新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

米本土を爆撃した日本人···って?

2021年09月03日 | 本・新聞小説
米国がアフガンからあっという間に撤退しました。アフガニスタンがこれからどうなっていくのか、民衆のおびえた表情と不安の映像には心を痛めるだけでなすすべがありません。タリバンと考え方の土台がまるで違っている日本も含めた諸外国の間にきちんとした対話ができるのかと不安が募ります。戦争でなく外交で・・・と願うしかありません。

アメリカは真珠湾攻撃は受けたものの、本土は外国からの爆撃を受けたことがない。例外に一度だけ日本軍の爆撃を受けた・・・と聞いたようなぼんやりとした記憶がありました。

時を経て、その話を書いた本が友達から送られて来ました。藤田信雄『わが米本土爆撃』です。
ノート27冊分に記録された日記や日誌をもとにして編集されたもので本人の名前で出版されています。


昭和17年、海軍軍令部から私(藤田)は、アメリカ西海岸に爆弾を落とし大森林の山火事を起こし焦燥地獄に陥れ、敵国民の戦意を阻喪させよという命令を受けます。それも潜水艦から飛び立つ小型の偵察機で。爆撃は成功。しかし現地では山火事どころか落雷にあって杉が割けた程度で作戦の成果はゼロ。戦中戦後その計画は長く秘密にされてきました。

米国では、戦後その戦果が広く知られるようになり、オレゴン州ブルッキングス市から「この勇気ある行動は敵ながら実に天晴れである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」として、昭和37年つつじ祭りのゲストに招待、大歓迎されます。

本の前半は飛行士としての戦争中の内容ですが、後半はしっかりと地に足をつけた紆余曲折の生き方に感銘を受けました。
荒廃の戦後、金物行商から身をおこし茨城県内でも名の知れた会社に発展させますが、息子に社長の座を譲って間もなく倒産。債権者から逃れるために家族はバラバラに暮らすことに。

昭和55年、現金収入を断たれた「私」は、鹿島海軍航空隊教官時代の教え子の会社で恥を忍んで運転手として働き始めます。齢70。給料13万円。「やり残した仕事」のために毎月3万円ずつ貯金、目標は100万円を心の支えに努力を重ね教官時代の能力を発揮して、工場長、取締役へと認められていきます。

昭和60年、目標達成の100万円でブルッキングスの高校生を筑波万博に招待するいとう念願をかなえます。ブルッキングス市民のあたたかい心に触れた恩返しでした。
昭和17年に自分に下された「あの命令」を忠実に実行したことによって始まった数奇なる人生に、ようやく一区切りをつけたのです。

平成4年、もう一度渡米してブルッキングスの爆弾を投下した山に登ります。
『日本軍爆弾落下地点。第二次世界大戦中、アメリカに落とされた唯一の爆弾』の看板の傍らに小さな苗木を植えました。
「50年かかった。やっとできましたよ。あの一本の苗木で、私が米本土に及ぼした被害の償いが・・・。これでかつての敵地に故郷を持つことのできる身になりました。私は本当に幸せ者です」

平成9年、「ブルッキングス名誉市民」の伝達の日に、入院先の病院で87歳の波瀾の人生に幕を下ろしました。

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さっぱりした和風のデザート「桜と日本酒のデザート」です。

ゼラチンでなく寒天、日本酒、牛乳、桜の塩漬けを使います。

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