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新しい社会契約における「自由」と「平等」

『資本主義に出口があるか』より 資本主義社会の「マトリックス」を超えて
新しい思考の枠組みとしては、どのようなものが考えられるのでしょうか。実際のところ、見出されるべき「新しい思考の枠組み」が具体的にどのようなものかは、あらかじめ設定されるべきではないと思われます。新しく見出される思考の枠組みは、実際に「ゼロ地点」に立ち返ったところから導き出されるべきものだからです。重要なのはむしろ、その際にいつでも守られるべきルールを設定することだと思われます。どのような思考の枠組みを導き出すにしても、そこに「自由」と「平等」が保障されるべきだというのが本書の提案です。自分で納得のいく思考の枠組みを得る「自由」と、多様な言説の可能性を同等に扱い、各人があらかじめもっているバックグラウンドに関して差別を設けない「平等」です。
思考の枠組みはみなで共有してはじめて社会的な機能をもつものですので、必ずしも各人が恣意的に変更できるものではありません。近代社会の神話も含めて、共通する思考の枠組みは基本的に各人にとって外側から与えられるものでした。しかし、外部から押し付けられる枠組みを受け入れるだけしかできないならば、われわれには自分でゲームを選択する「自由」はないことになります。しかし、本当にそうでしょうか。少し遠回りになりますが、言葉の機能について立ち入って見ることで、自分でゲームを選択する「自由」の可能性を考えてみたいと思います。
言葉というのは、それだけで見ると、単なる記号でしかありません。あらためて考えれば明らかだと思いますが、どんな言葉でも、それ自身においては、単なる音だったり、単なる線でしかありません。「光あれ」という単なる言葉と、それが実際に「光」という存在を十全に示すこととの間には、本来、かなりの飛躍があります。単なる言葉が「世界のあり方」を示すためには、それを神話として受け入れる姿勢が最初に必要とされるというわけです。もしそれがなければ、「神は「光あれ」といわれた。すると光があった」といった言葉は、単に知識として理解することはできても、「世界のあり方」を表して、その中に「人間」を社会的に位置づける作用はもちえないでしょう。その言葉は、「納得」の手前で、自分にとってよそよそしいものに留まります。
しかし、言葉というのは、本質的によそよそしいものということができます。はじめての言葉を聞いても人はその意味をすぐに理解することはできません。言葉は最初、単に他人が話しているもの、聞こえてくる音声にすぎないわけです。
幼児が言葉を習得する場面を思い描いてもらえれば分かりますが、子どもは言葉を外国語を習得するように体系的に学ぶのではありません。「自分にとって身近な人が何か音声を発している(けど、それがどういうことを意味しているのか皆目見当がっかない)」という経験を繰り返し、その中で「あ、そうか」と気がつく体験を積み重ねます。その中で、よそよそしかった言葉に「意味」が見出されていくわけです。神話は世界の成り立ちとその中での「自分」の位置を示すものだといいましたが、それは言葉に意味を与えていくことと言い換えることができます。世界で経験される様々な事柄が神話の言葉によって意味づけられていくというわけです。
さて、そう考えると、各人の思考の枠組みを取り払い、ともに「ゼロ地点」に立ち戻るということは、言葉と意味との関係をいったんリセットするということになります。「私」になる以前の幼児がそうであったように、またデカルトが徹底した疑いの中で到達した懐疑の淵のように、身体レペルでの現実だけがそこにあるような「ゼロ地点」が開かれます。特定の思考の枠組みに基づくことで言葉に意味が与えられているのだとすれば、枠組みが外されれば、「ヒカリアレ」という音を聞いても、それが直接的に経験される世界の明るさを指すものに直結しないことになります。そうしてすべての人々がそれぞれの思考の枠組みをいったん宙吊りにすることで、そこからともに新しい言葉を紡ぐことが可能になるでしょう。ともに「ゼロ地点」に立つ人々が、すべての神話を宙吊りにしながら言葉を吟味し、新しい「意味」を見出すことができるはずです。もしその新しい意味の立ち上がりに各人が参加できるならば、われわれは自分たちが共有する思考の枠組みを自ら納得する仕方で見出すことができます。意味を宙吊りにされた言葉の中で、ともに「なるほど、そうか」といえる事柄を見出していくことで、人々がともに同じ「世界」を見るための新しい思考の枠組みを得ることができるのです。そこでは、各人が納得できるゲームをする「自由」が人々に与えられることになります。
そのようなかたちで新しい思考の枠組みを作ることで、あらゆる政治的・宗教的な背景をもつ人々を「平等」に受け入れることもできるはずです。そこでは既存の宗教や新宗教、「私」にまつわる近代の神話もすべていったん宙吊りにされるわけですから、それらを否定することもできません。すべての思考の枠組みを外して「ゼロ地点」に立ち返るということは、どんな神話も排除せず「平等」に吟味することを意味します。あらゆる神話の可能性を同等の権利で吟味することこそが、本来、「多様性の尊重」というべきものだと思われるのです。
「多様性の尊重」という考え方は、そもそもロックに由来するものでした。宗教戦争を経て、他宗教・宗派への寛容を求めたことが事の発端です。人間は誰でも絶対的に正しいと言い切ることはできないので、自分が納得できない宗教や教義であっても、その存在を否定することまではできないというのが、ロックの議論でした。しばしば指摘されることではありますが、ここでロックがいう「多様性の尊重」は、他人への無関心が伴っています。他人の行為を「間違っている」と思っても、その判断は単に主観的なものである可能性もあるので、その意見をあえて他人に押し付けることはしないというのが、ロック的な意味での「多様性の尊重」であるわけです。
しかし、その意味での「多様性の尊重」は、各人は結局のところ「自分のこと」だけを考えるべきだというロック的な社会の「道徳」との関係で成立していることに目を向ける必要があります。実際のところ、ロック的な社会においては、自分が絶対に納得できないようなことであっても、あえて他人に干渉して意見をあらためさせる必要はありません。というのも、各人の行為は、最終的に巡り巡ってその人自身に返ってくることを、人々は期待できるからです。各人の行動は基本的には「自由」ですが、市場原理が提示する「道徳」に反するものは、やがて「市場」の裁きが下ると人々は期待します。経済的に困窮するか、人から相手にされなくなるかは分かりませんが、いずれにせよ、それはその人の責任です。自分が「間違っている」と思うことでも、直接相手にはいわず、その人の責任に帰するというのが、ロック的な意味での「多様性の尊重」で実践されていることなのでした。
真の意味での「多様性の尊重」とは、しかし、互いの無関心によって支えられるものではなくむしろ、すべてのものを権利的に「平等」に扱うということに求められるべきではないでしょうか。互いを異なるものとして隔てず、異なるバックグラウンドをもつ人々を同等に扱うことによってはじめて、「多様性の尊重」というべきものが実現できると考えられるのです。さて、さしあたりはこうして、新しい社会契約の内実をお示しすることができました。
具体的にどのような思考の枠組みを社会のルールとするかは、実際に「ゼロ地点」に立ち戻る中から導き出される必要があるので、あらかじめ特定することは控えます。重要なのはむしろ、いつでも新しく作り直すための「自由」と「平等」を確保することです。「ともに「ゼロ地点」に立ち戻り、その中から新しい思考の枠組みを生み出すこと」を来るべき社会の憲法とすることで、いつでも各人が納得のいく思考の枠組みを作り直せる仕組みが得られます。契約に参加するすべての人は同じひとつの憲法を守りつつ、複数の開かれた思考の枠組みを共有することができるのです。
こうした議論はもちろん、その全体をいったん宙吊りにした上で吟味する必要があるでしょう。この契約では乗り越えがたい現実的な問題があるかもしれませんし、理念としても検討すべきことが残っていると思われます。
しかしそれでも、ここを起点にともに「ゼロ地点」へと立ち返ることができるならば、本書の企図は十二分に果たされたということができます。この本自体は批判の的になり、痕跡が二切残らないということでも構いません。願わくば、「この社会」しかないという諦めから人々が離れて、新しい社会への一歩が踏み出されんことを。そう祈りつつ本書を閉じたいと思います。お付き合いありがとうどざいました。

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つながり志向vs.ひとり志向

『日本の消費者は何を考えているのか?』より つながり志向vs.ひとり志向--つながりたいけれど、「つながり疲れ」でひとりにもなりたい
日本人全体として高まる「つながり志向」
 モノにお金をかけるよりコトを重視する人、定年後の時間のゆとりから人とのつきあいが増えた人、SNSによってつきあう人の範囲が広がった人など、きっかけや背景は異なるが、日本人全体の傾向として「つながり志向」は高まっている。
 例えば、積極的にお金をかけたい費目においては、「人とのつきあい・交際費」にお金をかけたいという割合が若年層はもともと高い水準であったがさらに増加した。シニア層は比較的高い水準を維持し、また30代~50代の層はもともと低い水準であったが近年大きく増加している。今や「つながり志向」は年齢層にかかわらず、共通に見られる日本人のトレンドである。
 第2章では「つながり志向」についても世代どとの特徴に触れたが、企業側のマーケティング活動では年代ごとにセグメンテーションすることが多い。そこで本節の前半では改めて年代ごとに分析した「つながり志向」の特徴を紹介する。
シニア層の「つながり志向」は「家族」がカギ
 60代・70代のシニア層は、主に団塊世代・ポスト団塊世代の人が該当する。この年代は、「男は仕事、女は家庭」「妻は夫に従うもの」といった伝統的価値観が強かったが、時代とともに緩和され、今は夫婦歩み寄りの価値観へと変わっている。
 社会人現役時代は、その伝統的価値観から、出張準備や旅行の手配などはすべて妻に丸投げしていた人も多いのではないか。現在のシニア層の旅行では、夫が妻のために旅行の計画や手配を率先してやりたくなるようなテーマ訴求が響くだろう。そしてまだまだアナログ対応が多い年代である。計画や手配に関する手助けを、旅行代理店に気軽に相談できるような雰囲気作りを店舗側で心がける必要があ右だろう。
 またNRIでは、親世帯と子世帯が片道1時間以内ぐらいで行き来できる距離に住む形態を取っている家族を、日常的に緩やかにつながりながら経済的・精神的にも支え合うような関係性であることから、「インビジブル・ファミリー」と呼んでいる。過去20年間におよぶ経年調査では、この「インビジブル・ファミリー」は増加を続けている。
 「インビジブル・ファミリー」は一見、別世帯であるが、消費活動は共同で行うことも多い。孫のために祖父母がランドセルを買うといった消費は想像しやすいと思う。親世帯と子世帯で一緒に外食やレジャーに行くことを考えて多人数乗りのミニバンを購入する、遊びにくる孫のためにゲーム機を祖父母の家に用意しておくなども親世帯・子世帯間の共同消費の例である。
 こうした消費傾向は世帯単独で見るだけでは捉えることはできない。マーケティングには世帯間の緩やかなつながりを意識したターゲット像の見直しやニーズの再整理が求められる。特につながりを重視するシニア層に向けては、子どものため・孫のために何をしてあげられるか(何を買ってあげられるか)をうまく理由付けし、後押しすればシニア層の消費はさらに活性化されるだろう。
50代の「つながり志向」は「共通の趣味友達」がカギ
 現在の50代は、主にバブル世代が該当する。社会人現役時代の最後の生活を送り、人によっては時間にゆとりも生まれ、会社や仕事関係のつきあいから、共通の趣味などでつながった人とのつきあいが始まるころである。バブル世代の50代は、人からどう見られるかを意識する傾向があり、人とのつきあいを大事にする中で支出も促される可能性がある。共通の趣味友達とうまく出会えるネットワーク作りの支援が肝要だ。
 アナログ対応の多いシニア層のネットワーク作りのきっかけは折り込みちらしであったり、街角の掲示板であったりするが、バブル世代の50代はスマートフォン保有率も高くなっており、SNSを活用する人は増えてきている。地域に閉じた人間関係を築くだけではなく、SNSなどの活用により、より広い人間関係を築く可能性はある。
 ただし、50代におけるツイッターやフェイスブックなどのSNS利用は自ら情報発信するのではなく、閲覧のみという人が多い。SNSは情報収集・共通の趣味友達作りのきっかけとして捉え、リアルなつながりにつなげていく工夫が必要である。
40代の「つながり志向」は「縦のつながり」がカギ
 現在の40代は、主に団塊ジュニア世代・ポスト団塊ジュニア世代が該当する。もともと個人主義・マイペース主義志向が強いが、他人と距離を置こうとする価値観は緩和されつつあり、他人とはほどほどに緩やかな「つながり」を求める。
 一方、40代という立場は、60代~70代を親世帯に持ち、また自分の子どもは10代~20代に該当するため、価値観や趣味・趣向が大きく異なる上と下の世代に挟まれた状態で、前述の「インビジブル・ファミリー」の中心にいる。「インビジブルーファミリー」をうまく機能させるためには、例えば子どものニーズをうまく「じぃじ・ばあば」に伝えたり、逆に「じぃじ・ばあば」の意向を子世帯内でうまく反映させたりすることが必要になる。そのため、(納得しているかどうかは別として、)親世代の言うことを理解して子世代に伝えたり、その逆のパターンの役割を担うことになるだろう。
若年層の「つながり志向」は「ぶどう型コミュニティ」がカギ
 10代~30代の若年層は、主にさとり世代・デジタルネイティブ世代が該当する。スマートフォンの活用、特にSNSによって多様な人間関係を築く傾向にある。その人間関係は、高校・大学の友達であったり、同窓会や成人式があればそれがきっかけですぐに小学校・中学校のSNSグループができてしまったりする。就職活動時期でもインターンシップに参加すれば、参加者でSNSグループが形成されるし、内定後は内定者同士のグループが形成され、入社前から仲が良い。
 きっかけがあれば、瞬時に多様なグループが形成される様子は、まるでぶどうの房のような形であろう。人によっては、SNSのアカウントを複数保有し、コミュニティによって使い分ける器用さも身に付けている。「競争より協調」を重視するこの世代はどのグループの交流でも適度に関わりを持ち続ける。その人の趣味・嗜好に合うようなグループに出会うことができれば、長くそのグループに留まることになる。
 SNSへの発言も積極的であるので、最終的には消費行動に影響力をもつ「インフルエンサー」として成長する可能性もある。若年層のSNSグループヘの関わり方に着目し、企業側として個々のターゲット層との顧客接点を長く保つことが重要である。
「つながり疲れ」の末に……「おひとりさま」を楽しむことがブームに
 「つながり志向」は特色が異なるものの、各年代で重要視される志向であり、また企業として消費行動につながる重要な視点である。しかし一方で、消費者にとってつながりを求め重視していく中で、「つながり疲れ」もまた顕著にみられる。特に、SNS活用がよく進んでいる若年層やシングル層では、不安としても「人間関係のトラブル」をあげる割合が高く、快適な人間関係を維持するのにかなり腐心している。
 そんな中、シングルにかぎらず「おひとりさま」行動を楽しむ「ひとり志向」が高まっている。本節の後半では、今ひとつのブームになっている「おひとりさま」行動に着目し、まずその4つの背景から紹介していきたい。

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無印良品 発酵ぬかどこ

『おいしい無印良品。』より
ぬか漬け、大好きなのですが、お手入れがたいへんで自分で作るとなると二の足を踏んでしまいますよね。でも、無印良品のぬかどこは発酵させてあるので、封を切って野菜を漬けたら、もう次の日に食べられるんです。味は酸味が強めで私好み。個人的には3日以上漬けて、酸味が強くなって味が濃くなった頃が食べ頃です。こちらを購入して以来、わが家は毎週、きゅうりをたくさん買って、きゅうり情けを作るようになりました。娘も大好物で、ピクニックに持って行くと娘の友達やパパママも食べてくれるんです。無印良品のぬかどこだと言うと、みんな驚くんですよ。漬けた野菜をスライスして、ハムとマヨネーズと一緒にサンドウィッチにすると。ピクルス代わりになって美味。タルタルソースの具材にもぴったりです。
このぬかどこは、もともと「Found MUJI」の商品として販売していたもの。それを、2018年3月、無印良品のシンプルなパッケージに変えて売り出したら人気に火がつきました。ぬか漬けと言えば、普通は捨て漬けをしないといけないのですが、無印良品のぬかどこはあらかじめ発酵させてあるので、買ってすぐに使えます。抗菌性の強い乳酸菌を使っているため、毎日のかき混ぜも必要ありません(一週間に一度、かき混ぜる程度)。
また、パッケージにチャックが付いているので、容器に移し替える必要もなく、そのまま使えてとても便利。発売当初はそんなにたくさん売れないだろうと予想され、量産もできないので取り扱いは20店舗のみ。ところが、口コミで広がって人気が出たそう。開発担当者いわく、当時は「ぬか漬け男子」という言葉が流行るなど、発酵食品ブームだったことも人気が出た理由のひとつではないか、とのこと。こうして、今は200店舗まで取り扱いが増えたのですが、すぐ売り切れてしまうので、なかなかお目にかかれない幻の商品になっています。
開発担当者おすすめのぬか漬け 
 豆腐
  意外なおいしさに出合える食材が豆腐。よく水切りして、2日くらい漬けましょう。テーズのような濃厚な味わいになるので、オリーブオイルをかけて食べるとおいしいですよ。
 唐辛子・昆布・みかんの皮
  ぬかどこを使い込むと味が薄く、ぼやけてきます。そんな時、唐辛子や昆布を丸ごと入れると抹が締まります。みかんの皮などの柑橘類を入れると、さわやかな風味が加わります。 
 乾燥野菜
  ぬかどこを使い込むうちに水気が多くなってきたら、乾燥野菜を。水気を吸ってくれるうえ、味が付くのでそのまま炒めて食べても美味。乾燥野菜は無印良品でも売っています。
 茄で卵・アボカド・チーズ
  変わりどころで、殻をむいた茄で卵やモッツァレラテーズはいかがでしょう。苑で卵は味がしみて煮卵みたいになります。よくしみるアボカドもおすすめですが、溶けやすいので注意。

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