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ペレストロイカ?--いいえ、結構です!改革能力がないことを露呈したSED

『東ドイツ史1945-1990』より 最後の一〇年間
一九八五年にゴルバチョフが権力の座に着き、国際的な緊張緩和政策が開始された。そしてこれにより両ドイツ間の緊張緩和は確かなものになっていった。西ドイツの連邦議会議長フィリップ・イェテノガーが「理性の同盟」と特徴づけたこの関係から、ホーネッカー政権の事実上の承認が展開していった。この承認は、東ベルリンの年老いた「赤いツァーリ」が熱望していたものであった。モスクワの度重なる介入によって何度も延期になったエーリヒーホーネッカーのボン訪問は、一九八七年にヘルムート・コールの招待で実現した。そしてSED政治局の内部報告書に適切に書かれているように、「同志エーリヒ・ホーネッカーを完全に外交儀礼上、他の主権国家の国家元首と同じように扱うこと」で、「世界中に両ドイツ国家の独立と同権が証明され、両国の主権、両国の関係が国際関係であることが強調された」のである。しかし、東ドイツの指導者が、ソ連で唱えられていた「新思考言」の成果を自分のものだと要求する一方で、「グラスノスチ」と「ペレストロイカ」は、SED指導部にあからさまに拒絶された。体制転換後に発見された内部の議事プロトコルを見ると、二人の党指導者が、お互いの問題についてますます理解できなくなっていたことが分かる。一九歳年下のゴルバチョフの目からすれば、ソ連の支配機構の近代化は避けて通れないものであった。ホーネッカーとその取り巻きは反対に、東から迫りくる改革の議論が、自国における自らの権力を破壊させるだろうと感じていた。何十年にわたって東ドイツで高い代償を払いながら維持している思考禁止は、突如、東側の指導者によって疑問視されたのである。一九八六年秋、高齢化した政治局の支配者たちは、ソ連の高名な作家エヴゲーニー・エフトシェンコが西ベルリンのテレビで「一つのドイツ文学」について語るのを苦々しい思いで聞いた。ゴルバチョフが登場したことに対して、ホーネッカーは「反革命」というレッテルを貼った。何十年にもわたる全面的な依存と無条件の服従の後であるだけに、ホーネッカーの苦情は読む者にほとんど悲壮さを感じさせる。「私たちにとって重要なのは、一方と戦わないといけないことです。二正面作戦をしなくても良いようにすることが肝心です」。
一九八七年四月、政治局員のタルト・ハーガーは『シュテルン』誌のインタビュー上で、東ドイツにおける「ペレストロイカ」の必然性について訊かれたが、「隣人が壁紙を貼り換えたからといって、自分の家も同じようにする必要があるでしょうか」と、さっと反問をすることで無視して片づけた。SED書記長はすでに何か月前に極秘会談でこう憤激していた。「我々はずっとソ連の味方であったが、ソ連ではまだ靭皮の靴を使っているのだ」。東ベルリンの党と国家の指導部は常に、ソ連の利害を東ドイツの利害に優先させてきた。このことが、四〇年の長きにわたってエルベ川からオーダー川までの権力維持のためにSEDが常に自らすすんで支払ってきた代償であった。ソ連だけが、長期的権力維持を可能にさせたのである。SEDにとって自分たちを守る権力であったソ連が、今やヨーロッパと東ドイツの現状維持を掘り崩すようになった。一九八六年一一月、ソ連は東側の関係における大転換についてシグナルを送った。その射程の広さは、後から振り返ってようやくはっきり把握できる。コメコンの構成国党首脳会談で、ゴルバチョフは「各政党の独立、自国の進路にかんする主権者としての決定、自国民に対する責任を強調した。これ以降、これまで有効であったブレジネフ・ドクトリンは放棄され、東側ブロックにおける自主的な政治改革の努力に、ソ連による軍事介入があるかもしれないという影が差すことはなくなった。ブカレストやワルシャワの政府が、広範囲にわたる改革のために、これまで体験したことのないほどの行動の余地を使えるようになった一方で、東ドイツでは何もかもが以前のままであった。当時は、東ベルリンの最高位の統治エリートの誰も、モスクワの路線変更を、ソ連の戦車が自分たちの党支配をもはや保証してくれない変更だと解釈できなかった。現状はあまりに堅牢に見えた。SEDに従順な諸政党と大衆団体、警察、シュタージ、「武装組織」の網の目は、東ドイツという分断国家にあまりにも密に張り巡らされており、国家の中での彼らの権力が真剣に脅かされているようには見えなかったである。
一九四六年に党が創設されて四〇年がたち、SEDの党員数は二三〇万人、今までで最高の水準に達した。しかし「グラスノスチ」や「ペレストロイカ」という感染性細菌が、西側メディアという迂回路を通って、さらに強化される形で、東ドイツで蔓延しはじめた。これによってSED指導部は、イデオロギーにかんする全権要求をこれまでのようには維持できなくなった。善悪二元論的な公式プロパガンダの中に新しい論調がどっとやって来た。しかも今回も変化は、それまで何十年間もそこから学ぶことが重要だと言われていた、まさにそのソ連からやって来たのだ。「階級敵」を通じてやってくるイデオロギー上の挑戦とは異なり、党の教条主義的理論家は真剣にこの問題について説明する必要に追われた。突如として、SEDの布告の中で、「東ドイツ的色彩を有した社会主義」が重要とされ、党の扇動家たちは、安寧、静謐、秩序といった価値を呼びかけるようになった。しかしこうした呼びかけでも、そして同様に社会的、物資的な「東ドイツの成果」を絶えず示唆しても、住民の中にもともとごくわずかしかない忠誠心や同意を引き出すことはできなかった。
東ドイツの文書館の公開によってはじめて、当時のSEDでは既に内部崩壊が始まり、党内部の浸食が進んでいたことが明らかになった。この浸食過程は一党独裁が平和裡に崩壊するのに決定的な前提になるものであった。
一九八六年四月の第一一回SED党大会の結果、党内民主主義や時局的な経済問題について率直に議論することがますます要求されるようになり、さらに、美化して糊塗するだけの報道機関へますます多くの不満が寄せられていると、党統制委員会は記録している。批判は、「不満分子」や「粗さがし」として弾劾され、党指導部と党機関は、処分や党内査問委員会手続きを増やして対処した。
一九八六年春、チェルノブイリ原発事故とその影響があたかも些事のように東ドイツのメディアに報道されることで、多くの人々にとって--党員であるないにかかわらず--、SEDの情報統制政策がいかに虚偽に満ちているかがはっきりした。一九八七年一〇月、政治局は人々に知らせない形で「ソ連の同志たちの演説は抜粋するか要約する形で公表する」という決定を下した。自分たちの庇護者であるはずのソ連からの隔絶政策は、こうした今までにない結果になった。その後、今度は新しい「スプートニク・ショック」によって、多くのSED党員たちは見切りをつけるようになった。一九八八年一一月、SED指導部はドイツ語で書かれたソ連情報雑誌『スプートニク』を郵便販売リストから削除した。これは事実上の発禁処分であった。この雑誌は少し前から既に、東ベルリンにおける厳格に党派的な歴史像の守護者たちにとって、目の上のたんこぶであった。ゴルバチョフの就任以来、この雑誌は再三にわたってソ連の公刊物からスターリン主義に対して批判的な記事を翻刻していたのである。ホーネッカーがこの問題を取り上げてソ連書記長に抗議したところ、ゴルバチョフは端的に、言及されている雑誌が、東ドイツで「転覆を引き起こすことはない」だろうと述べた。その直後にはさらに相当数のソ連映画の禁止処分へと飛び火した、衆目を集めるこの発禁処分のきっかけになったのは、その一か月前に公刊された「ヒトラー・スターリン協定」とその「秘密」--とはいえ西側では何十年も前から知られていたが--付属議定書、とりわけナチドイツとソ連の問で結ばれたポーランド分割の取り決めに関する論文であった。「ソ連共産党とソヴィエト連邦の歴史を、ブルジョア的な観点から書き換えたいと思っているような、暴れ出した馬鹿なプチブルの叫び」に心を動かされないようにと、書記長ホーネッカーは、第七回中央委員会会議の直後に怒りをあらわにして述べた。
雑誌『スプートニク』の発禁処分に対しては、SEDの支持者も「無党派」も反対することで一致していた。シュタージはこれについて心配して記録を残している。「多くの意見表明がなされたが、その中には、以前と同様、単に分別がついていないものから、原理原則的な拒絶まである。そのいずれにも、この決定は政治的に間違っているという意見が、基調として通底している」と諜報機関は確かめている。党員仲間の中では、怒りと諦めの間で意見が揺れていた。「数多くの長年党員を務めてきた人々によって、そしてSEDや友好諸政党の中堅幹部たち、社会に政治的に参与する進歩的市民たちによって、この決定は、情報統制政策全般について再度批判的に意見表明をするきっかけとして受け止められた」。報告書はさらに続く。特に「比較的高齢の党員たちは、戦後直後の一〇年間の自分の人生経験に」言及している。「この時期は国境も開いており、未解決の社会的問題を多数抱えながらも、しかし今日よりもずっと力強いやり方で、敵と昧方の立場からそれぞれ徹底的に批判し合わないといけなかった」。では、「はたして私たちは、この問題について公開の議論を行うことができないほどに弱い立場に置かれているのであろうか」という問いによって、ベテラン党員たちは痛いところを突く指摘をした。中央委員会には投書が殺到し、離党者が続出した。しかし一九五〇年代以降のSEDの内部には、超高齢化した支配層に対抗して、党内の不平不満の結節点として機能できるような新しい選択肢は存在せず、ましてや原理的反対派など全く存在しなかった。一九八八年末から一九八九年の初めにかけて、党機構はむき出しの圧力を行使することで、表面的な静謐を党内に取り戻すことに成功した。
一九八八年から一九八九年にかけて、西ドイツとの接近やソ連改革の継続に関連する、SED指導部の懸念は、劇的な形で証明されることになる。一九八八年一一月、青年研究を行うヴァルター・フリードリヒが、ホーネッカーの「皇太子」と見倣されていた中央委員会書記エゴン・クレンツに、経済問題と文化問題における西ドイツの影響力の増大に関する極秘分析を伝えた。重大な、「我が国における欠点や弱点(例えば生活物資供給の問題、交換部品の問題、情報統制政策、メディアによる美化や糊塗、現実の民主的共同決定など)は、これまで以上にはっきりと受け止められ、ますます批判的に評価されるようになってきている。社会主義の優位についても次第に多くの疑念が寄せられている。『ペレストロイカ』型の戦略に門戸を開かないことは、あらゆる事態を先鋭化させている」。報告はこれ以上できないであろうほど明白に懸念を述べている。「我々が新しい重要な方法で(例えば情報を与え、公開の場で、共同で決定するように)人々と付き合わないことには、我々の諸価値や、我が党の政策に対する住民たちの一体感は高まらない。そうでもしなければ、人々は一年から三年の間にさらに遠ざかっていき、すなわち、我々に背を向けるほどの危うい規模になってしまうだろう」。だが、党の指導者であるホーネッカーはこの時点で、現状に変わる政治構想を持っておらず、また住民たちの中で大きくなる不満を生活水準の即座の改善によって対処するだけの物質的なりソースも持っていなかった。たしかに、当時すでに党内の戦略家から警告する声がないわけではなかった。一九八八年には国家計画委員会のゲアハルト・シューラーは政治局で経済政策の決定的な路線転換をするように要求した。膨れ上がった東ドイツの対西側債務と返済能力に危機が迫ったことを前にして、シューラーは、非効率なマイクロエレクトロニクス分野への投資の停止、軍事予算の凍結、これまでの補助金政策の放棄を提言した。しかしこれはホーネッカーと中央委員会経済担当のギュンター・ミッタークによってきっぱりと拒絶された。とは言え、このミッターク自身が一九八八年九月に政治局員たちを前にして、「我々は事態が一気に変わり得る地点にいる」とすでに認めざるを得なかった。

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