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OCR化した10冊

『国家活動の限界』
 人間の究極目的
  陶冶の条件--自由と多様性
  内面生活への適用
  歴史的確証
『ファクトフルネス』
 単純化本能 「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
  誰を信じたらいい?
  単純化本能
  その道のプロ--専門家と活動家
  トンカチとくぎ
   数字だけがすべてではない
   医療でなにもかも解決できるわけではない
  政治思想
  キューバ--貧乏人の中でいちばん健康
  アメリカ--金持ちの中でいちばん不健康
   民主主義でさえ、それだけではすべてを解決できない
  ファクトフルネス
『国民衛生の動向』
 婚姻と離婚
  婚姻と離婚の動向
  結婚生活に入ったときの夫妻の年齢
  初婚・再婚
  離婚の種類
  離婚した夫妻の同居期間
  離婚した夫妻の子どもの数
『サイバー空間における覇権争奪』
 歴史的位相を問う
  どうなるWeb3.0--無形資産とプライバシーの法的規制問題 
   パイプラインからプラットフォームヘ
   データの所有問題
   データは「資産」?
   無形資産の所有権問題
   分散化システム下での無形資産
   データは「排気ガス」?
   コンテンツとしてのプライバシーの重要性
   公的機関による顔認証を禁止したサンフランシスコ市
   ソフトウェアにも製造物責任を
  ブロックチェーンの可能性--「ネットワーク信頼」
   「ネットワーク信頼」
   エストニアのX-Roadプラットフォーム
   ブロックチェーン・ネットワークの二つの形態
   アーカーシャ(Akasha)
   データの直接売買
   将来性への疑問
   ブロックチェーンヘの規制問題
   最先端の中国
  産業はどう変わる?
   デジタル・トランスフォーメーション
   「ライン」にもライバル    、-
   変貌必至の銀行・保険
   分散化システムのさらなる発展のために
   常識を捨てよ
   EVに賭ける中国
   トヨタ倒産?
   根深い米中貿易戦争
  地政学的転回
   分散化システム下の地政学
   分散化システムの新たな可能性
   「監視資本主義」下の地政学
   「テック・ジャイアンツ」への警戒
  「国家信頼」から「マシーン信頼」へ
   民主主義とグラフィック革命
   確率的因果論とその限界
   「気高い嘘」(noble lies)
   統計の問題は科学全体の問題
   統計の信頼性を担保する「マシーン」
   グラムシを逆手にとったトランプ
『良いスウェーデン、悪いスウェーデン』
 難民とオルタナティブ・メディア
『テクノロジー思考』
 データ資本主義データと民主主義の結婚--トランプ大統領誕生の裏側
 フェイスブックはなぜ人気者から嫌われ者に堕ちたのか?
 個人データは一体、誰のものか?
 データにまつわる2つのイデオロギー対立
 規模の経済性というデータ特性
 テクノロジー全体主義の世界で、胸でGの字を切る人々
『教育学へのレッスン』
 近代家族規範をこえて子育て支援を考える
  1.子育て家族をめぐって
  2.歴史的存在としての家族、モデル(理念型)としての近代家族
  3.「子育て困難社会」のはじまり--母性の危機か、子育て環境の危機か
  4.子育て家族の多様化と子育て支援
『逆転のイギリス史』
 フランス革命・ナポレオン戦争の影響
  2つの戦争の相違
  新しいシステムを生み出したイギリス
 インターネットの発達とイギリス
  インターネットの始まり
  インターネットと経済
  リーマンショックからギリシア危機へ
  ブレクジットとは何か
『2100年の世界地図』
 イスラーム
  アフラシアの結節点
  ムスリム人口の世界的分布
  アフラシアを結ぶ旅
  アフリカのイスラーム
  土着の共存の作法
 共同体を想像する
  民主主義の二つの意味
  多数派の意思が支配する
  少数派の意見が尊重される
  温和な共同体
  アフラシアとヨーロッパ世界
  アフラシアとアメリカ世界
  アフラシアと日本
  三角測量の試み
『南北戦争の時代』
 はじめに
  本書の時代区分と歴史空間
  デモクラシーの実験場--トクヴィルのみたアメリカ
  世界が注目した南北戦争--カール・マルクスのみたアメリカ
  近代化のモデル--岩倉使節団のみたアメリカ
 南北戦争
  内戦の勃発
  南北戦争中の外交と海上封鎖作戦
 南北戦争の変質
  転機としての奴隷解放宣言--奴隷解放のための戦争ヘ
  戦争の終結
 アメリカの帝国主義のかたち
  アメリカの帝国主義
  米西戦争と帝国主義論争
  門戸開放宣言とアジア進出

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南北戦争 内戦の勃発

『南北戦争の時代』より
一八六一年三月四日の大統領就任演説においてリンカンは、あらためて南部奴隷制への不干渉を表明した。その上で、「私たちは敵ではなく友人である、敵であってはならない、激情が緊張をもたらすことがあっても、私たちの愛情の絆をきってはいけない」と述べ、連邦を維持してゆくことの必要性を説いた。だが四月こ一日未明、連邦離脱の先陣を切ったサウスカロライナのチャールストン湾で、孤立した連邦側のサムター要塞に南部連合軍(南軍)が砲撃を加えたことにより内戦が勃発、絆は断たれることになる。
南部連合発足後、南部にある連邦要塞はほぼ南軍支配下に置かれたが、サムター要塞の司令官ロバート・アンダーソン少佐は連邦への忠誠を誓っていた。大統領就任式の翌日、彼からの手紙を受け取ったリンカンは、閣僚会議での反対意見を押し切り、サムター要塞守備隊への食糧支援を決断した。リンカンのこの決定は、反乱地区に連邦の権限が及んでいることを国内外に示し、大統領の連邦離脱阻止の思いがいかに強固であるかを南部連合に伝えるためのものだった。
しかし、開戦の機会をうかがっていたサウスカロライナがこれを受けて要塞に発砲し、以後四年の長きにわたる未曽有の内戦が始まったのである。二日間にわたる激しい砲撃戦の末、サムター要塞は陥落した。チャールストンの民衆が勝利に沸き返るなか、南軍は連邦軍(北軍)兵士が非武装船で逃走するのを見逃した。サムター要塞にはためいていた三三星の星条旗(開戦前の州は三三)は、アンダーソン少佐が持ち帰ったが、この星条旗は戦時中、北部民衆の愛国的シンボルとなり、北軍の徴兵活動でも大活躍することになる。ちなみに、戦争終結後、この三三星旗を再占領したサムター要塞に掲揚する祝賀会が行われた一八六五年四月一四日は、まさにリンカンが狙撃された日であった。
連邦に留まっていたヴァージニアは、これを機に南部連合に参加し(連邦離脱日一八六一年四月一七日)、アーカンソー(五月六日)、ノースカロライナ(五月二〇日)、テネシー(六月八日)も続いた。以降、これら一一州から構成される南部連合は国家体制を整え、首都も当初のモンゴメリーから、ヴァージニアのリッチモンドヘと移された。
これに対して、連邦に残ったのは全部で二三州。そこにはミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドという南北の境界エリアにあった奴隷州も含まれており、ヴァージニアから分かれたウェストヴァージニアも連邦に加わった。
リンカンは開戦後まもない四月一七日、第一騎兵隊大佐のロバート・リーに総司令官就任を打診した。だが同日、リーの故郷であるヴァージニアが連邦を離脱したため彼は就任を拒否し、連邦軍からの除籍を願いでた。アメリカの陸軍士官学校のほとんどは南部諸州に置かれており、南部出身の軍人の多くはりIと同じ決断を下し、南軍についた。
戦争遂行にあたって両陣営が最初に直面した課題は、兵士の創出であった。建国期にさかのぼれば、独立戦争時にワシントンが率いた大陸軍は、戦争終結後の一七八三年には解体された。その後の戦争においても、アメリカ・メキシコ戦争時に陸軍が五万人にまで膨らんだが、戦後は約一万人へと縮小した。州単位で強い募兵権が確立され、反常備軍感情が根強いアメリカには、開戦当時も、主に先住民に対抗するための二万人足らずの連邦軍しかなかったのである。もちろん新たに誕生した南部連合も、兵力は保有していなかった。
リンカンは早くも一八六一年四月一五日には、三ヵ月限定での志願兵七万五〇〇〇人の召集を決定した。さらに五月にも志願兵増員の募集をするが、各州は白州への割り当て増を求め、知事からの陳情が相次いだ。この軍役期間の短さからも、リンカンが戦闘の早期終結を楽観視していたことがわかる。
しかし七月二一日、ブルランの戦いでの北軍の敗北により、事態は一変する。ヴァージニア州マナサス近郊のブルランで行われた、南北戦争最初のこの大規模戦闘は、首都ワシントンから南部連合の首都リッチモンドを一気に占領するべく南下した北軍が、南軍と激突したものだった。南北双方の急ごしらえの陸軍部隊による戦闘は混乱を極めたが、のちに「ストーンウォール(鉄壁)・ジャクソン」とあだ名され南軍の英雄となるトマス・ジャクソン将軍の頑強な防御戦術が功を奏した。反撃に出た南軍に対して、数において勝る北軍は総崩れとなり、首都ワシントンに逃げ帰ったのである。勝利を確信していた北部人は衝撃を受け、一転、首都攻略の危険すらあると恐れるようになった。
図2-6が示すように、開戦当時、北部側は人口比で北部二二〇〇万対南部九〇〇万(内訳は白人五五〇万人、黒人奴隷三五〇万人)、工場数でも北部一一万対南部一万八〇〇〇など、南部を圧倒する人的資源を持ち、工業化・産業化を推し進めていた。圧倒的に有利な立場から、短期間での勝利を確信していたのである。しかし、結果から見れば、北部が軍事力の点で南部を凌駕するまでには、かなりの時を要したということになる。
ブルランの戦い(第一次)以後も、戦争初期は、七日間の戦い(一八六二年六月二五日-七月一日)や第二次ブルランの戦い(八月二八-三〇日)など、南軍が勝利するケースが多かった。その理由は、第一に、南軍はロバート・リー将軍など優れた軍人を数多く擁し、兵士の士気が高かったこと。第二に、戦略的にいえば、南軍は北部に侵攻する必要はなく、北軍による南部侵攻を撃退するという専守防衛でよかったということである。逆に北軍は、南部連合一一州を相手に、領土深く侵攻して南部全域を征服する必要があった。
さらに、南部の防衛を強固にしたのは、この戦争で両軍により本格的に使われるようになった射程距離の長い近代的ライフルと、塹壕であった。総力戦としての第一次世界大戦を想起させるこれらの武器や戦術は、実は南北戦争において使われ始めたのであり、それゆえに、両軍の戦死者が六二万人を超える甚大な犠牲者を出す結果となるのである。
苦境に立たされた連邦側は、長期戦への備えが必要であり、また志願兵中心の軍隊では限界があることを痛感した。そのため議会では、兵力増強を目指して、上院軍事委員会議長ウィルソンを中心に徴兵制の導入に向けた検討が本格化した。一八六二年七月には、議会が可決した第二次没収法により、従来の民兵法を修正し、解放された黒人奴隷が任意の軍務に就くことが可能になった。
だが、同年一二月のフレデリクスバーグの戦いでの戦死者の急増、逃亡兵の増加、兵役期間終了を迎えての志願兵の退役などで、北軍の弱体化には歯止めがかからなかった。そこで一八六三年三月三日、国家による直接徴兵を可能とする連邦徴兵法が成立し、陸海軍の兵力を立て直す道が開かれた。これがアメリカ史上、最初の徴兵法であり、こうした戦時立法を通じて連邦の権限強化と集権化が一気に進んだのである(南部連合側では、これよりも早く一八六二年から徴兵を実施)。

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今日から車なし生活

今日から車なし生活。歩き始めたのはいいけど、胸の痛みが出てきた。忘れていた。歩くと胸が痛くなるんだ。 #原因不明
心臓外科で視てもらったけど、原因不明で気のせいで済まされた。現在の人類では解明できないでしょう。 #原因不明
休み休みで豊田市へ。祝日だから図書館は開いているはず。
やはり、タブレットはいる。FB入力用
スマホは不安定。
衣ヶ原経由の方がバスの便数が多い。180円に対して、220円と40円も高い。悩むところです。
モスが満席になっている! バーガーよりメンチの方がまとも #モスはガラガラ

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