新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

恒例 「第九」コンサート

2015年12月23日 | 音楽

12月23日午後2時開演、九州交響楽団恒例の年末の「第九」のコンサートがアクロスで行なわれました。今年もまた行ってきました。

動き回ることの多かったこの1年、どうにか走り切った後に「ごほうび」として、これくらいは・・・と3か月前からチケットを確保していました。 それに一年の終わりというけじめもつくような。そんな気持ちの人も多いのでしょうか、チケット発売1か月後にはほとんど売り切れの状態でした。


              
       (チラシとアクロスの写真はネットからお借りしました)

観客は3階席までびっしりの1800人です。私がやっと手に入れた座席はなんと3階席!しかしそこはラッキーにも穴場だったのです。はるか下方から聞こえてくるオーケストラと合唱が、地の底から湧き上がってくるエネルギーのような感じで、いつもより力強く、これぞ第九と思ったほどでした。

あちこちで、第九を年末に演奏する習慣は日本のいわば風物詩。本場ドイツではそういう習慣はないそうです。
平安の太古から、海外の文化を自分の風土に馴染ませ、日本独特の文化にしてしまう・・・、それが違和感がないのが不思議です。
明日はクリスマス。仏教系の幼稚園でもクリスマスをやっているようです。年末は除夜の鐘。正月は三社参り。多様な文化や宗教を純粋に楽しめるのはやっぱり平和なんですね。

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師走の旅③ 旧岩崎邸庭園  三菱一号館美術館

2015年12月22日 | 美術館&博物館

朝のラッシュを避け御徒町下車徒歩15分。懐かし~い感じのする街並みをを通って「旧岩崎邸庭園」へ向かいました。不忍池あたりには孫のベビーカーを押したシニア族が多いのにびっくり。若い夫婦のために精一杯サポートしているんですね~。同世代として共感できるし、子世代にもエールを送りたいです。


南側のベランダ側から撮った写真です。三菱第3代社長の久彌の本邸として、コンドルの設計により完成し、主に岩崎家の迎賓館として使われたそうです。

11時に始まるボランティアガイド氏の説明で、建物、系図、生活などの説明でより詳しく知ることが出来ました。建築様式の説明は当然のことながら、随所でのエピソードに心を奪われていました。
関東大震災の折には屋敷が避難所として住民に開放されたこと。先の東日本大地震の時もバカラのグラスを並べたガラスケースはびくともしなかったとのこと、驚きでした。割れなかったほどしっかりした建築が明治に建てられていたのです。
戦後GHQに接収された後、貴重な金唐皮紙(きんからかわかみ)の壁はペンキで白く塗りつぶされてしまったけど、平成の修復時にそのペンキの下から金唐革紙が現れたとか!いくつかの偶然が重なって奇跡的によみがえった金唐皮紙の壁は素晴らしいものでした。これは以前NHKでも放送されていました。
暖炉の上の大きな鏡の値段が当時の上クラスの家1軒分に相当すること。日本にはまだそのように大きな鏡を作る技術がなかったので、訪れた人たちが驚いたそうです。
美しく聡明な寧子夫人は保科家のお姫さまで華族女学校の首席だったとか。家族写真が飾ってあり、見学者が声を上げるほどに
美しい方でした。あのエリザベス・サンダースホームの沢田美喜さんはここのお嬢様。
子供たちの家庭教師は津田梅子で教育に熱心だったのはいうまでもありません。

久彌は5年間の米国留学をしていたこともあり、陽が注ぎ家族が集まれる場所のテラスが欲しかったのだそうですが、英国設計士のコンドルに気兼ねして、氏の亡くなった後に、小火の影響もあってテラス部分を増築したとか。裕福になっても決して傲慢ではなかったところがいいですね~。
小岩井農場にも関連があり土が大好きだったようです。カフェでは小岩井の牛乳で作ったアイスやチーズケーキ、ぜんざいなどがいただけます。ショップでは乳製品を売っていました。


洋館につながる奥の和館は、かつて岩崎家の居住空間で550坪だったそうですが、今は冠婚葬祭に使われた大広間だけが残っています。今では調達不可能な部材の一つ一つに、当時の栄華と日本建築の粋が偲ばれました。
地下通路を通りぬけて往来できるという撞球室はスイスの山小屋作りになっていました。地下通路を通って撞球室へ直行する見学コースが、月に2回ほど、人数限定で催されるそうです。
2時間余りの見学で、急速に西欧化されたにも関わらずこの様に立派な洋館が建築できたこと、その内部に息づく人たちの生き方に、当時の日本の新しい息吹をじかに感じ取ることが出来ました。

次は三菱一号館美術館。「プラド美術館展」開催で復元なった建物内は人だかり。現地のプラド美術館では大型ばかりですが、こちらは原画などの小ぶりなものが多く、グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ムリーリョなど名だたる画家の濃密な作品でした。
日本でのコレクション展はキャプション付きだから分かりやすく、白内障手術後だからキャプションが鮮明に見えラッキー!


すぐそばに「kitte」ビルがあり、???でしたが、漢字で書けば「切手」、日本郵便の商業施設です。何とも古めかしい呼び方ですが、それとは反対に素敵なビル内でした。東京の地下は巨大なビル群をよくぞ支えているものだと、地方住まいの私は不安に感じるほどです。


フライトの出発に余裕を持つために早めに羽田に向かいました。美術館の庭に面したカフェで休めなかったのは残念でしたが、この歳になると時間に追われた旅はしたくないという気持ちになります。

搭乗前に空港第2ビルの「牛タン 荒」で夕食をとりました。牛タンという看板を見ただけで店内に入ってしまいましたが、厚切りのタンが軟らかく、とろろのダシが効いていて美味しくいただきました。
 

旅の「〆」にぴったりのお土産を見つけました。

中味はただのゴーフルですが、カラフルな色を取り合わせた北斎の絵が心を躍らせてくれます。あげた人のリアクションが今から目に浮かびます o(^-^)o 

  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪
今年の異常気象を象徴した12月に咲いた庭の花です。喜んでいいのか・・・、やっぱりちょっと不安になります。




ポピーとサクラソウは春の花なのに・・・。一番下のゲラニュームは6月ごろ咲く花ですが・・・。

 

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師走の旅② DIC川村記念美術館

2015年12月20日 | 美術館&博物館

'90年に設立され人気の美術館にランク入りした千葉県佐倉市の川村美術館。九州からではこれも私にはまぼろし・・・だったのが、ついに現実になりました。
現在の名称は「DIC川村記念美術館」です。大日本インキの創設者の名字からとられたものです。

朝から暖かすぎる陽気で、コートのライナーを外して出発。秋葉原→錦糸町で総武本線(快速エアポート成田)に乗り換えると52分で佐倉駅に到着。駅の前に専用のパスストップがあり無料の送迎バスを利用します。ルノワールの絵をラッピングしたお洒落なバスです。これを利用しないとタクシーでは3000円もかかるとか。
 

  

木立の中のエントランスを抜け小路をを歩いて行くと、正面に刈り込まれた芝生と白鳥の池に出ます。右手をみるとヨーロッパの古城を思わせる瀟洒な美術館が建っています。

「絵の住処(すみか)― 作品が暮らす11の部屋 ー」 のタイトルが示すように  館内はヨーロッパの部屋、彫刻の部屋、日本画の部屋、ロスコの部屋…などに分かれています。
展示室と天井の形、床の種類と色、窓の形と大きさ、ガラスの色などが「絵の住処」に合うように綿密に計算されています。
「オーダーメイドの展示空間は、作品の魅力を十分に引き出し、見る人と作品を緩やかに結び合わせる最適の場」にするのがコンセプトです。
中でも「レンブラント・ファン・レインの部屋」は圧巻。部屋に入った途端にあっと声が出ます。ほの暗い狭い空間に、《広つば帽を被った男》がたった一枚、ポッとスポットライトを浴びて浮かび出てこちらを向いているのです。こんな展示方法があったとは・・・。世界一存在感を示しているレンブラントの絵でしょう。レンブラントは幸せをかみしめていることでしょう。
「つば広帽の絵はここにあったのか!」が夫が最初に発した言葉です。レンブラントの絵が日本にあるという事自体が驚きでした。

橋本関雪の素晴らしい屏風絵、鏑木清方の美人画が展示されたの奥の部屋に立礼の茶席があります。御菓子は、展示中の清方の絵の着物の青と背景に舞い落ちる銀杏をイメージして作られています。なんと心憎い趣向でしょう!窓の外には30万坪という広大な庭園が広がっています。

撮影禁止だったのでこの感激を書くには資料不足ですが、赤瀬川原平氏のちょうどいい解説があったのでこちらを見てください。http://wedge.ismedia.jp/articles/-/653?page=1

再入場も可能という事で昼食に庭園内のレストラン「ベルヴェデーレ」でランチコースをいただきました。そのおいしかったこと!人気の情報は入手済みだったので予定に入れていました。



  

  

食後に館に戻るとちょうどボランティアガイドの解説が始まっておりラッキーでした。レンブラントの絵は、最初は板に描かれていたものが、その板を薄く剥ぎ取ってキャンバスに移したとか。すごい技法があるものです。


半月型の金属板は風の向きによって映された模様が変化し、半球に広角に映った景色も別世界に見えます。動く彫刻の醍醐味です。

 



庭園には作業班の人がたくさん働いていて、芝生の中の小さな草も一本ずつ抜き取っています。たゆまぬ維持管理に、DICの会社が如何にこの美術館を大切にしているかがわかりました。

庭内をぐるっとひと回り。あちこちに野外彫刻が配置されていました。平日で人は少なかったけど、ふかふかの芝生では子供たちが思いっきり遊べそうです。
美術館3時20分発佐倉駅行の送迎バスで、少し心を残しながら美術館を後にしました。美術、建物、庭園、食と一日中他の楽しめる貴重な場所、実現できて本当に嬉しく思いました。

夕食は東京駅でという事で、時間まで丸の内散策。イルミネーション通りには人だかりでしたが、博多駅前広場のイルミネーションの方がずっとお洒落で規模も大きいと思ったのは、きっと東京駅前が工事中だからかな・・・。



 

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師走の旅① 静嘉堂文庫美術館

2015年12月19日 | 美術館&博物館

11月25日の新聞記事に釘づけ。カラー刷りで宗達の屏風絵と曜変天目が載っています。今、この展覧会が世田谷区の静嘉堂美術館で「金銀の系譜」として開催されているのです。行きたい!
今年もいろいろ難題のスケジュールをこなしホッと一息ついていたので、話はすぐにまとまりました。今回行ってみたい所を
静嘉堂、旧岩崎邸、三菱一号館美術館、千葉県佐倉市のDIC川村美術館に絞りました。

先ず静嘉堂へ。田園都市線二子玉川で下車、バスで10分。5分ほど樹木の坂道を歩いて行くと東京とは思えないほど静謐な別世界、静嘉堂に導かれます。

   

左のリーフレットは12ページに亘って丁寧に解説がなされさすが静嘉堂と感心するばかりです。
宗達・光琳・抱一を巡る美の世界」と副題しているだけあって、100年おきに現れた3人の芸術家の作品が分かりやすくまとめられています。

10年ぶりの公開という宗達の「源氏物語関屋・澪標図屏風」は、金・緑・白が目立つ色彩効果の鮮やかな源氏絵です。

心惹かれたのは抱一の「波図屏風」。銀地屏風で墨のダイナミックな線で湧きあがる波を描き、よく目にした優美な絵とは違った抱一の豊かな才能を見た思いです。

光悦の「嵯峨本」も展示されていました。角倉素庵と協力して出版した『通小町』。光悦と宗達になる「新古今和歌巻」も。

色あせてはいましたが、辻邦生「嵯峨野明月記」の主人公3人を彷彿とさせるものがあり嬉しく見入りました。


前回訪れた時は展示されていなくて涙をのんだまぼろしの「曜変天目」。世界に現存する曜変天目3点の中でも秀逸とされる静嘉堂の至宝です。10月に見た藤田美術館の曜変天目よりも曜変が多く鮮やかでした。薄暗い展示室でなく自然光が注ぐロビーに展示されていたので心置きなく見ることが出来ました。
全部で40点。質の高いすぐれたものを数少なくゆっくり見るのが、私には一番合っている鑑賞法です。

「静嘉堂文庫美術館」は三菱歴代社長の岩崎彌之助、小彌太父子が収集した国宝7件、重文83件のほか20万冊の書籍、6500件の古美術があり、東洋文化の一大宝庫として高く評価されています。

翌日に千葉県佐倉市の川村美術館を予定していたので、JRのアクセスと乗り換えに便利な宿を秋葉原に取りました。話題沸騰の電気街とは反対側にある駅から歩いて1分のホテル。ANAのフライト+ホテルだったので部屋も広く清潔で快適でした。団体客の喧騒にもあわずにラッキー!

夜は外人客にもっとも人気のあるという浅草へ。

夜の仲見世通りはすでに閉店でシャッターが下りていました。何十年前かに訪れたきりだったので、通りの形は変わらなくてもこぎれいに整備されていて随分垢抜けしている気がしました。



仲見世も雷門も外人客を意識してかきれいに整備され掃除も行き届いています。

寺院の朱色、屋根の美しい反り具合、木造建築、境内の樹木・・・と外人客にはエキゾチックで魅力的な観光名所になるのがわかります。昼間の人ごみの喧騒にもあわずライトアップされた静かな浅草を散歩することができました。

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「しんがり 山一證券最後の12人」 清武英利 講談社+α文庫

2015年12月11日 | 本・新聞小説

白内障手術後の最初の一冊を探していた時に、たまたま目にしたのが「しんがり 山一證券 最後の12人」です。山一と言えば、18年前自主廃業を公表した際の野沢社長の号泣会見が今でもすぐに瞼に浮かびます。

1997年11月、山一證券が自主廃業を発表したときに、野沢社長が『社員は悪くありませんから!悪いのはわれわれなんですから!お願いします。再就職できるようにお願いします』と会見場で号泣しながら訴えた姿は衝撃的でした。
大企業がまさか!しかし同じころ拓銀、長銀、三洋証券と次々に倒産していました。バブルがはじけたのです。

この本には、山一はなぜ「自主廃業」に踏み切らなければならなかったのか、会社更生法は適応されなかったのか、日銀から特別融資を受けられなかったのか・・・、という疑問が素人の私にも納得が行くように書かれています。

山一を滅亡に追いやった巨額の簿外債務が『いつ、どのようにして、誰の決断で発生したのか…・・・その原因は何だったのか……どこに隠され、なぜ発覚しなかったのか』を究明するために、廃業後「調査委員会」が設置されます。
ほとんどの役員や社員が再就職へと奔走する中で、最後の調査を引き受けた人たちが「しんがり」つまり『最後の12人』なのです。

「しんがり(殿)」とは『後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指す』言葉です。
しんがりは、戦術的に劣勢な状態の時に敵の追撃を阻止し本隊の後退を援護するのが目的なのです。本隊からは支援を受けることもなく限られた戦力で戦う危険で損な任務なのです。 
自ら進んで貧乏くじを引いて清算業務に当たり最後まで筋を通し、人より1年半も遅れて第2の人生に踏み出さねばならなかった人たちの人生ドラマが感動的です。
「とばし」「含み損」「にぎり」など業界用語も出てきて、日常生活では知ることのできない金融、証券業界のことが少しだけわかりました。

このように書くと難しい内容に思われますが、WOWOで連続ドラマ化されているという程の感動の物語なのです。(主演は江口洋介)

「バブル」。孫が6歳だったころ「バブルって大人がめっちゃ無駄遣いしたんでしょ」と言ったのでドキッとしました。アニメで「バブル」を知ったそうです。
言い得て妙。バブルの頃個人所得は増加、消費需要も上昇。確かに浮かれていました・・・・。

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