新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

復活!

2013年01月22日 | 住まい&掃除

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ピッカ、ピカ!見事に復活しました。

というのは、ふたの内側も、鍋の内側も外側も真っ黒焦げだったんです。
ミルクを鍋にかけて温め、別に蒸らした茶葉をミルクに入れ、火を止めてそのまま数分置く。これが通常の作り方ですが、ガスの火を切るのを忘れて・・・。

「あっ!」と気づいたときは、吹きこぼれたミルクで内も外も真っ黒。内側には、紅茶の葉が底に「溶接」でもしたかのようにこびりついていました。内側だけならまだしも、外側の焦げはどうしようもありません。タンパク質の焦げはしつこいのです。
覆水は盆に返らず、焦げ付きはもとには戻らない・・・。今までの経験からして、今回は回復の見込みのない重症の焦げ付き方だったのです。

お鍋を焦がすというのは主婦にとってかなりショックなことなのです。不注意に対する自己嫌悪、愛着、捨てるとという行為、金銭的損・・・。

すぐに「燃えないゴミ」の袋に放りこむには、長年頑張ってきた鍋がかわいそうだと思い、ひと呼吸置くつもりでごみ袋のそばにぶら下げていました。

そして今日、コーヒーカップやグラスをきれいにすべく、酸素漂白剤に石鹸を足して作った液に浸して漂白をすると、鼻歌が出るほどピッカピカに!クリアなのはなんと素晴らしいことでしょう。
このまま液を捨てるのももったいないと思い、はたと思いついたのがあの黒焦げのお鍋です。

30分ほど丸ごと浸しておくと、コゲの部分が少し浮き上がった感じがしました。
「ひょっとしたら、いけるかも」と、金タワシとナイロンタワシとスポンジタワシでこすると、見事によみがえりました。外側の焦げまできれいに取れたことが不思議なくらいです。いまだに信じられないほどです。簡単にあきらめるべきではないですね。

今から10数年前、アルミ鍋は認知症になりやすいと聞きステンレスと琺瑯に切り替えましが、あれってデマだったのでしょうか、今はもう消えてしまったようです。
そういえばさっき飲んだビールはアルミ缶でした・・・。アルミホイルに包んだ料理もよく食べてますし・・・。

 

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冬の簡単料理

2013年01月17日 | 食・レシピ

介護施設の母のもとに通うようになって2年。バス、地下鉄、電車を乗り次いで帰ってくるまで6,7時間かかります。毎回、小旅行みたいにレスポのボストンバッグ、ミディアム・ウィークエンダーに洗濯物を詰めて行き来しています。
その日は帰りが遅くなるので、よくお弁当や総菜を買って帰りましたが、往復の自分なりのペースがつかめると、夕食はなるべく手作りの方がよくなりました。それに簡単でおいしいレシピが見つかるとすぐ飛びついてしまいます。

∞-*-∞-*-∞      常夜鍋          ∞-*-∞-*-∞

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① 1リットルの水に、ショウガひとかけの薄切り、酒 2分の1カップ、塩 小さじ 1 を鍋に入れて沸騰させます。
② 3等分したほうれん草と豚ロースをいれ、ポン酢で食べるだけ。あっという間に出来上がります。( 根元には十字の切れ込みを入れておきます )

さっぱりしてとてもおいしく、毎日食べてもいいくらいにおいしいので「常夜」というのだそうです。ダシも取らなくていいし、寄せ鍋ほど塩分がありません。
このほうれん草は霧島産の「大きいほうれん草」で40センチくらいあり、甘みのあるおいしいものです。二人で400グラムも食べられます。

  ∞-*-∞-*-∞       タジン鍋        ∞-*-∞-*-∞

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野菜庫の掃除みたいに便利なメニューです。タジン鍋が活躍します。
玉ねぎ、キャベツ、シメジ、椎茸、ピーマン、パプリカ、ニンジン、ブロッコリー、サツマイモ、それに鶏肉をいれます。チキンブイヨンを100ミリリットルの水で溶いて流し入れ、蓋をして火にかけると15分ほどで火が通ります。鍋も厚いし、とんがり帽子状の重たい蓋がしっかりと蒸気とうまみを閉じ込めるので、おいしさが逃げません。ポン酢でさっぱりといただきます。ごまドレもOK。

  ∞-*-∞-*-∞   簡単押しずし    ∞-*-∞-*-∞

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干しアミをいただいたので、何に使おうか・・・と思いついたのが、いつもは桜エビで作るお寿司です。
①干しアミ20グラム、酒小さじ3、砂糖小さじ2を入れて鍋で煎り付けます。

②卵3個は、焦げないように煎り卵。トッピング用に少し取り分けておきます。

③菜の花 半たば を茹でてザルに上げ、しょうゆ 小さじ1 をふりかけてゆるく絞ります。トッピング用に蕾の部分を残し、後は細かく刻みます。

④2合の米は普通に炊き、炊き上がったらすし飯にします。それに、①と②と③を混ぜます。

⑤牛乳パックを適当に切り取り、その中に一人分ずつ④を入れて形を作り、最後に卵、蕾をのせて出来上がりです。

常備菜として作っておいた、鶏モモの醤油煮、椎茸の甘辛煮、ミョウガの酢漬けを一緒に盛り付けると、急いで作った料理とは思えないほどごまかしが効きます。

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辻 邦生著 『春の戴冠』

2013年01月11日 | 本・新聞小説

Img_1197このところ、ひょんなきっかけで辻邦生氏の本を読み続けています。うんざりするほど長い本ばかりですが、深い感銘と感動と細やかな文体から受けるしみじみとした共感から逃れられないでいます。

舞台が日本であれ、西欧であれ、膨大な資料をよく研究されているようで、時代背景や当時の生活の描写が緻密で、すんなりとイメージできる所が親しみを覚えます。

『背教者ユリアヌス』の次は何を・・・と思っているときに、ちょうどcannellaさんのお薦めがありました。『春の戴冠』です。
これがまた1800ページもありますが、時代はルネサンス、あのボッティチェルリを中心に彼を取り巻く歴史的にも豪華な人物像を浮かび上がらせながら、花のフィレンツェの喜びと苦悩が克明に描き出されています。

時はフィレンツェの15世紀半ば。メディチ家は13世紀に台頭し銀行家として財を蓄えながら、14世紀には銀行業は急成長し、コジモは15世紀前半に強大なメディチ家の基礎を築きます。建築、彫刻、絵画を通じてフィレンツェの街づくりに力を注ぎ、老練な政治家としても辣腕をふるいます。プラトンアカデミーを設立しルネサンスの繁栄へと導き、「祖国の父」と呼ばれます。

その後、孫のロレンツォは15世紀後半のフィレンツェに君臨し、父祖の文化の奨励を受けつぎ拡大させ、周りの都市国家とも安定した関係を結びながら、平和なフィレンツェを30年も維持します。一流の学者や芸術家が集まる宮廷を作り上げ、「豪華王」と呼ばれます。

15世紀の半ばに生まれ、フィレンツェ繁栄の申し子として活躍するボッティチェルリは、当然生まれるべくして生まれた『 春 』、 『 ヴィーナスの誕生 』を描きます。その裏にはフィレンツェ随一の「美しきシモネッタ」の存在と、時代を超えても変わらないで続く「不変の形」を描くことに、苦悩しながら挑戦する画家の深い思いがあります。

なんと、ボッティチェルリがそのシモネッタを描いたものが日本にあるのです。丸紅が所蔵する『美しきシモネッタの肖像』です。その後のボッティチェルリの描く絵の中には、彼女の死後もなお、その美しさをずっと引き継いで行きます。

フィオレンツァ随一の美女と言われる彼女は、一度はマルコ・ヴェスプッチ( 航海者アメリゴ・ヴェスプッチの従弟)と結婚しますが、そのあと離婚しています。
そして、馬上槍試合で美の女王として選ばれ、その時の優勝者ジュリア―ノ( 豪華王ロレンツォの弟)と彼女は恋仲になります。
プラトン・アカデミーの常連、詩人アンジェロ・ポリツィアーノは甘美な花の香りのような二人の恋を歌い上げます。
ボッティチェルリも、この本の進行を務める「私」も、プラトンアカデミーの人たちも、このカップルに敬意を表し、好意的に交流を図ります。

シモネッタは結核で、ほどなくジュリア―ノも反メディチのパッツィ家の陰謀により暗殺され、二人とも若くして世を去ります。そして、これが花の都フィレンツェにひとつの陰りを落とす出来事になります。

ロレンツォの死後、息子ピエロの凡庸さとフランスの侵入にフィレンツェは危機に陥り、市民は怒り狂いピエロを街から追い出します。

こうした爛熟の後の危機に、必然的に表れたのが修道僧サヴォナローラです。彼の実直とも言える説教は、市民の間にはびこる退廃的な雰囲気にマッチしたかのごとく市民の心をつかみます。
サヴォナローラ(本書ではジロラモ)は、華やかな文化とメディチ家に断罪の目を向け、市中の多くの美術品や貴重な本をかき集めて広場に積み上げ、虚飾の焼却を行います。
ボッティチェルリも彼に大きく影響を受け、それまでの古典的な美しさと調和を保つ絵とはうって変わった、精神性があらわに見える固い表現に変わっていきます。( この変化を時系列的に、画集の絵を見ていくとはっきりそれがわかります)

イタリア全土を巻き込んで発展するルネサンス思想の中で、フィレンツェだけがこうした禁欲的な厳しい教えの中にある状態が長く続くはずはありません。
サヴォナローラはローマ教皇をも攻撃し、教皇からは破門されます。市民の間からも反動が起こり、人々はメディチ家の自由な暮らしを懐かしみ、フランス寄りだったサヴォナローラに憎しみを抱き始めます。
まだ力を残していた市議会のメンバーと教皇とが手を組んでサヴォナローラの失脚を謀り、彼がかつて芸術品を焼いたその広場で火刑に処されます。20年ほどでサヴォナローラの暗黒の時代は幕を閉じました。

ボッティチェルリの最後の絵( 多分『神秘の降誕』のことだと思いますが)で、『 ( 人間の運命をフィオレンツィアの形で表す)フィオレンツィアが、ただ十字架を抱いて心から痛悔する時だけに( 自分の一切の虚偽、不正、冷酷を告発する時にのみ)初めて人間の心の美にかなうようになる』としています。
『絵の美しさも、人間が願わしい理想を実現できず、それに無関心なら、何の意味もない』というボッティチェルリの心は、サヴォナローラに傾倒していった彼の絵の変化でした。

レオナルドやラファエロ等は、フィオレンツィアを出て新しい地で芸術の才能を伸ばしていきます。しかし、ボッティチェルリは最終的にはフィレンツェから離れることはできず、新しい手法を学ぶこともしませんでした。時代遅れの手法として、いつしかフィオレンツィアの人からも忘れさられていきました。

この本に出てくる数々の絵を画集で対比しながら読んでいくと、確かに絵の技法も表現も変わっていくのがわかります。個人的にも、『 春 』、『 ヴィーナスの誕生 』が最も美しく穏やかな調和を保っていると思います。

ここに登場する人たちをイメージするために、いくつかの冊子から取り込んでみました。

左の写真・・・コジモ
右の写真・・・黒いマントの横顔の男がジュリアーノ 
         右の茶色のマントの男がボッティチェルリ
( 『 東方三博士の礼拝 』 の部分より ) 

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下の写真左・・・サヴォナローラ ( 厳しい神聖政治を行い芸術の思想を大きく変貌させる)
下の写真右・・・左から フィチーノ ( ロレンツォと交流しながら新プラトン主義を説く)
ポリツィアーノ ( ロレンツォの友人で詩人、彼の詩からヒントを得てシモネッタの肖像を描く)
ピコ・デラ・ミランドラ ( 眉目秀麗な哲学者、のちにサヴォナローラに傾倒)

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この本は、ボッテチェルリの友人で古典学者のフェデリゴが、「私」という形で話を進めていきますが、あまりに多くのことが書かれていてとても書き表すことはできません。

一度目の旅では娘と、二度目は夫と、当時から残る黒い石畳のフィレンツェを歩き回ったことを思い出しながら、フィレンツェという花の都に起きた運命的な出来事を、少しは身近に感じながら読むことができました。

∞-*-∞-*-∞-*-∞-*  ついでに      ∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞-*-∞

ボッティチェルリが工房で修業をしているときに、7歳年下の若きレオナルドも登場します。
レオナルドは、親方が10種類の絵の具の作り方を教えると、即座に自分で20種類の絵の具を調合できる才能を持っていることが書かれていました。ほかの画家には見い出せない、あの深い抑えた色調は、その稀なる天才の腕から紡ぎだされたものなのです。
ダ・ヴィンチのウフィッツイ美術館の『受胎告知』や、アルテピナコテークの『聖母子』の奥ゆかしく、存在感のある色彩を見ると、ボッティチェリの『受胎告知』も物足りなく感じます。

もう一つ印象的だったこと。『ヴィーナスの誕生』の描き方で悩みぬいて考え出した手法のことです。
まず、板に布を膠で貼り付け、そこに絵を描き、色を塗る段階でヴィーナスの裸体の下地に金箔を塗りこめ、そのあとに肌色を塗ることです。もし板絵だったら、金箔が浮いて上塗りの肌色をはじき飛ばすし、逆に単なる画布なら上塗りの肌色が強くなって、下塗りの金箔の効果がでません。このボッティチェルリが考え出した手法、板と布を一つにして初めて効果が得られるということが、なぜかとても心に残りました。

読み終わったのが大晦日の真夜中の3時。元旦の日の出までに読み終わろうという意図は全くなかったのですが、ついつい面白くてちょうど区切りよく読み終えることができました。

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石光真人 『ある明治人の記録』 会津人柴五郎の遺書

2013年01月08日 | 本・新聞小説

今年の大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」。何かそれに関する本を、と思っていた時に、tocoさんのブログで『放送が始まる前に予習のつもりで・・・』というおすすめの記事が目に留まりこの本を知りました。

Photo_2(カバーについている説明書きから)
『明治維新に際し、一方的に朝敵の汚名を着せられた会津藩は、降伏後下北の辺地に移封され、藩士は寒さと飢えの生活を強いられた。明治三十三年の北清事変で、その沈着な行動により世界の賞賛を得た柴五郎は、会津藩士の子であり、会津落城の際に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、維新の裏面史ともいうべき、惨苦の少年時代の思い出を遺した。』 

この本は、柴五郎翁が八十歳を過ぎて書いた追想の記録を、石光真人氏が整理編集したものです。柴五郎がかかわった人々やその時代の知らされなかった部分を、きちんと後世に残す仕事をした石光氏の功績も大きいと思います。

幼年期から明治10年の西南戦争で西郷隆盛が自刃し、翌11年大久保利通が暗殺されるまでが書かれています。
『会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べリ』 そして『これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、今もなお咎むる気なし』と薩長への憎悪が深かったことを書いています。


いつの世にも新しい政権が登場すると、その威信を守り権力を誇示し正当化するために、記録の抹殺や誇張、装飾がなされます。維新前後の会津藩の記録もそうだったのです。

会津藩丸ごとの流罪に等しい北辺への移封。史上でも珍しい過酷な戦後処理を具体的に知ったのは初めてでした。読むほどに衝撃を受け、決して目をそらしてはいけない歴史の真実に触れ、襟を正して一気に読めました。

中公新書で160ページほどの薄めの本ですが、1971年初版、2012年53版の出版を重ねていることも素晴らしい本であることを証明しています。

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 柴五郎氏略歴 (本書よりの抜粋)

安政6年 (1859) 1歳  会津若松に生まる
明治元年(1868)10歳 会津若松城落城
   2年 (1869)11歳 俘虜となり東京に護送さる。年末脱走流浪。下僕生活。 
   3年 (1870)12歳 下北半島斗南に移封。野辺地、田名部に住む。
   4年 (1871)13歳 青森県庁給仕。
   5年 (1872)14歳 東京に再び流浪。下僕生活。
   6年 (1873)15歳 陸軍幼年学校。
   10年 (1877)19歳 陸軍士官学校。
   12年 (1879)21歳 陸軍砲兵少尉。
   22年 (1889)31歳 清国福州にて特別任務に就く。
   27年 (1894)36歳 大本営陸軍部参謀。
   33年 (1900)42歳 北京駐在武官。義和団事件にて北京籠城。
   37年 (1904)46歳 砲兵連隊長。
   40年(1907)49歳 陸軍少尉、重砲兵旅団長、要塞司令官、大十二師団長、東京衛戍総督
大正 8年 (1919)61歳 陸軍大将、台湾軍司令官、軍事参議官。
   12年 (1923)65歳 予備役被仰付。
昭和20年(1645)87歳 十二月十三日没。
 

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謹賀新年

2013年01月04日 | くらし

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明けましておめでとうございます。

拙いブログですが、皆様のコメントに支えられて9年目を迎え感謝しております。
今年もよろしくお願い致します。

年々小さくなっていくおせち料理。それでもやっぱり三段重は出すことにしています。義母が使っていたものだから角はかけていますが、使えるだけ使うつもりです。

Img_1182「今日の料理」で、和食の大御所 故辻嘉一さんが『黒豆はじっくりコトコト、壁に投げつけてピタッと貼りつくようになるまで煮る』というように指導されました。

沸騰してアクを取るところまではガスですが、そのあとは電磁調理器で160℃、140℃と温度を下げていきながら、8時間煮ると、ほとんど踊ることなくふっくらと炊きあがります。
一粒を壁に向かって「えいっ!」と投げつけると、ご覧のようにピタッと貼りつき落ちてきません。ゴキブリではありません から o(^-^)o 

田作りも電子レンジを使うと簡単らしいのですが、いざとなるとやっぱりフライパンを使ってしまいました。若干炒り過ぎてちょっと苦味が・・・。来年は電子レンジを使うつもりです。

お煮しめは前日に下茹でをしておくと、31日に煮しめるのがずいぶん楽です。今年のユリ根は真っ白できれいでした。ダシが沸騰してユリ根を入れて2分ほど。このわずかな時間が決め手です。やはり透き通っていく様子を目で確かめながら煮るのが確実です。

塩数の子の塩出しは12時間かけて塩水を3回変えながら行うと、塩分がきれいに取れます。

福岡の雑煮のダシは、焼きあごを使います。2リットルの水に焼きあご7,8本を二つに折って入れ、一晩おきます。翌日に火を入れ沸騰したらそのまま冷まして、布で濾して薄口、酒、塩で味を整えます。さっぱりしているのに濃い味のおいしいダシができます。
この焼きあごは正月にだけ出回ります。ちょっと高くつくけどあご出しパックでは味わえない深みがあります。息子も婿殿も「餅の入らない雑煮」をリクエストします。要するにあご出しのお吸い物です。

本ブログ「黄味の味噌漬け」でコメントをいただいたように、ゆで卵を味噌漬けにしました。それを半分に切って使うと、簡単で立派な一品になりました。ありがとうございました。

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