戦後間もなく生まれた私は、子供の頃に大人たちがひそひそと話す言葉の中に、「ハイセン、テンノウ、センパン、サイバン、ヨクリュウ、ヒメユリ・・・」などを聞き、漠然と大変なことなのだと感じていました。
なぜ大人たちがひそひそ話していたのかを理解できたのは、ずっと後になってからです。「ひめゆり」がずっと心に残っていたのは、同姓のこともありそのあまりにも無残な青春のせいだと思います。
そのひめゆりの塔 に、やっと小さな花束を手向け、手を合わせる機会を得てほっとしたというのが実感です。
多くの人によって手向けられた花と記念碑の間には深い洞窟が口をあけています。それは出口であって、奥には横穴の病院壕になっているとのこでしたと。
この中でひめゆり部隊は負傷兵の看護、水汲み、飯上げ、死体埋葬にあたり、寝る間もなかったそうです。
尖った荒々しい岩の洞屈からは梯子を使ってしか地上に上がれなかったとか。こんな劣悪な環境の中で、ひたすら国の、軍の、命ずるままに、そして疑うこともなく信じきった「鬼畜米英」の言葉を胸に忠実に行動しました。しかし、ついには見捨てられ、すざましい形で死んでいった若き乙女達を思う時に、胸をえぐられる思いと理不尽さへの怒りでした。ひめゆり学徒と教師は227名です。このほかにも多くの学徒隊が動員され1998名が戦死したそうです。
平和祈念公園 世界の恒久平和を願い、国籍、軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなられたすべての人の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」です。一つひとつの名前に命の重さが感じられます。
豊見城にあるこの司令壕は当時450m。薄暗い通路は迷路になっておりアリの巣のようでした。
米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地でした。とにかく本土決戦を避けるために、米軍の上陸を少しでも遅らせようとして、日本軍は沖縄の島の南へ南へと下って行ったと、ガイドさんの静かに抑制したような説明が心に響きました。大本営は「時間稼ぎの玉砕戦法で本土の防波堤になる」ように指示したのです。
司令官幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年6月13日夜半、拳銃自決を遂げました。その時、大田少将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の献身的な協力について配慮をしてほしいと訴えた電報が残っています。
太田實海軍少将の電報 「・・・海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約を強いられ、ご奉公をするのだという一念を胸に描きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。沖縄の実情は言葉では形容の使用もありません、一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月いっぱいを支えるだけということです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように。」
この日は7時間コースの定期観光バスで最後に行ったのが おきなわワールド。
その中に 玉泉洞 があります。鍾乳洞です。30万年の歳月が作り上げた大自然の彫刻の中を30分ほどかけて歩きました。
ホテルの近くに、ユニークな形をした那覇市役所がありました。さながらサンゴ礁をイメージした建物です。夏の酷暑を避けるための工夫がなされているとのことでした。