新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

「マリインスキー歌劇場管弦楽団」 ゲルギエフ & 五嶋龍

2019年11月30日 | 音楽
3か月前に手に入れていた待望のチケット、今年の私のチケットの中では一番高かった!なのにグスグスしていたのでバルコニー席しか空いていませんでした。14年前にサンクトペテルブルグの本場でチケットが手に入らなかった残念さが、いまだに尾を引いている「マリインスキー」です。
ゲルギエフ&マリインスキー歌劇場管弦楽団は13年前に福岡で聴きました。五嶋龍も4年前にフランクのヴァイオリン・ソナタを聴いています。
今回はその組み合わせが絶妙で、しかもチャイコフスキーだったので狙っていました。    

最初は「管弦楽のための協奏曲第1番 ・・・お茶目なチャストゥーシカ」作曲はシチェドリン。
普通とはちょっと違って、舞台の後方に並ぶ沢山の打楽器にびっくり!いきなり不協和音で始まったけど、軽快でどこか心地よい。ソ連時代の作曲は力強く、土着的で、ユーモアがあって、歯切れよいテンポにすっかり魅了されました。終わり方が実に気持ちいい。余韻を引く音でなく、大音量で「ジャン!」と鳴らした後、余韻の音を消してスパッと終わらせる、あと腐れがない終わり方に胸がスカッ!その見事さに「おーっ」とざわめきと歓声があがりました。
私には打楽器再発見です。人間の本能に訴えかけるような曲でした。音楽はメロディだけでなく、リズムとテンポが大切なのがよーくわかりました。
ゲオルギエフの左手の掌を蝶々みたいにヒラヒラさせる指揮。その意味のあるヒラヒラがとてもいいのです。指揮棒は割り箸ほどの小さめ。

意外だったのは、作曲家シチェドリンが「世紀のマドンナ」プリセツカヤのご主人だったことでした。芸術家同士の夫婦だったのです。
以前に、世界的なバレリーナが引退する前にひと目、とゲストで出演したプリセツカヤを観に行ったことがあります。美しかったー!歳を重ねても舞姫でした。

チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」は五嶋龍演奏です。楽器は「ジュピター」。ずっと以前には「ジュピター」は樫本大進が使っていたような・・・。大好きな曲で、今回の演目に入っていたのも鑑賞する理由でした。

第1楽章でヴァイオリンが始まると決まって涙がこぼれます。哀愁に満ちて切ないほど美しいのです。
この章の演奏時間がかなり長く、しかも終わり方が最終章の最後の様な力強い終わり方をするので、それを勘違いしたお客さんから感動の拍手が(>д<)あーぁ、やっちゃったー!だめでしょー!
指揮者もヴァイオリニストも全身を使った演奏なので、ここで集中力を途切れさせないで第2楽章に入りたいはずです。演奏家の感情が害されないことを祈りました。
五嶋龍さんは戸惑ったように一瞬苦笑い😅。すぐに後ろを向いて次に移るためのヴァイオリンの弦を合わせていましたが、指揮者は・・・後ろ姿に拒否反応を感じてしまいました・・・。
途中の独奏ヴァイオリンの時にはステージの最前部に出てきて、オーケストラが静まったなかで、五嶋さんのヴァイオリンの超絶技巧が冴える世界が広がりました。40分弱の熱演でした。アンコール演奏は無し。あの熱演ではもう力は残っていないでしょう。

第2部は、ショスタコーヴィッチ「交響曲第5番ニ短調」
この曲はやはりコンサートで聞くべし!部屋で聴くにはあまりに壮大過ぎて、力強くてほとばしる情熱に圧倒されます。ここも打楽器が大活躍で、ソ連時代の有無を言わせない力強さを感じました。
第4楽章まであり、ずっと身を乗り出して(ほんとは身を乗り出して聴くのはNGなのですが後ろに席がなかったので)聴いていました。聴き終わって満足感と少し疲れも。
ゲルギエフは指揮台を使わずスコア無しで。前2曲はスコアをめくりながらの指揮でしたが、この曲に相当力を入れているのを感じました。
なぜか、指揮台にはコンサートマスターの女性バイオリニストが乗っかっていました。始めて見る不思議な光景でしたが、きっと意味があるのでしょう。

この日はアンコール演奏は無し。1階から3階まで満席1900席の割れるような拍手がありましたが、それを要求するのは申し訳ないほどに体力を使ったと思います。
ここで、海外では拍手だけでなくスタンディングオベイションで大いに盛り上がるところですが、日本のしかも地方の国民性とはいえ、この慎ましやかさには演奏家には物足りないでしょう。前方の特上席の人が立てば皆立つでょうが。後ろの方で立ってもあまり効果がないし・・・。

楽器の種類と数が今までとは違っていました。マリインスキー管弦楽団を入れ物として、かつてのソ連の力と芸術を閉じ込めて運んできた感じで、聴衆も大満足でした。
先月のコンサートに比べると年齢層が上がり、しかもきちんとスーツを着こなした男性客が多かった気がします。

バルコニー席は初めてだったけど「当たり」でした。斜め上からステージが俯瞰できて、各楽器の様子がよくわかります。演奏家の動きを見て、次はあの楽器が始まるなというのがわかります。オペラグラスで見ると、指揮者のスコアは細かい五線紙がびっしり書かれ、とても分厚かったです。
そうそう、前回より五嶋龍さんは一回り大きかった...。上から見下ろしたらラグビー選手みたいに胸板が厚く、色白のプリンスから「男性」に変身していました。

家に帰ってから、他の演奏家でしたが3曲をそれぞれ聴き直して余韻に浸りました。思い出に残るコンサートで大満足でした。
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伊集院静『ミチクサ先生』その③

2019年11月29日 | 本・新聞小説

2m以上もある皇帝ダリアは、茎の先端にびっしり蕾をつけるので頭が重たそう!花に気づかない人もいます。次々に開花して花は12月終わりまで咲き続けます。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

さて「ミチクサ先生」は78回を迎えどんどん面白くなってきました。
明治の新しい世の中は、『十年ひと昔というが、日本の歴史の中で、これほど目に見えて、街、市の風景、人々の姿が変わったのは初めてだった』というほどに目まぐるしく変わりました。
そのところを作者は市民の目で分かりやすく書いているので、政治史が先行しがちな明治の初期がとても身近に感じられます。明治の市井の生活、苦労のなかにもイキイキした息づかいが見えます。
政府の最重要課題、不平等条約の改正を念頭にキリスト教禁止の高札を下ろしたこと、太陰暦を採用したこととそれによる市民の混乱ぶりがあります。
日本でのキリスト教徒の弾圧は海外では野蛮人と非難され、また国際的な交渉の場では元号・陰暦では話が進まないという理由がありました。

武家社会が崩壊し生活に困窮した士族の反乱は西南の役に発展し、圧倒的な政府軍の勝利は軍備拡張と富国強兵の名実を与えてしまいました。

その間にさまざまな土地で、後の日本を代表する優秀な子供たちはきっちりと成長していました。

正岡子規。夏目漱石と同じ1867年、松山藩士の家に生まれた子規は6歳で父を亡くし、漢学者の祖父・大原観山から漢学を学び、祐筆だった叔父から書を習うという英才教育を受けます。松山中学に入学するも東京への憧れは絶ちがたく、中退して上京すると、持ち前の能力で直ぐ予備門に合格します。予備門は東京大学に入るための修業校なのです。旧藩主・久松家の給付生として奨学金を得て憧れの学生生活を始めました。
『皆が子規という若者の人柄に惚れ、何かにつけて子規のもとに集まった』と言われるほどの人物だったようです。

森鴎外。津和野藩の典医の家に生まれた鴎外は、6歳で論語・孟子を、7歳で四書を、8歳でオランダ語を学び『15歳以上の才能』と周囲を驚かせます。
西洋医学の重要性を考えた父は、10歳の鴎外を連れて上京し、鴎外は医学校本科に進みました。

夏目漱石。この小説の主人公・漱石は塩原家の養子になりますが、養父母不仲の冷たい空気の中で、蔵の中で掛け軸を見る密かな楽しみを見つけます。この経験は後の漱石の執筆に影響を与えます。
教育に熱心な実家の兄・大介はいち早く漱石の才能を見抜いて、学問の重要性を説きアドバイスしサポートしていきます。
漱石は20歳になる以前にさまざまな学校に入り「ミチクサ」しますが、これで色々な能力がついていきました。「夏目は英語ができる」と噂になるほどの力をつけて予備門の試験を一番で合格したのです。

優秀な若者が集まった予備門ではたくさんの出会いがありました。
漱石と子規の出会いは予備門の中です。漱石の寄席通いは実家の家風として子供の頃から。これが後の文学に大いに影響を与えました。
子規も、上方文化がいち早く入ってくる松山の風土でいろんなことに好奇心と興味を持ち、寄席にも馴染んでいました。漱石と寄席繋がりので出合いです。
子規の雑記帳には『夏目金之助君、秀才の人なり、その上、こころねやさしく、余のことを常に思ってくれる人である。余にとって金之助くんは、畏友なり』と記されています。お互いに相手の才能に敬意を払いながら、人間的にも評価していました。
子規はこの頃、日本に入ってきた野球に熱中しチームを作り毎日のようにグラウンドに出ていました。
予備門では同郷の親友秋山真之もいましたが、彼は後に経済事情で学問を断念し海軍兵学校へ入ります。

もうひとつの出合いは、漱石をして天下の秀才と言わしめた金沢出身の米山保三郎です。
漱石が建築科に進もうとしていたとき、米山は「君が言うような美的建築は今の我が国の技術では不可能だ。まったくもって無駄だ。それより文学をやりたまえ。文学なら何百年後、何千年後にも伝えられる大作もできる。それが新しい国家のためというものだ」という言葉に納得し深く感じるところがあり英文学に進むことになります。もし彼と出会わなかったら日本の文学界はかなり違っていたかも知れません。
子規は哲学科の米山の才能に恐れをなして、自分には無理だと哲学科に進むことを止めたというほどです。

今日から、明治論壇の雄・陸羯南の登場です。津軽の貧乏藩士の子で熱血漢。子規の叔父加藤恒忠(拓川)が羯南と親友の間柄で、子規の東京での後見人を頼んでいたのです。
やはり藩士の子弟は能力と横の繋がりに恵まれていた、根っからの庶民とは違うのだと実感しました。
連載が一年続くとして、まだまだ盛り上がってきそうです。「明治は遠くなりにけり」をぐいっと引っ張ってきた伊集院さん、分かりやすいストーリーを毎朝楽しみにしています。
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柿と紅い葉っぱ

2019年11月23日 | くらし
この時期いつも送ってくる柿。色づいた葉っぱも必ず入っている宅配便は友人からです。


1000本程ある柿の木の維持管理は専門家に委託して、その中の1本だけを自分専用に育てていると言うことです。
一度お宅を訪問した折りに、庭に続く耳納山麓のなだらかな柿山の見事さに感動しました。テレビでも、柿の葉の紅く色づいたみごとな秋の風景として放映されたことも。
「この作業ができるのは自分の元気な証と感謝」からと一筆箋が入っていました。と同時に同級生2名が鬼籍に入った情報も書き添えられていました。交遊関係が広いので、全国からの情報集積所にもなっているのです。

春先に3か月も入院したものの、経過は良好で東北の旅まで楽しんできたとか。素晴らしい回復力!
スリムな彼女は何度か大病を煩いながらも、その都度見事に回復しあっぱれです。朗報を聞くと心がぱっと晴れやかになります。

この柿が全国にいる友人に送られて、それぞれがふるさとの色づいた秋を偲び、彼女の細やかな心遣いに喜んでいることでしょう。
新鮮な柿、いただきまーす!
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いぶりがっこ + クリームチーズ

2019年11月21日 | 食・レシピ
以前くちこさんのブログで「いぶりがっこ」の情報を得ました。お土産にしたら喜ばれ、再度お土産を頼まれたそうです。

私も真似して、丸ごと1本を買い、スライスしてご飯に添えたけどいまいち・・・。でも巷では人気が高いようでどうにかして食べたい、と調べました。

クリームチーズと混ぜてクラッカーに乗せると相性抜群らしい。でもクラッカーがない、バゲットもない。見つけたのは大分銘菓の「やせうま」。
ちょっと大きすぎるけそれに乗せてみました。ほんのり甘いやせうまは、それが却って美味しさを増したようです。

ワインでなく紹興酒にしました。確かにお酒に合います。
明日は「台」になるものを色々変えてみます。
私が食べ方を知らなかっただけで、「いぶりがっこ」は期待通りにおいしくてよかった!
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静脈瘤血管硬化治療終了

2019年11月19日 | 健康・病気
夫の硬化治療は静脈に注射を1本だけした後、医療用タイツを一月あまり装着しておくという痛くも痒くもない治療ですが、その窮屈さの故に着脱が大変です。今日の1ヶ月後検診で無事卒業しました!
診察室から出てくる表情と指の輪のサインでうまくいったのがわかりました。今日の診察結果ではもう一回の追加治療の可能性もあったから、その解放感が明るい表情になったのでした。
「乾杯だ!美味しいものを食べよう」ということになり、ソラリア西鉄ホテルの17階でランチ。

地上から離れる分だけ、地上のレストランとは雰囲気も違います。ここでも最高齢???
ほとんどが女性で、メイン料理の他はバイキングの種類が豊富でおしゃべりとデザートでなかなか立ち上がる人がいないのはホテル泣かせでは?

テレビでもブログでも話題の「いぶりがっこ」、名前の素朴さが心をくすぐります。「みちのく夢プラザ」で買って来ました。



期待したけど、要するに大根を燻して漬け物にしているので、どうしてもソーセージっぽい。
人気があると言うことはこの味が好きな人が多いと言うことでしょう。
丸ごと一本買ったけど、漬け物としてでなくどうにか料理に使わないともったいない・・・。
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平野レミさんの涙

2019年11月18日 | テレビ番組
「こごナマ」の平野レミさん、底抜けに明るく自由奔放な料理が楽しく面白い番組です。以前に放送のレミさんの大根飯です。


レミさんがご主人の「わださん」を亡くされて、まだひと月も経たない番組で、視聴者からの励ましに対する感謝の手紙をアナウンサーが代読しました。

『先日、夫の和田誠が83歳で逝ってしまいました。私は今こうしてお料理の仕事をさせてもらっておりますが、きっかけを作ってくれたのは夫の和田さんでした。何でも好きなことをさせてくれたのも和田さんでした。和田さんには感謝しかありません。家では仕事の話をほとんどしない無口で静かな夫でしたが、私が仕事をすることに関してはいつも応援してくれました。だから私はこれからも天国の和田さんが美味しいよって言ってくれるお料理をどんどん作って、また元気に次の人生を楽しんでいきたいと思います。温かいメッセージをくださった皆様、本当にありがとうございました』
これを聞きながらレミさんは涙が止まりません。聞いてる方ももらい泣き。番組中に何度も涙ぐみ、ティッシュで拭いたり後ろ向きになったりと。泣くまいと必死に覚悟してきたのでしょうが、周囲の優しさにほっと心が緩んだのでしょう。
あの明るいレミさんの涙に、夫を亡くすことが、わかっていてもどんなにショックなことかを思わずにはいられませんでした。
レミさんはティッシュで涙をぬぐいつつ「あー嫌だ、ダメだ。こんなことになると思わなかったからねー」、と周囲と自分を励ますかのように「でもね、私思うの。100年か200年後には、ここにいる人全部さぁ、いなくなっているからね~。みんなそうなのよ!だから今を元気に生きましょうね!」と努めて明るく振舞ったのがすごく心に残りました。
レミさんはご主人のことを「わださん」と呼んで、過度のパフォーマンスの中にもご主人への敬意はずっと変わりませでした。

先だって夫と二人で他愛もない話をしているとき、話の流れで夫が「おれもあと5年のうちには形がつくだろうから」とさらっと言ったときに、がーんと打ちのめされ心が固まりました。自分達にそんな有限の形があるなんて考えもしない、いや考えたくないことでした。入院したこともなく、緑内障の目薬は使用しているものの歯も全部自分の歯。なのになぜ?
平均寿命は知ってるものの、自分達の寿命は10年単位ぐらいで考え、その10年はいつも10年から減ることはありません。「5年」とすぐそこの具体的な数字が衝撃的で涙がこぼれそうになり、言葉がうわずるのを必死でくい止めました。ショックでした・・・。
その夜布団を被って思いきり泣きました。その言葉を思いだす度に悲しくなります。

過ぎた春、夕日を浴びた後ろ姿の影に思わず息をのみました。「どこへ向かうの?」
この写真がずっと心に尾を引いていました。レミさんの涙を思い出して、そう、先は有限なんです・・・。

先ほどお風呂から出できたら、平均92歳のおばあちゃん3人が限界集落で明るく楽しく仲良くのんびりと暮らしているのが映し出されていました。
いい笑顔!いい表情!思わずこちらも顔がほころびました。
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『藤沢周平 残された手帳』 遠藤展子 文藝春秋

2019年11月18日 | 本・新聞小説
藤沢周平といえば、随分前にNHK「蝉しぐれ」を見ていました。義父を尊敬し信じて屈辱に耐える優しく強い男・文四郎を内野聖陽が演じます。内面の哀切を余すところなく演じ、余韻の残る素晴らしいテレビドラマだったのを覚えています。

他は「漆の実の実る国」を読んだくらいで、藤沢周平についてはこれくらいの認識しかありませんでした。

そこに友人から、この本「藤沢周平 遺された手帳」が回ってきたのです。



藤沢周平は死後4冊の手帳を遺していました。最初の結婚後の昭和38年から昭和51年までの記録です。
娘の遠藤展子はその手帳を見ながら『若い父の記憶をたどりながら、なぜ父が小説を書き続けたのか、私はどのように生まれ育てられたのか、触れておきたいと思うようになりました。そして、その辛い時期を乗り越え、現在の母と一緒になり、本格的に小説家として仕事をしていきますが、父の持つ「鬱屈」がどのように変化したのかを書き記しておこうと筆をとることにしました』というのがこの本の出版のきっかけです。

藤沢周平には昭和。38年2月に娘・展子が生まれますが、その8か月後妻悦子を癌で亡くします。幼子を抱え、「波のように淋しさが押し寄せる。狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならない」「生きているひとつひとつの行動に何の喜びもない。荒涼とした砂漠が私の前にある。そこへ私は歩き始める」とその苦悩は深く暗く、これが鬱屈の正体でした。
周りの手も借りながら乳飲み子の育児と家事と会社勤め。想像を絶する辛さ苦しさがありますが、亡き悦子のためにも小説を書こうと執筆活動は続けていました。
ここに出てくる「母」は藤沢が娘6歳の時に再婚した女性・和子で、賢い母とおっとりした娘はとてもうまくいっていたようで、なんの違和感もなく読めました。
そして藤沢は妻のサポートで執筆活動も軌道に乗り直木賞を受賞し作家として独立します。
毎月の複数の原稿の指定枚数と締め切りが細かに記されていて、作家の生活をハラハラしながらも、次々にストーリーをわきださせる能力に痛く感心させられました。

「成功しなかった人たちのことを書きたい」、「徹底して美文を削り落とす作業にかかろう。美文は鼻につくとどうしようもないほど嫌なものだ。いまどき、形容詞に憂身をやつ文士はいないだろうと思ったりする」と手帳に記されていますが、この言葉に藤沢周平の作家としての魂が集約されていると思いました。
確かに無駄がない文章で読みやすい小説と感じたのはここにあったのです。
駆け出しの頃にもかなりの執筆があり、刊行された本もたくさん知りました。歴史小説が好きで時代小説には興が引かれませんでしたが、今、藤沢作品のどれにしようかと思案中です。
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重たいテーマでした・・・『原爆を見た少年』後藤勝彌 講談社

2019年11月14日 | 本・新聞小説
友人から借りた本は、後藤勝彌「原爆を見た少年」上下巻、講談社出版です。
友人の知人で脳血管外科医の方が書かれた本が新聞に載り、それをお借りしました。


主人公は、医者として世界的にも活躍しているものの医療界に矛盾を感じ、社会的な問題、若者の教育に目覚めます。
若者の脳外科手術に成功し命を救いますが、家庭が崩壊し両親を亡くし心を閉ざした孤独な彼と向き合うことにより、彼を伴って生地の長崎に戻ります。ここまでが上巻。
長崎では、その特異な歴史(殉教と原爆)の中で若者は多くの思索の機会を持ちました。
被爆して生き残った人との出会いや、原爆投下に至る世界の動き、原爆投下後の状況、戦後処理の不透明さ、天正遣欧少年使節のこと、殉教のこと、なぜ鎖国に至ったかを、その場所を二人で巡りながら考えます。
そして400年の時空を越えて遣欧使節のローマに飛び、長崎の地下道では原爆の爆発寸前を見た少年に出会い、話は壮大にきめ細かに展開していきます。
太平洋戦争の原点を探り出すところも、歴史をずっと遡り、遣欧使節の少年が帰国した後にそのルネサンスの新しい知識が抹殺されたところに行き着きます。この考察はとても新鮮でした。

長崎での思索と体験の中から、若者は自分の頑なな殻を破り自分のやるべきことを見つけていきます。厳しさと愛を持って生き方を導いた医者は、若者の真の自立を見届けたそのときに暴漢に襲われ命を失います。若者の生き方に平和を託せる安心を得たかのように・・・。

かなり難解な本で、完全には理解できない部分も多々ありましたが、途中で放り出せない、目をそらせない何かがありました。現代史も表裏から考察し分かりやすく書かれています。

巻末の膨大な参考文献に著者の真摯な姿勢が見え、国内外での多忙な医療活動の隙間の時間に著作されたことに驚きを禁じ得ません。
「長崎に生まれ二つの偶然で被曝を免れた」著者だからこそ、長崎を客観的に冷静に見て、心情を理解し、心からの愛をもって書かれていると思いました。

そういえば、医者で作家という肩書きは、帚木蓬生、芥川賞の南木佳士、北杜夫もそうでした。多才ですね~。
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発火しました!ドライヤーが!

2019年11月12日 | くらし
ドライヤーとコードの繋ぎ目とプラグが熱くなることに気づいて、近々買い直そうと思っていた今日、ドライヤーを使用中にいきなりパッと発火!
瞬間的に何が起きたかわからず、思わず床に投げつけ、とっさにコンセントを抜きました。火は瞬間的で直ぐ消えていましたが、ほんとに怖かったです。
コードにショートした跡がありました。


安全に留意して、コードを本体にぐるぐる巻きにしたり、輪っか状に束ねたりしないように気を付けていましたが、使用中に前後左右に動かす度にコードがよじれて負荷がかかったのでしょうか。
コードが熱くなるというのは確かに異常。こんな場合は直ぐに処分すべきと認識しました。ドライヤーは高温になるから特に気を付けないと。

皇帝ダリアが一輪だけ咲きました。ちょっと貧相な「皇帝」ですが。


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ブログの妙! 嬉しかったこと。

2019年11月11日 | ブログ
先日北海道在住の「ブロ友さん」アップの「大根と豚バラの炒め煮」を作って自分のブログに載せ、そのお礼の気持ちをブログ上に書き添えました。というのもコメント欄が閉じられており、その方の目に入らなくても一言お礼が言いたかったからです。
勝手に「ブロ友さん」と書いたけど、私が一方的にそう思っているだけで、まさかその方(ケセランパサランさん)が私のブログを見られているとは、つゆ思っていませんでした。
昨日、タイトルが「福岡のtkgmztさん、ありがとうございます」のブログを目にした時には、思わず「えーっ!」と驚きました。
私からすると遥か見上げる知的なお仕事をされている女性で、まさか私のブログを見ていただいたとは信じられなかったからです。

私もコメント欄を閉じているので、お互いに間接的に気持ちを表明したみたいな・・・。
インターネットの無数のアクセスが飛び交う中で、こういう味のある繋がり方もあるのが嬉しく思います。
空中で火花を散らすとは聞きますが、空中でこんな素敵な結びつきがあるなんて、これ、まさにブログの妙と思わずにはいられません。

「ケセランパサランさん」は北欧に仕事を兼ねて一月ほど滞在される模様。旅行本では見られない旅行記を楽しみにしています。ブログはこちらです。https://blog.goo.ne.jp/hiranoumi

夕食はほぐし鮭とキノコのご飯、それに揚げ物は控えているからシュニッツェル。



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ベルリンの壁の欠片

2019年11月10日 | 歴史

11月9日はベルリンの壁が崩壊してから30年です。
30年前のあの夜、若者が壁の上でツルハシ⛏️を振り下ろして壁を壊す姿が全世界を駆け巡りました。熱い思いで見たのを忘れません。
「ベルリンの壁の欠片」はチェックポイント・チャーリーを訪れたときに買ったもので、「original」と銘打たれた、まさに自由と平和の象徴です。
ミュージアムでは壁を越えるための息詰まる写真が展示されており、まだ壁の存在を感じるかのように心が締め付けられました。

あの壁崩壊の時は、冷戦が終わり世の中はどんどんよくなっていくと希望持ちました。誰もが来るべき世界を明るく思い描きました。

そして今・・・・。世界は分断し勝手に動く様相を示し、見えない壁も見える壁も出現しました。地球が身もだえしています。

せめてお隣とは手を携えていけないものでしょうか。
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「国民祭典」と夕食

2019年11月09日 | 食・レシピ
カレーの残りはカレードリアに変身させていましたが、これに一手間かけるバージョンを見つけました。
「残りカレーとホワイトソースのドリア」はテキサス在住の主婦の方のブログからです。
ポイントは①ご飯にターメリックとマヨネーズを混ぜる。②ご飯、ホワイトソース、カレーと3層仕立てにして、とろけるチーズを乗せる。
先ずホワイトソースを作りましてた。冷凍したゆでほうれん草はミキサーにかけて細かくしてスープにしました。

とろけるチーズを減らした方が口当たりがいいかも。

天皇陛下の即位を祝ゔ国民祭典"を見ながらの夕食になりました。
天候にも恵まれ、奉祝曲のオーケストラ指揮は作曲者でもある菅野よう子氏で、辻井伸行氏のピアノ、嵐の歌の選出もよく、式典らしく厳かでとてもよかったと思います。
岡田恵和氏作詞の、
『君が笑えば 世界は輝く
誰かの幸せが 今を照らす
僕らの喜びよ 君に届け・・・
・・・・
あの大河だって はじめはひとしずく
僕らの幸せも 大河にすればいい・・・』の美しい詞に、皇后様の頬に涙が光っていましたね。
国民の喜びも伝わってきて幸せな時間でした。
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他ブログの料理から

2019年11月08日 | 食・レシピ
北海道発ブロ友さんの料理、とても美味しそうな大根レシピがありました。
「ざっくりレシピ」という「大根と豚バラの炒め煮」です。今朝のブログで見て、お昼に是非食べたいと、昼ご飯の準備をしてからカーブスに走りました。
もう一品は「キュウリとハムとおからのサラダ」です。キメの細かい生おからが手に入った時に作ります。

ぶり大根やおでんに使う大根は厚切りで味が染み込むのに時間がかかります。でもこれなら短時間でも柔らかく、味がよーく染み込み、最後に「うまかたれ」を一匙入れて照りを出しました。ご飯のおかずにぴったりです。
ブロ友さんのコメント欄が閉じられているので、この場で「ありごとうございました」。

Sweet peaさんのレシピ。「柿と菊菜とくるみのサラダ」は昨日の昼ご飯にさっそく作りました。春菊がなかったのでインゲン豆で。
毎日の献立が他ブログに頼れるって楽ですねー。

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のどミスト と ハンドクリーム

2019年11月07日 | くらし
夜中に喉がカラカラになり痛みが出て目が覚め、「ラリンゴール」でうがいをしに洗面所へ。湿度が低くなりそろそろ危険ゾーンです。

さっそく「のどミスト」を取り出しました。通販生活オリジナルです。
手のひらサイズで微細なミストが喉の奥まで届き、インフルエンザの時期にはバッグに入れておきます。
加湿器もそろそろ必要になってきたかな。

もうひとつはロクシタンのハンドクリーム。150mlのデカサイズです。乾燥症なので、年中使わないと冬場の手荒れがひどくなります。
たっぷりと爪までマッサージするようになって、手荒れがぐんと減りました。数種類の花の香りを試しましたが、シアバターが一番気に入っています。
効果抜群で、香りにもちょっと高級感があり、寝る前に使うとふわーっと香りが拡がり心を豊かにしてくれます。
手洗い回数が多いときは市販のハンドクリームやケラチナミンクリームも使います。
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「ギュスターヴ・モロー展」福岡市美術館

2019年11月06日 | 福岡市美術館

モローと聞けば、宙に浮く切られた首と装飾的な衣を身に纏い、鋭い視線で指差す女の絵を思い浮かべます。その有名な《出現》が今福岡に来ています。

パリのモロー美術館には数年前に訪れ、この《出現》も観ました。4階まで壁一面にびっしり展示された絵、部屋の真ん中にある美しい螺旋階段が印象的でした。
19世紀末は印象派が台頭してきた時期で物質主義的、科学主義的な傾向がありましたが、モローは「目に見えるものは信じない」と神話や聖書の世界を描き、東洋西洋の装飾を取り入れ幻想的神秘的な作品を産み出しました。
今回の展示の特徴は、習作を並べて本作に至るまでの過程が説明されて納得できました。
さすが日本での展覧会はキャプションが丁寧で見応えがあります。パリで見た似たような絵の数々がやっと脈絡を持って繋がりました。

パリのモロー美術館は、展示されている絵の影響もあるのでしょうか、マルモッタン美術館やジベルニーのモネの家に比べると息詰まる様な緊張感がありました。自画像の眼差しを見ても何か苦しさを感じてしまい落ち着きません。

2時間たっぷり見て、館内のホテルニューオータニのレストラン「プルヌス」で遅いランチをとりました。
大濠公園の水辺が見渡せて安らぐのか、2時でも空きがなく30分待ち。




近いところですが、秋の穏やかな日でお出かけ気分になりました。


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