新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

ハウステンボス

2013年09月30日 | 国内旅行記

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夏休みから引き延ばしていた長崎のハウステンボス行きがやっと実現しました。21年前、オープンしたばかりの頃に来た時、娘は中学生。今度はその孫を連れてやってきました。
当時は植えたばかりの木も小さくて・・・。20年間で、成長したというよりは増殖したという方がピッタリな広大な街並みと、豊かに葉を茂らせた木々には隔世の感がありました。テーマパークのテーマは「ヨーロッパの街並み」とか。

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ハウステンボス直営のホテル、ホテルアムステルダムに宿を取りました。

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園内に唯一立地しているホテルなのでなかなか取れませんでした。本来なら2日間のパスポートが必要なところを、なんと期間限定で翌日の再入場券のプレゼントがありました。

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朝食のレストランからみた園内。開園前に花の水遣りや舞台の設定が行われていました。ホテルが園内に立地しているので、開園前でも自由に散策できます。ラッキー!
 ばーば  「ねえ、ほら 街が外国みたいでしょ!」
 孫(5歳) 「・・・ボク 外国に行ったことがないからわからない・・・」


今回は子供の目線で行動しなくてはならず、老夫婦はちょっと戸惑いましたが、ガイドマップの見方に慣れてくると、だんだん子供の心に戻っていきます。
夫はアニメの「ONE PIECE」なんて初めて聞いたと思いますが、大人気だけあって、並んで待った「ONE PIECE ライドクルーズ」は圧巻。アニメのストーリを体験できるハラハラドキドキのスリリングな体験でした。孫も私も、もう一度乗りたかったけど・・・。
ホテルで仮面をくれたので、アムステルダム広場での仮面舞踏会に「ええぃ!」とばかりに参加。夜だし仮面を着ければ人格が変わります、いえ、変えられます。2ビート、4ビートのテンポの速いダンスに参加。実に快適でしたが、これが最初で最後。

日中はまだまだ暑く、カフェに駆け込む時は4人とも意見がまとまります。おいしかったのは台湾スイーツ雪花氷。街中でも静かなブームを呼んでいるようです。

二日間のハウステンボスでしたが、まだほんのちょっとしか見ていない感じがします。園内移動の乗り物は無料でどこにでも行けるのですが、なにせ時間が足りません。
「世界のワインとチーズ祭り」「世界のビール祭り」も始まっていましたが、余韻を残しながら特急「ハウステンボス号」で帰宅につきました。

5歳でも特急指定席は子供料金が発生するし、ホテルは大人料金が必要でした。小さくてもちゃんと一人前として扱われて存在を示した旅になり、ちょっと不可思議な思いでしたが、とっても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

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村木事務次官の活躍

2013年09月26日 | くらし

Img_2540今朝ラジオニュースを聞きながらキッチンに立っていると、厚労省の事務次官・村木厚子さんがワシントンで講演したことが報じられました。

村木さんといえば、4年前に大阪地検特捜部主任検事の証拠改ざんにより、無実の罪で数か月の拘留という、みんなの胸を割くような経験をされた方です。そんな中でも家族や同僚、友人の深い信頼と支援で無罪を勝ち取った方です。

ワシントンでの講演は、働く女性の支援策を紹介した折に、国内で自分が2人目の女性事務次官になれたのは「夫が子育てや家事を積極的に手伝うイクメンだったから。自分はとても恵まれていた」と語られたようです。低姿勢で物腰が柔らかくて敵を作らないというその姿が、家庭内の結束にも結び付いたのでしょう。

Photo_2いわれのない罪を負わされることを「濡れ衣を着せられる」といいますが、村木さんはまさにそれでした。

この語源がなんと福岡に伝わる平安時代の故事なのです。

1300年前、筑前国の国司の妻が病死。後妻は、国司が前妻の娘ばかりかわいがるのを嫉妬して嫌がらせを始めました。
ある日、漁師が国司の元に来て「あなたの娘が夜な夜な私のところに来て衣を盗んでいく」と告げ口をします。後妻が仕組んだことでした。
びっくりして娘の部屋をのぞくと、寝ている娘の上には濡れた衣が・・・。逆上した国司は娘の言い分も聞かずに斬り殺してしまいました。
後に、国司の夢に娘が現れ無実を訴えます。すべて真実を悟った国司は悔恨の涙を流し、ついには出家をするというものです。
こうして身に覚えのない罪を「濡れ衣」と表現するようになったということです。

一枚目の写真は、初めて今年たくさんの蕾をつけた秋明菊。酷暑の中でけなげにも元気に育ち、8月の残暑の中で咲き始めました。まだたくさんの蕾が残っています。もう少し先の凛とした空気の中で咲くほうが名前に合っている気がしますが・・・。

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アジア文化賞大賞 中村哲医師(ペシャワール会)

2013年09月16日 | 福岡アジア文化賞

Photo_3第24回 福岡アジア文化賞大賞は、医師でペシャワール会現地代表の中村哲氏です。
当然の受賞、いや遅きに失した・・・と思うほどの困難な支援活動を30年も継続し、実績を上げ、まだ継続中の人です。

授賞式の翌日フォーラムで
『 アフガニスタンに生命の水を ~国際医療協力の30年~ 』と題した基調講演が行われました。

中村氏は、パキスタンとアフガニスタンの砂漠のような土地で、30年にもわたり、現地の人の命と向き合って活動を続けてきた人です。

1884年、パキスタンでのハンセン氏病の医療活動から始まりましたが、その後相次ぐアフガニスタンからの難民に、91年アフガン国内に3診療所を開設しました。そこを中心にして無医村での診療活動を開始します。

1993年マラリア大流行で、治療薬に日本国内の募金から2000万円の寄付を受け2万人の命を救いました。
98年にはパキスタン・アフガニスタン両国の拠点となる近代的な 『PMS(ペシャワール会医療サービス)病院』 を設立します。

2000年のアフガン大旱魃で難民流出が続き、「飲み水・農業用水の確立こそ難民化を防ぐ」として医療活動と水源確保事業を並行させていきます。
飲料用井戸1600本、径5mの灌漑用井戸13本を掘削、地下水路38か所を修復して水の確保に取り組みました。


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( 写真は、ペシャワール会 のパンフレットから用水路建設を4コマにまとめたものです )

数十年に一度という大旱魃で土地は砂漠化し、次々に村が消えていき、膨大な数の難民が発生。

2003年、写真のようなまさに砂漠の地に、クナール河からの水を引く用水路事業が始まります。
まだ重機もなく、現地の人の努力で推し進められました。
2007年 第一期 13kmが完工
2009年 24.3kmが開通
2010年 全長25.5kmが開通  灌漑面積は3000haとなり、20万人が恩恵を受け、消えた村が次々復活していきます。
取水口の新設、改修を行い、今では14000ha(60万人)の農地を守っています。

用水路は、日本の伝統土木工法の蛇籠工。両岸には柳を植えて、蛇籠の中に伸ばした根で土手の補強をします。


この水路を永久的に保存していくための計画や、試験農場を設けて作付・技術の研究も始まり、穀類、芋、野菜、果樹、養蜂、畜産など徐々に成果を上げているということです。

フォーラムでは、最近の新しい映像が映し出され、豊かに生長した両岸の木々の緑の間を、澄んだ水が流れている・・・のが信じられないほどでした。

そんな困難な事業を継続させているものは何かという会場の質問に「誰もが押し寄せる所なら誰かが行く、誰も行かないところでこそ、我々は必要とされる」「机上の議論はいらない、ただ実行あるのみ」というずしりと響く言葉がありました。


クリスチャンである中村氏が、イスラムの現地の人たちの命と心を大切にし、住民が待ち望んだモスクを建てて喜びを共にしたことにも非常に感銘を受けました。力でねじ伏せることにもっとも怒りを感じている方です。
現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のためにはたらく 』ことを『 唯一の譲れぬ一線 』とする確固としたした姿勢があります。

映像にはメスを重機に代えて運転する中村氏の姿、真っ白い長い服の現地の人たち、子供たちの屈託のない明るい笑顔、緑の畑、荒野の中を突き抜ける一筋の緑の水路など、希望につながる写真が映し出されました。

Img_2405_3アフガンの陽に焼けた顔は穏やかで、荒野で活動する人とは思えないほどの柔和な語り口と相手を受け入れる懐の深さに、現地の人が警戒心をいだかずに信頼を寄せ、尊敬するのがよくわかります。

さり気ないユーモアもきっと周りの雰囲気を和ませてくれるのでしょう。
会場でも何度も笑いが起こりました。話し方もとてもうまいのです。

過去24回のアジア文化賞で、日本人の大賞受賞者は中村氏が二人目だそうです。「日本の良心にかけて」挑戦しているという活動に、同県人の誇りとしても支援を続けたいと思いました。

第11回でこの大賞を受賞したバングラデシュのムハマド・ユヌス氏は、この後ノーベル平和賞を受賞されました。中村氏も・・・、とそんな期待を市民は心待ちにしています。

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仲道郁代 レクチャーコンサート「ショパン」

2013年09月08日 | 本・新聞小説

「九州市民大学」のチケット2枚が妹から回ってきました。講師はピアニスト仲道郁代氏、演題は「ショパン その人生と悲しみの旋律をひもといて」です。美しいタイトルが仲道さんの雰囲気とピッタリです。
ショパンというと私はなぜか青色をイメージしてしまいますが、仲道さんのドレスもシルクの陰影が美しい青色でした。
人気を反映してアクロスコンサートホールは2階までびっしりでしたが、運よく指の動きまで見える席をゲットしました。

ポーランド生まれのショパンの生い立ちから始まり、曲の技術的な説明ではピアノを弾きながら、ソフトで、メリハリのあるとてもわかり易い解説でした。
パワーポイントを操作しながら、楽譜、子供時代に書いた父親への手書きのカード、カリカチュア風の絵が映されて、その才能はピアノばかりではなかったことが証明されました。
ポーランド独立蜂起の版画、ジョルジュ・サンドの写真、親友ドラクロワが描いた肖像画も映しだされました。

①ポーランドの民族音楽、②一時期は失われてしまった祖国ポーランドへの思い、③パリでの、貴族や文化人との華やかなサロン生活、というキーワードをなくしては、ショパンの曲は語れないとのことでした。
それぞれのレクチャーごとにそれに合った曲が演奏され、①ではポロネーズ、マズルカ、②では革命、③ではノクターン、ワルツなどが演奏されました。
最初の作曲が7歳。まだ楽譜が書けなかっということで、父親が書いたものだそうですが、その演奏もありみんな溜息でした。
楽譜に隠れている音符のマジックで、メロディに深みと厚みと美しさが出てくるのを、曲の一つ一つに納得しながら聴くことができたのは貴重なことでした。

ショパンの人間像も作品も研究し尽くした仲道さん自身が、ショパンの手紙の朗読された時には、やはりとても胸を打つものがありました。
普通にはないとてもユニークなコンサートで、2時間ばかり音楽校生になったつもりでとても充実感がありました。

Photo数年前に、平野啓一郎『葬送』(全4巻)を読みました。

ショパンのパリのサロン生活の華やかな面と暗い部分、恋人ジョルジュサンドとの生活と別れ、思わしくない体調、親友ドラクロワとの交流、当時の画壇事情、ブルジョワジーの抬頭、2月革命の混乱、イギリスへの逃避・・・を描いたものです。

結構難解で霧がかかったみたいでしたが、今度のレクチャーでその霧が晴れた感じです。それほど、整然とまとめられた解説がわかり易かったということです。
仲道さんは「弾く」能力ばかりでなく、「教える」能力も相当なものであることがわかりました。

表紙の写真は、ピアノの前に座ったショパンの肖像画の一部でドラクロワが描いたものです。その左には腕を組んだジュルジュサンドが立っていたそうですが、今は切り離されて別々になっています。
あれほどショパンに尽くしたジョルジュもショパンを見限って離れて行ってしまいました。サンドとの別れで、絵も同じように切り離されて別々に・・・。

ショパンのスポンサーであった貴族たちも革命のあと離れていき生活は困窮し、胸の病も悪化して39歳で亡くなりました。
若き日にポーランドを出て二度と帰ることはなかった祖国を、ショパンは生涯忘れたことはありませんでした。遺言に従って心臓は祖国ポーランドへ、遺体はパリに埋められています。

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