実です。
政治家、学者、知識人、マスメディア、市民が自由に発言し、誰もが情報を得るのは当然の日本ですが、情報が遮断されているロシア。プーチンさん支持が62%だって。正しい情報を届けたい!!!
過去に日本にもあったけど、情報操作は怖い!正確な情報が届かないと正常な判断ができず、とんでもない方向に取り返しのつかない所に行ってしまいます。


頭の片隅にずっと居座っている不安。逃れるには本がいい・・・。開いたのは、借りた本の二冊目、また将棋関連のノンフィクションです。

これも息をもつかず一気読み。棋士になるための「奨励会」には、無知な私にもそれほど心を掴む凄みがあったのです。

奨励会は、帯の『奨励会の厳しさは、産まれた川に命をかけて帰っていく鮭の姿に似ているかもしれない。6級という稚魚は一斉に川に放たれ、よろよろとそれでも懸命に海を目指して泳ぎ始める』『そんな彼らがまず出くわすのが21歳までに初段という関門である。そこをくぐり抜けた者だけが、自分が生まれた川に戻り遡上することを許され』て、さらに「26歳」という数字の非常な鉄の壁に立ち向かう、というのが端的に表しています。

プロローグは雑誌掲載の小さなモノクロ写真の解説から始まります。
『一人のセーター姿の青年ががっくりと首を落として座りこんでいる。場所は東京将棋会館4階の廊下の片隅である』。
奨励会の過酷な三段リーグの最終局に敗れ、26年の将棋生活に決別を覚悟した中座誠(ちゅうざまこと)は靴箱の前で帰り支度を始めます。そのときに「他の二人が負ければ、中座さんに上がり目があります」と声をかける人が・・・。
実際その通りになり、中座の全く予期していない四段昇段が確定したのです。その現実に腰が砕けその場にへたりこんだ姿がそのモノクロ写真だったのです。
『わずか一時間前までは挫折感や後悔や、容赦なく襲いかかってくる様々な感情を封じ込めようと懸命に唇を噛んでいた青年が実は勝ち残っていた、それはあまりにも残酷で皮肉でそれゆえに神々しい瞬間の映像』で、多くの人の心を震わせました。

「勝つも地獄、負けるも地獄」と呻吟した棋士がいました。仲間は苦労を共有しているだけに、勝っても心底喜べない苦しさ、それは紛れもなく奨励会三段リーグの厳しさの現実を的確に表現したものでしょう。


雑誌「将棋世界」の、長年編集長を務めた著者は、どうしても書かなければならないことがあると退職を決めます。
それは将棋棋士を夢見ながら志半ばで去っていった奨励会退会者たちを書くことでした。それがこの『将棋の子』になったのです。

本の裏カバーに『奨励会・・・。そこは将棋の天才たちがプロ棋士を目指して、しのぎを削る"トラの穴"だ。しかし大多数はわずか一手の差で、青春のすべてをかけた夢が叶わず退会していく。途方もない挫折の先に待ち構えている厳しく非常な生活を、優しく温かく見守る感動の一冊。』の紹介文があります。
第23回講談社ノンフィクション賞受賞作です。やはり将棋の『聖の青春』の著作もあります。


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地獄の淵の「奨励会」の三段リーグ・・・

2022年03月04日 | 本・新聞小説
将棋には全く無縁な私はメディアを賑わす羽生さんや藤井さんの華やかな表の知識があるくらいでした。
サークルの仲間からこの本が回ってきて「将棋はわからないから」とパスしかかったときに、先にこの本を呼んだ友人の「面白かった!何回も涙が出る場面があった」という感想に、「それでは・・・」と未知の分野の開拓のつもりで借りた本です。
ところが面白くて止められず、ちょうど一日中雨ということもあり一気に読んでしまいました。

まず「奨励会」。これには昇段規定があり、一段ずつ登って三段になると、鬼の三段リーグが待っています。30~40人が半年かけて18局のリーグ戦を戦います。その内上位2名のみが四段に昇段し「棋士」になります。26歳が年齢の壁。このとき四段になれない場合は「退会」という鉄の掟があります。

★瀬川晶司『泣き虫しょったんの奇跡』講談社文庫
(カバーが2枚もかけてあったのは、映画化されたからです)

瀬川棋士(6段)の激動の半生記です。物語の始まりは、61年ぶりに実現したプロ編入試験将棋の第1局に敗れた時の記者会見から始まります。1局に敗れただけで30社の記者会見がなぜ行われたか・・・。この答えは、その数十年前から始まった著者のプロ棋士への困難な長い長い道のりの物語にあります。

将棋の世界は間口は狭くともあまりにも奥が深くて、裏表紙に書かれた紹介文をそのまま載せておきます。
『あきらめなければ夢は必ずかなう!中学選手権で優勝した男は、年齢制限のため26歳にしてプロ棋士の夢を断たれた。将棋と縁を切った彼はいかにして絶望から這い上がり、将棋を再開したか。アマ名人優勝など活躍後、彼を支えた人たちと一緒に将棋界に起こした奇跡。生い立ちから決戦まで秘話満載』

とても心に残っっているのは、5年生の時の担任・苅間澤大子先生との出会いです。それまでの4年間は自分の意志で何かをしたこともなく、成績も冴えない自信のない子でした。40歳過ぎの先生が生徒の自己紹介の翌日には全員のあだ名と名前を覚えていたこと、実験や算数の分数計算に用意されたお菓子は最後に生徒の胃に収まったこと、職員会議で問題になっても全く気にしないこと、保護者向けの学級通信を毎日発行したこと、どんな目立たない子でも必ず通信のエピソードに登場させたこと、等など5年生の子供は先生の公平さをちゃんと見抜いていました。

些細なことでもとにかく子供をほめたこと。これがどんなに子供に意欲を持たせるか、瀬川少年(セガショ-)は5年生で密度の高い1年間を送ることになります。
苦手な作文なのに先生に「才能があるね」と褒められて、突然熱い血が通い始めた感覚を持ちます。作品をほめられた僕が生まれて初めて「書きたい」と思って書いた作文が家族をも驚かせるほどの力作になったのです。

不思議なことに詩や作文をほめられた僕は、ほかのことに対してもやる気が出てきたのです。ある時先生はモジリアニの絵を逆さまにして模写させたのです。クラスで一番よく描けていたのが僕でした。
『逆さまの世界では、普段の絵の得手不得手は関係なくなり、ただ絵をよく見ることが求められた。そしていまにして思えば、何かをよく見ることに、僕はこの頃から少し長けていたのかもしれない』。国語だけでなく少年の成績は飛躍的に上がりました。

ある日、突然にクラスに将棋ブームが起こり、クラスでも強い方になっていきます。先生は『セガショーが強いのは、将棋に熱中しているからよね。勉強じゃなくてもいい、運動じゃなくてもいいのよ。どんなことでもいいから、それに熱中して、上手になったことがある人は、いつか必ずそのことが役に立つ日がきます。そういう人は間違いなく幸せをつかむことができます』『だからね、セガショー。君はそのままでいいの。今のままで十分。だいじょうぶよ』

僕が2学期中のホームルームの目標に将棋大会を提案したものの、女子はほとんど将棋ができないのです。『何とかしなさい、セガショー』の先生の要求に、放課後の教室で駒コマの動かし方から教え続け、遂に全員参加の将棋大会にこぎつけました。もうリーダーシップのある瀬川君・・・になっていました。先生の、目にも見えない子供の小さな才能の芽を見逃さず、掘り起こし、誉める、誉める、誉めることの大切さが人間を育てたのです。

父親から『好きなことを一生懸命にやることはいいことだ。だけど運動もした方ががいいぞ』の一言。4年生までの僕ならそのまま聞き流していたはず。しかし「僕、これから毎日2キロはしる」と宣言し実行します。将棋に夢中になってからの僕は、4年生の時の僕とはまるで別人のようになりました。

『5年生の一年間で、子供も親も、大きく変わったということだ。たったの一年だったとは思えないほど、苅間澤先生と過ごした一年間はたくさんのものを与えてくれた。それは僕だけでなく、あの教室にいた子どもたちすべてが感じていることなのだろう』。

奨励会の3段リーグに失敗して、鉄の掟の26歳という年齢制限で将棋界から引退に追い込まれた僕。それから大学、会社勤め…、なのにまた性懲りもなくプロ入りの試験将棋を行う嘆願書を出し、マスコミをも巻き込む挑戦をしました。その1局目がいきなり負けてしまった……。
その重圧に押しつぶされそうになっていた僕を救ってくれたのが、舞い込んだ一枚のドラえもんのハガキでした。ドラえもんの絵の上に書かれた文字は『だいじょうぶ。きっと良い道が拓かれます』。差出人はひらがなで「かりまさわひろこ」。
『嗚咽でのどが震え、文面が涙で見えなくなる。それをぬぐっては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。そうだった。すべてはこの人のおかげだった』。
25年ぶりに、先生は僕が大好きだったドラえもんにメッセージを託し、励ましてくれたのです。「だいじょうぶ。きっと良い道が拓かれます」と。
『先生に教えられたことをすっかり忘れていた。いつの間にか僕は僕でなくなっていた。僕は僕に戻ろう。僕は僕でいいのだから。心にできた固い岩を解かしきるまで、僕は泣き続けた』。

25年ぶりに先生からもらう「だいじょうぶ」。『何が何でも勝たねばならないという強迫観念にとらわれ、自分を見失っていた僕は、少学5年生の時と同じように、すべてを肯定されることで救われた』のです。『僕は僕のままでいい。試験がどんな結果になろうとも、それが僕にとって「よい道」なのだ。先生はそう言っているのだと思った』。

『先生はハガキに自分の住所を書いていなかった。返事の気遣いをさせまいとする配慮からだろう。それでも何とかして夢がかなったことを報告したい。そして心からお礼をいいたいと思っている』

後日譚として、最後のほうに苅間澤先生のことが出てきました。プロ試験に合格した後、先生にお礼の手紙を出したけど返事がなかったとのこと。代わって出版社の人が訪ねると『瀬川君にとって私は過去の人。そんなことに気を遣うより、ほかにやるべきことがあるはずです。夢を手にしたあとは、夢を本物にするためのつらさや苦しさがあるのだから』と。
実は先生も、35歳で教師になられたとのこと。結婚しても夢があきらめられず、30歳過ぎて大学に通いはじめ、35歳で教員試験に合格したのだそうです。
『先生は毎日、夢をかなえた喜びを感じながら教壇に立っていたのでしょう。だから先生の授業は、僕の心にいつまでも残っているのでしょう。そんな先生に出会えた僕は、幸せです』。

これだけでなく、息詰まるような「奨励会」の競争と友情。幼馴染の将棋のライバルとの交流等、どれをとっても迫力があります。湿っぽくなく駒を指すときのような乾いた響きの感じがするおすすめの1冊です。

読んだ感想はまず、文章が分かりやすく上手いと言うことです。てらいがなく、直球と言うところかな。グローブにバシッと快音が響く感じです。
ちょっと長いブログになったのは、久しぶりにパソコン入力したからです。


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ダイヤモンドダスト

2022年02月09日 | 本・新聞小説
郵便局から貰ったカレンダー、2月は微かな明かりの中にキラキラ光る雪?氷?の美しい結晶です。
(撮影者:江別文京台郵便局長 齊藤暢一)

よく見ると「ダイヤモンドダスト」と書いてあります。それは私のイメージとは少し違っていました。こんなに固まっているの・・・。

ダイヤモンドダスト、この言葉をはじめて知ったのは30数年前。芥川賞受賞の南木佳士『ダイヤモンドダスト』でした。
すごく感動したのは覚えているけどストーリーはおぼろ。もう一度読みたいけど、すでに手元にはないので早速Amazonへ。

看護士の主人公は子供の頃母親を亡くし、若い妻も癌の再発で亡くし、脳卒中の父親と幼い息子の3人で暮らしています。
場所は軽井沢辺り。農地は別荘地に買い上げられ、町は豊かになり様相も変わってきますが、根底にある自然の美しさが通奏低音の様に感じ取れます。

ある時、ベトナム戦争を経験した宣教師が癌末期で入院してきます。同じ頃父親も倒れて同室になります。心に傷を持つ二人はいつの間にか心が通うようになっていました。この場面は、透明感のある悲しみがじんわり襲ってきて胸がつまりました。医師である著者の描写力に負うものでしょうか。

主人公は死に向かう人を静かに受け入れ、脳卒中の父親に寄り添います。
幼なじみとの出会いもあり胸をときめかしドラマがあるかな・・・と期待しますが、感動や盛り上りがあるわけでなく、何事もなく静かに終わります。
その最後の場面に出てくるのがキラキラ光輝くダイヤモンドダストでした。

読み終えて、静かな感動を覚えます。この感じが大好きです。中勘助『銀の匙』のような。


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大河ドラマ「鎌倉殿」の人間模様

2021年12月31日 | 本・新聞小説
来年から始まる大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
この辺りは私には一番苦手な時代。東国の武士団の名前が沢山出てくるし、源氏も北条も似た名前が多いし、1人の人物でも複数の名前が出てきます。
だから予習をしておかないと1年も続くドラマを楽しめない・・・。せっかくのそうそうたる出演者だし。

購入したのは2冊。

永井路子『炎環』はさすが直木賞受賞作だけあって文学的。読みごたえがありました。
ちょうど大学生のとき、この作品で永井さんが直木賞を受賞され、記念講演に来校されました。先輩とはいえ当時は時代的に興味がなかったので読んでもみませんでした。瀬戸内晴美さんも飛びつくほどではなかったけど有吉佐和子さんには共感していましたが。

人物相関図に書き込んでいくと人間関係、都、東国の相克などがわかってきます。読んでいくうちに、イメージ的に小栗旬の義時はピッタリだと思えました。
年末でベッドの中でしか読む時間がないのですが、放送前に読めてよかったです。次の一冊は年を越します。

🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️
ブリをいただき、ブリしゃぶにしたら、塩分はつゆに使う醤油大さじ1ですみました。鍋物は意外に塩分が少なくて、いろいろ利用できそうです。

お節料理の黒豆が7時間煮て柔らかーくでき上がりました。待ちきれずに早速食べています。




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雪の結晶はすでに江戸時代に見つけられていた・・・

2021年12月07日 | 本・新聞小説
雪の結晶といえば中谷宇吉郎博士・・・と小学生の頃からずーっとそう思い込んでいました。
ところが西條奈加『千両飾り』を読んでいるときに、飾り職人が雪花紋を意匠に平戸細工で香炉を仕上げたことが出てきました。江戸後期に「雪花図説」がすでに市井にも出回っていたのです。
ということは中谷博士より先に雪の結晶を見つけた人がいた…ということ。すぐ解けてしまう雪をどんなふうにして観察したのか・・・、ごく素朴な疑問が出て調べてみました。

   
  (土井利位「雪花図説」 ネットよりお借りしました。)
「雪花図説」は、当時の老中首座にあった古河藩4代藩主土井利位(としつら)が、オランダから輸入された顕微鏡を使って雪の結晶を観察しスケッチしてまとめた本だそうです。当時の環境を考えると雪が解けないうちに観察するのは相当な困難だったでしょう。
この図説のおかげで着物や道具に雪の結晶のデザインが取り入れられたそうで、美しい雪の模様は江戸の人々に夢と喜びを与えたのです。
ちなみに、中谷博士は雪の結晶の研究を続け、世界で初となる人工雪の製作に成功したことが功績だったのです。

雪つながりで南木佳士『ダイヤモンドダスト』を思い出しました。30年ほど前に芥川賞を受けた作品です。ダイヤモンドダストという美しい響きは九州人には胸に響く言葉ですが、まだその現象を見たことはありません。本の内容はほとんど忘れたのでまた本を購入して読んでいるところです。
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安部龍太郎『ふりさけ見れば』(日経新聞小説) その②  69~127

2021年12月05日 | 本・新聞小説
8世紀前半、唐の蘇州に16数年振りに日本からの遣唐使が上陸しました。前回の残留組の仲麻呂も吉備真備も井真成も、帰路の遣唐使船に乗り込み日本に帰国する予定でした。
ところが井真成の突然の死に疑問を持った真備と仲麻呂が真相を知るべく動き始め、その二人も危険な目に遭遇します。何らかの力が働いている・・・。
遣唐使らの話から、前回の留学僧・弁正が天皇の立場を守るために唐に残ったこと、井真成が彼の下で動いていたことを突き止めました。しかし井真成が殺されたことで慌てた弁正は身の危険を感じ行方不明になったままです。

そんな時に帰国の準備をしていた仲麻呂に遣唐大使・多治比広成からこのまま唐に残って弁正に協力することを命じられます。それは秘書省の秘府に入り「日本の史書を編纂するために、唐の史書に日本のことがどう記されているかを確かめる」という厳しい任務でした。要するにスパイです。

これより歴史を遡ること40年。白村江で唐・新羅の連合軍に破れた日本は唐との正常化を目指して使者を派遣します。しかし唐は交渉の前提として4つの条件を示します。
二度の遣唐使派遣で、律令制度制定、仏教を国家の理念にする、条坊制の都を作ることはクリアできました。4つめの国史を明らかにし、天皇の由緒の正しさを示すことは、「古事記」更に「日本書紀」を編纂してもクリアできません。
肝心なのは「天皇はどこから日本に渡り、大和に朝廷をきずいたか」を明確にすることでした。
それについては唐の史書に詳細な記述があります。それと一致せず明確な根拠も示せない場合は、日本の王権の正当性が否定され屈服させられるのです。
唐の史書は重要機密で相当の地位を得ないと自由に見られません。そのためには朝廷での出世の機会を貪欲に掴むこと、スパイであることを悟られぬように処世術を身に着けることを身を削ぐ思いで決意します。


仲麻呂は日本国と天皇家の正統性を守るためとあらばやむを得ないと16年ぶりの帰国を断腸の思いで断念します。
こうして、仲麻呂を残して、吉備真備と玄昉、仲麻呂の従者・羽栗吉麻呂らは16年ぶりに帰国を果たしました。仲麻呂の双子の子供・翼と翔を吉麻呂の子供として日本に向かわせました。彼らはのちの遣唐使として活躍します。(辻原登『翔べ麒麟』では吉麻呂の子供として登場します)

717年に遣唐使として入唐した仲麻呂は、王維とともに21歳の時に科挙の難関の進士科に合格。同期の絆は兄弟のように強く結ばれお互いに支えあっていました。仲麻呂は左補闕、王維は宰相・張九齢の書記に。
仲麻呂の順調な出世の陰には張九齢の指導と比護があったのです。仲麻呂の妻は張九齢の姪でもありました。


朝廷内は進士科出身の進士派と、家柄で立身した恩蔭派が対立していました。進士派を率いるのが張九齢で、恩蔭派が李林甫。李林甫に宦官・高力士が接近し張九齢と対立する姿勢を強めている頃でした。


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澤田瞳子『若冲』

2021年11月26日 | 本・新聞小説
米国の日本美術の収集家ジョー・プライス氏は600点を収集。その中には若冲《鳥獣花木図屏風》も入っています。(数年前そのコレクションの中の190点が出光美術館に売却されこの屏風も入っています)
これとそっくりの《樹下鳥獣図屏風》が静岡県立美術館に収蔵されており、プライスコレクションの《鳥獣花木図屏風》が模倣作ではないかと佐藤康宏氏が声を上げました。辻惟雄氏は真っ向からこれに反論して一貫して2点とも若冲作だと。どちらにしてもすばらしい屏風には変わりありません。

この二つの屏風を取り上げた本が、友人から回ってきた澤田瞳子《若冲》でした。今までのイメージと全く違ってとても引き込まれたという感想でした。

若冲の人生を軸にした創作物語ですが、美術史家でもある澤田さんは時代考証も当時の風俗の描写もすばらしく格調高い文章には隙がありません。
円山応挙、蕪村、池野大雅、谷文晁など同時代の文化人がずらりと登場するので内容が深まります。

文中に出てくる絵の主なものを編集して、次に本を回す人が見やすいようにプリントしておきました。
上段が静岡県立美術館蔵《樹下鳥獣図屏風》、下段がプライスコレクション《鳥獣花木図屏風》です。

この本では若冲が描いたものを下段の《鳥獣花木図屏風》とし、上段が市川君圭(若冲の妻の弟)が描いたものとなっています。
君圭は姉(自殺した若冲の妻)の死で若冲に対して激しい憎悪の念を抱いていました。憎しみの熾火を燃えたぎらせて絵筆を持ち、若冲の絵をそっくり引き写して偽絵を描き続けていたのです。
己への罰として絵筆を執る若冲と、そんな義兄を恐ろしいまでの画技で追い立て続ける君圭。君圭の絵はすべて若冲の絵、そして君圭の無言の圧力を撥ね除けるために描き続けた若冲の絵は同時に君圭の絵。
君圭の描いた鳥獣図の偽絵を若冲は自分が描いたものだと言い放ち、それは自分は君圭に負けたのだと思い知ります。

君圭の鳥獣図はすべて若冲がこれまで描いた絵からの引き写しですが、若冲は自分しか描けない絵、鳥も獣も今までに描いたことがないはるか遠くの国の生きとし生けるものたちを描く決心をします。
屏風絵の構図は君圭のものと同じでも、晴れやかな命を歌い上げる緑豊かな国に遊ぶ不可思議な生き物を画面いっぱいに絵描きます。自分しか描けない草木国土がこぞって晴れやかな命を礼賛する浄土を描くのだ・・・。これが鳥獣花木図屏風です。

このように人物配置と心の葛藤の緻密な計算で二つの絵を若冲作とした沢田さんのすごさ、この文学的解釈に大拍手です。
これは《若冲》の一部分です。とてもここに書き表せるものではありません。文中に多数出てくる絵をパソコンで確認しながら納得しながら読む・・・、疲れますがズシリと心に何かを残してくれました。  

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『寺田洋祐 俳画集  蕪村・一茶に遊ぶ』 新典社

2021年11月15日 | 本・新聞小説
あるイラスト関係のブログだったと思いますが、皿に盛られた「イワシの干物」が紹介されていました。
そのイワシの表情が干物ながらホントに温かくどこかユーモラスで、イワシに人格を感じてぐぃと心を掴まれてしまいました。紹介されているブログに飛んだら、そこがテラさんの「筆と鉛筆 気ままな旅」でした。

日展の入賞回数も多く、油彩、水彩画、デッサン、俳画など丁寧にアップされ、それを楽しみに拝見していました。
絵に添えられたひと言コメントが、テラさんの謙虚な生き方を表しておりファンになって数年。ところが3年前に惜しくも病で亡くなられたのです。

亡くなられる直前まで、一茶、蕪村の俳画を間が空くことなく精力的にアップされました。
哀愁のある場面でも、どこかクスッと笑えるような一口会話を入れたり、表情も深刻でなく人生は楽しむものだ・・・と、ずいぶん心を励まされました。

この俳画が本にまとめられたらいいのに・・・・とずっと考えていた矢先、この春に遺族の方が出版されたことを知りました。その情報を得たことも偶然で、アマゾンですぐ買い求めました。

表紙の絵も、どこかちょっとひょうきんでテラさんの人格を表しているようだし、紙も上質紙、持ち運びも気にならない小型サイズ、まさにイメージしていた通りの本でとても嬉しくなりました。巻末には近世誹諧研究者、玉城司氏の解説もあります。
パッと開いたところを見るのもいいし、季節ごとにまとめてあるので季節を選んでもいいし、とにかくクスッと笑えてほのぼのと、気分を解放してくれて楽しめます。
亡くなった後にもこんな素敵なものを残して人の心を温かくする、素晴らしいことです。

ひとつの句からイメージを広げて一枚の絵にする、それも哀愁とひょうきんさを織り混ぜて、見る人に力と喜びを与える。テラさんの人生観が表れているのだと思います。
ブログの最後の一枚まで、ひょうきんさを失わないで生きることの楽しみが感じられました。
テラさんの人生は最後まで充実していたのだと感じ入りました。

この出版を見た天上のテラさんは、はにかみながら微苦笑の俳画を描かれることでしょう。目に見えるようです。



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安部龍太郎 『ふりさけ見れば』 その①

2021年10月09日 | 本・新聞小説
「ふりさけ見れば」、この7文字で阿倍仲麻呂の哀切が思い浮かぶほど国民的フレーズになっています。これが2ヶ月前にスタートした日経連載小説のタイトルになっています。

10月1日掲載の❮あらすじ❯
『遣唐使の阿倍仲麻呂に帰国の時が迫る中、同期の井真成の変死体が見つかる。他殺を疑う仲麻呂は真相の究明に乗り出す』
これに付随して『QRコードを読み取ると小説をもっと楽しむための「副読本」が読めます』と粋な計らいがありました。連載も日々進化!
 
QRコードから読み出した資料の一部、人物相関図です。これがあるだけで内容がすっきりと読み進めます。人物の名前と関係を記憶するのが不得意な私には欠かせません。
ここに出てくる「井真成」は仲麻呂と同期の実在の留学生で、今まで詳細が分かリませんでした。
それが、彼の墓誌が2004年に西安の建築現場で発見され話題を呼びました。その碑文の拓本が2005年九州国立博物館の展覧会に展示され、異国の地で懸命に生きた命がやっと日の目を見たと痛く感動したものです。

だからこの小説で名前が出た時はとても感激しました。小説に登場するのは初めてじゃないかなぁ・・・。現在のストーリーは、36才で不自然に命を落とした井真成の真の原因を知ろうと、吉備真備と仲麻呂が奔走しているところです。

★下記にウィキペディアからの解説を引用します★

『墓誌には、日本人留学生の井真成が、開元22年(西暦734年)正月■(朔~十,廿のいずれか)日に死去したので、「尚衣奉御」の官職を追贈されたなどと記されている。これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、他国も含めた唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例である[2]。現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である[3]。』



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葉室麟『霖雨』

2021年10月04日 | 本・新聞小説
以前から気にかかっていた広瀬淡窓ですが、イメージするだけで堅そうな漢文の世界です。(-_-;)。
そんなところに『霖雨』を見つけました。葉室燐作品なら読み易そう。


《カバーは川合玉堂の「松竹梅」の一部。タイトルと絵がぴったりです》

舞台は大分県の天領日田。廣瀬淡窓が主宰する咸宜園は年齢・学歴・身分を問わない(三奪)で個人の能力を生かすという画期的なもので全国から入門者が集まりました。

元塾生が関係した大塩平八郎の乱を描き、平八郎の動と淡窓の静の考え方を対比させていることで、私の理解が深まりました。
学んだことを暴力に訴えてでも実行する平八郎。性急に人を傷つけるのはどんな大義名分でも許されない、人を生かそうとする道でしか世の中は変えられぬとする淡窓。淡窓は「人の心を動かすのは、つまるところ人をいかしたいとの想い」で人材育成を明確にしていきます。

咸宜園に容赦なく介入してくる大官の軋轢に苦しみますが、弟・九兵衞の惜しみない援助に助けられます。
九兵衛は大名貸しや地元の公共事業を手掛け、我欲を捨てた思慮深い商人です。二人はそれぞれの業を生かしながら支え合います。
淡窓と九兵衞の二人主人公と言ってもいいほど、それぞれの道をぶれなく生きていく様には清涼感があり心を洗われます。ここが葉室さんの手腕でしょうか。
史実を元にした話ですが、入門者にいわくつきの義理の姉弟が登場してやきもきしますが、それにも誠実に誠意を持って対応する淡窓と九兵衞の姿勢に心落ち着きます。

「霖雨」とはしとしと降り続く雨のこと。しかし「止まない雨はない」。
目次の設定も、ストーリーに合わせて「底霧」「雨、蕭々」「銀の雨」「小夜時雨」「春驟雨」「降りしきる」「朝霧」「恵み雨」「雨、上がる」「天が泣く」と実に見事でした。

地図で見れば日田はすぐ近く。しかし咸宜園にはまだ行っていません。淡窓の名前が出る度に、同じ九州人として誇らしく思っていましたが、詳しいことは知りませんでした。葉室さんの本のお陰でやっと少し知ることができました。






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葉室燐『乾山晩愁』

2021年09月25日 | 本・新聞小説
カバーの絵は尾形乾山「花籠図」です。自分の号を京兆逸民、紫翠、深省、3つも縦長に書いています。福岡市美術館蔵の逸品です。
先の西條奈加『ごんたくれ』で江戸時代の京都画壇が面白く、その続きに類するものを探していた時にこれを見つけました。


『乾山晩愁』は葉室麟のデビュー作で歴史文学賞を受賞しています。5編が収録され乾山、永徳、等伯、雪信、英一蝶を書いたものです。

「雪信花匂」の雪信は女性。探幽の姪(国)と高弟・久隅守景の間に生まれた娘で、その画才に幼いころから探幽が目をかけていました。
狩野派は、探幽の鍜治橋狩野家、次弟・尚信の木挽町狩野家、末弟・安信の中橋狩野家(惣領家)の三家に分かれますが、猜疑心、野心、嫉妬中から生まれるすばらしい絵に芸術家の生きざまが見えてきます。
女絵師雪信の恋を貫いた半生を縦軸に、狩野派三家を把握できて狩野派を立体的にとらえることができました。

床に就いた晩年の探幽が雪(雪信)に、狩野派を存続させていくためには「わしが描き残したものを必死で描き写すだけの絵師になろう。・・・・しかし絵師とは命がけで気ままをするものだ。他人の描いた絵をなぞったところで面白くはない。わしは守景(雪信の父)が狩野派とは違う絵を描くことを知りながら黙ってみておった。わしも守景と同じように面白く書いてみたかった。しかしわしには狩野の絵を離れることは許されていなかった」と心を打ち明けます。権力と創作の間で大きく揺れ動く芸術家の心を見た思いです。
安部龍太郎「等伯」を先に読んでいたので、「等伯慕影」で見せる等伯の意外な一面に戸惑いました。後世に残る大きな仕事にするためにはあらゆる手段で権力に取り入らなければならない・・・、これも芸術家の真実でしょう。

写真の久住守景「納涼図屏風」は国宝。探幽の高弟でありながら狩野派とは違って俗っぽくて、構図も暮らしの描き方も庶民的。私の好きな絵です。

「乾山晩愁」は★★★★+です。葉室麟は福岡県出身で近隣にちなんだ小説もたくさん手掛けています。文体も内容もしっとりとして激しいところがなく善意に包まれている感じがします。藤沢周平を彷彿とさせます。
「蜩ノ記」では直木賞も受賞されましたが、惜しいことに4年前に亡くなられました。

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小鹿田(おんた)焼き と『リーチ先生』原田マハ著

2021年09月11日 | 本・新聞小説
アマゾンの送料を無料にするために追加した『リーチ先生』、これがなかなか読みごたえのある本でした。
史実に基づいたフィクションというだけあって、交流する芸術家、文学者が続々と登場してきます。読者が歴史のパノラマを見ているような、そして読み終えたときに気持ちがあたたかくなるストーリーでした。

小鹿田焼き「飛び鉋」の小さな小鉢、バーナードリーチ、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉、民芸運動、「白樺」。これら箇条書きの私の知識が、600ページの物語となって一つにまとまりました。すっきり!


時は1954年、大分県小鹿田(おんた)の焼き物の集落。著名なバーナード・リーチがここに3週間の滞在をするところから始まります。村挙げてのてんやわんやの歓迎のうちに16歳の見習工・沖高市が世話係に選ばれます。
リーチはこの少年に温かく接し、言葉は通じなくても二人は心に通じ合うものを感じます。そして彼の父・沖亀乃介が40数年前にリーチの人生に深くかかわっていたことがわかります。
高市・亀乃介親子は架空の人物ですが、現実感たっぷりにリーチと絡み合います。この名もなき陶工の登場無くしては、生き生きと人間味溢れるリーチの人生に迫ることはできなかったでしょう。本物らしいフィクションの親子・・・ここがマハさんのうまさでしょう。

次章からは場所を東京に移し、年代も1909年に遡ります。沖亀乃介と高村光太郎との運命的な出会いと、高村光雲邸に寄宿してからリーチと出会うシーンがすがすがしく語られます。
リーチは日本の伝統的な陶芸に出会い衝撃を受け、土と炎の世界に深く引き込まれ安孫子に移住。柳宗悦の庭に「安孫子窯」を築きます。登り窯での焼成に試行錯誤する日々がリアルに描かれ、陶芸に疎い私でもしっかりイメージすることができました。

この頃富本憲吉、浜田庄司と出会い「アーツ・アンド・クラフツ」運動や手仕事の大切さを議論するうちに「用の美」に目覚め、日本とイギリスの懸け橋になろうとイギリスに帰ることを決意します。日本にいたのはおよそ11年間でした。

1920年イギリスに帰国。リーチの懇願で浜田庄司と亀乃介が同行します。日本で学んだ陶芸技術を生かすべく工房「リーチ・ポタリー」を建設、浜田庄司の力を得て登り窯も築きました。
自分の目指す焼き物に最適の土を求めて彷徨うさまに、窯を開くための生みの苦しみを見た思いです。
「一生リーチ先生についていく」と心に決めていた亀乃介ですが、別れは突然にやってきました。
日本で関東大震災が起きたのです。ここでは3年の月日が流れていました。揺れ動く亀乃介にリーチ先生は「君はもう立派な芸術家だ。芸術家として独り立ちをしていかねばならない。ここにいては独自の表現を見つけることはできない。君は一人じゃない。どこに君がいようと、私は、君とともにある」と強く背中を押しました。どんな時でも亀乃介をあたたかく見守り励まし続けてくれたリーチ先生、芸術と師弟愛の心温まるシーンです。

プロローグの部分で亀乃介が帰国してからの足跡が記されています。リーチとの手紙の遣り取りが断続的に続いていたのです。理想の土、面白い焼き物を求めて、日本全土を巡ったこと。新しい陶土や窯に出合うたび、きっとワクワクして、楽しかったに違いなかったこと。高市は父を「高名な陶芸家ではなかったけれど、創ることの喜びを実感していたはずだ。そうだ、心底、陶芸を楽しんだ。そして幸せだったのだ」と追想します。

プロローグの1979年(昭和54年)。高市は、父の恩師でもあり自分の心のパートナーでもあるバーナードリーチに会うために、イギリスのリーチ・ポタリー訪れることを決心します。
父・亀乃介の遺言でもありましたが、リーチ先生に出会ったことをきっかけに高市の陶芸への道は一気に開きました。20代で数々の賞を獲得し、若くして陶芸家・沖高市は確たる地位を築いたのです。
少年の日のリーチとの出会いから25年。高市は陶芸の道をひたすら邁進しました。芸術の最も大切なことは「独自性(ユニークネス)」であることを求めて。
こうして高市は、やっとリーチに会う自信を持ち英国へ発ったのでした。

ろくろを回すリーチの後ろ姿に父の面影を重ねながら、高市は黙って見つめ続けていました。

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西條奈加『ごんたくれ』···芦雪と蕭白をモデルに

2021年09月07日 | 本・新聞小説
「ごんたくれ」とはごろつきや困り者という意味を持つとか。最初の数ページですっかり引きずり込まれた『ごんたくれ』です。


『丸いイボイボを描くことなく、簡素な筆遣いだけで蛸の足とわかる····』を読んですぐ、うつむいた蛸の墨絵が思い浮かびました。検索するとやはり長沢芦雪。文中では吉村胡雪となっています。
胡雪は初めて見た応挙の『氷図屏風』に身を粟立たせました。地色の塗られていない画面に簡素な線を走らせ、氷に入ったひびだけを横たわらせた絵···。これが胡雪が応挙入門のきっかけとなりました。
やがて胡雪は応挙の第一弟子に成長しますが、胡雪の個性が出始めて、大胆・抽象・突飛な構図は応挙からだんだん離れていきました。
しかし応挙はそれを疎んじることをせず「おまえの才だけは、おまえの手で伸ばしてやりなさい」と寛大でした
胡雪の喧嘩の相手が深山筝白(曽我蕭白)。会うたびに喧嘩になる二人ですが、絵師としてはお互いに認め合っています。ぶつかり合い、傷つき、苦悩の中から自分の世界を作り出していきますが、その道は交わることなくそれぞれの道を歩いていくという二人の「ごんたくれ」です。

二人を取り巻く円山応挙、伊藤若冲、池大雅、月渓(呉春)、与謝蕪村・・・たくさんの実在の絵師が登場し交錯します。京都画壇最盛期の画家たちの生き方を浮き彫りにした群像小説という感じです。

絵師と作品名が登場するたびに、検索しながら読み進むのはとても贅沢な楽しみです。
絵の説明の言葉が実に的確で、作品を検索して自分のイメージした絵と似ている時など、こんな「当たり」がまた嬉しくなります。

『ごんたくれ』は友人がオススメと郵送してくれた文庫本で、私には西條さんの作品は初めてでした。すごい作家に出会ったものだと興奮しました
検索したついでに、気になった絵を編集しました。これを見ながら返却する前にもう一度読もうと思っています。

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米本土を爆撃した日本人···って?

2021年09月03日 | 本・新聞小説
米国がアフガンからあっという間に撤退しました。アフガニスタンがこれからどうなっていくのか、民衆のおびえた表情と不安の映像には心を痛めるだけでなすすべがありません。タリバンと考え方の土台がまるで違っている日本も含めた諸外国の間にきちんとした対話ができるのかと不安が募ります。戦争でなく外交で・・・と願うしかありません。

アメリカは真珠湾攻撃は受けたものの、本土は外国からの爆撃を受けたことがない。例外に一度だけ日本軍の爆撃を受けた・・・と聞いたようなぼんやりとした記憶がありました。

時を経て、その話を書いた本が友達から送られて来ました。藤田信雄『わが米本土爆撃』です。
ノート27冊分に記録された日記や日誌をもとにして編集されたもので本人の名前で出版されています。


昭和17年、海軍軍令部から私(藤田)は、アメリカ西海岸に爆弾を落とし大森林の山火事を起こし焦燥地獄に陥れ、敵国民の戦意を阻喪させよという命令を受けます。それも潜水艦から飛び立つ小型の偵察機で。爆撃は成功。しかし現地では山火事どころか落雷にあって杉が割けた程度で作戦の成果はゼロ。戦中戦後その計画は長く秘密にされてきました。

米国では、戦後その戦果が広く知られるようになり、オレゴン州ブルッキングス市から「この勇気ある行動は敵ながら実に天晴れである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」として、昭和37年つつじ祭りのゲストに招待、大歓迎されます。

本の前半は飛行士としての戦争中の内容ですが、後半はしっかりと地に足をつけた紆余曲折の生き方に感銘を受けました。
荒廃の戦後、金物行商から身をおこし茨城県内でも名の知れた会社に発展させますが、息子に社長の座を譲って間もなく倒産。債権者から逃れるために家族はバラバラに暮らすことに。

昭和55年、現金収入を断たれた「私」は、鹿島海軍航空隊教官時代の教え子の会社で恥を忍んで運転手として働き始めます。齢70。給料13万円。「やり残した仕事」のために毎月3万円ずつ貯金、目標は100万円を心の支えに努力を重ね教官時代の能力を発揮して、工場長、取締役へと認められていきます。

昭和60年、目標達成の100万円でブルッキングスの高校生を筑波万博に招待するいとう念願をかなえます。ブルッキングス市民のあたたかい心に触れた恩返しでした。
昭和17年に自分に下された「あの命令」を忠実に実行したことによって始まった数奇なる人生に、ようやく一区切りをつけたのです。

平成4年、もう一度渡米してブルッキングスの爆弾を投下した山に登ります。
『日本軍爆弾落下地点。第二次世界大戦中、アメリカに落とされた唯一の爆弾』の看板の傍らに小さな苗木を植えました。
「50年かかった。やっとできましたよ。あの一本の苗木で、私が米本土に及ぼした被害の償いが・・・。これでかつての敵地に故郷を持つことのできる身になりました。私は本当に幸せ者です」

平成9年、「ブルッキングス名誉市民」の伝達の日に、入院先の病院で87歳の波瀾の人生に幕を下ろしました。

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さっぱりした和風のデザート「桜と日本酒のデザート」です。

ゼラチンでなく寒天、日本酒、牛乳、桜の塩漬けを使います。
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原田マハ『太陽の棘(とげ)』

2021年08月26日 | 本・新聞小説
福岡は四度目の緊急事態宣言の最中。コロナの暗ーいトンネルは一瞬出口らしきものが見え始めたと思うや、出口はまたどんどん遠のいています。暗闇の中で窒息しそうです。

そんな自粛中にと取り寄せた数冊の文庫本ですが、昼間は時間がとれなくてなかなか読めません。だから私の読書はベッドの中。仰向けで肘を支えにした姿勢はNGかも・・・、と眼科と整形外科で確かめたらOKでした。

その中の1冊がこの『太陽の棘(とげ)』。マハさんの本で心に残ったのは『ジヴェルニーの食卓』『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカ』で、それに衝撃と感動のこの本が加わりました。

実話に基づいた感動の物語です。
時は終戦直後の沖縄。琉球米軍の新米医師エドワードは、持ち込んだポンティアックで同僚とドライブするうちに、森の中に忽然と現れた「ニシムイ美術村」に行き着きます。
バラック同然の村は、激しい沖縄戦のあとに沖縄に戻った沖縄人芸術家たちの集まりでした。その代表がタイラです。
「彼らは画家だった。精神を病んだ兵士ではない。身も心も傷ついた市民でもない。セザンヌのごとく、ゴーギャンのごとく、誇り高き芸術家だった」
画家になりたかった医者エドワードと画家たちの奇跡のような出会いです。

メリカ人と沖縄人、勝者と敗者、持つものと持たざるもの、支配するものと支配されるもの。両者を分け隔てる現実よりもはるかに強い、たったひとつの共通するもの、言葉が通じなくてもアートを見る目と心です。

交流のなかで友情が芽生え、美しい沖縄の丘で一緒に絵筆を取るまでになりましたが、「沖縄」の画家の本当の苦しみを理解できず軋轢が生じてしばらく交流が途絶えることもありました。

画家たちはアメリカ将校向けのお土産の絵を売って生計を立てながら、独自の創作活動もし、その力が社会に認められていきます。

エドワードが沖縄にいたのは2年ほどですが、史実をもとに書かれた物語は濃密で、3か所ほど胸が詰まり目頭を熱くしました。

表紙の絵はタイラ(玉那覇正吉)が描いたエドワード(スタンレー・スタインバーグ)の肖像画です。スタンレー氏は沖縄で買い集めた絵をニシムイ・コレクションとしており、2009年に沖縄に里帰り展覧会が開催されました。これがマハさんの物語が動くきっかけになったそうです。

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タイラのモデルは玉那覇正吉氏。「ひめゆりの塔」設計、乙女像製作。後に琉球大学美術工芸科教授。
エドワードのモデルはサンフランシスコの精神科医スタンレー・スタインバーグ氏。
ニシムイ美術村の写真です。






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