新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

小鹿田(おんた)焼き と『リーチ先生』原田マハ著

2021年09月11日 | 本・新聞小説
アマゾンの送料を無料にするために追加した『リーチ先生』、これがなかなか読みごたえのある本でした。
史実に基づいたフィクションというだけあって、交流する芸術家、文学者が続々と登場してきます。読者が歴史のパノラマを見ているような、そして読み終えたときに気持ちがあたたかくなるストーリーでした。

小鹿田焼き「飛び鉋」の小さな小鉢、バーナードリーチ、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉、民芸運動、「白樺」。これら箇条書きの私の知識が、600ページの物語となって一つにまとまりました。すっきり!


時は1954年、大分県小鹿田(おんた)の焼き物の集落。著名なバーナード・リーチがここに3週間の滞在をするところから始まります。村挙げてのてんやわんやの歓迎のうちに16歳の見習工・沖高市が世話係に選ばれます。
リーチはこの少年に温かく接し、言葉は通じなくても二人は心に通じ合うものを感じます。そして彼の父・沖亀乃介が40数年前にリーチの人生に深くかかわっていたことがわかります。
高市・亀乃介親子は架空の人物ですが、現実感たっぷりにリーチと絡み合います。この名もなき陶工の登場無くしては、生き生きと人間味溢れるリーチの人生に迫ることはできなかったでしょう。本物らしいフィクションの親子・・・ここがマハさんのうまさでしょう。

次章からは場所を東京に移し、年代も1909年に遡ります。沖亀乃介と高村光太郎との運命的な出会いと、高村光雲邸に寄宿してからリーチと出会うシーンがすがすがしく語られます。
リーチは日本の伝統的な陶芸に出会い衝撃を受け、土と炎の世界に深く引き込まれ安孫子に移住。柳宗悦の庭に「安孫子窯」を築きます。登り窯での焼成に試行錯誤する日々がリアルに描かれ、陶芸に疎い私でもしっかりイメージすることができました。

この頃富本憲吉、浜田庄司と出会い「アーツ・アンド・クラフツ」運動や手仕事の大切さを議論するうちに「用の美」に目覚め、日本とイギリスの懸け橋になろうとイギリスに帰ることを決意します。日本にいたのはおよそ11年間でした。

1920年イギリスに帰国。リーチの懇願で浜田庄司と亀乃介が同行します。日本で学んだ陶芸技術を生かすべく工房「リーチ・ポタリー」を建設、浜田庄司の力を得て登り窯も築きました。
自分の目指す焼き物に最適の土を求めて彷徨うさまに、窯を開くための生みの苦しみを見た思いです。
「一生リーチ先生についていく」と心に決めていた亀乃介ですが、別れは突然にやってきました。
日本で関東大震災が起きたのです。ここでは3年の月日が流れていました。揺れ動く亀乃介にリーチ先生は「君はもう立派な芸術家だ。芸術家として独り立ちをしていかねばならない。ここにいては独自の表現を見つけることはできない。君は一人じゃない。どこに君がいようと、私は、君とともにある」と強く背中を押しました。どんな時でも亀乃介をあたたかく見守り励まし続けてくれたリーチ先生、芸術と師弟愛の心温まるシーンです。

プロローグの部分で亀乃介が帰国してからの足跡が記されています。リーチとの手紙の遣り取りが断続的に続いていたのです。理想の土、面白い焼き物を求めて、日本全土を巡ったこと。新しい陶土や窯に出合うたび、きっとワクワクして、楽しかったに違いなかったこと。高市は父を「高名な陶芸家ではなかったけれど、創ることの喜びを実感していたはずだ。そうだ、心底、陶芸を楽しんだ。そして幸せだったのだ」と追想します。

プロローグの1979年(昭和54年)。高市は、父の恩師でもあり自分の心のパートナーでもあるバーナードリーチに会うために、イギリスのリーチ・ポタリー訪れることを決心します。
父・亀乃介の遺言でもありましたが、リーチ先生に出会ったことをきっかけに高市の陶芸への道は一気に開きました。20代で数々の賞を獲得し、若くして陶芸家・沖高市は確たる地位を築いたのです。
少年の日のリーチとの出会いから25年。高市は陶芸の道をひたすら邁進しました。芸術の最も大切なことは「独自性(ユニークネス)」であることを求めて。
こうして高市は、やっとリーチに会う自信を持ち英国へ発ったのでした。

ろくろを回すリーチの後ろ姿に父の面影を重ねながら、高市は黙って見つめ続けていました。


コメント    この記事についてブログを書く
« 少しずつ残った食材で | トップ | 気象予報士斉田さんと南利幸さんが「モネ」に... »