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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

NHK大河『どうする家康』のキャスト & 家康の本

2022年11月13日 | 本・新聞小説
来年のNHK大河『どうする家康』のキャストを見ただけで期待が持てます。
家康→松本潤、酒井忠次→大森南朋、本多正信→松山ケンイチ、本多忠勝→山田裕貴、榊原康政→杉野遥亮、井伊直政→板垣李光人、石川数正→松重豊、織田信長→岡田准一、築山殿→有村架純、豊臣秀吉→ムロツヨシ、今川義元→野村萬斎、武田信玄→阿部寛・・・。
この顔ぶれなら歴史の流れを掴んでドラマを見ないともったいない。それも関ヶ原以前の若い頃の家康を描くと聞いたので、それに合いそうな本を選んで読みました。


『天下 家康伝』上・下巻 火坂雅志著
『覇王の家』上・下巻 司馬遼太郎著
『関ヶ原』上・中・下巻 司馬遼太郎著

この中で「出番」が多いのが本多正信。「徳川四天王」には入りませんが、謀略と算盤勘定で家康の信任を得て以心伝心の盟友として常に側に居ます。「四天王」には嫉妬されていたようです。
経歴も三河一向一揆(家康の三大危機の一つ)で、家康を離れて一揆側につき敵として戦い袂を分かちますが、数年間の流浪の末に家康に帰参を許されます。過去にこだわらない家康の心の広さに感謝し、以前にも増して心底尽くしたと言われています。

武田信玄の言った言葉が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」。唐の頭とは珍しい兜、平八は忠勝のことです。小身の家康には不釣り合いなほどの優れた武将だと、忠勝の活躍を誉めた言葉です。
生涯で57回の戦いに参戦し1度も傷を追わず「ただ、勝つのみ」の本多忠勝は「徳川四天王」の一人です。天下三名槍一つ「蜻蛉切」を愛用。刃長さ43㎝、柄の長さも6m。

三河武士には「知略」よりも「武勇」を尊ぶ風習があります。正信が知略なら、忠勝は武勇。同じ本多でも親子でも親戚でもなく、仲は良くなかったようです。

三河風土に根付いている三河武士団の結束の固さ、異常なほどの忠誠心。それが小牧長久手の戦いで秀吉に勝つ原動力になったのです。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康の心のうちに分け入って、司馬さんはそれを分かりやすく描いています。鳴くまでどころか、鳴くのを押さえていた忍耐強さもしっかり見えてきます。

そんな三河家臣団の話が、司馬さんの歯切れのいい文章で綴られ、リズムさえ感じられて分厚いページでも飽きずに読めました。


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安部龍太郎『ふりさけ見れば』日経小説その⑥9~10月分

2022年10月25日 | 本・新聞小説
752年、吉備真備は遣唐使船で18年ぶりに再び唐に向かいました。5月初頭に難波津を発ってから12月長安に到着、18年ぶりに阿倍仲麻呂と再会します。
仲麻呂は前回の遣唐使船で帰国予定でしたが、多治比広成から唐に残り唐の史書の内実を探る命を受けます。つまりスパイです。
唐の要求で提出した日本書紀が2度にわたり、唐の史書と矛盾することを指摘されました。どこが矛盾するのか知るためには仲麻呂が秘書監になって唐の史書の内実を探る他はないということからでした。

それから長い年月の内に、仲麻呂の心は汚れ、心を鬼にして張九齢や王維らと袂を分かち汚れ仕事を引き受け、李林甫を裏切り楊国忠に恩を売りようやく秘書監につくことができました。

やはり日本書紀の調査のために残留していた弁正の口から『翰苑』に書かれている「倭人の祖は呉の太白」が、その以前に記された『魏略』の記述に依っていることを突き止めます。鍵は『魏略』。その保管場所は誰も入れない「秘府」。

仲麻呂の再婚の妻・玉鈴やその姉・楊貴妃の力を経て玄宗皇帝から秘書監に任命された仲麻呂は難関だった秘府に入り遂に『魏略』を目にすることができます。

『魏略』には、「太白に始まる呉国は越王に滅ぼされ、呉の王族は船団を組んで北に向かい、一部は益救嶋(やくしま)や多祢島(たねじま)、薩摩に着き、一部は筑紫の海に流れ着いた·······筑紫や肥前に住んだ者たちは邪馬台国を立て、薩摩に住んだ者たちは隼人の国の中枢を担う。
やがて時代が下り、隼人の国に住んだ者たちは広い耕作地を求めて北上を始める。きっかけは火の山が爆発し灰が降ったから。北上した一族は邪馬台国を立てていた同族に救いを求めるが、同族だったのは遥か昔のことと冷たく追い払われる。やむなく瀬戸内海を東に向かい、紀伊の国にたどり着き勢力を広げ、大和の飛鳥の地に国を立てた。そして薩摩や日向に残っていた同族を呼び集め、邪馬台国に匹敵する大国になった。故に邪馬台国と大和は今でも犬猿の仲である」と。
仲麻呂は神武天皇の東征と似ていると興奮します。両者が同族だったという記述は、禅譲がなされた記録がなくても皇統の正統性には問題ないと確信を持ちます。やっと目的の唐の史書を見つけたのです。仲麻呂が唐の地に入って、時は既に36年も経っていました。

そして玄宗皇帝に『日本書紀』を日本の国史と認めてもらい、それを遣唐使が帰国する際に天皇に与える国書に記してもらうように動き始めます。それには王維に頼るしかない・・・。
王維とは途中気まずい関係に陥りながらも、仲麻呂の意を汲んで格調高い名文を作成し純粋に心を注いでくれたのです。

仲麻呂の妻・若晴は宰相・張九齢の姪で、翔と翼の双子の男児をもうけた幸せな家庭でした。
しかしスパイという密命を帯びた仲麻呂は強引に若晴と別れ、楊貴妃の姉・玉齢と結婚。ツテと実力で出世の階段をかけ昇っていくのです。
翔と翼は先の遣唐使の帰国時に日本に移り、知識を生かしながら中央で活躍します。



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安部龍太郎『ふりさけ見れば』日経新聞小説その⑤ 6月~8月分

2022年09月06日 | 本・新聞小説
第10次(諸説あり)遣唐使派遣が発表されました。真備は太宰府に流された今の状況から抜け出すには再び遣唐使に加わって成果を上げるしかないと大胆な行動に出ます。
その策とは唐の最新の仏典、仏具を買い入れて帝や皇后に寄進して唐の事情に通じていると訴えること、そして帝が望んでいる伝戒師としての鑑真を唐から連れて帰ることです。

真備は那の津(博多湾)で志賀島水軍棟梁·日渡当麻に接触し、唐の大商人·石皓然の配下の交易船の仲介を依頼します。

石皓然は真備の留学時代の妻の父親です。真備には娘婿と言う立場を生かして有利に交渉を進める意図がありました。
用意した日本産出の良質な硫黄20箱のうち6箱で貴重な仏典を手に入れます。
その船にはかつての妻・春燕と息子·名養も乗っていました。真備も春燕も各々が再婚し、春燕は石皓然の店と財産を全部受け継いで、大商人として唐国内でも活躍していました。

その春燕とは残る14箱の硫黄の取引で、鑑真上人を日本に連れて帰る話をまとめます。春燕の出した条件は硫黄を他の商人に売らないこと、息子・名養が日本で修行できるようにすること、でした。
春燕の義兄·安禄山が契丹との戦いに勝利して玄宗皇帝に寵愛されているのは、日本の優良な硫黄を手に入れ、火矢や狼煙として用いているからでした。

自分が遣唐使に任じられたら鑑真上人を日本に招くという確約の手紙と、硫黄と交換に手に入れた金銀財宝の目録を都に送り届けます。
結果は上上吉。打った手はすべて当たり、751年11月遣唐副使に任命されます。
745年、聖武天皇は藤原氏の妨害にあって紫香楽宮から平城宮に戻り、東大寺に大仏の建立を定めます。
749年聖武天皇は表向きは病弱の理由で娘・安部内親王に譲位させられます。この退位により、再び天智派の藤原氏が主導権をもつようになります。

退位後、新薬師寺に移った聖武上皇は鑑真の件も仏典も心から喜び、その大般若教の写しを名養が受け持つことになりました。真備の唐での息子が日本に渡来し書家としての道を歩み始めるきっかけになりました。

東大寺に、味方とも言うべき良弁を訪ねた真備は鍍金を終えて光輝く大仏を案内されます。鍍金は熱した水銀に金を溶かし、大仏に塗りつけた後で火を焚いて水銀を飛ばすというものです。真備は短い間にここまで進んだ技術に目を見張ります。

4月に行われるという大仏開眼供養には、宇佐八幡宮の八幡神が大仏の守護神として登場することになっています。仏教と対立する日本古来の神との融合。これを神仏習合の象徴としてして挙国一致の体制を作ろうという苦肉の策です。

真備も人々の平安と幸せのためなら、人間の都合で神々を左右したり、神仏の力を借りることもやむを得ないと考えます。
遣唐使の一行は、この開眼供養には出席すること叶わなく唐に向かって旅立ちます。
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'23年NHK大河『どうする家康』の始まる前に

2022年09月02日 | 本・新聞小説
来年のNHK大河が「家康」と聞いて司馬遼太郎『城塞』を再読し始めて中巻に進んだときに、家康の若い頃のドラマだという情報が入りました。
『城塞』は大阪の陣前夜の話だから、それ以前を書いた火坂雅志『天下 家康伝』上・下巻を購入しました。

これは9年前の日経の連載されましたが、新鮮で面白かったという記憶だけしか残らず、歴史小説は「本」で一気に読むべきだと再読しました

家康は『自分は人より取り立ててすぐれた能力があったわけではない。武田信玄、上杉謙信のような神がかった軍略の才も、信長のような既成社会のしがらみを打ち破っていく突破力も、豊臣秀吉のごとき人間的魅力も持ち合わせてはいない』ということをよく自覚していました。

『戦国大名の戦いは、それぞれの人生哲学の戦いでもある』ようにこの4人は哲学を持っていましたが、家康の哲学は最初から確定したものではなかったのです。

この本の最初から最後まで家康に影のごとくつき従う腹心の本多正信も、初めは敵として戦ったアクの強い人物だったのです。しかし敵対していた人物も、忘れて許して自分の中に組み込んでどんどん強い集団にしていく・・・、家康の哲学形成がよく表れているところだと思います。
   
家康が哲学なき者は破れ去ると考えあぐねたその部分が、人に学び、耐えていく展開になっています。

人質に取られたり、移送中に織田方に売られたりと子供の頃から数奇な運命を受け入れてきたことも人間形成に大きく影響しているでしょう。
戦いのない世を夢見ていたことも確かです。
その夢の為に戦う・・・。物事を多方面から冷静に見て、決して焦らず、意見を聞いて話し合い、確実に実行していくという哲学形成過程が見事に書き込まれた小説です。

今は司馬遼太郎『関ヶ原』を読んでいます。歴史の流れと登場人物は似たようなものですが、司馬さんのリズミカルな文章に楽しく乗ってしまいます。
上中下巻と長い話だけに、普通はなかなか出てこない武士もそれぞれのエピソードを持って登場し、資料の読み込みの丁寧さはさすがだと感じ入って居ます。時代は『城塞』以前です。


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安部龍太郎『ふりさけ見れば』日経新聞小説その④239~355

2022年08月25日 | 本・新聞小説
日経6月1日付<あらすじ>
✴️『吉備真備は感染症で甚大な被害を受けた国を立て直すべく、仏教中心の国家作りに奔走していた。反対する藤原氏の企てを阻止すべく、東宮の協力を仰いでいた』✴️
東宮とは聖武天皇と光明子の娘で安倍内親王、後の孝謙天皇です。

📰  📰  📰  📰  📰  📰  📰  📰  📰
朝廷内では天武派(聖武天皇と真備ら)と天智派(光明皇后と藤原一門)が対立し、それは父と母の対立でもあり、東宮は和解の道を見出そうと腐心していました。
真備は戦う男、勝つためにはどうすればよいか・・・。考えられたのは天武天皇が造った「五節の舞い」を阿倍内親王が公の場で舞うことです。その舞は天武天皇の治世方針が込められている重要なものでした。

これが成功し「天智派」を説得した形になり、天武天皇の方針に従って国を治めていくことが公の場で明言されました。
しかし「天武派」の勝利で真吉備は有頂天に·····というわけにはいきませんでした。翌日には藤原氏の大々的な位階のアップが発表されました。真備の五節の舞いの策を、藤原仲麻呂は有利な人事をしてもらうことで切り返したのでした。

この後「墾田永年私財法」へと進んでいき、これは律令制度の根幹をゆるがし、ひいては朝廷が弱体化し藤原一門が利益を受けることになります。

藤原氏にとって留学して博識の真備は目の上のたん瘤、750年には太宰府に左遷されてしまいます。5年前同じ留学組の玄昉も筑紫に左遷され、翌年に藤原仲麻呂が放った刺客により惨殺されていました。仲麻呂との政争に破れた真備には抗する術はありませでした。

藤原一族に屈してしまうのかと悶々としていたときに、藤原清河を大使とする第10次遣唐使派遣の計画を知ります。
起死回生のチャンスだと、再び使節に加わるべくすべてを賭けて大胆な行動を起こします。



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最終巻『あきない正傳 金と銀』 & びっくりの「題名のない音楽会」

2022年08月14日 | 本・新聞小説
この時代小説『あきない正傳』シリーズにはまりこんだのは、面白いからと友人が回してくれたのがきっかけでした。歴史小説はよく読んでいたけど、こんなに引き込まれる時代小説の面白さは想定外で次の発行を待ち遠しく思ったものです。
2016年から毎年2冊ずつ発行、この夏で最終巻の13冊目です。友人から回ってくるのを待てずに先に買ってこちらから回す予定です。

川の流れに例えて「源流篇」「早瀬篇」「奔流篇」·····「瀑布篇」·····、そして「風待ち篇」「出帆篇」から最終の「大海篇」に至りました。
主人公·幸が大阪店を出て江戸に店を開いてからは「江戸古地図」を見ながら読み進める楽しみが増えました。

著者·高田郁さんによれば、きっかけになったのは松坂屋10代目店主·宇多。困難に屈せず商いを守り育てた強い女性を描きたいと新たに創り上げたのが主人公·幸ということです。
丹念に資料を調べて書いてあるので当時の社会、経済、歌舞伎などの風俗がよくわかったし、特に大阪の商家、商人の仕組みと暮らしぶりはこれからの本やドラマの解釈に役にたちます。

何よりも蚕、実綿、糸を紡ぐ、織る、型紙を彫る、染める、仕立てる、身に纏うなどの具体性を、ストーリーの中に自然に折り込む手法は実に上手いものだと感嘆しました。女性作家の細やかさがさりげなく出ているのも人気の秘密かも知れません。
13冊と古地図で江戸庶民の暮しが生き生きと身近に感じられ、時代の空気、時代感覚がつかめたのは大きな収穫でした。
「特別篇」としてあと2冊の発行を予定しているそうです。

🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵 🎵
土曜の「題名のない音楽会」は、ショパンコンクールで同2位の反田恭平さんとガジェヴさんの豪華出演でした。

番組HPの写真です。
何とすごい組み合わせでしょう。お互いにリスペクトし合う姿勢がさらに音楽性を高めます。二人とも技術が素晴らしいだけでなく、曲を解説するときは「詩人だ」と深く感動しました。
30分と短いけどキラリと輝く番組でした。ピアノが何と「SHIGERU KAWAI」でした。ガジェヴさんがショパンコンクールで使用したピアノです。ショパン「前奏曲」を弾きだした音の美しかったこと!
ワルシャワのあのすごい会場で使用されたという日本の誇り!です。コンクールではスタンウェイだった反田さんも今日はそのピアノで演奏されました。

二人のコンサートに行ったというブログ記事を読むごとに羨ましく思っていましたが、今日の夢の共演を見て溜飲が下がりました。来週も続編が予定されています。
あ~ぁ、あの真夜中に聴いたショパンコンクールからもう11か月も経っていました。

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澤田瞳子『満つる月の如し 仏師・定朝』と 24年NHK大河「光る君へ」

2022年05月29日 | 本・新聞小説
友達から回ってきた本で、ベッドで仰向けになって読むには重量的にアウト。2013年新田次郎文学賞受賞。中身もずしりと密度が濃いので座位でメモをとりながら読まないと混乱します。

定朝は平安期を代表する仏師、平等院鳳凰堂の国宝阿弥陀如来像は彼の手になるもの・・・ぐらいの知識しか持ちませんでした。定朝が製作したほとんどは火災や戦乱で失われたと言うのに、この本の分厚さにストーリーがどう進んでいくのか想像がつきませんでした。

定朝と貴族の交流、貴族たちの勢力争い、それも皇室にどう食いこんでいくかの人物相関図の複雑さ、仏像の文学的表現、弘徽殿の彰子と女房たちの華麗な交友関係、平安の館や乗り物の具体的描写、下層民の暮らし・・・と資料の読み込みが半端でないところに著者の意気込みを感じます。
メインの登場人物が全部実在の人物です。架空の人物を登場させてストーリーを面白く展開させる…という常套手段でなく、実在です。
登場人物の多さと複雑さから、メモや相関図を作りながらでないと話の筋が頭に入ってきません。

折から、24年NHK大河ドラマ「光る君へ」の発表がありました。紫式部が主人公なら道長や彰子を中心とした貴族の世、この本と同じ背景になります。
果たしてこの絵巻のような平安貴族の話に、男性の視聴者を得ることが出きるのだろうか・・・、とふと思ってしまいました。

当時の貴族層において『恋愛を謳歌し、その感情を歌や物語に托して憚らない時世だけに、後宮の風紀の乱れはことに著しかった』のはかなり想定外でした。
ここを抑えておけばかなり面白く見られるはずと、殴り書きのメモを見やすく書き直しておきました。

それにしても道長の手腕が凄い。4人の娘を中宮や夫人に。娘の生んだ孫が3代にわたって天皇になると外祖父として権勢をふるいます。しかし満月はいつかは欠けるものです。
この本のタイトル「満つるが如し」が道長の野望が満月に達したことかと思っていたら違っていました。まぁ、そのことも暗に含んでいるのかもしれませんが。

阿弥陀如来像を見た養子・覚助が『吸い込まれそうなほど深い慈しみを湛えた眼差し、微風に翻るかと見まごう軽やかな衲衣・・・まるで、満つる月が如き尊容でございますな』とつぶやいた言葉からとったもののようです。
定朝が望んだ仏像も『地の底から静かに湧き出る泉にも似た静謐さ、身の内に充満した穏やかな生命の息吹の如く、やさしく繊細な丸み・・・・満月のごとく作らねばならぬ』ものでした。

澤田瞳子さんの本は『若冲』に続き、これが2冊目でした。

🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️ 🐟️
お昼ごはんはしらす丼。ご飯が100gだと、丼はあっと言う間に終わってしまいます。
「まだ入るよ。何かデザートないの?」
「梅ヶ枝餅ならあるけど」
「おぉ、ベストだな」
薄皮の太宰府の梅ヶ枝餅はいつ食べても嫌みがありません。

コロナでさっぱりの太宰府は梅ヶ枝餅が売れずに、冷凍品として市中に出回るようになりました。
お陰でと言うと語弊がありますが、太宰府まで行かなくても、いつでも食べられるようになりました。


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タイトルが美しい・・・『松籟』

2022年05月04日 | 本・新聞小説
友達の友達の友達から送られてきたという本が、私にまで回ってきました。黒を基調としたカバーには家紋が描かれた神部眞理子『松籟 』です。

タイトルを見て、一瞬等伯の松林図を思い浮かべましたが、よく見ると等伯ではなくて「狩野永徳伝」でした。

狩野派と言えば元信、永徳、探幽・・・が頭に浮かび、あとはひっくるめて狩野派の絵と見てしまいますが、この本は狩野元信が幼い孫・永徳の落書きに、並々ならぬ才能を見いだすところから始まります。元信は常に新しい絵画を模索して時代の最先端を歩み続け栄光の晩年を迎えました。永徳は常にこの祖父を念頭に置いて精進したのです。

将軍義輝に依頼されて「洛中洛外図屏風」を制作し、関白近衛前房の屋敷では襖や屏風を製作、名声は揺るぎないものになっていきます。

   「洛中洛外図屏風」

圧巻は大徳寺聚光院の何十枚もの襖絵を制作する場面です。「墨という画材、花鳥図という画題、すべて伝統の中にあるのに、それにもかかわらず全く新しい絵」を描きます。この「四季花鳥図」と「琴棋書画図」が ″永徳の出発点は聚光院にありき″ といわれるものです。

     「四季花鳥図」


    「琴棋書画図」

信長の時代には、肖像画から始まり、安土城の襖絵、板絵すべでを任されて狩野工房は2年をかけて完成させます。

    「織田信長像」
更に信長は安土城と城下全体の屏風絵を描かせます。それは後に宣教師ヴァリニャーノと少年遣墺使節団によりバチカンに届けられ、法王庁の壁に飾られたという記録があるそうです。
ただ、その豪華絢爛な安土城は3年後に戦の中で焼失してしまいました。

秀吉の時代には、きんきら金の大阪城、聚楽第の襖など何十枚も描くことになり、秀吉の金碧画の注文に沿わせながら新しい画法を探ります。

       「唐獅子図屏風」
他に並ぶものなしの狩野派に陰りが見え始めたのは、長谷川等伯が台頭してきた頃です。かつては父直信の工房に居た等伯ですが、そこを離れ狩野派とは違った画法を編みだし利休を介して御所や寺社の襖絵に侵入してきます。
永徳は「決して他派の台頭を許してはならぬ。一度流れが変わったなら、再びそれを引き戻すのには何倍もの力が必要となる」と不安を持ちました。
そしてその危惧が現実のものになり、秀吉の長子鶴松の死後に建立された菩提寺の祥雲寺の障壁画は等伯一派に任されました。

永徳は立て込んだ仕事量の中にも、等伯を意識して東福寺の天井画の依頼を受けますが、過労がたたり48歳の命を終えます。

しかし、狩野工房は結束して巻き返しを図ります。関ケ原、大阪の陣を経て江戸に本拠を移します。さらに等伯の後継者が途絶えたこともあり、徳川家に密着することに成功しました。
狩野派が天下一の絵師集団として画壇に君臨するようになったのは、永徳の次男孝信の子探幽の時代になってからです。

本は「桃山時代の天才絵師狩野永徳州信は不運である。彼の描いた莫大な絵は現在ほとんど残っていない。わずか十点ばかりがその手になるとみなされるにすぎない。己の絵が残っていないことほど絵師にとって不幸なことはないだろう。今、永徳は、菩提寺妙覚寺にある敬愛する祖父元信の墓碑の隣に眠っている」と締めくくられています。

大活躍の裏の不運・・・。何よりも戦乱の炎は力を振り絞った絵をことごとく焼失させてしまったのです。著者はここに蕭々と松籟を聞いたのかもしれません。



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佐渡裕、そして藤田宜永『大雪物語』

2022年04月20日 | 本・新聞小説
先に読んだ佐渡裕さんのエッセイが面白くて、もう2冊追加購入しました。

バーンスタイン最後の愛弟子と自他ともに認めるほどの師弟愛がホットに伝わってきます。佐渡さんはとても親しみやすい方なので、アンパンをかじりながら読んでも許してもらえそう。

音楽家のエッセイといえば、40数年前に団伊玖磨『パイプのけむり』の軽妙洒脱さにすっかり魅了されました。その後、「続パイプ…」「続々…」「又…」「又々…」と続き、27巻目の『さよならパイプのけむり』で終わったそうですが、最初の2冊ほどしか読んでいません。

友人から回ってきた本は藤田宜永『大雪物語』です。初めて見る名前でしたが直木賞受賞者でした。小池真理子さんの旦那さま。時期を違えて二人とも直木賞を受賞されていますが、2020年に肺がんで亡くなられています。

自分にはない視点で本が選ばれているので「おおっ!」というほど新鮮な感動に包まれました。

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201×年2月中旬、長野県K市に積雪99センチという記録的な大雪がもたらされました。避暑地で名高いK市ですが、冬の大雪の数日間に起こったドラマが6話つづられています。各話を点的にリンクさせているところも面白いところです。
1話「転落」:警察から追われる性悪な青年が、大雪の別荘で癌に侵された老女とひと時の穏やかな時間を過ごします。素性がばれて老女にも手をかけるか・・・と思われましたが、最後の2ページで青年の心が繋がります。

2話「墓堀り」:大雪の中で立ち往生する遺体運搬車。雪と車内に二重に閉じ込められるなか、遺体の娘と自然に本音で語り合いながら、淡々とそれぞれの人生模様をあぶりだしていきます。

3話「雪男」:大雪で起こる高校生同士の恋の終わりと、遭難から救ってくれた男性の愛の終焉を並行させています。

4話「雪の華」:かつて愛した女性が大雪で避難所に現れ再会。20年という歳月の中に生きた女性と、安定した生活を送る男性の心の襞を覗き見るような話です。

5話「わだかまり」:K町の除雪に出動した自衛隊員が、偶然生き別れの姉を見つけます。すさんだ姉と母を結び付けようとする真摯な若者の話です。大雪が少しだけ光をもたらして雪解けのきざしが。   

6話「雨だれのプレリュード」:かつて雪の日にK市で出会い結婚したピアニストと画家の妻。二人の能力と人気に格差が出て離婚へ。しかし大雪が、K市でまた二人を結び付けるという雪解けの話です。

どれも切なく哀しいけど、これから先人間関係が繋がっていくだろうと想像させるところにほっとします。最後には明かりが見える小説です。




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吉村昭『アメリカ彦蔵』

2022年04月17日 | 本・新聞小説
タイトルが時代小説みたいで後回しになっていましたが、何のなんの歴とした歴史小説でした。以前読んだ前野良沢も間宮林蔵も然り、厖大な資料に忠実に・・・を旨としている吉村さんの秀作です。
560ページほどで、最近の一番の心を打つ小説でした。私の中では『おろしや国酔夢譚』と双璧をなします。


熊野灘沖で回船「永力丸」が難破。乗組員17人は太平洋の真ん中で、2か月間木の葉のように浮き沈みしながら幸運にもアメリカ商船に助けられました。

主人公13歳の彦蔵は実在の人物で、武士ではないので名前だけです。日本に帰るべく香港まで行きますが、日本の状況から帰国を断念して再びアメリカに戻ります。
それから7年、ようやく日本の土を踏んだ時は漂流から9年が経っていました。ただ、アメリカ国籍、キリスト教の洗礼を受けている「アメリカ人」としての彦蔵でした。
しかし、幕末の日本は攘夷の嵐が吹き、アメリカ人の彦蔵は身の危険を感じて再びアメリカに戻ります。

アメリカでは身分の差がなく温かく迎え入れられており、税関長サンダース夫妻に望まれて生活を共にします。教育も受けさせてもらい親子のような温かい絆で結ばれていました。

世界と時代と運に翻弄されながらも常に前向きの生き様が見事です。悲惨さがなく前を向いた彦蔵だから幸運を引き寄せたのかもしれません。ピアース大統領、ブキャナン大統領、リンカーン大統領と三代にわたって謁見もします。

アメリカから離れること三度目は、ハリス総領事の通訳になって日本へ帰ります。
日本では英語ができることで政府の高官と親しくなり、グラバー商会の通訳など積極的に活躍します。

伊藤博文のサポートもあり、凱旋のつもりで帰った故郷は、夢に描いていたものとは大きな隔たりがありました。
見慣れたアメリカとは程遠く、眼にする村は荒廃し、人々の眼にも生気が失われ、全く打ち解けようとする気配が見られません。
墓には既に自分の戒名が書かれていて「自分は村人には亡霊なのだろう。村は故郷ではなく、むしろアメリカこそが故郷ではないか」と空しくなりました。

「帰国してからあわただしく生きてきたが、それは大海を漂流していた折の延長のように思えた。英語に通じていることで重宝がられたが、冷静に考えてみると多くの外国人と日本人に利用されて生きてきただけのことで、自分が今でも坊主船に乗って漂い流れているような気がする」と来し方を顧みます。2つの国の狭間で揺れ動き、どちらにも根を張る場所を見つけられないもどかしさと哀しみに胸を打たれました。

彦蔵がサンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、清国、ハワイで生活したこと、アメリカ政府の要人との出会い、アメリカの会社に勤めた体験が詳しく丁寧に描写されて興味を引きます。

幕府役人、伊藤博文、井上薫、木戸孝允らと交流する場面では、また違った角度から幕末・明治の外交の内外が見られました。

冒頭の漂流の場面の描写が迫力があり秀逸で息が詰まるようだったし、江戸時代の若者の、降ってわいたようなアメリカ体験。異文化への戸惑いと初々しさが、新鮮に心に響いてきました。

ジョン万次郎は歴史年表に載っても、載らなかった彦蔵の重たく深い人生の物語です。




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吉村昭『間宮林蔵』樺太探検のその後の人生・・・②/2                                                                                                                                                                                                                                  

2022年04月08日 | 本・新聞小説
樺太・東韃靼の調査を終えた林蔵は蝦夷地南端の松前に留まり、調査の資料を纏めます。それを手伝ったのが、師と仰ぐ村上島之丞の養子·貞助です。林蔵は会ってすぐに彼の才能を見抜き、信頼して口述筆記をさせました。出来上がった「東韃靼地方紀行」「北夷分界余話」「北蝦夷島図」を携えて1年後江戸に戻ります。


幕府は林蔵の業績を高く評価し破格の昇進と報償金100両を与えます。
伊能忠敬を崇敬していた林蔵は、次の測量に備えて彼から本格的な測量技術を学びます。

林蔵は忠敬の不完全な蝦夷地の測量をやり直して蝦夷全図を作成し、忠敬を喜ばせます。忠敬と親しく交わりながら晩年には同居して師を支えました。
林蔵の蝦夷地図を合わせて「大日本沿海與地全図」が完成したのは忠敬の死後しばらく経ってからでした。林蔵は忠敬の一大事業の一端を担ったことを喜び、人々の称賛を浴びます。

このころ千葉沖に異国の捕鯨船が出没し、上陸騒ぎで人心の不安も増していました。幕府は海岸線の調査と捕鯨船の情報を得るべく、人心を動揺させない様に林蔵に内密御用が命じられます。林蔵は秘かに旅を続けながら続々と貴重な情報を幕府に伝えます。

その後、林蔵は海岸異国船掛に任命されますが、それは海防関係の隠密を意味していました。伊豆七島巡見では豊かな知識と問題解決への積極的姿勢が評価されます。

1828年秋、林蔵は天文方兼書物奉行·高橋作左衛門(景保)に託されたシーボルトからの小包を受けとりますが、危険を察知して中身を見ないまま奉行所に届け出ます。これがシーボルト事件を引き起こすきっかけになりました。
国内の大問題となり、高橋作左衛門は失脚。シーボルトは国外追放、獄死も相次ぎました。
江戸の関係者の処分のあと、林蔵は長崎の実状調査の命を受けます。林蔵の厳しく冷静な目は更に犠牲者を増やしました。
それまで畏敬の目で見られていた林蔵ですが、このシーボルト事件により、密告者、卑劣な男と白眼視されるようになりました。
西洋の知識に関心を持つ者が増え、日本地図と貴重な西洋の文献を交換したいという状況下では林蔵の行為は憎まれたのです。

相次ぐ異国船騒ぎに、林蔵は「これはロシア鑑の攻撃と違い捕鯨船で薪水を欲しがっているだけ。それを与えて穏便に退去させるのがいい」と冷静な分析を老中に進言しています。

蝦夷通として異国船の蝦夷襲撃に関わることが多かった林蔵は、続いて奥州、山陰、九州、四国の海岸線探索の命令を受け、海岸防備と各藩の政情を探る隠密の旅に出ます。

隠密としての鋭い勘で浜田藩の抜け荷(密貿易)を見抜きました。
浜田藩は無断で竹島(現韓国領鬱陵島)から大量の海産物を持ち帰り、さらに輸出入を拡大させて莫大な利益を生んでいました。
関係者は死罪、永蟄居、自殺に追い込まれます。この竹島事件で林蔵の業績が高く評価されました。

後ろ楯の老中大久保忠真が亡くなり、林蔵も床に伏すことが多くなります。探索中に両親は亡くなっており、故郷を捨てた自身に神仏の罰を見て気力も無くしました。
気ままに生きて探索で終わった人生、経済的には恵まれても家庭を持たない寂しいものでしたが、死の間際には養子縁組も成立しました。
渡辺崋山、矢部定謙と親しい友を先に亡くし、見舞いの書状や品物が届けられるなか65年の生涯を終えました。

最後のシーボルトが見た林蔵に関する記事がなかなか面白かったので記しておきます。
シーボルトに渡った地図を幕府は全て取り戻したと思っていましたが、シーボルトは捜査を受ける直前に日本、千島、樺太、東韃靼の地図を複製して他所の金庫に隠し、後に全てオランダに送っていました。帰国したシーボルトはそれらの資料をまとめて「ニッポン」として出版します。

シーボルトの林蔵に関する記述に、幕府から審問を受けるきっかけを作ったと憎しみを抱いていますが、地理学上の偉大な発見をしたことを認め称賛しています。そして林蔵の地図を挿入し「間宮海峡」と名付けました。

1853年に興ったクリミヤ戦争で、英国はロシア艦隊を「樺太半島」の付け根に追い込んで湾を封鎖しました。しかしロシアは海峡があるのを知っており、そこを抜けてアムール河を遡って逃げていたのです。シーボルトの「ニッポン」は一部の人の目に触れただけで英国は知らなかったのです。このことで間宮海峡の存在が世界に知られるようになりました。
その後1881年、仏の「万国地誌」に、世界地図の地名に日本人としてただ一人林蔵の名前が刻まれたのです。

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1945年ポツダム宣言を受諾した後の日本に、ソ連は一方的に侵攻してきました。江戸時代から日本の領土だったクナシリ、エトロフ、南樺太の日本人を、有無を言わさず違法な戦闘攻撃で追い出したのです。それは極めて短期間に興ったことでした。
一方的に領土を拡大する・・・、今のウクライナ侵攻も同じと思うと怒りがこみ上げます。


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早朝に、亀井聖矢さんのマリアカナルス国際コンクール第3位の素晴らしいニュースが入りました。
若い若いまだ大学生のピアニスト。美しく、柔らかく、繊細で、力強く、素晴らしい演奏です。

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江戸時代のクナシリ、エトロフ、カラフト・・・『間宮林蔵』吉村昭 ①/2

2022年04月07日 | 本・新聞小説
間宮林蔵。人知を越した苦労を重ねて樺太が「半島」でなく「島」であることを発見し蝦夷・樺太の地図の作成に名を残しましたが、後に幕府の隠密になりシーボルト事件にも絡み、世間の評価が急降下···。シーボルト絡みで少し知っていますが、もう少し詳しくと吉村昭『間宮林蔵』を選びました。
70ページほどの舞台はエトロフ。19世紀前後の北方の地政学は、江戸幕府はクナシリ島を支配下に置き、ロシアはウルップ島に植民地を設けていました。幕府はその二つの島の間に位置するエトロフ島の開発に積極的に取り組み、1798年に「大日本恵登呂府」の標柱を建てて日本領土と定めました。
これにより、ウルップ島はロシア領、択捉島は日本領となり、両島間の海峡が国境線になりました。この頃の両国は小康状態を保っていました。この均衡が崩れたのが1807年、ロシアによるエトロフ襲撃です。

エトロフ島で測量をしていた林蔵もこの事件に巻き込まれます。奉行所管轄下の会所の者は、抗戦することなく逃げ出したということで厳しい処罰を受けますが、抗戦を訴えた林蔵はただ一人許されて再び蝦夷地勤務を命じられます。

この事件は蝦夷地の防備を強化することになりました。1808年、林蔵は樺太北部の調査を命じられ、松田伝十郎と共に樺太に向かいます。伝十郎40歳、林蔵29歳。

雪と氷に阻まれ、水·食料の不足に難渋を極めながらもラッカに至ります。そこで二人とも樺太は「半島」でなくて「島」だと推測しますが、ラッカから先には進めずに証拠はありません。ここまでで終わり、林蔵がたどった距離は633㎞にもなりました。

しかし林蔵は推測でなく「島」である証拠を見極めたいと、すぐに2度目の探索に赴きます。アイヌ人は従順で人柄が良く、漕ぎ手のアイヌ人抜きの調査は考えられないほど、どれほど助けられたかしれません。

寒気にてこずり、凍傷で手に傷を負い、行きつ戻りつしながらも北端のナニオーにたどり着きます。そこでアムール河口の潮流が北と南に二分していることから、大陸とは繋がっていない「島」であることを確信します。


最大の目的は達したもののノテトに踏み留まり、ギリヤーク人と生活を共にしながら東韃靼に入る機会をうかがいます。
ロシアの蝦夷地襲撃が相次いでおり、ロシアの影響は東韃靼にまで及んでいるのかを知りたかったのです。

酋長からアムール河の下流に「デレン」という町があり、そこに清国の出張所があることを聞かされました。林蔵は酋長が貢物を持っていく時に同行し樺太から大陸に渡ります。
往きは河を登り山を越える困難な行程でデレンに着き、帰りはアムール河を下って海に出ました。

デレンでは好意的に迎えられ、出張所や風俗人種をしっかり観察して文字や絵で細かく記録した充実した数日間を過ごしました。
上記の地図はネットからお借りしました。赤のラインが1度目の探索、青色が2度目の探索です。

樺太が島であることを実証し、東韃靼に足を踏み入れたこと、北樺太に最も影響力を持っているのは清国であること、樺太にロシアの影響は及んでいないことを確信しました。
困難な旅の中でも樺太西岸の地勢、村落の地名、村と村の間の距離を書き連ね、旅の経過、叙述、住民の生活、気候、風土も書き加えていきました。
こうして1年2か月の調査の旅を終えて出発点のシラヌシに戻ることができたのは奇跡ともいわれています。

林蔵は、使命感と冒険心と国禁を犯すことの罪悪感の狭間で葛藤に苦しみました。
「鎖国中に東韃靼に渡ったことは国禁を犯したことになるか、否、幕府の命じた樺太北部は清国の支配にある、東韃靼に足を踏み入れても命令の範囲をそれほど逸脱したものとはいえない。北方経営を志す幕府に限りない利益を与えるはずだ」と事実を積極的に報告することにしました。
そして出来上がったのが「東韃地方紀行」「北夷分界余話」、地図は「北蝦夷島図」としてまとめ上げます。

樺太、東韃靼の調査の詳細部分が200ページほど。残りのページの部分が林蔵の後半の人生になります。
本は1冊で500ページの文庫本ですが、二つに分けて書くほどに違った人生を生きることになります。


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安部龍太郎『ふりさけ見れば』(日経新聞小説)その③128~238

2022年03月27日 | 本・新聞小説
8世紀初め頃、唐の北方では契丹や突厥が反乱の機会をうかがっており、王朝内では門閥派の李林甫と進士派の張九齢らの熾烈な権力闘争が行われていました。李林甫は宦官と結びつき、進士派には王維や仲麻呂がいます。
そこに北方との争いに破れた安禄山の処罰問題で意見が2つに割れました。
仲麻呂はいわば国命とも言うべき自分の果たすべき役割を考えて、王維からの批判を覚悟で、張九齢を見限り李林甫に従う道を選びました。
張九齢は失脚、王維も左遷され涼州に去ります。それ以来仲麻呂はずっと親友を裏切ったという自責の念に苦しみます

舞台は日本。仲麻呂を唐に残したまま、734年吉備真備は苦難の船旅を制して日本に帰国します。
しかし朝政が藤原氏に牛耳られていることに怒りを覚えた真吉備はその勢力を崩そうと、かつて遣唐押使を務めた多治比縣守の力を得ようと画策します。そこに起こった天然痘のパンデミック。

藤原四兄弟が自家の主導権を確立するために、感染を疑われていた遣新羅使を入京させていました。
それがもとで都の住人の半数が感染し、その半分が命を落とすまでに・・・。そして自業自得、藤原四兄弟も命を落としました。

その頃唐では、吉備真備と同時に帰国したはずの平群広成が途中で嵐に巻き込まれ、今のベトナムに漂着。生き残った4人は2年をかけて洛陽にたどり着いていました。これが736年。
玄宗皇帝は3年弱の洛陽滞在から長安に戻りました。平群広成も長安に移り、仲麻呂の協力援助を得て帰国の方策を探っているところです。

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1300年前の天然痘と今のコロナのパンデミックが重なり、当時の息詰まるような空気が生々しく伝わりました。
患者への対応、治療法が余りにも具体的だったのでWikiで調べてみました。
大和朝廷は8世紀初頭には中国にならった疫病のモニタリング制を導入しています。
太政官符「疫病治療法および禁ずべき食物のこと7カ条」として、国司を通じて全国に周知徹底させようとしたそうです。

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西條奈加『六花落々(りっかふるふる)』

2022年03月18日 | 本・新聞小説
室町時代には「六花落」を「ゆきふる」と読んだそうな。風情がありますねぇ。
少し前に読んだ同著者『千両飾り』で、古河藩藩主土井利位(としつら)が雪の結晶の観察をまとめた『雪華図説』がちらりと出てきました。器具も装置もあるはずがない時代と藩主ということだけがずっと心に残っていました。

それを詳しく小説にしたのがこの『六花落々』で、友人から回ってきました。この友人のおかげで、自分からは手に取ってみなかった分野に足を踏み入れて、もう何十冊借りたかなぁ・・・。365連休の時間と心を埋め、満足度も高い歴史、時代小説に大変感謝しています。

雪の結晶を調べるのは藩主土井利位、重臣鷹見仙石、下士小松尚七の3人。主人公の尚七も実在の人物であることはあとがきで知りました。

雪の結晶に魅せられた苦労と努力の物語かなと思いきや、尚七を囲んで歴史の「名優」が出てくるわ、出てくるわ!
もう、一流の俳優を通行人の役に使ったような贅沢な顔ぞろえです。大槻玄沢、大黒屋光太夫、近藤重蔵、渡辺崋山、宇田川榕庵、シーボルト、高橋景保、間宮林蔵、谷文晁、司馬江漢、大塩平八郎・・・。
それぞれを主人公にした本ができるくらいの豪華メンバーが登場します。

これは時代小説でなく歴史小説です。
物語は偶然に出会った古河藩の重臣・鷹見と下士・尚七から始まります。その秘めた能力を見出された尚七は江戸で藩主の御学問相手に抜擢されます。
そうなると自然と交流は広がります。蘭医ら知識人と交流する中で、少しずつ渦巻き始めた時代の揺籃期に飲み込まれていきます。

下士出身の尚七は視点を常に民に置いていました。身分制度の厳しい時代に、「尚七はそのままでいい」とそれを許した鷹見もすばらしいと思います。

☕ ☕ ちょっとだけ閑話☕ ☕ 美術の教科書などでよく見かける渡辺崋山筆「鷹見仙石象」があります。絵の記憶はありますが、人物についてはノーマークでした。
それがなんとこの古河藩の家老にまで上り詰めた人で、この本では「鷹見忠常」家老になって「鷹見仙石」だったのです。微かな知識が結び合う偶然がとても嬉しく楽しくなります(*^^*)
この本では二番目の主人公とでもいえる圧倒的存在感の人物で、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」とまで言われた人。意思の強い澄んだ表情がそれを物語っています。☕ ☕ 

さて、尚七には、高価な顕微鏡を使って雪を観察することが贅沢ではないのかというためらいがあります。雪の結晶がたくさん見られる年ほどその年のコメの収穫が悪くなるということに気づいたのです。観察の喜びに相反する農民の困窮。故郷の惨めな民百姓の姿が目に浮かび苦しみます。

まさに天保の大飢饉の最中に、鷹見は、贅を尽くした雪華文様の高価な蒔絵の道具数点を進物用として作らせます。苦しむ民をないがしろにしていると尚七は正面から反発します。
後になってわかるのですが、それは南の被害が少ない暖かい藩に宛てた贈り物でした。数年続く大飢饉で、食べるものにも困り果てた古河藩の民を救ったのが、被害の少ない九州の藩から送られてくる「お救い米」だったのです。 
民百姓の汗水を無駄に費やしていると思った雪華観察が、領民の糧となったのです。ずっと先を見通した鷹見の見識の高さに、尚七は足元ばかり見ていた自分を恥じました。

有能な家老に支えられて藩主は大阪城代に抜擢され、そこに勃発した大塩平八郎の乱を平定します。大塩に忠鷹見は厳罰を下しますが、民に基軸を置いた大塩の思想は尚七の心に奥深く残ります。

大塩をめぐって鷹見と意見が激しく対立したときに「殿のためにも、わしのためにも、おまえはそのままでいろ」の思いがけない言葉をかけられます。
それは民百姓に近いところにいた尚七を通して、民の思いを藩主の殿に伝えられるからというものでした。鷹見は、藩主は民百姓の状況を知っておくべきだと確信していたのです。
「ありのままの自分を受け入れてくれ、認めてもらった」と尚七は、感動と共にそこに不思議な感覚を覚え、遠くで静かに白く揺らめく炎、白炎を見たのでした。

20年かけて「雪華図説」は完成します。そこに尚七の名前が挙がることはありませんでしたが、それは尚七も納得済み。
そんな欲のない尚七だからこそ、藩主は尚七に一番心を許し、自分の孤独を救ってくれた、これから先も共に歩くことを強く望まれます。
雪華みたいにすがすがしい清涼な空気が漂う、この本のクライマックとでもいえるでしょう。

この本の登場人物で、後に幕府の咎めにより命を落とす人がたくさん出てきます。
倒幕に向かって歴史は少しずつ歩を進めていたのです。まさに白炎が。それまでとは違う何か新しい空気が漂う、何かが芽を出そうとしている・・・。だからこの時代の話が好きなのです。





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佐藤雫『言の葉は、残りて』

2022年03月15日 | 本・新聞小説
ロシアの一方的なウクライナ侵攻の悲惨な映像が流れます。仲介者を立てても話し合いが進みません。
妊婦さんが、子供が、体の不自由な老人が、涙しながら子供たちの死に直面する医師が、看護師が・・・。どれほどつらい場面に涙しても、テレビの前ではただ終息を祈るしかありません。これが、核の影におびえる現代の戦争です。

同じ日、胸に突き刺さる映像が流れました。「あの日」が代名詞になった東日本大震災です。11年経った今でも鮮烈な映像にただ涙するばかりです。被災者の癒えない苦悩の表情に、まだまだ復興は程遠いように思われます。
ある日「原発」の名の元に突然住居を追われる。ふるさとに帰れない苦悩、帰らないという選択の苦悩.....。避難指示区域の人たちの苦しみはあまりにも大きすぎて自分の身に置き換えて想像することすらできません。

震災が起きた時、あの惨状にできることは心を寄せることぐらいでした。しっかりと心に決めたことは「3年間震災の寄付を続けよう。年金支給日毎に、自分で少し大変と思う金額を福島県の自治体に」でした。少しでも除染の手助けになればと願いながら。
寄付も3年目ともなると、郵便局のカウンターには専用の振込用紙が無くなり手書きに。局員の方も戸惑っていました。もう忘れかけられている......とその状況に返って辛い思いをしたのです。
大地を除染する・・・・、気の遠くなる様な大変な作業ですが、理不尽に故郷を失った人たちを早く元に戻してほしいと切に願っています。

🌸 🌸 🌸 🌸 🌸 🌸 🌸 🌸
大河「鎌倉殿・・・」にこの先登場するはずですが、源実朝を中心に描いた本を読みました。佐藤雫『言の葉は、残りて』(小説すばる新人賞受賞作)です。

実朝に関しては、優れた歌人であり、後世にも高く評価されていること、若くして甥で猶子の公暁に暗殺された悲劇のことぐらいしか知りませんでした。

藤原定家と交流があり、定家の奥義書まで送られたことを何かのドラマで知りずっと気になっていて、もっと深く知れたらという時にこの本に行きついたのです。
政治の中心は鎌倉に移ったといっても、まだまだ文化の中心は京都。実朝には武は似合いません。武芸より文芸。周囲は心配しましたが、実朝の心は京の雅に向いていました。
京都で認められるためには「官位」が必要です。急ぎすぎるくらいに次々と官位を求めました。正室も、望んで後鳥羽の従妹の信子です。

信子の手びきで紀貫之の『やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれりける』を知って、より和歌の魅力に傾倒していきます。
過去の展覧会にこの序が出ていたのを思い出しました。
「古今和歌集序」、国宝です。3年前に九州国立博物館で見ていました。

後鳥羽勅撰『新古今和歌集』が届くと、そこに入集された父・頼朝の歌が出ています。信子の『御父上様は武家の棟梁でありながらも、言の葉で人の心を動かす力に優れていらした』という解説に、知らなかった父の意思を確かに読みとり心を動かします。

さて、実朝は天然痘にかかりますがその危機を脱し、心優しき信子との絆を深めていきます。
2代将軍の死因への不信、頭角を表した敵対する御家人同士の策謀、武士としての器量を責められる実朝、後継への口出しなどに苦悩する実朝を信子は支えました。共通の和歌の心も支えになります。

実朝がようやく自立の心を持ち政への関心を増すにつれて、それを阻もうとする「誰か」の気配を感じます。

実朝が心を許している義時の嫡子・泰時から「式目」という言葉を耳にします。言の葉で式目を残す形は、実朝の言の葉で政治を動かしたいという気持ちと一致します。
この貞永式目ができるのはすこし後の執権・泰時の時代になりますが、著者は実朝の心も反映させているのではと思います。

実朝が自信をつけ始めこれからという時に、鶴岡八幡宮で甥の公暁に、行列の最中にいわば公然と暗殺されます。
公暁が叔父・実朝を暗殺するに至る心の変遷が詳しく描かれており、同時に実朝を取り巻く鎌倉殿の状況からもはかり知ることができました。
頼朝も兄弟を容赦なく切り捨てていきました。義時も父時政を追い落とす冷淡さ。政子も北条を守るためには冷淡さを表わします。実朝暗殺も同じ血が同じ血を成敗する・・・。
暗殺の詳しい背景がいまだに諸説あるのは、いかに執権、御家人の思惑と行動が複雑極まりなかったかを表しています。

静かな最終章が、読む者の無念の心を静めてくれます。実朝が亡くなった後、京に戻った信子と藤原定家が実朝の歌についてやり取りする場面です。
実朝の歌を集めた「金槐和歌集」のタイトルの深い意味も分かりました。27歳で亡くなった実朝、言の葉はこの美しい歌集として残ったのです。

福岡市美術館の松永コレクションに伝・源実朝「日課観音図」があります。
線のタッチがのびやかで力強く、簡素ながらやさしい表情の観音様を描きながら、実朝は何を思い、何を願ったのでしょうか。





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