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フランス革命とベルリオーズ

『革命を戦争のクラシック音楽史』より フランス革命とベルリオーズ
『ラ・マルセイエーズ』
 フランス革命戦争は、敵の国とは対極的な政治の形態、共和政治の理想によって愛国心を結集し、ブルボン王家の立つ瀬はいよいよ無くなります。実際、マリー・アントワネットはハプスブルク帝国に内通しており、自分の実家にフランスの軍事情報をせっせと送っていました。お妃さまはスパイだったのです。一七九二年四月、フランスはハプスブルク帝国に宣戦布告し、七月に国家非常事態の宣言がなされ、八月にテュイルリー宮殿を民衆が襲って、「裏切者」の国王夫妻は牢屋暮らしになります。
 この宮殿襲撃の際、南フランスのマルセイユから駆け付けた義勇兵が歌って、たちまちパリに大流行したと伝えられるのが、軍歌であり行進歌である『ラ・マルセイエーズ』です。この歌は、しかしマルセイユでできたのではありません。フランス革命戦争が勃発した同年四月に、対プロイセン・ハプスブルクの国防の最前線になるストラスブールで、陸軍工兵大尉のクロード・ジョゼフ・ルージエードーリールが兵士と民衆を鼓舞するために作詞作曲したものです。
 たくさんの革命歌・軍歌が一七八九年の革命の始まりの段階から生まれて流行を繰り返していました。『サ・イラ(そりゃ行けや)』などが代表的なものでしょう。革命の暴力的な組織行動は、訓練された軍隊や警察によって行われるものではないことが多い。集まってきた民衆が即座に連帯して行うことが多い。即席で足並みを揃えて、半組織的かつ電撃的にしでかしてしまうわけです。そこでは笛や太鼓や歌がないと、最低限の水準の集団行動さえ、生み出しにくい。その意味で、フランス革命は全国に歌とマーチを氾濫させました。
 野球場やサッカー競技場などで、知らない人と肩を組んで応援歌でも歌っていると、もしかしてこの人たちと一緒に何かができると思ってしまったりするでしょう。だいたいスポーツと戦争や革命は似たもので、人々が我を忘れて熱狂するものなのです。そのときには歌がないとうまくゆかない。甲子園球場の高校野球の応援なんて、金管楽器と太鼓と大合唱でうるさい限りでしょう。あれと同じなのです。
 『ラ・マルセイエーズ』も同様なのですが、フェーズが一段階か二段階、上がったとも言えると思うのです。とりあえずの革命気分を生む、言葉悪く言えばやや適当な民衆歌のレベルから、持続的な不動の愛国心を喚起する格調高く劇的変化に富んだ歌曲へ。『ラ・マルセイエーズ』は、三〇小節近くに及ぶ、オペラのアリアか合唱曲のような起伏に富んだ歌であって、付点リズムを活かした景気のよい行進歌の調子に、人々に深い感情を内発させる聖歌の荘厳な調子を織り込んで、「行進しよう、行進しよう」というフィナーレに感極まるように持ってゆく。見事な出来栄えです。
 四月にストラスブールで生まれた軍歌を、八月にルイヱ(世とマリー・アントワネットをパリでつかまえるマルセイユの義勇兵が歌っている。この伝播力こそ、すなわち革命のエネルギーなのです。『ラ・マルセイエーズ』はその場のノリの歌ではありません。常時臨戦態勢の国民総動員の精神を支える、革命軍歌即革命宗教歌なのです。
フランス革命と軍隊
 そして、恐らく『ラ・マルセイエーズ』は革命戦争を戦うフランス軍の呪文になりました。ここで、革命前後のフランスの軍隊について考えておかなくてはならないでしょう。プロイセン王国やハプスブルク帝国は、お互いが張り合う中で、自国の貴族から指揮官を養成し、その下で働く兵隊にも、信用がおけて、愛国心や、祖国を守ろうとする郷土愛的精神や、皇帝・王への忠誠心に富んだ自国民を増やそうとし、それなりの実を挙げました。でも、外国人の傭兵に相変わらずある程度は頼らないと、必要な規模の軍隊を整えることはできませんでした。
 ブルボン王朝のフランスでも、情況は基本的には同じでした。フランスの軍事貴族と傭兵の組み合わせ。たとえばマリー・アントワネットを守っていた兵隊はと言えば、スイスの傭兵です。現代ならばガードマンを雇う感覚で、軍事的・警察的な外国人のプロが、王室を守っている。もしも日本の皇居を守る皇宮警察的なものが外国人で構成されていたとしたらどうでしょう。国民国家の感覚で言えば、ありえません。裏返して言うと、立憲君主政治に至っていない王国や帝国は、国民が対等で、自国民が国家の基礎で、外国人に頼るのはおかしいという思想常識は未成立なので、外国人が皇帝や王を守るのも大いにありなのです。
 フランス革命はそういう秩序を旧秩序として否定します。なんといっても「自由・平等・友愛」がスローガンですから。軍隊も平等でなければなりません。しかも、自由と平等と友愛を掲げるのは、あくまでその国に参加して国民となる人民であって、その国を守る軍隊も国民が自分の意思で、自国を守りたいと思って形成してこそ、国民の軍隊になる。特権階級の貴族が軍のお偉いさんで、その下に外国人が金で雇われているなんて論外ではありませんか。平等な権利を持って分け隔てなく自由にふるまう国民が、友愛の精神に基づいて国家や軍隊という共同体を主体的に作り出す。それが革命の思想です。
 以上は建前論ですが、建前とは違う現実論もありました。建前だけでは戦争になったら勝てない。軍隊は実質的に戦えるかどうかである。素人の国民をいきなり、革命を守るために動員しても、日ごろから訓練された常備軍を備えている既成の国家に太刀打ちできるはずもない。だったらとりあえずは、革命戦争のために、フランスを守るために、外国人を雇うこともありうるかもしれない。方便です。
 でも、革命直後のフランスには、仮に外国人を雇いたくなったとしても、実際にはとても雇えない事情が存在しました。つまり、革命国家の新しいフランスは、端的に言って、貧乏だったのです。
 理由は簡単。大勢の貴族や聖職者が、財産をかき集めて外国へ持って逃げてしまっていました。当然です。国内に留まっていたら、特権を取り上げられてしまうのですから。財産もどうなるか分からない。殺されるかもしれない。
 諸外国に亡命した貴族たちは、「早く無法な祖国をなんとかしてくれ」と泣きつきました。亡命貴族を受け入れたのは、ハプスブルク帝国やプロイセン王国、そしてイギリスといった皇帝や王のいる国々でした。そうした背景があって、ピルニッツ宣言も出るのです。
民衆の軍隊は歌うと強くなる
 さあ、フランスは大変です。革命の理想を継続して追求するためには、戦争をしなくてはならない。ただでさえ貧乏なのに、戦争をするお金がどこから出てくるか。軍事貴族も大勢逃げ出してしまった。革命に参加している貴族は限られている。傭兵を雇うお金はもちろんない。そこでいきなり一般国民を集めるしかない。給金もなかなか用意できないから、義勇兵というかたちになる。これはつまりボランティアの軍隊です。
 ずぶの素人を慌てて訓練し、彼らの愛国心を煽って、前線に出動させる。軍楽マーチに乗せて進ませる。歌をうたわせて連帯心を育てる。革命国家の国民軍には、旧秩序国家の傭兵を使った常備軍よりも、格段と、軍歌、行進歌、革命歌が必要でした。音楽の力は、規律ある身体動作を行わせしめ、敵傷心を高潮させ、仲間意識を高め、生命の危険への恐怖を忘れさせる。音楽の上手な利用以外に、即席の国民軍を軍隊らしくする術はなかったと言えます。そうして急造された革命精神を湛える軍歌の中で、とびぬけてヒットしたのが『ラ・マルセイエーズ』ということでしょう。
 そうしたら、なんと、この即席のフランス国民軍が、プロイセンの軍隊に勝利してしまった。彼らは『ラ・マルセイエーズ』を歌っていたことでしょう。実際のところは、戦闘らしい戦闘をして、実質的な勝利を収めたとは、とても言えたものではなかったのですが、勇敢に前進し、火力も活用したフランス国民軍に対して、プロイセン軍が退いたのは、まぎれもない事実です。それが、一七九二年九月二〇日、ということは外国の侵略を恐れてパリでパニックが起き、テュイルリー宮殿からルイ一六世が連れ出された翌月ですけれども、シャンパーニュ=アルデンヌ地方のヴァルミーでの戦いです。フランス国民軍は、プロイセンのプロたちに対して、いちおう真っ当に戦えたということです。
 この戦いには、恐らくわざと相当な尾ひれがつけられ、フランス国民軍の大勝利として国内に喧伝されました。革命国家が歌をうたって自信を付けた瞬間でした。
 歌が愛国心を育て、ナショナリズムを涵養し、国民の一体性をはぐくみ、しかもそれを持続させ、その持続はむろんおとなしいものではなく血沸き肉躍るタイプの能動的なもので、ついには裏切者の暴君を断頭台に送る熱狂さえ生み出していったと言ってよいでしょう。『ラ・マルセイエーズ』は世界史を動かした歌なのです。『ラ・マルセイエーズ』ばかりが歌われていたのではありませんが、しかしやはりいちばん歌われて名曲として愛されたのは『ラ・マルセイエーズ』でした。だからこの歌は今日もフランスの国歌なのです。革命と戦争の記憶が、この歌で継承されているのです。

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