goo

アジア人の思考

『アジアの世紀』より 文明の融合によってグローバル化するアジア
岡倉天心、ラビンドラナート・タゴール、梁啓超の汎アジア理想主義から一世紀経った現在、アジアの人々は彼らの知的な相乗効果を再発見し、欧米の無批判な自己評価や現代の欧米政治史や思想に真剣に疑問を呈することになる思考を構築している。欧米はあれほど多くの独裁政権を支援してきたにもかかわらず、なぜ世界の人権の擁護者を自任しているのだろうか? まったく制限されない個人の自由は、商業的なイノベーションや成功に不可欠な土台なのだろうか?民主主義が資本主義に不可欠なのではなく、資本主義が民主主義に不可欠なだけではないのだろうか? 政治におけるリーダーを選ぶとき、大衆の人気よりも実力主義に耐えうる訓練を受けた経験のほうが重要なのではないだろうか?冷戦時代のアジアのナショナリストと同じく、欧米で教育を受けたアジア人はアメリカ寄りの密告者になるのではなく、むしろ自身がものにした言語で欧米に立ち向かえる知識人になる。
今日の汎アジアの知的なまとまりは、植民地支配から独立した直後の不安定な時代に思い描かれたネルー主義的な同胞精神とはまったく異なる、より建設的なものだ。今日のリーダーたちが望んでいるのは、非現実的な「アジア合衆国」ではなく、地味だが生産性の高い「商業と学びの共和体」だ。アジアで生まれ育ち、アジアの教育を受けたアジア人のなかで、欧米で大きな発言力を持っている者は極めて少ないが、彼らは自身の地域の律動やダイナミクスに対する本質的な理解を持ちつづけているため、何か事が起きるたびに彼らの正しさが立証されている。
だが、アジアの人々は互いの国に関する書物をもっと読むべきだ。アジアでは人々は相関する歴史の知識は互いに持ち合わせているが、文化や言語が異なるために汎アジア的な思想が十分浸透しているとはいいがたい。その差を埋めてきたのが、欧米の出版物だ。欧米では二〇〇一年のアメリカ同時多発テロ事件や中国の台頭といった地政学的な出来事によって、アラブやアジア研究への資金提供が急増した。そうして潤沢な資金を持つ北アメリカの大学や、主要学会誌『アジア研究ジャーナル』を発行しているミシガン州アナーバーのアジア研究協会といった学術団体が、アジア研究の第一人者になっている。それに対して、シンガポール国立大学が発行している『アジア社会科学ジャーナル』といったアジアの研究者がアジアの大学で編集している学術誌は、アジア地域内でもあまり普及していないし、ましてや欧米ではほとんど知られていない。現在、アジア地域には緻密かつ正確な研究成果を生み出している学術機関が数多くあり、欧米の研究者たちは互いの論文を参照し合うよりも、そうしたアジアで行われている研究にもっと目を向けるべきだ。実際、ここわずか数年のことではあるが、私はある変化に気づいた。講義をするのではなく学ぶためにアジアにやってくる、アメリカの「専門家」が増えていることに。
アジアが主体となってアジアの内側からアジアについて発信する取り組みは、幾度となく行われてきた。一九四〇年代から二〇〇〇年代にかけて、アジアのビジネスの現状を現地で幅広く取材した『ファーイースタン・エコノミック・レビュー(FEER)』は、アジアで多くの読者を擁していた。一九七〇年代には、二人の元FEER特派員が「アジアの目から見たアジア」を伝えるという明確な目的で、『アジア・ウィーク』を立ち上げた。一九八〇年代に入ると、欧米の雑誌社が『タイム・アジア』、『フォーチュン・アジア』、『アジアン・ジオグラフィック』といったアジア版老次々に創刊したため、アジアの雑誌売り場では激しい競争が起きたが、そうした欧米の雑誌は実質的には欧米版の焼き直しでアジア地域独自の内容は乏しかった。一九九五年にバンコクで創設された『アジア・タイムズ・オンライン』は、「英語でニュースを知りたい読者を対象にした唯一の汎アジアオンライン新聞」とうたっている。読者の半数はアジア人で、残りの半数はヨーロッパと北アメリカ人だ。中国語圏では、国際情勢を中国の観点から記事にしている『亜洲週刊』が代表的だ。だが総じて、アジア全地域を対象にした報道関連の出版物は、各国の言語による国内のメディアに比べると普及度がはるかに低い。
アジアの出版物の場合、報道関連よりも文学作品のほうが世界で知名度もあり、高く評価されている。言語や文化の一部が古くから共通していることから、東アジア諸国では何世紀にもわたり互いの文学作品に親しんできたという歴史がある。日本の貴族階級の女流作家紫式部が一一世紀初めに書いた『源氏物語』は世界初の心理小説と広く認められていて、ホルヘ・ルイス・ボルヘスをはじめとするあらゆる時代の作家の多くに豊かな発想力をもたらしている。中国の六世紀にわたる時代を描いた『水滸伝』、『三國志』、『西遊記』、『紅楼夢』の四大古典文学は、韓国や日本でも読者が多く、研究も盛んだ。
この二世代のあいだに、アジア文学への認識は急速に高まった。数多くの中国人、日本人、インド人作家が世界的な評価を得るようになった。ラビンドラナート・タゴールがアジア人初のノーペル文学賞を一九一三年に受賞して以来、一九六八年の日本の川端康成が受賞するまで長い空白があった。その後、一九九四年に大江健三郎、二〇〇〇年に中国の高行健、二〇一二年に中国の莫言、そして二〇一七年には日系イギリス人のカズオ・イシグロが同賞を受賞している。西アジアでは、イスラエルのシュムエル・アグノンが一九六六年に、トルコの小説家オルハン・パムクが二〇〇六年にノーペル文学賞を受賞している。権威あるブッカー賞もサルマン・ラシュディ、アラヴィンド・アディガ、キラン・デサイ、アルンダティ・ロイをはじめとする数々のアジアの作家に贈られていて、欧米の読者は彼らの作品によってアジアというテーマを身近に感じるようになった。また、韓国の小説家韓江は、連作小説集『菜食主義者』で同賞の国際賞を受賞してい
特にインドと日本の作家が世界じゅうで読者を集めていて、その代表格は村上春樹(『ノルウェイの森』)、アミタヴ・ゴーシュ(『ガーフスの宮殿』)で、そのほかアフガュスタン生まれのカーレド・ホッセイニ(『カイトこフンナー』)も注目されている。大衆小説では、エイミ・タン(『ジョイ・ラック・クラブ』)、ジュンパ・ラヒリ(『停電の夜に』)、セレステ・イング、ケビン・クワンといった小説家たちの成功によって、異なる民族性の交わりから生じる社会的なストレス問題に取り組む姿を描いたアジアと欧米のクロスオーバー小説が人気を博している。リサ・シーのように、異国アジアについて念入りに調べて書かれたアメリカ人作家の作品も、常にベストセラーになっている。「中国の『指輪物語』」とよく称されている金庸の「射鵰三部作」は、英語翻訳版が完成するまで数十年かかったが、非常に多くのファンがいる。
アジア人は科学でも大きな功績を残していて、その研究の大半は社会で最も差し迫った問題の解決に直結したものだ。アジアのなかでは、日本の科学者が世界の研究で最も貢献しつづけてきている。ノーベル生理学・医学賞、ノーベル物理学賞に加えて、同じく権威あるショウ賞やラスカー賞の生命科学部門でも、それぞれ多くの日本人科学者が受賞している。幹細胞研究で革新を起こし、二〇一二年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中仲弥は、アジアの研究者のトップに立っている。大隅良典はオートファジー(自食作用)の研究で二〇一六年にノーベル賞を受賞した。二〇一五年のノーベル生理学・医学賞は、抗マラリア薬アルテミシニンを発見した中国の薬理学者屠吻吻と、日本の生化学者大村智の両名に贈られた。注目すべき点は、屠吻吻は教育も中国だけで受けてきて、しかもすべての研究を伝統中国医学の中国中医科学院だけで行ってきたことだ。彼女に与えられた賞は、中国医学のみならずアーュルヴェーダといった古代インド医術が医療現場で患者に対して大きな成果が認められてきたことを、改めて示したものだ。中国医学も古代インド医術も、体だけではなく心や精神にも同時に治療を施す「ホリスティックヒーリング」を重視している。しかも、アジアの科学と精神性の融合はこれだけではない。全世界の医療業界や環境団体が、菜食の生理学や環境保護の面での利点にますます注目している。つまり、みながヒンドウー教徒の食生活を取り入れれば、世界はもっと持続可能な場所になる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

存在に行き着く

なにも浮かんでこない。だから、散歩に出ます。 #散歩の目的
AQを詰めていくと、すべて「存在」に行き着きそう。 #存在に行き着く
紅白で乃木坂をシンクロにしたと言うことはレコ大を日向坂にすると言うこと。バレバレ。レコ大は見ないことにする。 #乃木坂のレコ大
FBって、宣伝ばっかり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )