未唯への手紙
未唯への手紙
図書館での選別作業26冊⇒10冊
どうにか、図書館での選別終了。1時間半かかった。26冊の内容から10冊に絞り込んだ。これを持ち帰り、テキスト化。バスと歩行の限界は10冊。 #豊田市図書館
週末の楽しみは日曜日らじらーの生ちゃん。まだ案内はないが久保しーのラインライブ。これは30日 #生田絵梨花
労働と生活の本質的転換--自由で積極的な仕事の時代へ
『失われた居場所を求めて』より 情報社会の深化と危惧 労働と生活の本質的転換--自由で積極的な仕事の時代へ
「仕事をし、生活し、遊ぶ」人間
二〇世紀初頭、ドイツの地域計画家R・シュミットは、工業化社会は自然を排除し、空気を汚し、家や人よりも工場を大事にし、人を単に労働する存在としてのみ捉えた、とする。しかし「人は二四時間を生き、仕事をし、生活し、遊ぶ存在である」と主張し、それに応える産業・生活田園都市を形成しなければならない、と説いている。また、クロポトキンは『田園、工場、仕事場』(一八九八年)の中で、工業化社会において、人が心身ともに健康な生活を営むために、農業と工業の両方に従事し、協同的社会を営むことが望まれるとした。これらはあながち、初期工業化社会にのみ当てはまる事柄ではなく、無視できない思想のように思われる。
今や工業生産はロボットがやってくれるというのなら、生産局面で残るのは、人手の欠かせない農業である。むろん農業もAIを駆使した〝スマート農業〟の展開によって、大幅に機械化・装置化が進むかもしれないが、農業は生ける自然、変転する自然とともにあり、機械に任せきれない、さまざまな細かい人的作業や判断が残るはずである。全て〝動物工場〟でという時代は来ない。大地を全く離れた液肥栽培が、果たして栄養構成、昧、安全、健康等にとって優れた食品であるかどうか。まだ研究が不足している。「野菜を放置した時、植物工場の液肥栽培の野菜は腐り、畑で採れた野菜は枯れる」という。この差異は何か、まだ明らかではない。AI時代に、人はますます大地を介してのびやかに育った自然野菜を欲するに違いない。
アトピーに悩む人も後を絶たない。ある著名な生命科学者が、証明はされていないがと、私に語ったことは、「近頃は土を汚いと考え、除菌靴、除菌衣料などといった商品が出回り、人間をあたかも無菌室の中に入れ込もうとする。しかし本来、人間にはたいていの菌類に対し抵抗力を持ち、あるいは持とうと努力する一群の遺伝子や細胞がある。しかし、それらが活躍する場が奪われ、ついにはそれが自分自身に向かってくるのではないか」という意味合いの話であった。
また私がアフリカに数回出張した際、「田んぼの中で泥まみれになって遊んだ人は、アフリカでも風土病など、容易になりにくい」と教えられた。そのせいか、子供の頃田圃の中を駆け回った私は、アフリカの水田稲作地帯を歩き回ったが、マラリアにも風土病にもかからず、体調に変化はなかった。人は自然の中でこそ、本来の生命力を育むことができるといえよう。
「人を喜ばせる喜び」へ
先述したように、人間が人型ロボットに一声かければ、何でもしてくれる。しかし、高齢者の介護にしても、人型ロボットがいかにスムースに身柄を運び上げ、犬やアザラシをかたどった可愛いAIが、いかにそれらしい会話に応じてくれたとしても、それはあくまで人の代用に過ぎない。子も孫も近くに居らず忙しいため、孤独に耐え、小さな癒しに満足しているだけである。人は時間があればあるほど、ロボットとの会話や介護に満足できない。心臓の鼓動や血液の流れ、暖かい肉親の手や、真心のこもった友人の言葉を欲するであろう。人間を本当に癒せるのは人間なのである。もし新たな雇用が生まれるとすれば、この領域において最も多いであろう。
内外の旅行者を受け入れるような場合でも、温かく迎えてもてなすというだけでなく、まさに人を喜ばせる喜びのための〝交歓業〟、〝おもてなし業〟として、所得のための「労働」というより、その本質的な意味を変える〝仕事〟となっていくであろう。
こうして人は、さまざまな限界や困難はあるが、精神的欲望の充実、心の豊かさや絆に結ばれる道をあきらめたわけではない。いや複雑な現実の背後にあるものが見えてくればくるほど、ますます心豊かな生活と社会を強く求めるようになっている。それも自分の心の満足だけでなく、「他の人々と共に、他の人々のために」という新しい次元へと進みつつあるように見える。
かつてある研究会で、私はこれまで述べたような人間の欲望と満足の諸段階について報告したことがある。食の欲求と血縁社会、食と生活の充実への欲求と地縁社会の時代、そして工業化・社縁社会の形成に基づく物的欲望の満足の時代を経て、今は心の豊かさ、精神的欲望の満足を求める時代が来ている。しかし、ともすれば単なる個人の名誉欲や嫉妬心、他者に対する優越感といった、人の心の奥底に潜む個人的な欲望の満足への収斂に終わる可能性もある。それこそ〝心して〟進まなければならない、という内容のものであった。
その時、話を聞いて頂いていたある経済人の方から、「その次がある。これからは人を喜ばせる喜びこそが大切だ。これこそが人間最後にして最高の欲求であり、喜びではないか」とコメントされた。私は、はたと胸を打たれたのであった。
こうした心の豊かさ、つながりや生活の質を求める社会への願望が膨らむ中、技術革新とともに時代はAIやIoTを中心にした高度情報社会へと向かおうとしている。近未来とされるその社会は、こうした人間的欲求と結びつき、共鳴しあう居場所へと私たちを導いてくれるのであろうか。
人は夫婦や親子、友人や知人、近隣の住民同士といった身近な人のため、あるいは遠くとも貧しい人たちのために働くことに価値を認め、喜びを感じ、進んで仕事をするであろう。人は古代より、家族のため、親族のため、愛する者のため、そして隣人のため、狩りをし、採集して共に食した。私が見た原点のアフリカは、今も有無相補いあって「共食」する世界であった(『アフリカ農民の経済』)。その本質は、さまざまな形で現代にも引き継がれているといってよい。自然から離れやすい無機的なAI社会において、人はますます自然の中へ、「人を喜ばせる喜び」へと、意味と価値を求めて向かうのではないか。
そして先に述べた保護的行為の意味に代わって、求めて働くことへの対価、権利としての受領へと、その意味転換が必要であることを示唆している。
こうして人は、働くことを求める存在として、せめて半日は働く必要がある。残りの半日は、自由となる。AI時代がそのような時代を出現させるなら、人は真の意味で平等であり、自由であり、真の暖かい自他愛を育むことになる。全く新しい人類の時代が訪れるといえよう。
多くの論者が予想するように、人はすることがなくなるといった事態は起こらないであろう。人は本来働くことを求めるというだけでなく、分けあって少なくとも半日位は自他のため、社会のために働き、その他の自由時間に、絵を描き、小説や詩を書き、写真を楽しみ、スポーツに打ち込み、各種のグループ活動をし、イベントを企画して人を喜ばせることに使うだろう。それはもはや、単なる余暇や楽しみというより、もう一つの仕事として、ほとんどプロフェッショナルな次元で行われるであろう。まさに、ほとんどの人が複数の生きがいのある仕事を持つ「多職社会」が来るのである。
むろん、半日といわず、昼夜を問わず、さらなる技術開発に励む、プロとしてピアノに打ち込む、小説や詩に没頭する、特定のスポーツに力を入れるなど、何かに賭ける一人一職の人も多いであろう。その生きざまは、全く個人の自由となる。
希望の場、新たな故郷--多職社会へ
そうなれば、徹底した有機栽培をする家族営農、他に仕事を持ちながらの畑づくりなどは、大きく注目されることになるであろう。都市に住み続ける人も多いであろうが、コンクリートとアスファルト、巨大な蟻の巣のような高層マンション、機械と情報機器があふれ、便利だがどこか空虚さの漂う都市を離れ、子育てのためにも自然あふれる農村地域、地方都市を目指す人もまた、大幅に増加するに違いない。〝生物的人間〟は健在であり、人は初め衝動的に、やがて自覚的に大自然の中へと繰り出していくのではあるまいか。
もはや地方都市も農村も、大都市から移住する人、内外の旅行者がやってくるのを待ち望む時代である。そこでは、都市・農村を超えた混成の居住者による、新たな〝居場所の創造〟、〝故郷の創造〟が始まっている。効率の良い規模拡大へと向かう営農も必要だが、その周辺に多くの住民が、半日営農者でありながらの写真家、家庭菜園を楽しみながらの画家や音楽家、介護者でありながらの陶芸家や詩人、半日勤めの教員でありながらのスポーツマンである等々、〝多数職〟〝半農半X〟(『半農半Xという生き方』)の時代が訪れる。塩見の待ち望む「大好きなことをして食べていける社会」の幕開けである。
このような状況を考えに入れたかのような、農地所有に関する考え方が見直されつつある。本来なら農地法上三〇アール(九〇〇坪)以上の取得でなければ農地の入手はできない。三〇アールは、農業経営を行うのに最小限の規模と考えられてきたからである。その下限を下げて、耕作放棄地などを活用すべく、誰でも畑づくりなどができるようにするのが趣旨である。空き家の紹介や、栽培指導などもセットで企画するJA(農協)も生まれている(「日本農業新聞」二〇一八年五月一五日)。多くの半農半Xが広がっていくであろう。
また、地方都市や農村に住まうからといって、AIやロボットを排除するわけではない。それどころか、ますますその恩恵を十分に享受しつつ、地域の人々、世界の人々と情報縁を結びながら暮らしていくのである。そこでは、人が人として生まれたことを心から謳歌し、強い絆を結ぶ〝希望の場〟となるのではあるまいか。そここそ、血縁、地縁、社縁、情報縁に囲まれた人間の居場所であり、意義深いなつかしの故郷である。そのような幾重にも縁に結ばれ開かれた場を、私は〝複合縁社会〟、農村のそれを乙夜合性地縁社会ぺあるいは都市のそれを〝複合性社縁社会〟と呼び、次章で考察したいと思う。
「市場の世紀」から「プラットフォームの世紀」へ
『ソーシャルワーカー』より ソーシャルワーカーが歴史をつくる
「市場の世紀」から「プラットフォームの世紀」へ
だが問題は、コミュニティや地域のつながり、そして家族制度じたいが動揺・弱体化するなかで、権限や業務、そして財政面ではたすべき責任までもが下へ、下へと降りはじめていることだ。
自治会や町内会、さらには老人クラブ、青年団、婦人会、子ども会への加入率は減少の一途をたどっている。地域を支える民生委員・児童委員への負担が問題視される一方、高齢化はいちじるしく、委員のなり手不足もあちこちで取りざたされている。
地方、とりわけ農村部の人口減少も深刻だ。消滅可能性都市が話題になったことは記憶に新しいが、こうした変化は、当然、地方自治体の税収減にむすびつく。
このように地域社会の足もとかくずれていくなかで、さまざまな仕事が上から降りてくるとすれば、近い将来、地域社会はその負担に押しつぶされてしまうにちがいない。
だからこそいま、僕たちは大きな社会の見取り図を語りあわなければならない。
20世紀は市場をつうじた所得の増大が、生きること、暮らすことの中心にあった。国を中心とする中央集権システムのもとでその果実のごく一部を税として集め、残りは労働者の手もとにとめ置かれた。労働者は、それを貯蓄と消費に回すことで自分たちの生活を成り立たせ、貯蓄は銀行をつうじて企業への貸しつけに向けられ、さらなる成長を生みだした。
しかし、こうしたお金の循環は終わった。人口の減少が避けられない21世紀には、国から地方へ、地方から住民へと機能の分解・下降がはじまる。そのなかでこの戦後システムを作り変えていかなければならないのだ。
ここで求められる方向性はふたつある。ひとつは国際的に見て明らかに低すぎる税・社会保険料の負担率を引きあげることで、国と地方による保障システムを編み直すこと。いまひとつは地域の共同性を強化し、活用するための基盤を整備することだ。
社会の価値、そして現実は大きく変わった。第1章でも論じたように、国や地方がさまざまな施策に細かく介入し、複雑化するニーズを一つひとつ満たしていくことには限界がある。したがって、僕たちは、国と地方、そして地域のそれぞれに「新たなプラットフォーム」を作り直していかなければならない。
ベーシック・サービスを土台とするライフ・セキュリティによって誰もが安心して生き、暮らすという基本権が保障される。この「パブリック・プラットフォーム」のうえにソーシャルワーカーの社会変革をつうじた地域の人的・制度的ネットワークという「コミュニティ・プラットフォーム」が重層的に重なり合う。そうすれば、人びとの生存権と幸福追求権の双方が射程に収められることとなる。
僕は、公的領域、私的領域、そしてその間に存在する「共」の領域が組み合わされる「公・共・私のベストミックス」という考えかたを提案してきた(前掲『幸福の増税論』)。
この「共」の領域は、自治会、ボランティア団体、生協、JAなどの協同組合、労働組合といったさまざまなアクターが交錯する場だ。これらの地域ニーズを満たそうとするアクターを接続する、接着剤のような機能が必ず求められるだろう。その一部もまた、ソーシャルワーカーに求められていくこととなる。
だが、あるべき社会の姿を語ることは簡単だが、ソーシャルワーカーに求められる役割は重要であり、それだけに多くの困難をともなう。ズバリ言えば、その資質がハッキリと問われることとなるだろう。だからこそ、ソーシャルワークとは何なのかを根源から問い返し、資格や組織の統合を訴え、法的定義の修正、カリキュラムの改正、そしてあやまれる専門性の打破という問題にまで僕たちは踏みこんで議論をしてきた。
「市場の世紀」ともいうべき20世紀は、「プラッドフォームの世紀」である21世紀へと大きな変貌を遂げる。その変貌の中心にソーシャルワーク/ソーシャルワーカーが存在すると僕は考えている。これが3人と一緒にこの本を書いた最大の動機だ。
僕たちはなにを平等にしようとしているのか
以上に述べた歴史的な転換は、ひとことで「消費」と言っても、その目的が物的な欲望を満たすことから、暮らしのニーズを満たすことへと、社会の編成原理が転換することと対応している。というのも、かつてのような経済成長が期待できず、人口も減少し、少子高齢化が避けられない21世紀では、他者に見せびらかすための消費から、生存・生活ニーズを満たすための消費へと軸足を移さざるをえないからだ。
この本が問うてきたのは、政府をつうじてニーズを満たすだけでなく、ソーシャルワーカーが地域のプラットフォームを作り変えていくことで、こうしたニーズをさらに深く、細かく満たしていく可能性だった。21世紀にあって、この「ニーズ」という考えかたほど重みを増していく概念はないかもしれない。
僕たちはこれまで、「救済」を絶対的な正ととらえ、社会的弱者を選別し、その人たちが生きのびるための手段を考えてきた。あるいは権利を語るときにも、それは権利の名のもとで当然要求されることを、「社会的弱者にも適用すべきだ」と訴えてきた。
ほとんどの人たちが「自己責任」で生きていくことのできた時代はそれでよいだろう。だが、いま僕たちが直面している社会の危機は、貧困が存在するだけではなく、さらにそれが世代をこえて受けつがれる理不尽さ、そして、貧困ではないのに、日々の暮らしや将来に大勢の人びとが不安やしんどさを感じるという不条理とでできている。
みなさんに問いたい。生存や生活のニーズが保障され、さらにソーシャルワークをつうじて一人ひとりのニーズを満たしていく、そんな互いが互いを「気にかけあう社会」がありうることをみなさんは想像できただろうか。
想像することは自由なはずだ。人から馬鹿にされようと、非現実的だと罵られようとも、想像する自由はすべての人の手のなかにある。もし想像すらできなかったとしたら、そこには「あきらめ」がないだろうか。
だが、所得の不平等はおかしいのだといくら叫んでも人びとに共感されず、それどころか、所得の減少は努力の不足に、弱者への気づかいは甘やかしにおきかえられるような社会を、僕たちは次の世代に残していくわけにはいかない。あきらめてはならないのだ。
あえて言おう。このような社会を生みだしたことへの責任を誰かが取らなければならない。それは僕であり、あなたであり、いまを生きるすべての大人たちだ。僕たちは所得を平等化する社会ではなく、人間の尊厳、あつかい、そして互いが認められる喜びを平等化する社会をめざしたいと訴えた。次はみなさんの番だ。声をあげてほしい。僕だちと正反対でもいい。どんな社会をめざすのか、みんなで考えようじやないか。
これはただのヒューマニズムではない。一人ひとりを暮らしの不安から解放し、人びとの社会的居場所や役割を作りだし、放っておけば、助けてもらうことの悲しみのうちに閉じこもったかもしれない人間の力を社会に全力で解き放つための闘いだ。経済の成長と効率化に血道をあげてきた「絶望の過去」からの決別であり、人間の能力を最大限に引きだし、社会全体の効率化をもなしとげる「希望への挑戦」をはじめるのだ。
多様性を語るだけで許される時代はもはや過去のものだ。僕たちは多様性をわざわざ声高に叫ばなくても良い時代を引きよせたい。仮に他人の多少の不幸が蜜の味だったとしても、他人の悲惨を望む者はいない。新しい歴史は、そんな悲惨を終わらせるという当たり前の決断からはじまる。
だが、身構える必要はない。その決断は、自分のまわりにいる家族、友人、そして同じ社会を生きる伸問たちを「気にかける」ことで実現できる。
さあ、はじめよう。
豊田市図書館の26冊
451.93『気候と人間と歴史 1』
295.32『ニューヨーク』
311.04『「銀河英雄伝説」にまなぶ政治学』
360.4『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!』はじめの一歩を踏み出すための入門書
180.4『立て直す力』
810.1『日本語と論理』哲学者、その謎に挑む
816『答えより問いを探して』
589.73『TOKYO文具・雑貨散歩』旅鞄いっぱいの東京
601.1『人が集まる場所をつくる』サードプレイスと街の再生
002.7『教え学ぶ技術 問いをいかに編集するのか』
007.3『ネットで勝つ情報リテラシー』あの人はなぜ騙されないのか
526.36『まちの居場所』ささえる/まもる/そだてる/つなぐ
791.7『[英文]裏千家茶道 点前教則三 濃茶点前 囲炉・炉』
368.16『ルポ 平成ネット犯罪』
701.4『神経美学 美と芸術の脳科学』
369.43『過去から未来に語りかける社会的養護』叶原土筆、平井光治の思索と実践に学ぶ
302.27『シリア 震える橋を渡って 人々は語る』
367.7『日本発 母性資本主義のすすめ』多死社会での「望ましい死に方」
762.05『革命をクラッシック音楽史』
210.1『世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか』
210.77『平成世相風俗史年表1989→2019』
331『人工知能と経済』
360.4『失われた居場所を求めて 都市と農村のはざまから現代社会を透視』
210『図説 歴史散歩事典』
332.06『戦争と資本 統合された世界資本主義とグローバルな内戦』
369.17『ソーシャルワーカー 「身近」を革命する人たち』