年末恒例の「第9」は今では季語の感さえありますが、これは日本特有のものだと聞いた事があります。
太平洋戦争の戦況が激しくなっていく中、東京音楽学校(現東京芸大)で、昭和18年12月出陣学徒壮行の音楽会で「第9」の4楽章を演奏し、戦後戦死した友の鎮魂の音楽会を再び12月に行ったのがそもそもの始まりだとか。
KBCテレビ製作の「九州物語」で第9の始まりに関する面白い放映がありました。
①久留米説(12月18日放送)
大正3年、日本は第一次大戦に参戦、俘虜のドイツ兵を日本各地の収容所に送り、地元「久留米俘虜収容所」にも焼く1300人が収容されました。大正8年12月3日、久留米高等女学校でドイツ不慮との交歓会が行われ、その時ドイツ不慮によるオーケストラが演奏したのが「第9」の3,4楽章だったそうです。演奏会でバイオリンを弾いたベルリン出身のエルンスト・クルーゲの日誌や写真などが、遺族から久留米市に寄贈され、近年演奏会の詳しいことがわかってきたとか。収容所は比較的自由が尊重されていたそうですが、その中でオーケストラカが結成されるとはさすが音楽の国ドイツです。
②福岡説 ―12月25日放送
九大医学部教授・榊保三郎氏の努力による九大フィルと、「歓喜の歌」の初演についての目新しい内容でした。
大正13年1月26日、「摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会」で、榊氏の指揮のもと、ベートーベンの第9の四楽章に奉祝歌の歌詞を当てはめて二百人が大合唱。第四楽章に関しては九大フィルが全国初演だったということです。
これは年末の公演というわけではないけれど、第9の合唱が国内で初めて行われたという事実に価値があるのだと思います。
年末の第9公演に関しては、郷土愛も絡んで処々方々いろいろな説がありますが、どれが事始かを云々するよりも、大正時代にクラシックへの憧れと情熱と理解への努力があったことが素晴らしいことだと思います。
明治40年ころは、ベートーベンをビート・ホーフェンと表現していたようですよ。