『結婚滅亡』
結婚だけじゃない「安心のあり方」
新しいコミュニティをつくるのは〝個の自立〟
「利己的な利他」と「利他的な利己」
〝コミュニティに接続する〟という新概念
結婚してもしなくても「ソロで生きる力」は必要
ホントのわたしって?
「為し合わせ」る「しあわせ」
結局、結婚は滅亡するのか?
〝支える人〟そして〝支えられる人〟 とはいえ、僕のような言説を徹底的に批判する人がいます。
『フィンランド公共図書館』
市民とともに起こす公共図書館革命--市民の夢のオ一ディ図書館
フィンランド建国一〇一年のグランドオープン
エントランスホールと多目的スペース(一階)
クーティオとメーカースペース(二階)
ブックヘブン(三階)
グランドオープンで行われたイベントの詳細
オーディ図書館が建設された背景
セントラルライブラリーの構想
オーディ図書館を支えるフローティングコレクションとオーガニゼーション
フィンランドの象徴としての「夢の図書館」
『AIの時代と法』
消費者がモノを持だない時代
無人配車サービスの実験
音楽とコミックで起こったこと
サービス提供契約の内容
エッジコンピューティングとクラウドコンピューティング
サブスクリプション型取引と製造物責任
自動運転車のリコール
『原子力時代における哲学』
ハンナ・アレント
「人間の条件」を巡る人びとの欲望
科学主義と科学批判
『人間の条件』における原子力
エフェソスの運命
『アメリカが面白くなる映画50本』
「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」知性と民主主義の砦
図書館の概念を超える
就職支援プログラムまで
民主主義の柱
『イスラム世界を訪ねて』
ウマイヤ・モスクはウマイヤ朝の象徴--シリア・アラブ共和国
アルファベットが生まれた地中海東岸の国--レバノン共和国
公立小学校はイスラム教の授業がある--ヨルダン・ハシミテ王国
東洋と西洋の文明・文化が出合う国--トルコ共和国
ペルシャ語はイスラム世界第二の言語イラン・イスラム共和国
ナイル川流域と三角州地帯に集中する学校--エジプト・アラブ共和国
内戦が終わる日を待つ子どもたち--リビア
『東ドイツ史1945-1990』
最後の一〇年間
経済の凋落
現状維持という呪縛
SED国家と教会
一九八〇年代の両ドイツ関係
ペレストロイカ?--いいえ、結構です!改革能力がないことを露呈したSED
反対派の形成
「私たちを出せ!」--「私たちは留まる!」
麻痺したSED
「転換」から終わりヘ
『東ドイツ史1945-1990』より 最後の一〇年間
一九八五年にゴルバチョフが権力の座に着き、国際的な緊張緩和政策が開始された。そしてこれにより両ドイツ間の緊張緩和は確かなものになっていった。西ドイツの連邦議会議長フィリップ・イェテノガーが「理性の同盟」と特徴づけたこの関係から、ホーネッカー政権の事実上の承認が展開していった。この承認は、東ベルリンの年老いた「赤いツァーリ」が熱望していたものであった。モスクワの度重なる介入によって何度も延期になったエーリヒーホーネッカーのボン訪問は、一九八七年にヘルムート・コールの招待で実現した。そしてSED政治局の内部報告書に適切に書かれているように、「同志エーリヒ・ホーネッカーを完全に外交儀礼上、他の主権国家の国家元首と同じように扱うこと」で、「世界中に両ドイツ国家の独立と同権が証明され、両国の主権、両国の関係が国際関係であることが強調された」のである。しかし、東ドイツの指導者が、ソ連で唱えられていた「新思考言」の成果を自分のものだと要求する一方で、「グラスノスチ」と「ペレストロイカ」は、SED指導部にあからさまに拒絶された。体制転換後に発見された内部の議事プロトコルを見ると、二人の党指導者が、お互いの問題についてますます理解できなくなっていたことが分かる。一九歳年下のゴルバチョフの目からすれば、ソ連の支配機構の近代化は避けて通れないものであった。ホーネッカーとその取り巻きは反対に、東から迫りくる改革の議論が、自国における自らの権力を破壊させるだろうと感じていた。何十年にわたって東ドイツで高い代償を払いながら維持している思考禁止は、突如、東側の指導者によって疑問視されたのである。一九八六年秋、高齢化した政治局の支配者たちは、ソ連の高名な作家エヴゲーニー・エフトシェンコが西ベルリンのテレビで「一つのドイツ文学」について語るのを苦々しい思いで聞いた。ゴルバチョフが登場したことに対して、ホーネッカーは「反革命」というレッテルを貼った。何十年にもわたる全面的な依存と無条件の服従の後であるだけに、ホーネッカーの苦情は読む者にほとんど悲壮さを感じさせる。「私たちにとって重要なのは、一方と戦わないといけないことです。二正面作戦をしなくても良いようにすることが肝心です」。
一九八七年四月、政治局員のタルト・ハーガーは『シュテルン』誌のインタビュー上で、東ドイツにおける「ペレストロイカ」の必然性について訊かれたが、「隣人が壁紙を貼り換えたからといって、自分の家も同じようにする必要があるでしょうか」と、さっと反問をすることで無視して片づけた。SED書記長はすでに何か月前に極秘会談でこう憤激していた。「我々はずっとソ連の味方であったが、ソ連ではまだ靭皮の靴を使っているのだ」。東ベルリンの党と国家の指導部は常に、ソ連の利害を東ドイツの利害に優先させてきた。このことが、四〇年の長きにわたってエルベ川からオーダー川までの権力維持のためにSEDが常に自らすすんで支払ってきた代償であった。ソ連だけが、長期的権力維持を可能にさせたのである。SEDにとって自分たちを守る権力であったソ連が、今やヨーロッパと東ドイツの現状維持を掘り崩すようになった。一九八六年一一月、ソ連は東側の関係における大転換についてシグナルを送った。その射程の広さは、後から振り返ってようやくはっきり把握できる。コメコンの構成国党首脳会談で、ゴルバチョフは「各政党の独立、自国の進路にかんする主権者としての決定、自国民に対する責任を強調した。これ以降、これまで有効であったブレジネフ・ドクトリンは放棄され、東側ブロックにおける自主的な政治改革の努力に、ソ連による軍事介入があるかもしれないという影が差すことはなくなった。ブカレストやワルシャワの政府が、広範囲にわたる改革のために、これまで体験したことのないほどの行動の余地を使えるようになった一方で、東ドイツでは何もかもが以前のままであった。当時は、東ベルリンの最高位の統治エリートの誰も、モスクワの路線変更を、ソ連の戦車が自分たちの党支配をもはや保証してくれない変更だと解釈できなかった。現状はあまりに堅牢に見えた。SEDに従順な諸政党と大衆団体、警察、シュタージ、「武装組織」の網の目は、東ドイツという分断国家にあまりにも密に張り巡らされており、国家の中での彼らの権力が真剣に脅かされているようには見えなかったである。
一九四六年に党が創設されて四〇年がたち、SEDの党員数は二三〇万人、今までで最高の水準に達した。しかし「グラスノスチ」や「ペレストロイカ」という感染性細菌が、西側メディアという迂回路を通って、さらに強化される形で、東ドイツで蔓延しはじめた。これによってSED指導部は、イデオロギーにかんする全権要求をこれまでのようには維持できなくなった。善悪二元論的な公式プロパガンダの中に新しい論調がどっとやって来た。しかも今回も変化は、それまで何十年間もそこから学ぶことが重要だと言われていた、まさにそのソ連からやって来たのだ。「階級敵」を通じてやってくるイデオロギー上の挑戦とは異なり、党の教条主義的理論家は真剣にこの問題について説明する必要に追われた。突如として、SEDの布告の中で、「東ドイツ的色彩を有した社会主義」が重要とされ、党の扇動家たちは、安寧、静謐、秩序といった価値を呼びかけるようになった。しかしこうした呼びかけでも、そして同様に社会的、物資的な「東ドイツの成果」を絶えず示唆しても、住民の中にもともとごくわずかしかない忠誠心や同意を引き出すことはできなかった。
東ドイツの文書館の公開によってはじめて、当時のSEDでは既に内部崩壊が始まり、党内部の浸食が進んでいたことが明らかになった。この浸食過程は一党独裁が平和裡に崩壊するのに決定的な前提になるものであった。
一九八六年四月の第一一回SED党大会の結果、党内民主主義や時局的な経済問題について率直に議論することがますます要求されるようになり、さらに、美化して糊塗するだけの報道機関へますます多くの不満が寄せられていると、党統制委員会は記録している。批判は、「不満分子」や「粗さがし」として弾劾され、党指導部と党機関は、処分や党内査問委員会手続きを増やして対処した。
一九八六年春、チェルノブイリ原発事故とその影響があたかも些事のように東ドイツのメディアに報道されることで、多くの人々にとって--党員であるないにかかわらず--、SEDの情報統制政策がいかに虚偽に満ちているかがはっきりした。一九八七年一〇月、政治局は人々に知らせない形で「ソ連の同志たちの演説は抜粋するか要約する形で公表する」という決定を下した。自分たちの庇護者であるはずのソ連からの隔絶政策は、こうした今までにない結果になった。その後、今度は新しい「スプートニク・ショック」によって、多くのSED党員たちは見切りをつけるようになった。一九八八年一一月、SED指導部はドイツ語で書かれたソ連情報雑誌『スプートニク』を郵便販売リストから削除した。これは事実上の発禁処分であった。この雑誌は少し前から既に、東ベルリンにおける厳格に党派的な歴史像の守護者たちにとって、目の上のたんこぶであった。ゴルバチョフの就任以来、この雑誌は再三にわたってソ連の公刊物からスターリン主義に対して批判的な記事を翻刻していたのである。ホーネッカーがこの問題を取り上げてソ連書記長に抗議したところ、ゴルバチョフは端的に、言及されている雑誌が、東ドイツで「転覆を引き起こすことはない」だろうと述べた。その直後にはさらに相当数のソ連映画の禁止処分へと飛び火した、衆目を集めるこの発禁処分のきっかけになったのは、その一か月前に公刊された「ヒトラー・スターリン協定」とその「秘密」--とはいえ西側では何十年も前から知られていたが--付属議定書、とりわけナチドイツとソ連の問で結ばれたポーランド分割の取り決めに関する論文であった。「ソ連共産党とソヴィエト連邦の歴史を、ブルジョア的な観点から書き換えたいと思っているような、暴れ出した馬鹿なプチブルの叫び」に心を動かされないようにと、書記長ホーネッカーは、第七回中央委員会会議の直後に怒りをあらわにして述べた。
雑誌『スプートニク』の発禁処分に対しては、SEDの支持者も「無党派」も反対することで一致していた。シュタージはこれについて心配して記録を残している。「多くの意見表明がなされたが、その中には、以前と同様、単に分別がついていないものから、原理原則的な拒絶まである。そのいずれにも、この決定は政治的に間違っているという意見が、基調として通底している」と諜報機関は確かめている。党員仲間の中では、怒りと諦めの間で意見が揺れていた。「数多くの長年党員を務めてきた人々によって、そしてSEDや友好諸政党の中堅幹部たち、社会に政治的に参与する進歩的市民たちによって、この決定は、情報統制政策全般について再度批判的に意見表明をするきっかけとして受け止められた」。報告書はさらに続く。特に「比較的高齢の党員たちは、戦後直後の一〇年間の自分の人生経験に」言及している。「この時期は国境も開いており、未解決の社会的問題を多数抱えながらも、しかし今日よりもずっと力強いやり方で、敵と昧方の立場からそれぞれ徹底的に批判し合わないといけなかった」。では、「はたして私たちは、この問題について公開の議論を行うことができないほどに弱い立場に置かれているのであろうか」という問いによって、ベテラン党員たちは痛いところを突く指摘をした。中央委員会には投書が殺到し、離党者が続出した。しかし一九五〇年代以降のSEDの内部には、超高齢化した支配層に対抗して、党内の不平不満の結節点として機能できるような新しい選択肢は存在せず、ましてや原理的反対派など全く存在しなかった。一九八八年末から一九八九年の初めにかけて、党機構はむき出しの圧力を行使することで、表面的な静謐を党内に取り戻すことに成功した。
一九八八年から一九八九年にかけて、西ドイツとの接近やソ連改革の継続に関連する、SED指導部の懸念は、劇的な形で証明されることになる。一九八八年一一月、青年研究を行うヴァルター・フリードリヒが、ホーネッカーの「皇太子」と見倣されていた中央委員会書記エゴン・クレンツに、経済問題と文化問題における西ドイツの影響力の増大に関する極秘分析を伝えた。重大な、「我が国における欠点や弱点(例えば生活物資供給の問題、交換部品の問題、情報統制政策、メディアによる美化や糊塗、現実の民主的共同決定など)は、これまで以上にはっきりと受け止められ、ますます批判的に評価されるようになってきている。社会主義の優位についても次第に多くの疑念が寄せられている。『ペレストロイカ』型の戦略に門戸を開かないことは、あらゆる事態を先鋭化させている」。報告はこれ以上できないであろうほど明白に懸念を述べている。「我々が新しい重要な方法で(例えば情報を与え、公開の場で、共同で決定するように)人々と付き合わないことには、我々の諸価値や、我が党の政策に対する住民たちの一体感は高まらない。そうでもしなければ、人々は一年から三年の間にさらに遠ざかっていき、すなわち、我々に背を向けるほどの危うい規模になってしまうだろう」。だが、党の指導者であるホーネッカーはこの時点で、現状に変わる政治構想を持っておらず、また住民たちの中で大きくなる不満を生活水準の即座の改善によって対処するだけの物質的なりソースも持っていなかった。たしかに、当時すでに党内の戦略家から警告する声がないわけではなかった。一九八八年には国家計画委員会のゲアハルト・シューラーは政治局で経済政策の決定的な路線転換をするように要求した。膨れ上がった東ドイツの対西側債務と返済能力に危機が迫ったことを前にして、シューラーは、非効率なマイクロエレクトロニクス分野への投資の停止、軍事予算の凍結、これまでの補助金政策の放棄を提言した。しかしこれはホーネッカーと中央委員会経済担当のギュンター・ミッタークによってきっぱりと拒絶された。とは言え、このミッターク自身が一九八八年九月に政治局員たちを前にして、「我々は事態が一気に変わり得る地点にいる」とすでに認めざるを得なかった。
よく、考えたら、身分を証明するモノを持っていない。免許証は奥さんに取られている。これでは握手会場には入れない。健康保険証で入れるのかな。やはり、パスポートは取っておいた方がいい。だけど、国家に保証してもらうのは筋違い。 #乃木坂握手会
セントレアの案内カウンターで「乃木坂はどこ?」と尋ねたら、教えてくれた。これって、番組名ですよ。 #乃木坂はどこ?
大きなビルを取り囲んで、日陰で多くに人がコンクリートの上に座り込んでいる。今は8時です。ミニラは11時からですよ。ましてや握手会は午後です。従順にはなれない。
やはり、握手券がないと中には入れそうもない。まあ、生ちゃんが居ないのでどうでもいいけど。無券で入れなかった。バイトの連中の決まりきったやり方。生田は舞台で不在、せめて、しーちゃんぐらいは見たかった。 #乃木坂握手会
東京はこの比ではないみたいです。通りすぎに聞こえたのは、「異常に少ない」。思ったよりも女性が少ない。やはり、ネットで見るよりも人数が少ない。 #乃木坂握手会
香港では同じ層の人間が街頭に出ているんでしょうね。動員の革命 #乃木坂握手会
加藤内科で「膵臓」と言われてから、腰が気になっています。ネットで調べる気にはなっていない。 #膵臓ってどこ?
セントレア。全握会場。券も証明書もない。並ぶ体力もない。これで異常に少ないと聞こえた。3時間並んで10秒以内。全握は数秒。CD売り場では、5枚、10枚と変われていた。 #乃木坂握手会
昔は無券でも気にならなかった。その気になれば扉は開けられると思っていた。2000年2月15日、サンフランシスコ公会堂Windows2000発表会には無券で入ったのを思い出した。あの頃は扉は開くためにあると思っていた。 #扉は開けるためにあった
それにしても、誘導はヘタですね。もたついている。すぐに座り込むし、どうなっているかの案内もないみたい。それが当たり前になっている様子。どうしても忍耐でしょう。何に対しての忍耐なのか。この沈んだエネルギーは転用できるのか。 #何に対する忍耐
仕組みは分らない。ミニラ終了後に多くの人が流れ込んできた。握手会のレーンの後ろに付くのかな。それにしても、これだけの相手をするのは大変ですね。ハッキリ言って難民状態です。これをNPOは対象としないのか。ベンチでハディース(ムハンマドのことば)を読むことにした。 #バスは1時間後
『イスラム世界を訪ねて』より
ウマイヤ・モスクはウマイヤ朝の象徴--シリア・アラブ共和国
モスクは、イスラム教を信じるイスラム教徒が礼拝する場所です。シリアの首都ダマスカスにある、このウマイヤ・モスクは、715年に建てられ、現存する最古のモスクです。モスクの外壁や中庭の三方に設けられたアーケードには、建物や植物などのモザイク画が見えます。
休日のある日、ウマイヤ・モスクのアーケードの下の床にあぐらをかき、中庭を行き来する人びとを見ながら数時間をすごしました。このモスクでは、履物を手に持ち自由に移動ができます。アーケードの下には、持参した食べ物を広げている家族がいます。遊ぶ少年たちがいます。中庭には、幼な子を抱く女の子、家族連れ、ベビーカーを孫といっしょに押すお年よりが見えます。地元の人だけではなく、地方からやってきた人も大勢いることでしょう。
ここには特別なイベントがあるわけではない。音楽やありがたい説教もない。幼ない子がときどき大きな声を出す以外は、人の声や物音がほとんどしません。歴史を刻んできた静寂のなかのすがすがしさがモスク全体を包みこんでいます。そのなかで人びとはそれぞれ、満ち足りた時間をすごしています。モスクを訪れた人びとの日常の会話に、神は耳をかたかけています。神の下の平等がここにあります。神と直接向き合う己がいます。これがイスラムの和平なのでしょうか。
モスクは都市にも農村にもあり、昔からイスラム教徒にとってはたがいに情報交換をする場であり、学問の場でもあるのですよ。
モスクの装飾には人物画や動物画はなく、アラビア語の銘文がこれにかわっています。ほとんどがアラベスク(植物の連続文様)や幾何文様です。イスラム教は偶像を否定しています。モスクに偶像はありません。
ぼくたちの国は内戦・戦争状態が長く続いています。以前はパレスチナ難民を30万人以上受け入れていましたが、いまは逆に、シリア人の多くが難民となって、トルコやその周辺の国ぐにで生活しています。その数は、トルコに250万人以上、レバノンに100万人以上、ヨルダンに60万人以上といわれています。祈りはどんな場所でもできますが、難民となった人たちは毎日の祈りをどこでしているのでしょうか。
いま、ぼくたちは、ボスラの遺跡群の中を歩いています。
ぼくはウマイヤ・モスクの中庭に立っています。イスラムの歴史を少し話しますね。
イスラム教は創始者ムハンマドが亡くなったころには、アラビア半島全域に広まっていたんだよ。その後661年に、このダマスカスを都とするウマイヤ王朝が生まれました。このウマイヤ・モスクは、その王朝の象徴なんだ。この王朝がすごいんだ。北は中央アジア、東は西北インド、西は地中海沿岸の北アフリカとヨーロッパのイベリア半島におよぶ広大な帝国となり、約90年続きました。その後西北インドを除くウマイヤ朝を引きつぐかたちで、イラクのバクダッドを都とするアッバース朝(750~1258年)が、イスラムの大帝国をつくりあげました。バクダッドは文明・文化の中心地として栄えました。このようにイスラムの世界が広がったのは、アラブ人勢力によるところが大きかったんだ。
ウマイヤ王朝とアッバース朝の成立で、アラビア語で書かれたコーランによるイスラム世界が広がりましたが、コーランに書きしるされたアラビア文字もまた広い地域で使われるようになりました。イランのペルシャ語やパキスタンのウルドゥー語などは、アラビア文字が用いられています。このことは、人びとがコーランを読み、イスラムを理解する上で大いに役に立っています。
もうひとつわすれてはいけないことは、イラン人(ベルシャ人)勢力もイスラム世界を広げるのに活躍したということです。長くなりましたが、わかりましたか。
アルファベットが生まれた地中海東岸の国--レバノン共和国
レバノンって国を知ってますか。地中海の東岸にあって、首都はベイルートです。
朝礼で校庭に集まると、いつもにざやかです。レバノンの国旗の中央には、じょうぶで長持ちするレバノン杉があります。むかしはこれをたく方ん輸出して国が栄えました。ぼくもこのレバノン杉のように、家をささえ、国の役に立つような人になりたい。なれるかな。あはは。友だちのアフマッドやフセインは、どんな夢をもっているのかな。
レバノン国民の大半はアラブ人ですが、そのうちイスラム教徒は54パーセントです。国語はアラビア語ですが、外国語は学校によって英語だったリフランス語だったりいろいろです。義務教育は小学校6年間と中学校3年間です。
わたしたちの国はアラビア語を話すアラブ人が多く住んでいますが、モザイクのように多くの宗教があります。大きく分けるとイスラム教とキリスト教ですが、キリスト教にはカトリック、ギリシャ正教などいくつかの宗派があります。人びとは宗教ごとに分かれて住んでいます。
アラブの国ぐにでは公立大学が多いのですが、わたしの国レバノンでは私立大学も公立大学と同じくらいあります。わたしは、公立にするか私立にするか迷っていますが、いずれにしても高校を卒業するときの国家統一試験でよい成績を修めなければなりません。
3000年以上前には、この地にフェニキア人が住み、地中海貿易をして長い間栄えました。フェニキア人が使っていたフェニキア文字はギリシャ文字にとリ入れられ、いまのアルファベット26文字になったといわれています。
公立小学校はイスラム教の授業がある--ヨルダン・ハシミテ王国
わたしの町ザルカは、首都アンマンの北東約20キロのところにあります。わたしの通う公立校は、一般教科のほかに宗教でイスラム教とコーランを学びます。イスラム教の基本的な教えは、六信五行といわれるものです。六信とは次の六つを信じることです。
一つ。唯一神アッラー
二つ。預言者ムハンマド
三つ。ムハンマドに啓示を伝えた天使ガブリエル
四つ。聖典コーラン
五つ。人間は現世での行為によって、来世は天国と地獄に振り分けられること
六つ。神は世界で起こるすべてのことをあらかじめ知っているという「神の予定」
ヨルダンはアラビア語を話すアラブ人の国で、国民の97パーセントがイスラム教徒です。
英語は小学校一年生から習っていますので、わたしたちは英語を話すことができます。義務教育は基礎教育校(小・中学校)の10年間です。授業は日曜日から木曜日までで、休みは金・土曜日です。国語はアラビア語です。
ぼくたちが校庭で遊んでいると、急にあなたがやってきて。
「サラーム・アライクム!(こんにちは!)」
と声をかけてきました。おどろいたぼくたちは、あわてて、
[アライクム・サラーム!(こんにちは!)」
と返事をしました。
「10時半から30分も休みがあるのは、ヨルダンでは朝早くからごはんを食べる習慣がないから、この時間に学校で食べる子が多いのです」とぼくたちが説明すると、こんどはあなたがびっくりしましたね。日本では朝、何時ごろなにを食べますか?
休み時間には家からもってきたものとか、校内の売店で買ったサンドイッチなどを校庭や校舎内の空いている部屋で食べます。食べ終わると男の子はサッカーを、女の子はおしゃべりをしたり、ダンスをします。イスラムの社会では、豚肉を食べてはいけません。スナック菓子などに豚肉の成分が少しでも入っていると食べられないのです。イスラム教徒が食べることができる食べ物をハラール(許可された)食品といいます。
『アメリカが面白くなる映画50本』より 「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」知性と民主主義の砦
図書館の概念を超える
ドキュメンタリーの名手、フレデリック・ワイズマンがニューヨークにある文化施設の中で最も重要といわれているニューヨーク公共図書館の運営や舞台裏をガイドしたドキュメンタリー作品である。公共図書館の一般的なイメージは、本の貸し出しを中心とした各種サービスであろう。しかし、ニューヨーク公共図書館はそうした概念をはるかに超えるものである。
最初に映し出されるのは、人気企画《午後の本》で、世界的ベストセラー『利己的な遺伝子』の著者であるイギリスの進化生物学者・動物行動学者リチャード・ドーキンス博士のトークである。このイベントは出入り口に近いところで開かれ、誰もが気軽に参加できる。
次は電話対応している司書たちだ。いわゆるリファレンスサービスである。ユニコーンについての質問に丁寧に答えている。問い合わせは年間三万件という。
以上は図書館サービスとして珍しいものではない。しかし、次のマークス館長が民間支援者に語りかけているシーンは、ニューヨーク公共図書館に特有のものだ。ニューヨーク公共図書館は財源の約半分をニューヨーク市から、残りを民間から得ている公民協働の独立法人なのである。民間の七援が欠かせないことを民間欠緩片に訴えている。公y図お‥館というより、公共図書館と呼んだ方が正確なのである。
ニューヨーク公共図書館はマンハッタンの五番街が四二丁目と交わる交差点にある。入口の両サイドにライオンの像がある。一九一一年に完成したボザール様式の古典的なビルだ。人文科学、社会科学、美術、地図など世界有数のコレクションを誇る。
ニューヨーク公共図書館はニューヨーク全域をカバーする機関ではない。同様の図書館にブルックリン公共図書館とクイーンズ公共図書館がある。しかし、ニューヨーク公共図書館は八八の地域分館と四つの研究図書館を擁する一大図書館ネットワークであり、市民生活全般に密着した存在となっている。
就職支援プログラムまで
ジェローム・パーク分館で行われているのは子どもたちの教育プログラムで、担当しているのは、ボランティアスタッフである。チャイナタウンに近い分館では、中国系住民のためのパソコン講座もある。市民のネット環境を改善し、デジタルディバイド(インターネット等を利用できる人とそうでない人との間に生じる格差)を減らすこともニューヨーク公共図書館の大きな目的である。来館しなくても年間延べ三三〇〇万人がネット経由で利用しているという。自宅にネット環境がなければ、接続機器の貸し出しもある。もちろんすべて無料である。
点字・録音図書館では、点字の読み方、打ち方などをボランティアが指導している。研究図書館のひとつ、舞台芸術図書館ではピアノコンサートやアーティストのパフォーマンスがあり、ブロンクス分館では就職支援プログラムが実施されている。履歴書の書き方や面接指導もある。
このように市民生活のさまざまな局面にニューヨーク公共図書館が関与している。監督は解説やナレーションなしに、実際の場面を淡々と映し出し、われわれをその現場に立ち会わせる。図書館運営の基本方針や問題に対処するための幹部会議、スタッフ会議も何度か映されている。そこではニューヨーク市との折衝の問題、利用増進方法、活字本と電子本の関係、ホームレスヘの対応、次年度の課題などが論じられている。
映画は三時間二五分と長く、各シーンも十分に時間をかけて伝えられている。監督が作品のテーマに必要な長さと考えている結果だ。それは撮影を許可してくれた人たちへの責任であり、作品を単純化しないためであると監督は言っている。
民主主義の柱
この映画は、ニューヨーク公共図書館の驚くべき多様な活動を教えてくれるが、同時に図書館のあり方や将来像についても大きなヒントを与えてくれる。ニューヨーク公共図書館は子どもの教育成人教育、調査、研究、アート、ダンス、演劇、映画、人種間関係、身体障害、移民問題などニューヨーク社会のあらゆる問題につながっている。
純粋な公共施設であったら、予算の範囲内でしか活動は期待できないだろう。公民連携施設であるからこそ、問題の掘り起こしや民間の支援が可能になる。その過程でニューヨークのすべての階級、人種、民族がニューヨーク公共図書館とつながりを持ち、民主主義が実現される。この意味でニューヨーク公共図書館はコミュニティセンター、カルチャーセンターであり、民主主義の柱であると監督はいう。
アメリカのような多民族・多文化社会には、不可欠な施設といえるが、多民族・多文化社会であることがこの図書館の活動を促してもいるようだ。アンドリュー・カーネギーは全米各地に図書館をつくったが、それは彼が経済的に成功しただけではなく、自分がスコットランド移民であることを忘れず、成功させてくれたアメリカという国に報いる要素があった、ということにうかがわれる。
『原子力時代における哲学』より
ハンナ・アレント
次に取り上げてみたいのは、このアンダースのパートナーだったハンナ・アレントです。アレントは大変有名ですし、人気もありますから、もう紹介する必要もないかもしれませんが、少なくとも日本では、かつてはそんなに読まれた哲学者ではありませんでした。アレントのモチーフの一つはマルクス批判でしたから、左翼的な雰囲気の強かった日本の思想界ではそんなに人気がでなかったのだろうと思います。でも九〇年代ぐらいから広く受容されるようになり、現代では盛んに読まれている哲学者の丁人です。『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』など、彼女のすぐれたジャーナリスティックなセンスが生かされた本が有名ですけれども、ここで取り上げるのは『人間の条件』という本です。
この本で最も有名なのは、人間の活動力を「労働」「仕事」「活動」と三つに分ける冒頭のくだりですが、あらためて読みなおしてみると、そこだけに限らず、本当にいろいろなことが語られています。或る意味では哲学史の教科書としても読める本ですね。僕はこの本のすべてに同意するわけではありませんが、しかし、絶対に読まれるべき哲学書であることは強調しておきたいと思います。
本に入る前に簡単にプロフィールを見ておくと、一九〇六年ハノーファー近郊のリンデン生まれ。マールブルク大学在籍時にハイデッガーと出会います。おそらくはハイデッガーのおかげで、アレントは哲学に情熱を燃やし、猛烈に勉強する。さらにフライブルク大学でフッサールに、ハイデルベルク大学ではヤスパースに師事する。哲学をやっている人間から見ると、なんともうらやましい大学時代ですね。なお、ヤスパースに師事していたのが一九二〇年代の後半で、この頃に、アレントはシオニズムに目覚めます。
その後、一九二九年にはアンダースと結婚して一緒にパリに逃げますが、三七年に離婚。四〇年にはアメリカに亡命しています。この時代は、非常に多くのユダヤ系知識人がヨーロッパからアメリカに亡命するわけですが、彼らは理科系でも人文系でも大きな仕事をして、アメリカの戦後を知的に牽引する存在になっていきます。アレントもそういった亡命ユダヤ系知識人の一人ですね。
「人間の条件」を巡る人びとの欲望
さて、アレントの『人間の条件』は一九五八年に刊行されていますが、内容は一九五六年にシカゴ大学で行なわれた一連の講義がもとになっています。まず注目したいのは、プロローグで、一九五七年にソ連から打ち上げられたスプートニク一号に言及している点です(言うまでもなくこのプロローグは講義の後、それを本にまとめるにあたって書き足されたものです)。衛星打ち上げ成功に対する人びとの反応はアレントの注意を引きました。そこには奇妙な喜びと信念があるとアレントは言います。その喜びは勝利の喜びでも、自分たち人間の力に対する誇りや畏敬の念でもありません。それは「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」という信念に裏打ちされた喜びです。ある意味で落ち着ききった喜びなのです。
アレントはこの信念の中に、人びとの、地球から解放されることを当然視する「異常」な感情を見出します。確かにキリスト教はこの地上を涙の谷間と呼んだし、哲学者は肉体を精神の牢獄と見ました。しかし、人類の歴史の中で、人間が本気になって、地球は人間の肉体にとっての牢獄であると考え、文字通り地球から月に行きたいとこれほど熱中したことはなかったとアレントは指摘します。
人間は確かに地上に縛りつけられているのかもしれない。しかしそれは人間にとっての避けがたい条件です。なぜなら、「地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸できる住処であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう」から。つまり、今人類は人間にとっての根本的な条件から脱出したいという哨‥みを抱き始めている。しかも、実際、その望みが実現されそうな雰囲気がある。その雰囲気を作り出しているのは、言うまでもなく、科学技術です。アレントは五〇年代中頃の時点で、科学技術が人々を強く魅了していること、「人間の条件から脱出したい」という人々の気持ちがそれによって大いに促進されていることを指摘しているわけです。
目次を寝るときのベースにします。その時に何が必要なのか。拡がる世界。その時に何が必要なのか。 #目次
このノート一冊全てが私の言葉で埋まっている。そう考えるとすごいですね。 #AQノート
この分化されたモノをいかに統合していくのか。これは答えではないです。問いとして。 #AQノート
ベースはタブレットにしましょう。6000円のタブレット。これを持ち運びます。そして、寝るときも。 #ベースタブレット
荒廃するインフラ。次のインフラは同じモノではダメです。有線から無線に変わったときにインフラの概念が変わった。アフリカはインフラがナコとが有利になった。インフラは逆転される。持てるモノが遅れる世界。 #荒廃するインフラ
日本は山があるので、余分なものが必要になる。アフリカでのケータイ電話網は一気に拡がった。電線も必要ない。光があるから。 #荒廃するインフラ
道路のインフラが特にそうです。クルマというモノを排除しないといけない。その時に、道路網が邪魔になる。お金をかけて邪魔者を作ってきたという歴史。原発だけではない。バーチャルな世界にとって、従来のインフラは全て邪魔になる。それを推進する連中も含めて。 #荒廃するインフラ
209『経済・戦争・宗教から見る共用の世界史』
304『日本の論点 2020~21』
367.4『結婚滅亡』「オワ婚」時代のしあわせのカタチ
318.5『Q&Aでわかる業種別法務 自治体』
369.42『「孤独な育児」のない社会へ』未来を拓く保育
234.07『東ドイツ史 1945-1990』
498『みんなで支える終末期のケア』人生の締めくくりをその人らしく
104『哲学の世界へようこそ』答えのない時代を生きるための思考法
019.2『はじめよう!ブックコミュニケーション』響きあう教室へ
007.3『AIの時代と法』
699.1『放送の自由 その公共性を問う』
017『多様なニーズによりそう学校図書館』特別支援学校の合理的配慮を例に
016.23『フィンランド公共図書館』躍進の秘密
510.92『荒廃する日本』これでいいのかジャパン・インフラ
748『ヨーロッパの美しい路地裏』
164.38『図説北欧神話大全』
372『イスラム世界を訪ねて』目的地は、学校です
134.96『原子力時代における哲学』
336.49『ビジネスエリートが実践している異文化理解の全テクニック』
778.25『アメリカが面白くなる映画50本』
164.03『世界の神話英雄事典』
『AIの時代と法』より 消費者がモノを持たない時代
無人配車サービスの実験
世界各国で自動運転の開発と実験が続けられている中で、日本の日産自動車とDeNAは、「Easy Ride」というプロジェクト名で、興味深い実証実験を行っている。二〇一八年三月が初めての試みで、二〇一九年の二月犬二月には、第二回の実証実験が行われた。プロジェクトのウェブサイトでは、実験の様子を紹介する動画が公開されている。
Easy Rideが目指しているサービスは、自動運転による自動車を用いた配車サービスである。運転手のいないタクシーといえばわかりやすいかもしれない。里両を呼びたいユーザーは、スマートフォン上のアプリを使って配車を申し込む(実証実験なので、実際のューザーは、応募してきたモニターである)。各車両は、安全確保のため管理センターのモニターで監視されているが、運転は自動で行われており、遠隔操作されているわけではない。なお、現段階では、緊急時に備えて、ハンドルには手を触れないものの、運転手が乗車しているようである。
この実証実験は、自動車産業の将来について、重要な点を示している。それは、自動運転の技術が完成していくにつれて、自動車を個人で持ちたいというニーズは減っていくであろうということである。もちろん、超高級車などをステータスとして所有したいというユーザーも、一定数は残るであろう。しかし、いわゆるレベル5の自動運転車(システムによる動作の制御が無制限に行われる自動車)が普及する時代には、一般のューザーにとって、自動車は所有するものではなくなると予想される。自分が操作しない自動車は、使わない時間にも「モノ」として所有しておく必要がなくなるからである。こうして、自動車は、一家に一台あるいは一人に一台として所有される「モノ」ではなく、移動のために利用する「サービス」になる。このような見方が支配的になるにつれて、自動車業界では、MaaS(Mobility as a Service)という言葉が急速に広まりつつある。これは、直訳すれば「サービスとしての移動」という意味であるが、自動車メーカーは、自動車という「モノ」を作るのではなく、消費者に対して、自動車に乗って移動するという「サービス」を提供する業態へと変わっていく、という将来の見通しを表現する言葉である。
音楽とコミックで起こったこと
同じような変化は、すでに音楽について経験されてきた。一九七〇年代頃までに生まれた読者は、好きな楽曲のレコードを買った経験を持っているであろう。レコードはやがてCDになったが、「モノ」を所有するという形態に変わりはなかった。ところが、いまでは、音楽は配信サービスを通じて聞くものになり、CDというモノは必要がなくなってしまった。音楽を楽しむ上で、レコードやCDというモノを所有することは、本質的ではなかったのである。現在も、CDが一定の売り上げを記録しているが、そのうちかなりの部分は、コンサートや握手会などの応募券を目当てにした購入ではないかと思われる。
音楽に続いて、モノの所有から配信サービスヘの変化を経験した業界は、コミック(漫画)である。かつて、都市圏の通勤電車では、何人もの乗客がコミック誌を読んでいる光景が当たり前であった。二〇一八年には、電子コミックの売り上げは二〇〇〇億円を超え、コミックの単行本とコミック誌を合計した売上額の二四〇〇億円に近付きつつある(公益社団法人全国出版協会・出版科学研究所調べ)。実際に、通勤電車の中を見回すと、ほとんどの乗客はスマートフォンに目を落としており、電子コミックを読んでいる人も少なくない。好きな作品を全巻揃えることに満足を感じるとか、著者のサインをもらって大切に持っておくといった付加価値がある場合を別にすれば、紙の書籍を所有するということには必然性がなくなってしまったのである。
自動運転車をはじめ、AIを組み込んだ高度な装置が普及すると、音楽やコミックで起こった変化が、大規模に発生することになる。ところが、その変化は、法にとってなかなか困った問題をひき起こすのである。
物の取引を中心にした法の体系
モノからサービスヘの変化がなぜ法にとって困った問題であるかというと、法は、物の取引を中心として組み立てられているからである。日本の民法には、代表的な契約類型として一三種類の契約に関する規定が置かれている。これは、法学の教科書では、「典型契約」と呼ばれているが、売買契約は、その中でも代表的な契約類型と位置づけられている。大学の法学部や法科大学院での教育でも、また司法試験に合格した司法修習生を教育する司法研修所でも、売買契約については、必ず、詳しく教育される。もちろん、現実の売買契約は、当事者間の契約の中にさまざまな条項が書き込まれ、いわばカスタマイズされているのであるが、法律家であれば、売買契約と聞いたときに一定の標準的な内容をすぐに思い浮かべることができ、個別的な契約条項は、それを修正したり変更したりするものとして理解できる。
ところが、CDや書籍が配信サービスになると、その取引は、音楽やコミックという著作物の利用に関するライセンス契約(利用許諾契約)になる。ライセンス契約については、民法にも著作権法にも規定が置かれていない莉用許諾にもとづく権利の一種である出版権にっいては、著作権法に若干の規定かおる)。そのような事情もあり、売買契約と違って、著作物利用許諾契約の標準的な内容について、共通の理解かあるとは言いづらい。
売買契約であれば、売主の最も基本的な義務は、売買の目的物を、相手方である買主に対して引き渡すことである。商品の引き渡しとは、普通の商品の場合は、物理的に渡すこと、あるいは届けることであり、法律的に言えば、占有の移転を意味する。ただし、自動車のように登記が必要な物の場合には、登記の完了までが売主の義務になる。どちらの場合も、引き渡しを受けた目的物は、買主にとって「自分のもの」になる。
これに対して、電子的なコンテンツの配信サービスの場合、配信者の基本的な義務は、著作物の利用を認めること(利用の許諾)でしかない。いつ、どのような形での利用が認められるのか、その利用に条件が付くのか付かないのかなどは、すべて個別の契約で取り決められて、個個の場合ごとに決まってくる。たとえば、二〇一九年の四月に、アメリカのマイクロソフトが、Microsoft Storeでの電子書籍販売を終了すると公表した。このとき、これまで電子書籍を「購入」し、ダウンロードしていたはずのューザーも、電子書籍を読めなくなるという事態が発生したのである。マイクロソフトは、読めなくなってしまう電子書籍の代金を返金する対応をとったが(電子的に書き込みをしていて、それが消えてしまうユーザーには、二五ドルを上乗せした)、あとで読もうと思っていた電子書籍があっても、もう読むことはできない。結局のところ、電子書籍の「販売」といっても、法的には売買契約ではないために、書籍は「自分のもの」ではなかったというわけである。
『フィンランド公共図書館』より 市民とともに起こす公共図書館革命--市民の夢のオ一ディ図書館
セントラルライブラリーの構想
ヘルシンキ市の「セントラルライブラリー構想」は、一九九八年に文化庁長官(当時)のクラース・アンダーソン(Claes Andersson)氏が、国会議事堂の別館が建っているところに新館の建設を示唆したことにはじまる。その後、最初の素案が二〇〇〇年に作成され、セントラルライブラリー構想はこれまで断続的に見直されてきた。この構想が本格的に具体化したのは二〇〇七年である。同年、当時のヘルシンキ市長ユッシ・パユネン(Jussi Pajunen)氏が、セントラルライブラリー構想の策定に向けたレビュープロセスを立ち上げた。このレビューは、外部のコンサルタントによる協力のもと二○○八年に完成している。そのなかで、このプロジェクトの最終的なビジョンとゴールが二○一七年の「フィンランド建国一〇〇年」に向けて設定されたのである。
二〇一一年には、正式に新しいセントラルライブラリーを建設するプロジェクトが市議会によって承認され、そこから新しい図書館建築に関するコンペティションがはじまることになった。そして、五四四件にも上るデザイン案の応募のなかから六件に絞り込まれたのち、最終的には「ALA Architects社」というフィンランドの設計事務所のデザイン「カーンノス」が選ばれ、ヘルシンキ市によって二〇一五年一月二八日に承認されている。この時点で最初の構想が打ち出されてから、およそ二〇年弱もの歳月がすでに経過していることになる。
この構想のなかで非常に重要なプロセスとなったのが、「夢の図書館(Unelmoi kirjasto)プロジェクト」である。これは、二〇一一年に図書館のデザインに関するコンベティションがはじまったときに、ヘルシンキ市図書館の当時の館長であるトゥーラ・ハーヴィスト氏の号令のもと、市民に対してどのような夢の図書館があったらよいかを尋ねようとするものであった。そして、図書館職員たちは、ヘルシンキ市にゆかりのあるあらゆる人々にとっての「夢の図書館」のアイデアを、「夢の木「Unelmien puu」というイベントを通して徹底的に集めたのである。
翌二○一二年には、市民から約二三〇〇件もの「夢」が集まり、最終的には以下の八つに集約された。
①静寂がありリラックスできる空間
②文化的かつ創造的な活動ができる空間
③情報技術とデジタル環境
④仕事をするための空間
⑤相互学習と共有のための空間
⑥充実したコレクションとコンテンツのある環境
⑦家族あるいは世代を超えた人々が一日中過ごし対話のできる空間
⑧すべての人々に設かれた公的な(非商業的な)ミーティングプレイス
これらの「市民の夢」を基礎にしてつくり上げたのがオーディ図書館である。たとえば、二階にあるキッチンは当初の構想にはなかった機能で、市民の声をまさに反映させたものとなっている。また、試験的にはじめた「ライブラリー・テン」を市民とっくり上げてきた経験がオーディ図書館の二階にも活かされている。二階で大規模に展開されているメーカースペースなどは、一度「ライブラリー・テン」を利用したことのある人であれば、すぐにその面影に気付くことだろう。
このように市民を巻き込んで自治体における計画を策定する手法は「市民参加型予算(Participatory Budgeling)」と呼ばれるもので、一九八〇年代後半から国際的に導入されているプロジェクト推進の手法である。この手法は、対象となるプロジェクトの期間を通して市民の意見に耳を傾け、市民との継続的な討議を通して施策と予算をつくり上げていくものである。そのため、市民の積極的な参加が大前提となり、自治体がこの手法を導入しようとしても、市民にその意思やそれを支える文化がないとなかなか成功しない。
ヘルシンキ市の場合、「夢の図書館プロジェクト」に約二三〇〇件もの夢が集まり、このプロジェクトが成功裏に終わっている。このことを鑑みると、市民の声を基礎にプロジェクトを導いていった図書館職員の姿勢はもちろんのこと、「民主主義」と「討議」が根付き、市民が市政に積極的にかかわっていこうとするフィンランドの文化がこの新しい図書館を創造したと言えるだろう。
最後に、このプロジェクトを支えた予算の面について言及しておきたい。二〇一五年一月二八日、ヘルシンキ市は、市民を巻き込んだ「ヘルシンキ・セントラルライブラリー構想」とその建設計画に対して、六八〇〇万ユーロ(約八三・六億円・一ユーロ=一二三円で計算。二〇一九年五月二四日現在)の予算を与えることを承認した。さらに同時期、国からも三〇〇〇万ユーロ(約三七・八億円)の予算が与えられ、総額は九八〇〇万ユーロ(約一二三・三億円)までに上る。この予算の規模からも、オーディ図書館はフィンランドとしても次代の文化を創造していくフラッグシップと位置づけられ、建国一〇〇年という国を挙げてのプロジェクトの一つになっていることが分かる。
フィンランドの象徴としての「夢の図書館」
ヘルシンキの街に来て最初に驚いたことは、街中にあるデジタルサイネージ(電子看板)に動画広告「Oodi.Not just a library. Your interface to everything.」が流れていたことである。このキャッチコピーの意味は、「オーディ。ただの図書館ではない。すべてにつながるあなたのインターフェースだ」であり、バス停、駅の構内、繁華街といった至る所にこの動画広告が掲げられていた。オーディ図書館にかける自治体の強い信念が、このようなところにも表れているように感じられた。そして、「すべてにつながるあなたのインターフェース」という標語のとおり、フィンランド公共図書館はすでに国民生活の奥深くにまで入り込んでおり、実際に北欧の公共図書館のなかでも群を抜いたサービスと実績を示してきた。
デンマーク、ノルウェー、スウェーデンといった北欧諸国の公共図書館から、フィンランドの公共図書館は「北欧の長女」と呼ばれ、いつも彼らはフィンランド公共図書館をお手本にしてこれまで成長してきた。そして、世界の図書館は、図書館大国のアメリカとともに北欧の図書館をお手本にして成長してきたのである。その長女が、二〇一八年一二月、首都ヘルシンキの中央駅前に、次の時代に向けた新しいオーディ図書館を開館させた。グランドオープンに参加していたノルウェーのダイクマン図書館(オスロ)でマネージャーを務めている女性がふと漏らした言葉が、フィンランド公共図書館という存在のすべてを表しているかもしれない。
「最近では、ノルウェー‘公共図書館がフィンランドを抜かしつつあるようにも感じていたけれども、このオーディで北欧の長女は再び私たちの規範になり、さらに遠い存在になってしまったわ」 これから先、オーディ図書館はどのように進化していくのだろうか。二一世紀における彼らのチャレンジは、おそらく二〇一七年に改正されたフィンランドの図書館法に記載されている「知識、情報、文化に対する平等なアクセスを創造し、生涯学習、活動的な市民、民主主義、言論の自由、社会的・文化的対話の醸成」を、より確実なものにしていくことになるのだろう。そのためには、これまでの伝統的な図書館の機能だけでは実現できないことも多くあり、これまで以上に多くの自治体の部署、地域の組織、市民との連携・協働を推進し、その遠心力をさらに力強いものにしていく必要がある。
建国一〇〇年の記念事業として建設されたオーディ図書館は、このような二一世紀の民主主義社会において、文化、芸術、市民、さらには過去から未来へとつながるあらゆる領域の歴史的な結節点としてフィンランドの夢を体現しようとしている。それはまさにフィンランドの象徴であり、市民にとっての「夢の図書館」と言える。
常に進化を続けるヘルシンキの図書館は、これからどこに向かうのだろうか。グランドオープン時に、メーカースベースや外壁が完成していなくても構わない。なぜなら、二一世紀も市民とともに、オーディ図書館は世界に向けて静かな革命を起こし続けるからである。