新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

さつま・紫尾温泉

2011年12月29日 | 国内旅行記

12月の最終週、1泊で鹿児島県薩摩郡の紫尾温泉に行ってきました。クリスマス休暇で戻ってきていた息子の案内です。九州には観光地としても有名な温泉が数多くありますが、それ以外に情報通だけが知る温泉があちこちにあることを最近やっと知りました。

紫尾温泉は紫尾神社の拝殿下からお湯が湧きだしたことから「神の湯」とも称されています。山あいのその一番奥にある紫尾庵は、1年前にオープンした全室離れ形式、すべてに内風呂が付いた24時間かけ流しの温泉です。硫黄の匂いとつるつるになる泉質が気に入り、3回も入浴しました。紫尾庵と同じ経営で、すぐ隣にあるしび荘は古くからある温泉旅館です。そちらの温泉も利用できます。懐かい風情のあるもっとも温泉らしい温泉で、通の人にはたまらないようです。

それにここの温泉水は飲めるのです。夕食のご飯がおいしかったので、帰りに紫尾米を買ったら、温泉水で炊くともっとおいしいということで源泉も汲んで帰りました。

Cimg8235_9Cimg8224

竹をうまく利用したインテリアや和紙や白木を使ったとてもホッとする部屋でした。

Cimg8239Cimg8232_5

本館の食事処で頂く夕食は、地場の食材を使った京風料理。おいしさと美しさをしっかり写真に収めるつもりが、食べることに気を取られてすっかり忘れていました。左の写真は夕食の前菜。右は朝食で、こんなに手の込んだ朝食は珍しく、それでも食後のコーヒーまできっちりいただきました。

Cimg8240Cimg8241

途中、人吉で昼食に立ち寄った鰻の「うえむら」は、駐車場が混んでいるのを見ても人気のお店であることがわかりました。創業100年の老舗らしいたたずまいのお店は、まさに「うなぎの寝床」で、長年の間に部屋を継ぎ足していったという感じです。

ふっくらとした肉厚のうなぎはタレが柳川のほど濃くはありませんが、それでいて味に深みがあり食べた後がさっぱりしています。鰻を食べた後に来る胃がもたれたような感じが全くありませんでした。右の写真はお店のHPから借りたもの。穴の空いた障子と火鉢が懐かしい雰囲気を出してくれます。忘れていた炭火のやさしい温もりに感激しました。

Cimg8223Photo_3

コメント (10)

『冬の鷹』  杉田玄白と前野良沢の相克

2011年12月19日 | 本・新聞小説

Photo_4昔、むかしの小学生時代の話。小学校高学年の国語の教科書に出てきた「解体新書」「杉田玄白」「前野良沢」「腑分け」「ターヘル・アナトミア」の文字とその扉絵。数十年を経てもなお頭の片隅にこびりついていました。とにかく苦労して苦労して強い意志だけで歴史的偉業を成し遂げた偉人伝みたいな話だったように記憶しています。

玄白は歴史的にも日の目を見ていますが、なぜか良沢は日の当たらない場所に・・・という疑問がずっとありました。その謎解きをしてくれる本を偶然に書店で見つけました。吉村昭著『冬の鷹』です。正確にはその「偶然」は、ももりさんのブログで吉村昭の書評がよく出てきて、その作家の著作を探していた時に「偶然」に見つけたのです。

   ..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..

良沢(中津藩医)と玄白(若狭小浜藩医)はそれぞれに解剖図の載っている『ターヘル・アナトミア』の本を所持していました。1771年、医学に志を持つ玄白、良沢、中川淳庵らが骨が原の罪人の腑分けを実見すると、『ターヘル・アナトミア』の解剖図や骨格図と完全に一致しており、それまでの中国から伝わる五臓六腑の解剖図とは全く異なっているのに驚愕を受けます。激しい熱意を持って玄白は、良沢に『ターヘル・アナトミア』の翻訳を提案すると、以前よりオランダ語の翻訳に強い宿願を持っていた良沢も感動をもって賛同します。

良沢はオランダ語が少しはわかるものの、玄白と淳庵はABCからスタートという最悪の条件のもと、「櫓も舵もない船で大海に乗り出す」ことになったのです。頼みの綱は長崎時代に自分でまとめた300語ほど蘭語の記録と、700語ほどの青木昆陽著『和蘭文字略考』と、ピートル・マリンの『仏蘭辞書』だけです。(25年後に、ようやくオランダ語を日本語に訳した6万5千語ほどの「ハルマ和解」ができあがります)

手探りの翻訳は遅々として進みません。たとえば解剖図の「頭」の部分に『het Hoofd is de opperste holligheid.』とあります。良沢の乏しい語学力でわかるのは、Hoofdとisとdeで「頭とは・・・・・也」のみ。数日してやっとマリンの辞書でoppersteという綴りを発見しますが、その語に付記されたオランダ語の説明文もわからず、良沢の苦しみは増すばかりでした。

気を奮い立たせて説明文の単語を一語ずつマリンの仏蘭辞書で探していきます。oppersteという一語を究明するのに説明文が網の目のように広がっていくのです。いたずらに日が過ぎてわかた事は「最も上」ということ。holligheidとhetもやっと解明できて、「上体は頭顱なり」の短い文が初めて出来上がりました。オランダ通詞の力も借りずに、マリンの辞書を使って独力で単語を解明できたことは、良沢に自信と明るさをもたらしました。しかしまだまだこのような作業が249ページ余り続くことになります。ちなみに長崎一の大通詞と言われる人でも、話す方はいいとしても読解力はほとんどなかったとか。

良沢は孤独を好み、他人と共同作業のできない気難しい性格であることを玄白は知り抜いていましたが、良沢の存在なしには翻訳が成功しないこともわかっています。訳語を探して深みに陥った良沢の心身を解きほぐしたり、天性のひらめきで訳語のアドバイスをしたり、展開させたり、良沢も玄白のその能力を評価していました。

こうしてつらく厳しい翻訳作業も2年余りで一応の目途がついたのですが、このときから良沢と玄白の生き方の違いがはっきり浮き出て、それぞれの人生は二つの方向に大きく分かれてしまうとになりますす。

翻訳が終わった段階で玄白は、まず幕府の反応を見るために解剖図のみをまとめた『解体約図』を世に出すことを提案しますが、学究肌の良沢は完全な翻訳ではないことを懸念して自分の名前を出すことを拒否し、玄白が名声を得る手段として翻訳に参加したのだろうと不快感を示します。しかし玄白にすれば、訳語の不備よりもそれまでの東洋医学から西洋医学へ大きく転換し、医学界に大きく寄与する事が大切だと主張して、訳者に良沢の名前はないままに刊行されることになります。

Photo_2『解体新書』には、解剖図と人体図も平賀源内の紹介により小野田直武が原画を描き(これは後世に貴重な学術的記録となります)、『解体約図』の評判がよかった1年後の1774年に刊行されます。もちろんここにも良沢の名前は載せないままに。そしていつしか玄白と良沢の交流も途絶えてしまいます。

この鎖国の時代に横文字の混じった書物の出版は禁制で、その罪が自分たちばかりか藩主にまで及ぶ場合もあリ得ると、ここで玄白は慎重な計画をたてます。

玄白の幅広い交流を利用して、将軍家治に本を献上し、別に老中にも献上、さらに公家方へも献上して、賞賛を得て出版は公然と認められました。

『解体新書』の序文を良沢と交流のあった長崎大通詞、吉雄幸左衛門が書き、その中に良沢の努力とその意義を激賞していることで、どうにか良沢も翻訳にかかわったことが世に示されることになります。これ以降、人嫌いの良沢は弟子をとることもせずに、ひたすらオランダ語の翻訳にのめりこんでいきます。

社交的な玄白には学問を乞う人も多く、開いた天真楼塾からは大槻玄沢のような素晴らしい学者が排出し、後継者に娘婿の優秀な伯元を得て、玄白自身は江戸屈指の流行医になり、富は日を追って増していきます。家族や弟子たちに囲まれた華やかで陽光きらめく人生で、歴史の中にもくっきりと名を残しました。した。

他方良沢は、藩主から下賜された蘭書『プラクテーキ』を1年足らずで読み終えますが、それを出版する気などみじんもありません。人を寄せ付けずただオランダ語の翻訳に没頭し、そのことだけに意義を感じている毎日で、患者を得ようという気持ちも薄く、藩医としての収入だけの貧しい生活でした。その上幼い時に亡くした長女に続き長男を亡くし、続いて妻も亡くし、家督を養子に譲ったあとは、一人で借家住まいの孤高な暮らしに入ります。雪に埋もれた借家暮らしの弱り果てた良沢をたった一人残った娘が引き取り、最後はそこで80歳の生涯を終えます。玄白に比べると、目的だけを貫き通した孤独で静かで、家族にも早く分かれてしまった人生でした。

1冊を読み終えてどちらの生き方がいいというものでなく、良沢と玄白があったからこそ『解体新書』は出来上がったのだと思います。。翻訳は良沢中心だったかもしれませんが、それを継続させていったのは玄白の統率力によるものでしょう。それに玄白には翻訳の最中でもイメージを的確に把握するひらめきや考えをまとめる能力があったように思います。玄白の翻訳の参加の動機は、良沢が疑った名声のためばかりでなく、骨が原の腑分けの驚愕が示したように医家としての使命感もそれに負けないくらいあったと思います。しかし、良沢の生き方には胸が詰まるものがあり、やはり良沢は応分の評価がなされていないというところに胸苦しさと悔しさを覚えます。

『解体約図』の出版に際し将軍に献納するときの時代背景として田沼意次や松平定信が登場し、良沢と関係の深かった勤王派の高山彦九郎が登場して、ストーリーに横の広がりが見られます。子供の頃「偉人伝」で読んだ平賀源内が、学究を目指す翻訳グループの間では鼻持ちならぬ人物としてとらえられているのも意外でした。

  ..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.*゜:.。:..:*゜

古文書関係の方から、2011年11月26日の西日本新聞のコピーをいただきました。「 『解体新書』より87年も古い解剖書 」 というビックリのタイトルが目に飛び込んできました。

------------------ 内容要約 -------------------------------------------------------------

原三信は初代福岡藩主、黒田長政の藩医を努め、代々襲名し、偉業を継承してきました。6代目が藩命で長崎に留学し、1685年オランダ語による医師免状を受け取り、それには外科医術を学びよく理解した事を認めると書いてあるそうです。1687年にはドイツ人医師レメリンによる解剖書を筆写、解説書も和訳して藩に持ち帰りました。日本初の西洋解剖書『解体新書』よりも三信の写本は87年も早いことになります。

「キリシタンが弾圧され洋書の輸入も禁じられていた時代。原家では免状とともに和訳した解剖書は『一子相伝、門外不出』として錠前の付いたきり箱に厳重に保管してひそかに受け継いできた」ということです。

----------------------------------------------------------------------------------------------

同じ福岡の地で・・・、というのが私には誇らしく思われます。洋書禁止の当時には秘密裡ということもあるでしょうし、名家の秘伝ということも納得できます。このような隠れた資料が続々と出てくるのを待っています。

今、能古博物館で免状や写本が展示されているということです。

Kaibouzu

コメント (3)

『 坂の上の雲 』と『 日露戦争に投資した男 』

2011年12月01日 | 本・新聞小説

Photo_43年にわたって放映された「坂の上の雲」も、今月の第3部で幕を閉じます。40代の司馬遼太郎が作家生命をかけて挑んだこの大作は、読んでも読んでも終わらない全8巻。

後半は戦争場面が多い中、戦場以外での息の詰まるような活躍をした人たちのことが少しだけ出てきます。印象に残ったのが4巻「遼陽」の章。

1904年4月の日銀の正貨(金貨)は6800万円しかなく、軍事費調達のために、まず1000万ポンド(1億円)の戦時外債募集の責務を負わされたのが高橋是清でした。

このくだりが司馬氏の独特の語り口で『・・その金の調達に、日銀副総裁の高橋是清が、調査役の深井英五をつれてヨーロッパ中をかけまわっていた。ひややかに観察すれば、これほど滑稽な忙しさで戦争をした国は古来なかったに違いない。』 これが宣戦布告の半月後の状況でなのです。『もし外債募集がうまくゆかず、戦費がととのわなければ、日本はどうなるか。高橋がそれを仕遂げてくれねば、日本はつぶれる』といった元老井上馨言葉にもあるように、国を左右する重要任務でした。

必死の説得でやっとロンドンの銀行団から500万ポンドの約束を取り付けます。しかしまだ半分・・・。その晩餐会でユダヤ人ジェイコブ・シフとの劇的な出会いがあり、残りの500万ポンド分をまさにポンと約束してくれたのです。シフ氏の協力の理由はロシア国内には600万人のユダヤ人が居住し迫害を受けている。日本が勝てばロシアに革命が起き帝政をほうむるであろう」という人種問題が絡んでいました。

また別の側面から、大佐明石元二郎が100万円の資金を懐に、帝政ロシアを取り巻く革命分子、不平分子などに接触、革命工作をして、ロシアの国内攪乱を図りました。

もう一人金子堅太郎(巻3)。書生時代にハーバード大学で法律を学び、その時の同窓生が日露開戦当時の米大統領になったセオドル・ルーズベルトです。日露開戦を決意した御前会議の直後、開戦に消極的だった伊藤博文は『米国に行き、大統領と米国国民の同情を喚起し、程よいところで米国の好意的な仲介により停戦講和ということろにもってゆけるよう、その工作に従事してもらいたい』と金子を米国に送り込みます。

こうした戦場以外の地道な戦略があったのです。そのシフのことをもう少し知りたいと本を探していたところ、寺田さんのブログで田畑則重 「日露戦争に投資した男 ユダヤ人銀行家の日記 (新潮新書) を見つけました。

シフは1847年フランクフルト旧ユダヤ人街でも500年の歴史を持つ裕福な家に生まれました。18歳で急激な発展を遂げるアメリカに飛び出したシフは、南北戦争後の好景気で成功を遂げます。やがて彼は、アメリカの近代産業国家への歩みと歩調を合わせ成長しているクーン・ロープ商会(国債、鉄道債券を取り扱う)に入り、経営者の娘と結婚して積極的に海外との関係を築き、その人脈は比類なしと言われるまでになります。善意のアメリカを象徴しながらも有能な金融資本家の顔を持つのがシフでした。

田畑氏は、ロンドンでの晩さん会での高橋との出会いは根回しがあったと書いています。シフの日本支援は、日露開戦前にすでに公債の情報をつかんでおりロシアに与える打撃を計算していたこと、ルーズベルトもアメリカ国民も日本支持に傾いていたこと、アメリカ資本の参加により日本に対して同情するのは英国ばかりではないと英国政府も喜んだこと…など複雑な背景をあげています。

後半130ページ余りがシフの日本滞在記「シフ滞日記」の日本語訳です。日本の勝利に大きく貢献したシフは叙勲を受けるために、講和の翌年の春、妻や友人を伴い往復3か月半をかけて日本へ旅行をします。その時の旅の記録です。、明治維新からまだ40年たらずの新興国日本が、外国人の目にどう映ったかがとても興味のあるところです。

明治天皇の謁見、勲二等旭日重光章の叙勲、午餐、晩餐、物見遊山、骨董品の買い付け、日本文化への好意的な見方、日本の上流階級の生活と様式、韓国の100年前の風景など新鮮でとても興味がそそられました。パートナーのご婦人方は「買い物」のスケジュールも多く、この時代に日本美術が流出していったのが感じ取られます。

政府の要人や官僚、そのパートナーの夫人たちも、外国人を接待するマナーを心得ており、急速な日本の文明開化が確実に進行しているのがみられます。婦人方にも英語を話す人がかなりいたようで、手取り足取りの文明開化が着実に根付いてきた証拠でしょう。とにかく私が知らなかった明治初期の日本を、外国人の客観的な目を通して知ることができ非常に面白く読みました。

日露戦争を語るときにシフのことはあまり出てきません。シフが秘書に口述筆記させた日記には、日本人の歓迎のスピーチでシフに対する感謝の念が切々とつづられています。それを読むと、今を生きる私もホッとするものがあります。戦争の良し悪しはともかく、資金のめどがないままに開戦していたら日本はどうなったか・・・。最も追い詰められた日本がすんでのところで窮地を脱することができたことに感謝の念がわきます。

晩餐会のシフの謝辞も記述され、『私は真剣に、新たな起債をして国家に過重な負担を負わせることの危険性を忠告した。とりわけ日本に価値ある資産がないことは、高い信用がないことと同じだとだという事実を詳しく説明した。信用は、日本が世界の市場で重ねて得てきたもので、周到に守るべきものなのだ』と忠告したことがとても心に残ります。

NHKの「坂の上の雲」第3部が楽しみです。。

  :。:.::.*゜:.。:..:*  シフのその後  :。:.::.*゜:.。:..:*゜..:。:.::.゜

その後、シフが1920年にこの世を去ったあと、1929年の世界大恐慌でクーン・ローブ商会も大きな打撃を受け、かつての栄光は取り戻せませんでした。一方、孫のドロシーは36歳の時「ニューヨーク・ポスト」紙を買収し、1976年にメディア王パート・マードック氏に売却するまで社主として君臨し、歴代大統領とも親しく交わるほどの華やかな経歴だったようです。

第2次世界大戦後、クーン・ロープ商会は同じユダヤ資本のリーマン・ブラザーズと合併しましたが、その結末はといえば、つい先ごろ、世界を巻き込んだ大恐慌を引き起こし破綻してしまったことは周知の事実です。しかしシフの末裔はアメリカ政財界に隠然と名を残しているようです。

コメント (6)