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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

伊集院静『ミチクサ先生』その⑬ 384~最終回

2021年08月17日 | 本・新聞小説
明治43年、金之助(漱石)の胃の調子は依然すぐれず、長与病院に入院して蒟蒻療法を受けます。それでも快方に向かわず修善寺温泉の菊屋で転地療養を始めました。
朝日新聞から医者と看護婦、そして記者も送り込まれました。そんな中「500gの大吐血」を起こし危篤状態に陥ります。
朝日の記者が本社へ“夏目漱石、危篤なり”と打電すると、たちまちのうちに広まり、身内はもちろん高浜虚子、大塚保治、安倍能成、森田草平、野上豊一郎、野村伝四、池辺三山、菅虎雄、鈴木三重吉、森巻吉、編集者、看護婦数名と伊豆の片田舎は異様な人の群れになりました。
どうにかこの難を乗りきったものの体調は回復せず、この状況に朝日新聞は”打出の小槌”の漱石に無理をさせない方針を決めます。

朝日新聞社員になってからの金之助の働きぶりは文字通り獅子奮迅の活躍。三年余りの歳月で執筆された作品の量の多さと、質の高さは当時のどの作家にもなし得ないものでした。漱石の一度引き受けた約束は反故にしない性格、そして自分を見いだしてくれた朝日新聞の池辺三山への友情が源になっていたのです。

翌年の文部省からの博士号授与の話も「文学には権威も熨斗も必要ない」と断ります。
体調がすぐれないまま連載、講演をこなしているとき、五女の雛子を亡くし、続いて池辺三山の死と大切な人の死が続き打ちのめされます。

明治45年7月30日明治天皇崩御。江戸、明治の波乱の時代を生きた聡明な明治天皇を敬愛していた金之助は「明治というかがやける時代が終わったのだ」と切ない心境を小説『心』に込めようと決心しました。

執筆が忙しく体調はいっこうに回復に向かいませんでしたが、木曜会には新しく若き芥川龍之介、中勘助、内田百閒が集まってきました。
大正3年4月に始まった『心』の連載が終わった後には、漱石は10人ほどの新進作家に短い連載を書かせることを計画します。武者小路実篤、小川未明、野上弥生子、久保田万太郎、里見弴、田村俊子、谷崎潤一郎など。これが思わぬ評判をよび、「作家」漱石が後に「名編集者」とも呼ばれる由縁になる出来事でした。
木曜会に集まる門下生への漱石の眼差しは常に優しく、文芸を志す若者へ支援を惜しみませんでした。日本近代文学の基礎となった作家の大半が漱石の影響を受けていると言われます。

大年5年5月『明暗』の連載が始まります。胃潰瘍の発作で嘔吐を繰り返していた11月、大内出血を起こし脳貧血で意識は朦朧としていました。
12月病状はいっこうに良くならず、金之助が横たわる向こうの部屋には常に4、50人の親戚、門下生、朝日の記者、出版社の人間が控えるようになってきました。
枕元で子供たちは歯を食いしばって必死に涙をこらえていました。金之助は優しく「いいんだよ。もう泣いたっていいんだよ」と。その言葉を聞いて子供たちがいっせいに声を上げて泣き出しました。金之助はその泣き声を耳にして小さくうなづきました。
大正5年12月9日午後6時、夏目金之助は49歳の生涯をました。連載していた『明暗』は第188回をもって中絶、未完となりました。

葬儀は青山斎場、戒名は”文献院古道漱石居士“。参列者千余名という数字は彼がいかに慕われていたかを物語ります。

年が明けても漱石の会葬は形を変えて続きます。
新聞や雑誌でも追悼の特集が組まれ、初めて“文豪”の言葉が用いられ『文豪夏目漱石』となりました。

連載の最後は漱石が最も信頼していた寺田寅彦と、漱石がその才能を高く評価した芥川龍之介が金之助との思い出を語らいながら散歩する場面です。
二人の会話は、漱石のユーモアに満ちあふれた人間としての魅力と若者に見せた素直な態度に及び、漱石との素晴らしい邂逅を讃えあいました。
「私たちは先生のうしろ姿と足跡を追って懸命に登ればいいのだと思います」
「あれは漱石山脈とでも言うのではないでしょうか」

金之助は死の直前まで残される妻鏡子と子供たちの生活を心配していましたが、漱石の死が全国に伝わると同時に作品が飛ぶように売れ始めました。それから翌年にかけては最大の売れ行きとなり増刷しても間に合わないほどでした。

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連載『ミチクサ先生』はオリンピック開会式の前日に終わり、新しく安部龍太郎『ふりさけ見れば』が始まっています。
あの『等伯』で直木賞受賞した作家です。毎朝、新聞を開くのが待ちきれないないほど胸がおどります。
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伊集院静『ミチクサ先生』 その⑫ 338~383

2021年07月09日 | 本・新聞小説
帝国大学の教師をしながら、金之助(漱石)は『吾が輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』など次々に発表します。
このころ読売が新聞小説の人気で発行部数を伸ばしていたこともあり、いくつかの新聞社が漱石のスカウトに動き始めます。

東京朝日新聞の主筆・池辺三山は『草枕』を読んで、社の筆頭となる小説家として入社させたいと思いました。『草枕』は金之助が初めて女性を登場させた小説で、三山は当時の読者が何を読みたいかを分かっていたのです。

『草枕』は、漱石が小説を書くことに専念するための準備として書いた初めての小説です。『大人の男と女が、それぞれの内面に触れながら、物語が進行していく、いわば“河のごとき小説“』のはじまりでした。
金之助がそれまで小説と思っていたものは英、独、仏の海外作品ばかりでしたが『自分は自分の小説を日本語で書くべきだろう』と。

熊本時代に山道を歩きながら、ふと口にした『山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』が、この本の冒頭を飾った文章です。実に、この小説の構想と文章を10年近くも熟考していたのです。

こうして明治40年3月帝大を辞めて朝日新聞と契約を交わします。
朝日の初めての新聞連載『虞美人草』の文語体を脱した自由な文章の掲載が始まりました。
この執筆中に胃痛がかなり進展、執筆に障ることもあり『酸多き 胃を患ひてや 秋の雨』の1句も。

41年の正月は早稲田南町の新居で迎えます。4女1男の賑やかな家族になりました。
『虞美人草』『坑夫』の次は瑞々しい青年を主人公にした『三四郎』の連載。執筆も快調でした。
この頃「あの猫」が亡くなり『氏は庭先に丁寧に葬って自筆の墓標を建て、黒枠付きの死亡通知を知人に出した』と朝日新聞が載せるほどでした。

42年秋、旧友の満鉄総裁・中村是公の段取りで満州、朝鮮の40日間の旅行をします。一流の船室で、一流の宿に泊まり、一流の人々に挨拶を受け、たちまち金之助は体調を崩します。

ベストセラー作家になった漱石は印税、給料で年収5000円、官僚トップに匹敵しますが、家計は困った状態で愚痴が出ます。子沢山の教育費、見劣りしない暮らしをという妻・鏡子の経済観念も問題でした。

そして体調は最悪に、とうとう『門』の執筆中に喀血します。病院を避けていた金之助が、初めて自分の病気のことを真剣に考えた瞬間でした。

金之助が生涯敬愛したのが、早世した米山保三郎(一高時代の旧友)と才能も人柄もかっていた子規です。
(米山 + 子規) ÷ 2 = 寺田寅彦。寅彦との交友の濃密さも信頼の表れでしょう。
朝日新聞と、寅彦や泉鏡花などたくさんの作家の執筆を取り持つなどまるで編集者のような心配りもしていました。


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明治神宮の森の物語·····朝井まかて「落陽」

2021年06月20日 | 本・新聞小説
ずっと前に見たNスペ「明治神宮不思議の森~100年の大実験」は、私の明治神宮のイメージを大きく変えるものでした。(明治神宮の創建は1920年)
広大な森が先にあって、そこに神宮が建てられたと思っていたのですが、全く逆でローム地層の原野に人工的に太古の原生林を造ったのです。その苦闘のドキュメンタリーでした。
半月ほど前の電話で、友人がいい本だと推薦してくれた本と、記憶の番組の内容が同じなのに気づいてすぐ取り寄せました。朝井まかて「落陽」です。


 
ネットから借りた写真ですが、ビフォーと今の写真です。

  
小さな△がマツ類、細長い△がマツ以外の針葉樹類(ヒノキ、サワラ等)、赤い木は常緑濶葉樹類(カシ、シイ、クス等)及び常緑灌木の下木
大隈重信は、雑木林では見苦しいので伊勢神宮のような巨大な杉並木にすべきだと大反対しますが、本多静六、本郷高徳、上原敬二が東京の土壌に合うように「永久ニ荘厳神聖ナル林相」の鎮守の森を創り出すことを計画しました。

Nスペで示された図は、四段階の遷移経過を予測して植栽計画を行ない、初期の植栽から五十年、百年、そして百五十年という時をかけて天然林相を目指すという壮大な計画でした。

上の図を説明を分かりやすくするために「落陽」から文を引用しました。
『初期にはマツ、ヒノキなどの針葉樹を植えはするが、東京では健全に育たぬのを承知で選んだのは、やはり造営直後にも荘厳なる風致を得る必要があるためである。ただしそれはいずれ枯死すると予測されるので、直射日光に強く、関東の冬の乾燥風、しかも煙害にも耐える樹種を混ぜて植える計画だ。・・・・やがてマツなどの針葉樹が枯れると、常緑広葉樹が主役の杜に変貌を遂げる』
そして『樹木は人為の植栽を行わずに林相を維持し、天然の更新をなし得るよう、次の世代に申し送らねばない・・・不必要な手を入れたり過剰な管理を行ったりしては、祈りの杜にならない』

「落陽」の主人公は三流新聞「東都タイムス」の記者・瀨尾亮一。明治天皇の崩御で、なきがらは京都の伏見桃山陵へ葬られます。それなら東京にもうひとつの施設をと、民間から明治神宮創建の動きが高まりました。
広大な森造りから始まる困難な過程が、女性記者伊東響子の原稿の形で細かく実によく描かれています。
その中で瀨尾はもうひとつの課題「人々は何ゆえこうも帝を尊崇し、神宮を造営し奉りたいと願うのか」を解き明かしたくなります。
「一人前の国として、天皇の伝統と風習を守りながら、欧州の近代君主像をも体現せねばならなかった」明治天皇。列強に名をとどろかせたエンペラーでなく、一人の孤独な青年の感情がどうしても知りたくなります。
その答えに少しでも近づきたく時をかけて人を探して調べ、その中からひとつの答えをみつけます。

急速な発展を遂げた明治に生きた登場人物の、それぞれの心の内、懸命に生きる姿に、やはり明治は特別だと感じます。

この本の面白さと緻密さと魅力を上手く描けないのは力不足ですが、朝井さんの小説の中では私のイチオシです。

数十年も前、田舎の小都市から上京したばかりの学生の目に、むしろ東京の方が緑が多いように感じたのはこんな森を見たからでした。「ない」と思っていた緑がこんなにたくさん・・・、その意外さを家族に手紙で知らせた記憶があります。
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伊集院静『ミチクサ先生』その⑪ 299~337

2021年05月16日 | 本・新聞小説
明治36年1月23日イギリスから帰国した金之助(漱石)は2年ぶりに日本の土を踏みました。
熊本には帰らずに、東京で帝国大学英文科と一高で教えることになります。住まいは一高と帝大にも近い千駄木の高台に建つ借家、400坪の広い敷地も気に入っています。
大学では、最初は学生の英語力のレベルの低さに驚き発音から厳しく指導しますが学生には退屈らしく不人気。高浜虚子のアドバイスを受け、噺家の口調で面白く講義を進め学生たちの気持ちを鷲づかみにする・・・と、たちまち教室は満員札止めになりました。

千駄木の借家は家賃が25円。洋行帰りの大学講師は熊本時代の2倍の家賃の家に平然と住めるほどになっていました。帝国大学の年俸が800円、一高が700円、計1500円の高給取りでした。
しかし家計は火の車。帰国直後の4年間はロンドン留学のための借金の返済と物価の上昇で、夏目家にとって最も困窮した生活を余儀なくされた時代でした。妻・箱入り娘で育った鏡子ですが質屋に通うのも苦境と思わぬ奇妙な明るさと大胆なところがあり、この性格がすぐに神経がまいってしまう金之助の心境を救っていました。

熊本時代の教え子寺田寅彦と俳諧仲間の高浜虚子とはずっと親交が続いていました。「ホトトギス」の主宰者・高浜虚子は金之助に小説の執筆を進め、依頼します。
迷いこんだ仔猫と戯れるうちに『仔猫の目から見た私も、鏡子も、娘たちも、いやすべての人間の行動が、ひどく滑稽に映って、こっそり笑ったり、馬鹿にしたりしているかもしれない・・・』。こうして小説家、漱石の第一作『吾輩は猫である』が『ホトトギス』新年号に掲載されます。

ちょうど”要塞陥落、旅順開城、帝国陸軍の破竹の進撃”の時。戦勝号の触れ込みということもあり「ホトトギス」は増刷を重ねます。巷では「読んだか”猫”を?」と、俳句誌でありながら漱石が大人気、虚子の思惑と勘は見事に当たりました。
金之助も日露戦争の勝利はこの上ない喜びで天皇への思慕は変わることはありませんでしたが、軍関係の横暴ともいえる意見や態度は許してはいけないと思っていました。弱者に対する驕慢な態度を嫌う江戸っ子気質からきていたようです。

寺田寅彦は19歳の時土佐で14歳の妻をめとっていましたが、この頃病弱な妻を亡くし、金之助は教え子のそんな哀切をよく見ていました。文章を書くことで哀しみがやわらぐかもしれないと、金之助は寅彦の文章を『ホトトギス』に載せることを虚子に頼みます。
出来上がった短編『団栗(どんぐり)』は物理学の講師がこれほどの文章を書くのかといわせるほどの秀逸さでした。『第3回・吾輩は…』と『団栗』の二つの作品を載せた『ホトトギス』はすばらしい反響を呼びます。

満州奉天の森鴎外からも絶賛の手紙が届きます。作品の強烈な個性で人々を魅了した『吾輩は・・』の本が、こうして大倉書店から出版されることになりました。 


金之助は最初の出版本を子規に捧げたいという思いがありました。子規に紹介されて以来つきあいのある画家・中村不折に挿画を依頼、教え子の橋口五葉に装丁デザインを委ねたのは金之助のセンスの良さでした。

順調に伸び印税も入り喜びの中にも家族が増えたりと家計はまだ火の車。その上かつての養父から無心の手紙が届き、すでに養育費を払い書面まで交わしたのにと憤怒します。

大学での講師、執筆、尋常でない来客の数と忙しすぎる毎日に家族が参ってしまいました。金之助は『精神が最も耐えられなくなるのは教鞭をとっているとき。学生は卒業後は給与の高い役所か、政治家の周辺の職にありつこうとする輩が大半で真剣に英文学を学ぼうという者はまずいない』と悩みます。
こんな生活から逃げたい・・・、それには教職をやめるのが正しい・・・と判断し、実行しようと思います。
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朝井まかて『阿蘭陀西鶴』

2021年05月10日 | 本・新聞小説
中学国語では、井原西鶴『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』という著作の羅列の暗記でした。本のタイトルだけの文学史。読みもしないのに多感な中学生には好色という文字にかなり抵抗感がありました。
朝井まかての作品を集中して探しているときに『阿蘭陀西鶴』が織田作之助賞受賞作品と分かって早速購入。そういう他力に頼るのもひとつの選択法、さすがに読みごたえがあり西鶴のイメージを変えました。
先に読んだ『眩(くらら)』は江戸の北斎父娘。今度は大阪の西鶴父娘。それぞれの父と娘の関わりかた、複雑な立場と心情が滲み出ていて心に響きました。

娘おあいを語り手として、父·西鶴と彼を取り巻く弟子や出版界の人々、いわば市井の人たちの物語です。
おあいは盲目で、だからこそ幼い頃から母親は家事全般をこなせるように厳しく仕込みます。何よりもハンディを意識することなく素直な心根の娘に成長します。その母もおあい9歳のときに亡くなります。

おあいは身勝手で傍迷惑な父を冷静に見ながら拒否することなく受け入れていましたが、心が寄り添ったものではなかったのです。しかし、ふとした事から父の本当の心の内を知ることになり父への気持ちが徐々に変化していきます。

大阪では町人の教養が高まり、多くの版元が誕生し出版物も多くなります。挿し絵の絵師も生まれます。歌舞伎や浄瑠璃も盛んになり街は活況を帯びます。
そんな時代を背景にして西鶴が俳諧師から浮世草子作家へと筆を移していく過程が、出版業界の思惑のなかで分かりやすく面白く描かれています。

ハンディを感じさせず物事をまっすぐ見る素直なおあいの人物設定が、ストーリーの展開を力みなく進めていくことで好感を持って読めるのだと感じました。
市井の人の日常を面白く描いた『世間胸算用』は、現代語訳版があるので読んでみたくなりました。大阪人の軽妙な特性を色濃く出している気がします。
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朝井まかて『恋歌』  直木賞受賞作

2021年04月27日 | 本・新聞小説
同じ作家の本を次から次へ読んでみたくなる・・・。今度は朝井まかて『恋歌(れんか)』です。

主人公は明治期に一世を風靡した有名な歌人・中島歌子(登世)。
幕末の江戸、裕福な商家育ちの登世は自らの恋情を成就させ水戸藩士に嫁ぎます。夫・以徳は過激な尊王攘夷派の天狗党。ここから登世の凄絶な人生が始まります。
3年間の水戸で地獄を見た暮らしから、生き延びて江戸に戻ってからは歌人として「萩の舎」の開塾。華族夫人令嬢を始めとする門下生千人の名門塾になりました。そのなかに忍び込んだ水戸の暗い影、そして孤独····。

水戸の女たちは敵味方に関わらず重すぎるほどの思いをかけて内乱を生き抜きました。幕末の血塗られた日々があってこその今があることを伝えなくてはいけない。誰もが今生を受け入れて骸だらけの大地に足を踏みしめねば、一歩たりとも前に進めない。歌子の思いは深く葛藤の後、自分を凄惨な牢獄に閉じ込め夫の命を奪った憎き諸生党の末裔を養子に迎え「萩の舎」の後継にします。それが歌子の水戸への鎮魂であり、亡き人への祈りだったのです。

歌子の手記を門下生に読ませる形で話は進みます。巻末に出てくる年老いた前藩主夫人(斉昭の妻)との静かなやり取りの場面が印象に残りました。

薩長のように志に生き志に死ぬという幕末の表舞台でなく、あまりにも悲惨で救いようがない水戸藩内の、敵味方に別れて殺しあうという内乱です。
幕末史のなかでは数行、数ページでしか語られない「天狗党」を格調高く1冊に歌い上げた歴史小説。著者の力量は直木賞受賞に表れています。

***余話*******************
水戸藩の「天狗党」と「諸生党」の内乱は血で血を洗う何も産み出さない無益な戦いだったと言われています。この戦いで水戸の優秀な人材は全て失われ、明治政府の顔触れに水戸藩士の名前は見られません。
過激な尊皇攘夷派「天狗党」は『青天を衝け』に必ず出てきます。その伏線は25日に登場した藤田小四郎(藤田東湖の子)の登場です。藩を越えて「惇忠」も過激な尊皇攘夷の天狗党に関わった疑いで捕らえられます。彼らも歴史の波に飲み込まれました。
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朝井まかて『眩(くらら)』『先生の御庭番』

2021年04月17日 | 本・新聞小説
日経新聞小説・浅井まかて『秘密の花壇』は滝沢馬琴が主人公でした。馬琴は偏屈な戯作者と言われながらも花を愛する意外な素顔も。とにかく朝井さんの「たおやか」と定評のある文章と市井の人間の捉え方がうまくて、他の本も読みたいと求めたのが『眩(くらら)』です。

表紙は、葛飾応為《吉原格子先図》。夜の光と影がラ・トゥールの《大工の聖ヨハネ》とぴったり重なりました。

北斎の娘・栄(応為)は離婚して父のもとで画業の手伝いをしながら絵を描くことへの意欲を持ち続けます。
すでに名を馳せていた北斎なのに台所はいつも火の車。そのうえ甥がトラブルを起こして金策に走るのが常で、その気苦労ははかり知れません。兄弟子である多才な渓斎英泉への恋情にも翻弄されます。
ある時、光が物の形を作っていることに気づきました。そして色をたくさん使わなくても濃淡を作ればいくらでも華麗さは出る・・・。ついに墨の他には岩紅、岩紺、岩黄だけで彩色した《吉原格子先図》が誕生します。
深い暗闇の中にろうそくで浮かびあがる静謐な景色、営みのけなげな美しさには人生の品格さえ感じられます。一度目にしたら忘れられない浮世絵です。
ストーリーだけでなくたおやかな文章表現に、もう一度読んでもいいなと思っています。

長崎出島に薬草園を作る依頼を受けて、いわば押し付けの形で15歳の植木職人・熊吉が担当することになりました。しかし熊吉は蘭語に興味をもちひそかに狙っていた仕事でした。
依頼主はシーボルト。薬草園の拵えや「ばたびあ」に送る茶樹の種の荷造りに夢中で働きます。
シーボルトが作った鳴滝塾の塾生の生活、出島の町並みと生活、商館長との人間関係、江戸参府、草木の採集、とシーボルトの動きが細かく書かれていて興味を深くします

植物を生きたまま船でオランダに運ぶことはシーボルトの念願でした。輸送期間は途中の係留期間を含めて7か月。この難題にシーボルトを慕っている熊吉は試行錯誤を繰り返し心底努力します。

そんな時に起きたのがシーボルト事件。たくさんの荷を積み込んだオランダへ戻る船が長崎湾内で大嵐にあって大破、荷物もたくさん流れ出しました。その中に持ち出し禁止の日本地図「伊能図」の写しが入っていたのです。
写しだとしたら他にもあるはずと幕府は躍起になります。幕府の追求は厳しく、シーボルトの周りにいた門人、絵師、通詞が次々に捕らえ、悲惨な最期を遂げた役人もいました。問い詰められてシーボルトが差し出したのは蝦夷の地図でした。
もう一枚の伊能図の写しはこの地図が先生の手元にあるだけで厄災になる」と、熊吉が散らばった荷物の中からとっさに自分の懐に入れていたのです。シーボルトは日本地図をオランダに持ち帰るという重大な使命を受けていたのです。

熊吉は草花を丁寧に押し花にして標本も作っています。シーボルトが好きなあじさいの押し花の標本の裏に地図を押し込め、それに手紙を添えてシーボルトが母への贈り物にするようにしました。幕府といえども私信にまでは手を出すはずはない・・・と。

門人の中には、シーボルトの依頼で論文に取り組んだことや地形調査にうまく利用されたのではないかと疑念を持つ者も出てきました。熊吉はそんな疑念を払拭して、ただひたすら忠実なお庭番に徹していきます。

オランダに送った草木1200箱のうちに260が無事に到着しており、「これで欧州が変わる。いろんな苦難に見舞われたが、学問上私が失ったものは何もなかった」というシーボルトの瞳に熊吉なりの理解をします。シーボルトが無事オランダの土を踏み、渇望した富と栄誉を掌中につかみとってほしいと。
このあとシーボルトは国外追放となり、再び日本の地を踏むことを禁じられ、妻と娘を残したままオランダに向かいました。

やがて日本は国を開きオランダとの間に通商条約を結び、シーボルトの追放令も解かれ、公儀は対外交渉の顧問として江戸に招きます。
ペリーに軍事を伴う急激な開国を迫らないように進言したのは他ならぬシーボルトで、その功績を公儀が認めたということです。この時に娘以祢(いね)に再会しています。
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伊集院静『ミチクサ先生』その⑩ 279~298

2021年04月04日 | 本・新聞小説
散歩がてらにナショナルギャラリーに出かけた金之助(漱石)。ここでのターナーとの出逢いがきっかけになった美術館巡りは、深い霧に神経衰弱さえ自覚し鬱陶しい日々を送っていた金之助(漱石)にある光を差しのべてくれました。
特に、「ハムレット」の恋人オフィーリアの悲劇の結末を描いたジョン・エヴァレット・ミレイ″オフィーリア″に深く感銘をうけます。


『若く美しい娘、オフィーリアがひっそりとした水辺に浮かんでいる。両手と顔を水面から出し、ドレスを着たオフィーリアはまるで浮遊したように描かれてある。水にわずかに浮かんだドレスの上に、水辺に咲いた花が木から舞い落ちていて、まるで落花の、椿の花びらのように、この苛酷な悲劇の結末をより鮮やかなものにしている』と、文学作品の物語の根幹、叙情を一枚の絵で表現できることに深く感じ入ります。
帰国して書いた、熊本・那古井温泉を舞台にした『草枕』にもオフィーリアは度々出てきます。

この頃イギリスに注文された戦艦「三笠」が進水式を終え引き渡しを待っていました。国家公務員が給与の10%を無条件で国に収めていて、その製艦費の結晶なのです。
ロシアの南下政策に神経をとがらせていた英国にとって日本の海軍力は信頼できるものであり、日英同盟を締結するのは当然の流れでした。

当時、長ければ半年もかかる日本からの手紙。正岡子規の「僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ・・・今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク・・・」に鼻の奥を熱くしながら、子規の期待に応えるべく英文学に励むことを新たに決意します。
下宿のオーナーから自転車に乗ることを進められ猛特訓します。

その頃子規は、母と妹の愛情に支えられて壮絶な最後を迎えていました。子規は己を信じ漱石を信じるまっすぐな若者。その友を得た金之助は幸運でした。
手紙に「子規逝くや十七日の月明けに」の句を添えて、子規の死を知らせてくれたのは高浜虚子でした。
死の事実だけが金之助の胸の底に届き、悲しみのなかで「手向くべき線香もなくて暮の秋」など5句の悼句を発句します。これほどの数を発句したのはあとにも先にも、その秋だけでした。

そんな中、金之助の2年間の留学生活も終わろうとしていました。金之助は他の留学生に比べて驚くほど多くの本を買い込み、本の山の中の暗い部屋で一日じっと机につき、一点を見つめている・・・。゙夏目狂セリ゙の電報が文部省に届きます。



文部省はドイツに滞在する同期留学生の藤代禎輔に、金之助を保護しすぐに日本に連れ帰るよう指示します。
しかしロンドンで見た金之助は何一つ変わらない江戸っ子の金之助で、藤代は一人先に帰国しました。
金之助が神経衰弱の自覚があったのは事実。だから療養のために自転車に乗ったり、スコットランド旅行で美しい田園風景に触れて回復しつつあったのも確かだったのです。
帰国準備の中で本の多さに、周りは「この街の本を皆持って行くのか?いっそ大英博物館も一緒に船に積んだらどうだ」と呆れるほどでした。
その大量の書物と金之助を乗せた船が出発したのは明治35年の師走のことでした。
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伊集院静『ミチクサ先生』その⑨ 日経連載 246~278

2021年03月13日 | 本・新聞小説
熊本で4度目の正月を迎え、金之助(漱石)はここの生活を気に入っていましたが、心の底ではどうしても落ち着かない部分があるのです。今の五校の教職はたまたま転がり込んできたもの、本当に自分のやりたいことは・・・と悩み考えているうちに、イギリス留学の話が持ち上がりました。

文部省の依頼は「英語授業法ノ取り調べ」ですが、行ってしまえば英文学を学ぶことも可能ということで、第1回の給費留学生となります。
現職身分のまま留学費1800円、留守宅には年額300円が支給されることにされることになりました。好条件にも思えますが、日本と物価の違いは大きく、この後金之助は苦労することになります。

1900年(明治33年)9月8日横浜出発→9月25日シンガポール→ペナン→10月1日コロンボ→10月10日紅海に入る「赤き日の海に落ち込む暑さかな」→14日スエズ運河を抜けて地中海へ→ナポリ→10月19日ジェノバ上陸、翌日汽車でパリに向かいます。
丁度パリでは万国博覧会が開催されており、1週間余り滞在して見学します。日本の陶器と西陣織が異彩を放っているのに感心しました。
パリでは産業革命が人々に実利を与え、芸術活動が大衆の中で大きな広がりを見せていました。パリは日ごとに暮らしが豊かになることを実感できる花の都でした。

ちょうど城山三郎『雄気堂々』で、1867年渋沢栄一がパリ万博使節団の随員として渡航する場面を読んでいました。
栄一の渡仏は漱石より34年前の幕末期。航路はほとんど同じですが、まだスエズ運河は工事中で陸路カイロからアレクサンドリアへ。そこから船でマルセーユへ、そして汽車でパリへ。そこまで漱石約42日、栄一約55日の長旅でした。日本ばかりでなく世の中もどんどん変わっています。

同道の他の留学生とパリで別れ、10月末に金之助はロンドンに到着します。華やかなパリとは違い、暗く、陰気に感じられるほどひっそりと沈黙しているような街に戸惑います。
金之助は友人から高級住宅地の下宿を紹介されましたが、食事付きで一日6円は1年分計算すると給費の1800円では足りません。さっそく街の見学がてら下宿探し。郊外の住宅地に安くてまずまずの下宿を見つけました。
大学ではシェークスピア研究でピカ一といわれるクレイグ教授と個人授業の契約をし、授業料を安くしてもらうことも交渉。
その頃すでに、産業革命の先駆者・ロンドンは公害問題に直面していました。学生時代に肺を病んだこともある金之助は煤煙の酷さに悩まされます。
ケンブリッジ大学での授業は期待外れ、すばらしい本に出合っても驚くほど高価、唯一の救いは週1度のクレイグ教授との個人授業でした。教授の『シェークスピアはハートで学んで下さい』の言葉を金之助は大いに気に入ります。
文部省への報告書にはことあるごとに「公費ハナハダ少ナイ、困窮ス」と報告します。
妻鏡子からは ″お金の心配を手紙にお書きになる必要はありません。私が中根の家から借りてそちらにすぐ送りますから。お金の心配は貴方には似合いません。心配ご無用 鏡子″と心強い手紙が届きます。

金之助35歳、ロンドンでの日々が自分の次の出発の指針を与えてくれるはずだ・・・。暗い部屋で本ばかり読んでいては気がめいります。そんな時、散歩で出かけたナショナルギャラリーでターナーの絵に出会います。これまでに見たことがないような精緻で優美な絵に思わず吐息をつきました。
ターナーはヴィクトリア朝の証し。折しもヴィクトリア女王が亡くなり産業革命と植民地で繁栄を謳歌したひとつの時代が終わりを告げていました。ターナーの絵から、せっかくロンドンへ来たのに時代を見る目を置き忘れていたことに気づかされた金之助でした。
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「渋沢栄一」がやって来た!

2021年02月12日 | 本・新聞小説
まもなくNHK「晴天を衝け」が始まります。私の読んだ幕末をあつかった本のなかでは、渋沢栄一は必ず出てきます。しかし主人公ではありませんでした。

大河開始前に、時代背景を知るために書棚から城山三郎『野生のひとびと』を取り出しましたが、これも安田善次郎、大倉喜八郎、高橋是清、浅野総一郎、金子直吉、松永安左衛門、福沢桃介が主役で、渋沢はちょっと絡む程度。明治経済界の動きを知るには面白い本です。
この本のあとがきで、「日本経済の大御所ともいうべき渋沢栄一を描いた」のが『雄気堂々』だということを知りすぐ取り寄せました。
それが今日届きました。まあ最初はよく語られているエピソードから始まりますが、初回放送に間に合ったと喜んでいます。


番宣では、栄一・吉沢亮と慶喜・草薙剛の二人の主人公と聞いたので、司馬遼太郎『最後の将軍』も手元に取り出しました。あと一年間が楽しみです。

将軍を辞して、謹慎が解かれたあとでも、慶喜が会ったのは勝海舟と渋沢栄一だったとか。

前回にもまして、キャストが若手の演技力が期待できるイケメン揃いです。
「あさイチ」の華丸さんも隆盛役で出演。確かに目が似てますねぇ。
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伊集院静『ミチクサ先生』その⑧

2021年02月06日 | 本・新聞小説
金之助(漱石)が熊本で穏やかな教師生活を送っている梅雨のころ、増水した川に『五高ん先生の奥さんが、白川に身投げせらしたばい』と大変なことに。しかし、ここは五高の舎監·浅井栄凞が機転を利かせて、鏡子の災難が妙な噂にならないうちに関係者にいち早く説得して回っていました。
金之助は、以前にも妻・鏡子が夜半に裏の沼に入ったことを思い出します。その時は女中のとくが女性に特有の生理的な関係で・・・ということでうまく処理していました。
今回も鏡子を助け上げたという漁師が「自分が救ったのではない、奥さんの方から自分が投げた網を手繰り寄せた。それは身投げした人のすることではない、奥さんは投げた網が目の前に届いたときに嬉しい笑顔を浮かべていた」と身投げを否定しました。その言葉に救われた金之助は静かに涙をためてためて漁師の骨太い手を握りしめました。

身体を回復しかけた鏡子は「···あの日、私には何が起きたのでしょう?」と金之助に尋ねます。
「自分が思うに、キヨ(鏡子)さんは川辺に散歩に出かけて、何かの拍子に転んで身体が水面に近づいてしまったのさ。そこへ漁師の船が通りかかって君を水から救ってくれた。君はその飛んできた網を嬉しそうに掴んだと、漁師は言っていたよ。面白いこともあるのだと感心したよ」
「本当ですね。そんなことってあるんですね」
「泳ぎのできる君は船が来なくても一人で岸へ上がっただろう。網に笑って手をかけたのも、君が懸命に生きようとしている証さ」
「そういわれるとなんだか元気になりました」
「うん、そりゃいい。それと、人間には大人になれば忘れなくちゃならんものも、いくつかできる」

ある日の縁側で、女中のとくは「旦那様のおっしゃるとおりですよ。過ぎたことをあれこれ考えたってしかたないですよ。きれいさっぱりと忘れれば、胸の中がすっきりしますものね」と、金之助の優しい言葉に感心しました。

落ち着きを取り戻した穏やかなある日、とくは鏡子の懐妊の喜びを金之助に告げます。2度の流産を経て、今度こそはというとくの表情は自信に満ちていました。そんなとくの珍しいデザインの瑪瑙の帯留めに目が止まります。明治も30年を過ぎたこの時期、こうした装飾品に庶民の手が届くようになっていました。各地では博覧会、物産会が開催され人々の間にデザインが浸透し始めていました。

こんな風にさりげなく庶民生活からこの頃の時代背景に移るあたりに、著者の話の組み立て方のうまさを感じます。

明治30年代は不平等条約の不均衡もようやく改められ、治外法権も廃止されます。


縁日には舶来品が出回り、首元に高い襟をつけた洋装から、西洋かぶれを"ハイカラ"と呼び始め、のちに金之助と森林太郎(鴎外)がその代表にされます。

欧州への定期航路が開かれ、産業では綿糸の輸出が増えて大紡績時代を迎えました。
日本初の製鉄会社が誕生、日清戦争の次の対戦相手が囁かれだして、軍艦や武器弾薬の生産が突貫行程で行われました。海外の情報収集も必須で、同時に海外の文芸作品が日本人の目に止まるようになってきます。
明治はこうして文明開花を形にしていきました。

大病を克服した後の伊集院氏は、ストーリーを縦に横に広げてその見事さに日々感動して読んでいます。

私の鏡子のイメージとはかなり違って、挿し絵に見る著者の鏡子像は純真でこだわりのない素直な女性に描かれています。心なしか挿絵の鏡子は美しい伊集院夫人を彷彿とさせます。

自死に関する優しいまなざしは著者の心からのメッセージではないかと受け取りました。「忘れなくてはならないものがある」、このあたたかさと思いやりが著者の穏やかな家庭生活の核になっている気がします。家族を守る、個人を尊重する、この優しさに著者の人格を見る思いです。
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伊集院静『ミチクサ先生』その⑦

2021年01月22日 | 本・新聞小説
1月1日付け朝刊の前月の<あらすじ>『父直克がなくなったの機に金之助は久しぶりに上京した。正岡子規と句会などで旧交を温めたが、病の進行に心を痛める。一方、妻鏡子は再び流産し、鎌倉で療養していた。』
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209回~228回
上京した金之助(漱石)は東京と鏡子の療養先の鎌倉を行き来していました。そんなある日親友・米山保三郎の弔いの意味もあり鎌倉の円覚寺を訪れます。少し前に親友であり尊敬もしていた保三郎を亡くしていた金之助の心の動揺は計り知れないものでした。その保三郎とかつて訪れた思いでの円覚寺で供養をしてもらいます。

療養中の鏡子を残して熊本に帰った金之助はそのまま新しい引っ越し先へ。「月に行く漱石妻を忘れたり」と一句。漱石は熊本で4回も引っ越しをしています。もちろんあの猫も一緒で、鏡子も回復し戻ってくるとまた元の学生の出入りの多い生活が始まりました。

このころ山川信次郎と熊本市内から西北にある小天(おあま)温泉をたびたび訪れています。『山路を登りながら、こう考えた』の名文は山川との会話の中でこの山道で生まれました。
宿泊するのは前田案山子の別宅。前田は旧細川藩の槍術指南、明治以降は衆議院議員の肩書を持っています。政治家や仲間を熊本に招く折に使った温泉のある別宅でした。

部屋の座卓も茶棚も趣味がよく若冲の一筆書きの鶴の画も、主の枯淡な選択は金之助の心にぴったりきて満足するものでした。金之助は子供のころ牛込の蔵で山水画や浮世絵をよく見ていたのです。
ここで案山子の娘「前田卓(つな)子」に出会います。年の頃21~2歳。まなざしの美しいこの女性の面影がずっと心に残ります。
温泉の湯気の向こうに鶴のように立っている、その立ち姿がなんとも優雅であり美しい艶姿に見惚れていました。『美しいものを眺めるだけで、さらに言えばその対象を考え、思いあぐねるだけで、気持ちが高揚しているのがわかる。まったく人間はそういう生きものなのではないかと思う』。脳裏にあらわれるツナコの姿に漱石は戸惑うこもしばしば・・・。
このことが漱石の描く女性像の一つになるようです。のちに執筆した『草枕』はこの一帯で過ごした日々のできごとを思いつくままに書いた名作です。
この後どう展開するのでしょうか。

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伊集院静『ミチクサ先生』その⑥ 熊本五高時代 159~181

2020年12月04日 | 本・新聞小説
9か月ぶりに11月11日から連載が再開されました。毎月初めに前月分のあらすじが載ります。12月1日の記事です。
「<あらすじ>金之助は熊本で鏡子との新婚生活を始めた。同僚教師も居候し賑やかな暮らしだ、教師としても五高の学生に慕われたが、金之助には″文学的生活″への思いが募っていた。」

もう少し詳しく書いておきますと・・・。
明治29年4月、夏目金之助は第五高等学校の教師として熊本に到着。6月には中根鏡子20歳と結婚します。鏡子に付いてきた老女中とくを金之助は気に入ります。
鏡子が流産したり、少し癇癪持ちで奇怪な行動したりと心配が重なりますが、とくが上手にまとめ、気晴らしに旅行を勧めます。

金之助は旅行の中で、世間知らずと思っていた鏡子の行動に新しい側面を発見して感心し、それに喜びを感じます。ある晩月を眺めていた鏡子の美しさにはっとして妻を好ましく思い、好きだ、とこの結婚が正しかったことを認めます。
二人で綺麗に輝く月を眺めたこのささやかないっときは生涯彼の心に残ります。
授業中「先生、I love you はどう訳したらいいのでしょうか?」の質問に「そうだな、″月が綺麗ですね″とでも訳しておきたまえ」と。
このように金之助がユーモアを大切にし、周りをクールに距離を置いて眺めるようになったのはこの五高時代からの傾向と言われています。

旅から帰宅後は合羽町の新居に移り住みます。俸給100円。1割を製艦費として差し引かれ、家賃13円、進学で父から借りた借金返済10円、姉への仕送り3円、本代23円。鏡子ととくがきちんと計ったもので金之助は大いに満足します。ここに、先に住み着いていた黒っぽい猫が登場します。そして顔色を窺いながら、少しずつ金之助の側に近づいてきます。名前はありません。
家賃13円の立派な家は街の評判になるほどで、金之助は子規ヘの手紙で″名月や十三円の家に住む″と詠んでいます。

信義から東京高商への招聘を断ったり、返還しない学生が多い中奨学金を毎月7円50銭ずつ返済することなど、彼の義理堅さや潔癖性を示しています。金之助の人柄は学生、教員、周囲の人から慕われていますが、教師の生活からそろそろ離れたいというのも本音です。

部屋数の多い新居には居候や客が絶えず、山川信次郎、兄のように慕っている久留米の菅、寺田寅彦と蒼々たる名前が出てきます。
ある時、専門だけに専念すべきかどうか、とガリ勉タイプではない寺田寅彦は金之助に悩みを打ちあけます。

金之助は「君の目指すところは築山のてっぺんだとしよう。誰もが真っ直ぐここからてっぺんに向かって歩くはずだ。でも私はそんな登り方はつまらないと思うんだ。オタンコナスのすることだ。
・・・・そういう登り方をした奴には、あの築山の上がいかに愉しい所かが、生涯かかってもわからないだろうよ。
・・・途中で足を滑らせて下まで落ちるのもよし。裏から登って皆を驚かせてやるのも面白そうじゃないか。ボクは小中学校で六回も転校したんだ。みなそれぞれに楽しく、いろんなことを学んだ。色んなの寄り道ができて面白かったよ。道草でもいいかな?」と、一高時代の親友米山保三郎の「わかりきったことをして何になる?あちこちぶつかりながら進む方がきっと道が拓ける」の言葉も添えて寅彦を励まします。熊本五高時代初期からの教え子寺田寅彦はのちに日本の物理学の先駆者になります。


著者も漱石の寄り道、道草に偉大な彼の原点を見出だしたのでしょう。意外だったのは鏡子。よくソクラテスの妻を引き合いに出して悪妻と言われます。そのイメージが強かったので、今度の鏡子像にとても好感をもっています。著者はいろんな文献から小さな言葉を掬い上げて、今までとは違う鏡子を作り上げたのでしょう。
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小川洋子『博士の愛した数式』とアドベントカレンダー

2020年11月27日 | 本・新聞小説
カラフルなクリスマス用品が店頭を賑わす季節です。それに加えホークス優勝の熱気で街は賑わいを見せています。そんな中で見つけたのが、クリスマスを待つアドベントカレンダーでした。
boxにはキャンディが入っており、日付のboxをひと箱ずつ裏返しにしていけば、クリスマス当日にはツリーの絵が完成するというもの。孫娘に送ります。

数あるアドベントカレンダーの中から、なぜこれに目が行ったのか?
それは読んだばかりの小川洋子著『博士の愛した数式』が突然頭に降ってきたからです。
三角形の上から6段目までのboxが「自然数」で積み重ねてあり、ある数式を当てはめればboxの総個数が求められる・・・、そう(6×7)÷2=21でぴったり21個。
高校のとき「n×(n+1)÷2」は無機質な公式としてただ暗記しただけ。それが芥川賞受賞作家にかかれば数式は美しくなり、輝き、喜びを持ってくる・・・。

交通事故で記憶の蓄積は1975年まで、それ以降は80分しか記憶が続かないという64歳の数学博士、家政婦の「私」、彼女の10歳の息子「ルート」の心温まる話です。
博士の「子供は一人にさせてはいけない」という考えで、ルートは下校後は博士の家で過ごすことになりました。
ある日、博士と家政婦がルートの治療を待つ間に、目にはいった放射線の三角マークにヒントを得て、●を三角形の形に並べて書いていきます。


博士は「つまり三角形は本人が望もうが望むまいが、1からある数までの自然数の和を表しているんだ。この三角形を二つくっつけると、更に物事は先に拓ける」と家政婦に説明します。
こうして「n×(n+1)÷2」が導かれます。すごい、美しさって数字で表せるんだぁ~!数式に表情が宿りました。(このインパクトが強くてアドベントカレンダーに釘付けになったのです)
数字を、数学を愛してやまない純粋な博士の目には、この美しさに感動の涙が・・・。

家政婦の誕生日は2月20日→220。博士の論文「学長賞No.284」→284。
220の約数の和が284。284の約数の和が220。2つの数字はめったに存在しない「友愛数」。二人は見事なチェーンで繋がっていたのです。
江夏投手の背番号は28。28の約数1、2、4、7、14を足すと28。これが単純で規則正しい「完全数」。江夏はこの完全数を背中に背負って活躍したのです。

博士の愛する「数字」と「タイガース」で繋がった3人の生活のリズムはすぐに軌道に乗りました。
博士のルートを慈しむ純粋な愛情、ルートも少年ながら、博士を敬愛し正面からそれを受け止める寛容さを持っています。心根の優しい家政婦の博士に対する細やかな心遣いも自然です。

素数、双子素数、虚数、√(ルート)など、生活の中にエレガントな数を見つけながら三人の心が自然に結びついていきます。
無色だった博士の生活に「楽しさ」と「体温」が加わって透明感のあるカラー版になりました。静謐で、穏やかで、そして切ないストーリーでした。
ルートが長じて中学の数学の先生になる結末に、わずか2年足らずの3人の共同生活が意味を持ち、希望に繋がります。

この本が出版されたときに大いに話題になりましたが、数学と純文学の異質な結びつきに興味はわきませんでした。しかし、長びくコロナ禍で本に逃げ場を求めるうちに何でも読もうという状況に変わってきました。
もっと早く読んでおきたかった、この3人と心を共有したかった、ずっとこの本の美しい数字に浸っていたいと余韻がいっぱい残る本でした

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もうひとつの「麒麟」

2020年11月09日 | 本・新聞小説
中国で「麒麟」は乱世には人里離れた林にひそみ聖天子の世に出現するといわれておりで、人びとは太平の夢を託して麒麟が来るの待ち続けました。その「麒麟」を出現させるべく心血を注ぐのが『麒麟がくる』の光秀です。

「もうひとつの麒麟」の話は20数年前に読んだ『翔べ麒麟』の話。再読しました。



著者・辻原登が正倉院宝物「金銀平文琴」の裏に描かれた双竜を見たことが物語を生むきっかけになりました。
琴には「季春」と銘が書かれていること、双竜がどうしても麒麟にしか見えないこと、その中国琴のみが正倉院目録に無いこと、それがなぜ正倉院御物に含まれているか・・・から壮大な物語を編み出します。
冒頭の地図「長安城坊図」が人物の行動を具体化させてくれるので、イメージが膨らみわくわくして読める本です。

実在の阿倍仲麻呂と鑑真を日本に連れて帰るという目的で派遣された遣唐使ですが、登場人物は現存する資料の隙間を縫って、広大な唐の国を自由に駆け巡ります。

遣唐使の護衛士として藤原真幸(架空の人物)を登場させたり、遣唐使が新羅をめぐって唐政府と交渉をしたりします。きらびやかでスケールの大きい唐政府を内側から見ていて、なかなか緻密な描写です。
阿倍仲麻呂、吉備真備、藤原清河、玄宗皇帝、楊貴妃、安禄山、文化人で政治家の王維、李白、顔真卿など実在の人物も登場します。

藤原真幸は唐の騎馬隊に抜擢され、遣唐使として唐に渡ったまま玄宗皇帝に仕えていた阿倍仲麻呂の元で活躍します。やがて安禄山の戦いに巻き込まれますが、仲麻呂と共に唐政府再興に重要な役割を果たします。
そんな中で聡明な李春と出会い、彼女の祖父季春が作ったという麒麟の絵の琴に巡り会います。
時が経ち、大きく成長した真幸は「麒麟になりなさい」と後押しされて、自分の活躍する場所は唐ではなくて日本だ、と次の遣唐使船で李春を妻にして連れ帰ることを決意したところで話は終わります。著者は持ち帰った琴が正倉院に現存していることで、二人が日本に無事帰国したことを暗示しています。

著者は最後に『隆盛を誇った藤原氏南家は恵美押勝の乱で凋落し、代わって式家がのしてきて、桓武天皇擁立では最も重要な役割を果たしました。
かつて式家は藤原弘嗣(真幸の父)の乱を起こしました。大逆者を出した家系にも拘わらず再び隆盛をほこったことは極めて異例なこと。何か不思議な力が働いた、そういう力を持った人間が現れた、としか考えられない』と締めくくっています。
生きた麒麟・真幸だけではなくて、琴に忍ばせた麒麟も日本に現れた・・・。
当時の日本は鑑真が戒律を授けたり、正倉院や国分寺、国分尼寺が建てられ国は安定と繁栄に向かっていました。目には見えない麒麟が現れていたのかもしれません。
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