新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『背教者ユリアヌス』 辻邦生

2012年08月31日 | 本・新聞小説

 もし辻邦生著『西行花伝』『嵯峨野名月記』を読んでいなかったら、まずは手に取ることはなかったであろう本がこの『背教者ユリアヌス』です。3巻からなる長編歴史小説を前にするとため息が出ましたが、読み始めると4世紀前半のローマ帝国を舞台にした壮大な叙事詩にすっかり心を奪われてしまいました。

 ストーリーの運び方はわかり易いし、細やかな美しい表現はその場面をカラーでイメージできる楽しみを与えてくれます。極力抒情を配した表現には、じっとりとした湿度の重苦しさが感じられません。思いもかけず短期間で読み終わりました。

 小説の舞台もヨーロッパからユーフラテスまでと広く、実在、架空も含めて登場人物が多く名前も似ているので地図とメモなしには読めません。

Img_0312


 西暦337年にコンスタンティヌス大帝が病死した後、息子のコンスタンティウス帝は自分の権力を脅かすことになる叔父、従弟を含めて大部分の親族を粛清します。そんな時にかろうじて死を免れたのが、従弟のガルス12歳、ユリアヌス6歳の兄弟です。権力欲に目覚めたトップは、親、子、兄弟ばかりでなく叔父、従弟までもいとも簡単に謀殺してしまうのは、日本史でも然りです。

 二人の存在におびえたコンスタンティウス帝の命令で幽閉状態の少年期を送りますが、山野を駆け巡り狩猟に明け暮れる兄と違って、ユリアヌスは哲学や古代ローマ・ギリシャの信仰への礼賛へと心を向け、ここでユリアヌスの人格が形成されていきます。さらに二人は十代の最も多感な時期を、奥地の過酷な環境のマケルスの古城で育つことになりました。

 大帝コンスタンティヌスと息子のコンスタンティウス帝がキリスト教優遇の路線を引きましたが、ユリアヌスはそこにいつも違和感を覚えていました。表面上はキリスト教の教えを受けていますが、古代ローマ、ギリシャの信仰に帰ることこそがローマ帝国の繁栄につながるものだと強く信じていました。

 コンスタンティウス帝は直系に恵まれなかったので、仕方なく都に呼び戻したのが生き残っている従弟の26歳ガルス。不遇だったガルスにもやっと光が差し初め東部ローマを統治する「副帝」に任じられます。しかし、ガルスの抑制のきかない性格と皇帝の持ち前の猜疑心と悪名高い宦官の権謀術数により、皇帝殺害を謀ったかどで処刑されてしまいます。二十九歳でした。

 ユリアヌスは従弟コンスタンティウス帝の逆鱗に触れないようにひたすら哲学の道を究め権力には無関心をを装いますが、ガルス亡き後に唯一の親族として皇帝に呼び戻され、これもまた「副帝」を命じられてガリアを統治することになります。

 そんな時にコンスタンティウス帝は、ペルシャ戦線に参加すべく、ガリアのユリアヌスの軍団の東部への移動命令を出します。ガリアの地で安定していた軍団はそれを強硬に拒否し、ついには心を寄せていたユリアヌスを「皇帝」に擁立し、ユリアヌスはこれを受託します。謀反者となったユリアヌスはコンスタンティウス帝と戦うことになりますが、進軍の途上で皇帝が急病死し、その皇帝の遺言通りに「ユリアヌス帝」が誕生したのです。361年の終わりです。

 このころキリスト教会は特権を得て世俗化しており、教理を巡って内部抗争が頻発していました。ユリアヌス新皇帝はまずギリシャ、ローマ伝統の宗教を復活させることに力を注ぎ神殿を再建ます。ミトラス神へのいけにえの儀式を民衆の生活に破たんがくるほど強引に推し進めます。

 ユリアヌスは正面からキリスト教を禁じたわけではありませんが、キリスト教聖職者階級の特権や財産をはく奪し宗教活動をにぶらせます。二代続いた親キリスト教の皇帝一族が反キリスト教的な政策を行ったということで「背教者」と呼ばれる所以があるのです。さらにアンティオキア滞在時代に、中小市民層の皇帝に対する反感と侮蔑を広げていきます。

 363年3月ペルシャ遠征のために東方ユーフラテスに赴き首都の近くまで迫りますが、作戦がうまくいかず退却の途中でペルシャ軍の攻撃を受けて戦死してしまいます。363年6月、31歳7か月の人生でした。

 哲人皇帝アウグストゥスを仰ぎ、自分もそれを目指したのですが、古代回帰の独りよがりの考えが人間的にも政策的にも破たんをきたしていました。長い間ユリアヌスを心からサポートしてきた優秀な側近たち、哲学者の友人たちたちもユリアヌスの弱点・欠点を冷静にわきまえていたところが、なんとも哀しい終わり方でした。

 この全3巻では、皇帝になるまでの幼年、青年ユリアヌスは非常に魅力的な人間味のある人物として描かれています。皇帝になり権力を持った後、強い宗教心と哲学心が人格の変容をきたしたかの如く変貌していったところが、短命の皇帝で終わらざるを得なかったのでしょう。

 変貌というより、プラトンを愛したユリアヌスは、高い精神を目指し理想を実現させるために、自分の心に忠実に生きたといった方がいいのかもしれません。皇帝の期間は1年9か月でした。

コメント (9)

『百姓読み』とは?

2012年08月22日 | 言葉・文字

Img_0254

テレビ番組中に「スイゼンノマト」と発音した「垂涎の的」が出てきました。以前にもテレビでは「スイゼン」と発音していたので、この『垂涎』の読みが以前から気になっていました。

私はずっと「スイエン」と読んでいたので、夫に聞いてみるとやはり「スイエン」。辞書によると「スイエン」の読み方は、「 『スイゼン』の姓読みに基づく 」と書いてあります。

初めて目にした百姓読みの文字に意表を突かれて調べてみると、『主として形成による漢字を音符からの誤った類推で別音によむこと』で、ここでは「の「延」の部分を「エン」と読んだためだとわかりました。百姓読みは「誤読による慣用読み」ということです。

その[百姓読み]が意外に身近に使われており、「」は本来「こうらん」→「かくらん」と読むし、「」は「しょうこう」→「しょうもう」に、「」は「そんこう」→「そんもう」に。しかし「心神耗弱」は、今でも「しんしんこうじゃく」と正しく読むし日本語は複雑です。言葉は時代とともに変化していくのを感じました。それにしても当然のことながら「百姓」は新聞用字用語では差別語、不快用語になっています。

  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

Img_0259Img_0262_2


ブーゲンビリアが三度目の正直でやっと根が付いたようです。ただひたすらに1mにも伸びています。綿の実も楚々とした薄ピンクの花を付け、いつの間にか固い実になっていました。

綿の実の中の種は、表面に綿の繊維が糸状にびっしり取り巻いていてなかなか取り除けません。だからそのまま種を埋めておいたら、ちゃんと殻を破って5個の芽が出て優しい花が咲きました。指の力よりも、種の中の生命力の方が強かったということで、とてもいとおしく感じます。

ピーマンも虫に食べられて抜いてしまおうかと思っていたら、その声が届いたかのように次々に艶やかな実をつけるようになりました。

Img_0260

コメント (12)

さっぱりドライカレー

2012年08月12日 | 食・レシピ

Img_0193

ルーを使った少し湿ったドライカレーでなく、パラパラ肉のドライカレーのレシピやレストランをずっと探していました。それが偶然にいつも楽しみにしているcannellaさんのブログに『フランス風ドライカレー』が出ていたのです。翌日にはさっそく作りました。cannellaさんに感謝です。

ブログには写真が出ていなかったので、何度かのコメントのやり取りでどうにか作ってみました。暑い夏にすがすがしいドライカレーです。最初に食べたぱらぱらのドライカレーとはちょっと違いましたが、わたしの幻のメニューになっていたのがやっと実現しました。

レシピの材料の分量を我が家風に変えて、カレー粉大さじ1、塩小さじ1弱に、隠し味に砂糖を小さじ1/4を入れてみました。

『針のような千切りに』というジャガイモは、寝かせてスライサーを使ったので春雨みたいになってしまいました。ポテトを垂直に立ててスライスした方がいいようです。

ひき肉、ポテト、ご飯をひと匙ぐらいずつまとめながら食べると、食べ方もきれいです。フライドポテトは使いますが、ルーを使わないでさっぱりしている所はカロリー控えめでヘルシーかもしれません。

サラダには、ジャコをごま油でカリカリに炒めポン酢で味付けをしたものをトッピングしました。モロヘイヤやニラを使い野菜たっぷりの夕食です。

コメント (8)