36年間も留まった唐からついに帰国の途へ。蘇州を発ち沖縄にたどり着いた仲麻呂の遣唐使船が、その後大和に帰り着かずに遭難したという噂は口から口へ唐にも伝わります。李白がその死を悼んで格調高い詩を詠じていることは仲麻呂の存在がいかに大きかったかが分かります。ところが仲麻呂は生きていた・・・。
仲麻呂らは沖縄を出てから暴風雨にあい、20日以上の漂流の果てに安南(ヴェトナムのゲアン州)に漂着します。幸運にも100人の乗員は全員無事でした。
当時の慣習から漂着した船と積み荷と人員は領主の所有物とみなされます。軋轢を越えて領主と話し合いの末、船と乗員の引き渡すことで皆の待遇改善を図ります。皇帝からの高価な下賜品を思うと決心は大きな犠牲を払うものでしたが何よりも人命尊重です。
運がよかったのは漂着の情報が唐に属する安南都護府に伝わり、その仲介で、仲麻呂・清河・従者2人は解放し、ほかの乗員については皇帝の援助で身代金を届けるまで全員の無事を図るように約束させます。漂流からすでに1年も経っていました。
船で安南から蘇州まで半年。朝廷の許可を得て洛陽に入れたのはさらに半年後の755年11月。唐を発ってからすでに2年が過ぎていました。そしてその時は奇しくも安禄山が反乱を起こして軍を率いて南下している最中でした。
仲麻呂は驪山の華清宮で玄宗と再会します。皇帝は仲麻呂に安南都護府の職を与え乗員80名の保護を約束します。同僚の王維は仲麻呂の力量と才覚を生かし、二人で皇帝に近侍できるのを喜びます。
仲麻呂の再婚した妻・玉鈴の屋敷は、仲麻呂が帰ってくる知らせを聞いて内装を日本風のしつらえに変えていました。
政略的な名ばかりの結婚でしたが、離れていた2年間が愛と慈しみと信頼に変わっていたのです。スパイの鎧も捨て重圧のなくなった仲麻呂は初めて玉鈴と心を通わせ、玉鈴も皇帝のために尽くしてほしいと頼みます。
反乱軍の安禄山は南下しながら次第に味方を増やし、ついに洛陽を占拠します。官軍の顔真卿と安禄山に降ったと見せかけた従弟の顔杲卿が協力して、安禄山の退路を断つという大活躍をします。
迫りくる危機に、玄宗もやっと名君の本能を呼び覚ましました。突厥人の将軍・哥舒翰(カジョカン)を元帥にしたい玄宗の要求に対して、彼は「敗軍の将の封常清と高仙芝を除くこと」を条件に出します。
玄宗はその是非について王維と仲麻呂に意見を聞きます。この時の二人の分析が実に鋭くて面白い。結局仲麻呂の意見が採用され、封常清と高仙芝は宦官の手の者に打ち取られ、全軍の指揮を哥舒翰が取るようになり洛陽奪回のチャンスを伺います。
756年元旦に安禄山は洛陽で大燕国を樹立し、自ら皇帝になることを宣言します。反攻にでた顔杲卿は、逆に捕らえられ安禄山の洛陽に連行されます。衝撃を受けた唐政府は、顔杲卿と安禄山側の何千年を交換するという条件を持たせて仲麻呂と王維を洛陽に赴かせます。
安禄山も「楊国忠と哥舒翰を引き渡すこと」の条件を出します。節度使の安禄山が西域の独占交易で莫大な利益を得ていることで、これを突き崩して自分達の利益を得ようと企んだのが楊国忠と哥舒翰。追い詰められた安禄山は交易を確保するために、結託した二人を打つことがそもそも争乱の始まりでした。
ところが長安では楊国忠が密かに可千年を惨殺し、激怒した安禄山は顔杲卿の手足を切り落として惨殺します。
初めは結託していた楊国忠と哥舒翰です。しかし玄宗に重用された哥舒翰が楊国忠に従わなくなったことで、国忠は哥舒翰を追い落とそうと謀ります。政府内の不協和音で結局20万の兵の足並みが揃わずとうとう潼関が陥落。ついに長安は敵の侵入にさらされることになりました。
この危機的状況に楊国忠は半ば強引に玄宗皇帝を奉じて蜀(成都)へ向かうと宣言し、玄宗も長安を脱出することに同意します。
仲麻呂は楊国忠のやり口や強引さや詐術をつぶさに見ているので、この期に及んで異を唱えることはできませんでした。
6月13日未明、玄宗皇帝の一行は人目をさけ、禁苑の延秋門を抜け西に向かいます。