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ライブビューイングが一番!

空港バスって高いんだね! 1700円もする! 名古屋までは800円なのに。パスポートなしには関係ないと思っていた。愛知スカイエキスポで全握とは。
ライブビューイングが一番! 目で追わなくても、目に入ってくる。双眼鏡は不要。
横の列で座っているのは私一人。あとは三時間のほとんどを立って、サイリウムを掲げて応援していた。若い!
サイリウムの色チェンジも的確。掛け声も神宮の現場と同期していた。

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印刷術の革新とその普及

『情報革命の世界史と図書館』より グーテンベルクと印刷革命
 印刷は、しばしば火薬と羅針盤と並ぶルネサンスの三大発明と称されてきた。これは、一六・七世紀、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの著作に発しているとされる。
 「発見されたものの力と効能と結果を考えてみることは、有益である。古人に知られていず、その起源は、新しいのに、不明ではなばなしくない三つの発見、すなわち印刷術と火薬と羅針盤との発見にもっとも明らかに現れている。すなわちこれら三つの発見は、第一のものは学問において、第二のものは戦争において、第三のものは航海において、全世界の事物の様相と状態をすっかりかえてしまって、そこから無数の変化が起こったのである。」
 ここには、印刷術が持つ地味ではあるが底力のある影響力が強調されている。もちろん印刷術も含めこれら三大発明は、すでに中国宋代に先行してみられたものであり、その功績をルネサンス期のヨーロッパ人に帰することは、現代の世界史的視点からは適当ではないだろう。ただ、ルネサンス期以降のヨーロッパにおいて、改良が加えられ本格的に利用されていることは確かである。
 ところで、印刷を広い意味で、文字・画像の複製と捉えると、文明の誕生とともに各地でみられた印章の類にさかのぽることができるし、後には石碑などからの拓本の制作も印刷の起源に含めることができよう。
 ただ、文書・図画・書籍の複製を意図的に実現するものとしての印刷は、木版印刷によって行われ、まず、中国において盛んになり、日本、朝鮮などを含む東アジア地域で発達をみせた。版木印刷にとどまらず、木製の活字印刷も行われ、一五世紀前半に朝鮮では金属活字による印刷もなされていた。
 こうした東アジアにおける先駆的な印刷活動の隆盛にもかかわらず、一五世紀のヨーロッパにおける印刷術の革新が、世界史上の一大エポックとされるのは、後で述べるように、その社会的影響の重大さと世界的な広がりにあると考えられる。ここで取り上げる「印刷革命」とは、一五世紀のヨーロッパにおける金属活字印刷の発明とその普及、社会的影響を指している。
 一四四五年頃、ドイツのヨハン・グーテンベルクが金属活字を用いた活版印刷機を製造し、聖書やラテン語の文法書、蹟宥状(免罪符)などの書籍や刷り物の印刷を始めた。ちなみに、グーテンベルクによって初期に制作された書籍として、いわゆる「四十二行聖書」(二段組のラテン語の大判聖書)がよく知られている。
 グーテンペルクは、一四〇〇年前後にライン川とマイン川の合流点に近いドイツ南西部の都市マインツで、冶金業や商業を営む一族の一員として生まれた。若き日に金細工師として修業し、また一四四〇年前後の一時期、一家でストラスブールに移り住み、そこで文字の機械的な複製について考案を重ね、金属活字による印刷術の開発に取り組んだといわれる。やがて一家はマインツに戻り、グーテンペルクは、一四五〇年頃にはマインツの金融業者ヨハン・フストと共同で印刷業を開始し、先に述べた四十二行聖書をはじめ様々な印刷物の制作を行った。
 なお、マインツは、現在はドイツ経済の中心地フランクフルトに近い小都市に過ぎないが、一四世紀初頭には、人口二万五千人を擁する当時のドイツでは有数の大都市の一つであり、金属加工業の発達した商工業都市として栄えていた。この金属加工業の発達、とりわけ優れた彫金技術は、このマインツで金属活字印刷がヨーロッパで先頭を切って始められた重要な条件とみられる。
 グーテンペルクの発明は、現在の印刷術の原型をなすものであるが、①鉛、スズ、アンチモンなどを混合した合金による金属活字、②ブドウの圧搾機にヒントを得たとされるプレス機、③印刷に適するよう配合されたインクが主要な三要素であり、これらを組み合わせて印刷術の一大革新が実現したものである。
 やがて、グーテンベルクのフストからの借金をめぐる訴訟が生じ、結果として共同事業は破たんし、印刷設備はフストに引き渡された。そして、印刷事業は、フストとその娘婿でグーテンペルクの弟子であったペーター・シェッファーに引き継がれ、ビジネスとしての成功を収めた。他方、グー・テンペルクは、不遇にあって、マインツとその近郊で印刷業を続け、一四六五年になりマインツ大司教アドルフニ世の庇護を得て、その功績が報いられるところとなったが、一四六八年同地で没した。
 その後印刷術は、マインツを起点に多数の職人が育成され、一五世紀の後半を通して、マインツからドイツ他都市へ、そしてヨーロッパ全域へと急速に広がっていった。
 金属活字印刷が普及する以前、ヨーロッパでは、写本による書籍製作が、まず修道院で盛んとなり、後には大学と専門の業者との連携(前者の後者に対する規制・監督)のもとで、組織的に事業として営まれていた。
 金属活字による印刷は、写本や従来の木版印刷などの印刷方式に比較して、手間が大幅に効率化し、文書や書籍の制作コストを大幅に引き下げることが可能となった。また、写本の時代に比べて、原本により忠実な正確度の高い書籍を、同一の製品として大量に供給できることになった。もちろん誤植の可能性は排除できないが。
 印刷術は、書籍から小冊子、定期刊行物などの出版事業の興隆をもたらした。印刷所は、同時に出版社の役割を兼ねており、印刷業者は出版業者でもあり、その事業は、企業的な立場に立って進められた。その規模は、ヨーロッパにおいて   一五世紀後半の半世紀聞に、約三万~三万五千点に及ぶ「インキュナブラ(揺藍期本--一五〇〇年以前に刊行された書籍)」が刊行された。さらに、一六世紀中には、約一五万~二〇万点の書籍が出版されたと見積もられている。
 なお、金属活字による文字の印刷にとどまらず、同時に、木版画、銅版画による図像の印刷も発達をみせ、書籍の内容を豊かにし、情報の伝達を幅広いものにした。
 金属活字印刷による印刷術の革新は、書籍生産の大量化、低廉化をもたらしたが、初期においては、印刷された書籍が、必ずしも高い評価を得たものではなかった。従来の筆写本を尊しとし、印刷本には低い価値しか認めない向きも根強かった。しかし、書籍の低廉な大量供給を目の当たりにして、カトリック教会の聖職者からも、印刷術を宗教的に有益なものとして、画期的な発明と称賛する声もあがっている。
 金属活字印刷の技術は、まず発祥の地ドイツにおいて、グーテンペルクがマインツで印刷を開始してからわずか三〇年余りの間に、多分数百人規模の多数の印刷職人が育成されていった。そのドイツの職人達は、広く他のヨーロッパ諸国へも移動・拡散していき、各地に印刷所を開設し事業を営んだ。印刷所の立地は急速にヨーロッパ各都市へと広がりをみせた。一四八〇年までに、西ヨーロッパでは、ドイツ人以外の経営も含め、一二二の都市に印刷所が存在したという。そのうち、当時のヨーロッパにおける経済・文化の先進地域であるイタリアに半数近くが存在し、ドイツと合わせると大半を占めた。
 これ以後、二〇年間に印刷機のある都市は倍増し、一五〇〇年には二三六都市に及んだとされる。
 一五世紀後半に印刷業が展開した西ヨーロッパの主要な都市を、年代を追って概観すると、商工業、国際商取引の中心地、司教座や王座の置かれた聖俗の権力中心地が多く、著者となる人材や書籍の需要がある大学都市は意外と出てこない。多様な人材の往来、大規模な書籍需要、販路を確保する上での取引市場、物流の容易さなどが立地上の重要な要件として重要であったと考えられ、印刷のビジネスとしての性格を浮き彫りにしている。
 上記の都市のうち、一五世紀末期からこ(世紀にかけて、イタリアのベネツィアがヨーロッパ随一の出版中心地としての地位を築いていた。インキュナブラ(揺藍期本)の書誌目録による調査によると、一四八〇年から一四八二年にかけての時期には、ペネツィアで出版された本は一五六点に及び、これに次ぐのは、同じくイタリアのミラノが八二点、ドイツのアウグスブルクが六七点であり、以下、イタリアとドイツの都市が目立つが、パリ、リヨン(フランス)やバーゼル(スイス)、ルーバン(ベルギー)といった他の国の都市も一定の実績をみせている。
 当時ベネツィアは、アドリア海の奥に位置する一都市国家ながら地中海貿易で主導権を確保し、ヨーロッパ屈指の海軍国、経済大国の地位を誇っていた。そして、「知識層の集中」「豊富な資本」「高い商業力」という出版事業が成功するための三つの条件がそろっていたといわれる。しかも、長く安定した共和政体のもとで、当時としては出版の自由があり、また、製紙業も盛んで、良質で大量の紙の供給が可能であった。
 その後、アルプス以北では、一五世紀末のフランスは、パリと次いでリヨンが出版業の大中心地として重きをなしていた。ヱ(世紀から一七世紀にかけては、アムステルダムの印刷業が成長を遂げ、一七世紀末頃には、出版活動が比較的自由なアムステルダムが、フランス語出版物においてもパリに次ぐなど、ヨーロッパの一大出版中心地としての地位を誇った。

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イスラム文明と紙

『情報革命の世界史と図書館』より イスラム文明と紙
 イスラム帝国の官僚組織と商業ネットワーク
  マホメットを開祖とするイスラム教の台頭は、信徒による軍事的な征服活動として展開し、ローマ帝国の東方領域を制圧して、七世紀の前半には、最初のイスラムの広域国家として、ウマイヤ朝カリフ国が樹立され、ダマスカスを首都とした。
  七五〇年には、このウマイヤ朝が転覆され、新たなイスラム帝国としてアッバース朝カリフ国(サラセン帝国)が成立し、その後、チグリス=ユーフラテス川の中流域に新たにバクダッドを建設し首都とした。最盛期のアッバース朝の領域は、ウマイヤ朝の版図の大半を継承し、現在のイラクを中心に、西は北アフリカ、東はイランとその北方の中央アジアに及んだ。
  アッバース朝国家では、アラブ民族だけでなく広くイスラム教に帰依した諸民族をその同胞として遇し、イスラムの宗教指導者(ウラマー)や神学者・法学者を指導層として社会生活にイスラムの原理が浸透した。政治的には、より強力なカリフの専制体制が確立し、大規模な官僚組織が形成され、道路網や情報伝達網が整備された。
  イスラム教と都市商業が一体となって、従来にも増して、都市の商業機能が増進し、都市間のネットワークも広域的に緊密に形成された。また、イスラム教とアラビア語の浸透により、共通の宗教と言語で結ばれた広大な情報交流圏が形成された。
  二世紀、後漢の中国で改良され発達し、その周辺地域に広がった紙は、中央アジアでの東西勢力の戦闘を契機に、その製法がユーラシア大陸の西方へと広がっていった。七五一年、クラス河畔(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の大規模な戦闘が行われ、後者が大勝する結果となった。その捕虜の中に中国人の紙職人が含まれており、唐の製紙技術が、まず中央アジアに、さらにはイスラム世界の中心バクダッドヘ伝播し、改良を加えて生産が広がった。まず、中央アジアのサマルカンド(現ウズベキスタン領)で紙の生産が始まり、「サマルカンド紙」として、西方に輸出された。なお、サマルカンド紙は、麻と亜麻を主な原料とした。ほどなく八世紀の終わりころには、バクダッド(現在のイラクの首都)で製紙工場が営まれ、さらに、九世紀前半には、より西方のダマスカス(現在のシリアの首都)でも生産が盛んとなり、やがて「ダマスカス紙」としてヨーロッパヘも盛んに輸出された。そして、紙と製紙技術は、シリア、エジプトからイスラム勢力下のイベリア半島まで伝わっていった。なお、イペリア半島での紙の生産は、イスラム勢力下の地域から、隣接するキリスト教勢力下の地域へも拡散し、ヨ-ロッパヘの製紙技術伝来のルートの一つとなった
  イスラム圏において実際に用いられた紙づくりの技術は、基本的には中国伝来のものと同様であるが、地域の条件に合った改変がなされている。まず、原料として麻と亜麻が多用されており、それらも使い古した麻製の網や亜麻布を利用していた。また、紙漉きも、竹の代わりに細い葦の茎が簑として使われている。さらには、繊維をほぐす工程では、石臼が用いられるようになり、その動力源として人力だけでなく畜力も導入された。このほかにも様々に新たな材料や工程の工夫が加えられている。
  製紙技術が伝来した当時、西アジアでは、アッバース朝が、西アジアー帯を版図とする巨大イスラム帝国を築き、その首都バクダッドは、政治、経済、文化の世界的中心地の一つとして繁栄していた。紙は、従来使用されていたパピルスや羊皮紙に比べ、より軽量で持ち運びしやすく、コストも低く、改ざんが困難で信頼性に富む筆写材料として、普及していった。そして、その時代の各領域での社会的変化を促進した。すなわち、中央集権的な政治体制(竹僚糾織)を支える文書システムの運営、紙製の聖典「コーラン」によるイスラム教の浸透、商取引への「小切于」の活用、筆写本の製作・流通の活況などに不可欠の手段となったとみられている。
  アッバース朝やその崩壊後のファーティマ朝などのイスラム岡家は、広大な領土を統治するために大規模に組織された官僚制を発達させたが、その機能が十分に発揮される--にでは、公文書の信ぴょう性が欠かせない条件である。その点では、紙には一度筆記するとインクの跡が残り、改ざんすることが困難な性質がある。アッバース朝の第五代カリフ、ハルン・アル・ラシードは、偽造文書を防止するために、行政機関において公文書に紙を用いるよう命じたと伝えられる。
  この利点は、民間でも評価され、契約書や会計簿、商業用の信書などに幅広く用いられた。これは、イスラム世界の拡大に伴う商業の発達を支える条件となった。
  他方、イスラム世界において、軽量で保存性があり、羊皮紙に比べて安価な紙は、聖典『コーラン』をはじめ、イスラム教の教義に関連する写本づくりの材料となった。これは、『コーラン』やその言語であるアラビア語の普及を促進するものとなった。さらに、宗教関係書のみならず、法律、文学、医学、科学など各分野の出版活動の隆盛につながった。
 バクダッドの都と知恵の館
  ウマイヤ朝の首都ダマスカス(現シリアの首都)に代わって、アッバース朝第二代カリフのマンスール(在位:七五四~七七五年)により、帝国の中心として首都バグダッド(現イラクの首都)が造営され、西アジア最大の都市に成長し、広く全アフロユーラシア大陸全体の人的、物的交流の中心地となった。
  バグダッドは、ティグリス河中流の西岸に位置し、かつてのササン朝ペルシャの首都クテシフォンに近く、かのバビロンの約七五キロメートル西北にあたる。その土地が選ばれた理由は、ユーフラテス河とティグリス河を結ぶササン朝ペルシャ時代の運河網が整備されていることや肥沃な農耕地帯の中央に位置することが挙げられる。また、アナトリア方面とペルシャ湾を結ぶ河川交通と中央アジア方面とシリア方面を結ぶキャラバン・ルートの交差する位置でもある。
  バグダッドの建設は、七六二年に始まり七六六年にかけて四年間で行われた。三重の城壁に囲まれた直径二・三五キロメートルの円形の都市構造を持つ。城壁内部には、宮殿と大モスクを中心に、諸官庁、軍隊の駐屯所が置かれた。城壁には、四つの城門が設けられ、各々は、ホラーサーン、バスラ、クーファ、ダマスカスに至る街道に通じた。
  この四つの街道を幹線路として、さらに支線が各方面に延び、道路網が縦横に整備されるとともに、アケメネス朝以来の駅伝制度の伝統を踏まえて、道路に沿って一定の距離ごとに馬やラクダを備えた宿駅が置かれた。これは、ウマイヤ朝においてその首都ダマスカスを中心に構築されたシステムを継承・発展させたものである。
  この道路網と駅伝制度を駆使して、公文書が行き交い、帝国の統治システムが運営されていた。また、各地の駅長は、交通と通信の機能の維持に責任を負うとともに管轄地域の情報収集に努め、バクダッドヘと報告を送った。これによって、カリフのもとには、帝国全土から膨大な情報が集まり、帝国各地の事情に精通したカリフは、「魔法の鏡」を持つとさえいわれていた。ちなみに、九世紀中頃に書かれたイブン・フルダーズベの『諸道路と諸国の書』によれば、九三〇の宿駅があったという。
  バクダッドは、都市の発展とともに、市街地は、ティグリス河の西岸から東岸に拡大し、城壁の東方に軍隊の駐屯地が、南側約ニキロのところには、当初外壁と内壁を結ぶ街路沿いにあった市場(スーク)が移転し、商工業者が集まったカルフ地区が形成された。ここでは、絹織物、綿織物、ガラス・金属製品などの手工業生産と、遠隔地取引を含む商取引が展開された。
  城内のモスクは、イスラム法学の教育・研究機関となり、また、七代目カリフのマームーンによってバイト・アルヒクマ(智恵の館)が設けられ、ここに多数の学者や有識者を招き、ギリシャ語の哲学・自然科学文献の収集や翻訳活動が行われた。
  なお、バグダッドは、九~二〇世紀が最盛期とされ、人口は百五〇万人規模にも達したとみられている。また、アッバース朝において、カリフの権力が実質的に機能したのは、一〇世紀中頃までで、次第に地方への統制力は弱体化した。一二五八年のモンゴル軍によるバグダッド攻略により、街は破壊され、カリフ制も崩壊した。アッバース朝の衰退後は、繁栄はエジプトのカイロに移る。

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読書環境の変化 書店の現状と課題

『読書教育の未来』より 読書環境の変化--書店と図書館
 リアル書店とネット書店
  インターネットの普及に伴い、ネット書店を利用する機会が増えてきている。リアル書店とは地域に店がある本屋であり、ネット書店とはインターネットのサイトにある本屋のことを指す。リアル書店の特徴としては、(1)さまざまな本を実際に手にとって内容を確認できる、(2)購入しようと思っていた本以外の本の表紙が目に入り、内容を比較したり、新しい本に偶然出会うことができる、(3)店員に質問できる、(4)検索機を使ってじっくり本を探すことができる、(5)イベント(作家のサイン会やおはなし会など)が開催される、などがある。現在のリアル書店では、オンラインで本の注文もできるようになっている。
  一方、ネット書店には、(1)最大の特徴として全国どこからでもいつでも本の購入ができる、(2)検索機能が充実している、(3)めずらしい本を入手することができる可能性が高い、などの特徴がある。
  2016年度の販売ルート別の出版物販売額の割合を見ると、上位から、書店ルート(63.3%)、コンビニルート(10.8%)、出版社直販(10.7%)、インターネットルート(10.6%)、その他取次経由(4.6%)となっている(日販 営業推進室、2017)。 2016年度のインターネットルートの割合自体は高くはないが、出版物販売額の総額が減少しているなかでこの割合は伸びており、本の購入方法が変化してきていることが示唆される。
 書店の利用
  リアル書店とネット書店を両方含め、20代から60代を対象として書店の利用頻度を尋ねた調査では、全体の2割以上が週1回以上利用しており、6割以上が月1回以上利用していた。一方、ほとんど利用しないという人の割合は2割以下であった。
  年齢の小さい子どもや高齢者など、インターネットをあまり利用していない年齢の人にとっては、リアル書店は本に触れたり入手したりする貴重な場である。実際に、小学校から高校までの児童生徒は書店を頻繁に利用しているという報告がある。第63回学校読書調査によれば、小学校から高校までのいずれの校種においても6害り以上の児童生徒が本屋に「よく行く」あるいは「ときどき行く」と回答しており、本屋に行く頻度が高かった。このように児童生徒が書店を頻繁に利用する理由としては、本や雑誌の現物を手に取らずにパソコンやスマートフォンの現物で購入手続きをする障壁が高いことや、クレジットカードなどの決済方法の制約があることがあげられている。さらに小学生は中高生に比べて行動範囲が狭く、地域に書店がないと行くことができない。
  また、リアル書店とネット書店は、購入書籍のジャンルや特徴によって使い分けられていることが示唆されている。たとえば購入書籍の特徴として、リアル書店では、ベストセラーや初めて買う作家の本を購入したり、好きな作家の最新刊を購入したりする傾向があった。一方、ネット通販では、今読んでいる本の関連本など新しく探す必要のない本や、中古の本を購入したり、まとめて本を購入したりする場合に利用される傾向があった。
 読書環境としての書店の課題
  このようにリアル書店とネット書店はそれぞれに特徴があり、併用することによってより豊かな読書環境を整えることができる。しかし、年々、リアル書店の数は減少し、書店が1件もない自治体が増えている。Amazonなどのネット書店では、注文した本が早く届く、ポイントによる実質的な値引きがあるなど、便利なサービスがあり、この点ではリアル書店がネット書店に勝ることは難しいかもしれないと考えられる。また、電子書籍の配信は、書店にとって売れ筋のコミックスやエンターテインメント小説などの紙の本の販売に影響を及ぼす可能性があり、リアル書店の経営がさらに厳しくなると予想されている。
  「3.1リアル書店とネット書店」で述べたように、リアル書店では実際に本についての多くの情報を得て、自分にとってよいと思う本や必要でない本を見極める力をつける訓練ができる。また、ネット書店や図書館と比べ、リアル書店の特徴は「棚」であり、この「棚」に並べる本を絞り込み、新刊書が入ってくれば棚を鮮度よく並べ替えたりしている。この「棚」は図書館のように基本図書を中心に、標準化された分類で本を並べておくわけではなく、それぞれの書店で独自のジャンル分けが行われていることが多い。星野は、図書館の棚が分類と保存の役割をもつとしたら、リアル書店の棚は「常に変化する鮮度と出会いの場」であり、この書店独自の品揃えや「棚作り」が[未知の本との出会い]を生じさせると述べている。ネット書店を便利に利用したとしても、リアル書店の棚での本との出会いを多くの人が体験できることが必要ではないかと考えられる。

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エルドアンのトルコ 今後のヨーロッパ

『エルドアンのトルコ』より 米中覇権戦争の中のトルコ
 EUは、二〇一五年に「難民や移民を受け入れる」としてきたメルケル首相の政策が国民や加盟国の反発を買い、変更せざるをえなくなった時点で、それまで持っていた輝きを失ってしまった。「人権」、「民主主義」を高らかに掲げ、世界を理念や価値観で導くリーダーとしてのソフト・パワーに陰りが出てきてしまったのだ。
 そんな中、EU内部では「マルチスピード論」が噴出する。これは経済的に順調な国と、遅れて入ってきた国は「同じスピードで統合を進める必要はない」とするものだ。メルケルは二〇一七年の非公式の欧州理事会で「異なるスピードのEU統合もありうることを過去数年の歴史から学んだ」と述べ、経済の好調なベネルクス三国の首脳も同調している。
 一方、置き去りになることを恐れる中東欧のポーランドのヤロスワフ・カチンスキ与党党首は「マルチスピードのEUを容認すればEUの崩壊に繋がる」と懸念を表明した。ポーランドでは「司法の独立」が侵され、報道の自由の制限が目立ち右傾化が進む。一八年四月に選挙が行われたハンガリーでもオルバン・ヴィクトル首相が圧勝した。彼は反移民政策の急先鋒で、難民の流入を防ぐべくフェンスを作り、軍を導入して移民の入国を阻止し、独裁的要素を強めてきた。プーチン大統領の熱烈な支持者でもある。ドイツやフランスに追従することを嫌い、ルール作りに参加できないまま結果のみを強制されかねないことを懸念する中東欧諸国と、先行する独仏オランダなどとの軋轢、かEU内で強まっている。
 しかもEUにはブレグジふ卜の大波が迫っている。現在までにソフト・ランディングヘ導く協定などは進んでおらず、ハード・ブレグジットになる可能性が高い。一九年二月に発表されたホンダの撤退が象徴するように、このブレグジットが英国だけではなくEU全体に及ぼすダメージは決して小さくない。
 メルケル首相がドイツキリスト教民主同盟(CDU)の党首を辞任し、一三年にわたってEUを主導してきたリーダーシップも今後低下すると懸念される。シリアなどからの難民をEUの全加盟国が受け入れるよう求めていたドイツは二八年一二月、その要求を取り下げた。
 ドイツとともにEUの結束強化に動いていたフランスもマクロン大統領の独自路線に周囲の反発が強まっている。二〇一八年一一月に始まった燃料税を発端とするデモは、国民の間の様々な不満を吸収して週末ごとに暴動が起こる「黄色いベスト運動」に発展。パリは一時事実上の封鎖状態に陥った。マクロンは燃料税引き上げを撤回せざるをえなくなり、最低賃金も引き上げることになった。支持率は二〇%弱で低迷し、国内改革は頓挫した。財政再建も遅れ、EU加盟国の財政赤字はGDP比三%以下というルールを自ら破ることになった。この国内での失敗は「EUの統合の深化」をも危うくし、トランプに対抗して掲げた「国際協調主義の旗手」としての説得力も失った。
 南欧に関しては、トルコの経済悪化から、資金を貸しているイタリア最大手ウニクレディト銀行の株価が下落するなど金融システムヘの懸念が表面化する。イタリアなど各国でナショナリズムの高揚が見られ、移民排斥を訴えるポピュリスト政党の力が増大しているのは懸念材料だ。EUは崩壊には至らないまでも、今後しばらくは内部の問題解決にエネルギーが割かれる。混乱が続き、世界への影響力は低下するだろう。
 また、中国への警戒感が格段に強まったとはいえ、EU内部でも中国への対応は統一されていない。フランスの元首相ジャン・ピエール・ラファランは、仏中関係団体の要職をいくつも兼任し、英国前首相デヴィッド・キャメロンは、英中合同の二帯一路推進のための基金」の総裁に就任している。財政難のイタリアでは、ジョヴァンニ・トリア経済大臣が「イタリアは中国にとっての欧州の玄関口となる」と宣言。一九年三月には、G7で初めて二帯一路」推進の覚書に署名。中国は欧州中央に食い込むトリエステ港の機能強化に乗り出すとされる。
 ギリシャも「一帯一路の欧州側起点」としてアピールする。すでに「一帯一路」構想で三四のヨーロッパの都市が三五の中国の都市と繋がっている。特に「16+1」の枠組みのある中東欧や高い失業率に悩む南欧諸国は中国の進出を歓迎してきた。中国からの投資は熱狂的に受け入れられ、そのために南シナ海での行動今中国の人権問題に対してのEU一体としての対応がハンガリーやギリシャによって阻害されてきた。
 しかし、ここにきてEU本部今西欧諸国は「一帯一路」が及ぼす負の影響に警戒し始めた。危機感の理由は第一に「一帯一路」がEUそのものの統一を乱しかねないこと、第二に欧州全体の安全保障を揺るがしかねないこと、第三に欧州のアジアとの貿易、投資、市場アクセスヘの悪影響がありうることだ。ファーウェイヘの対応で英政府はアメリカと「警戒感」を共有し、ドイツ政府も一八年一二月、欧州以外からのドイツ企業への投資について政府がチェックする範囲を拡大した。
 一八年夏には、中国系企業によるドイツの精密機械メーカー、ライフェルト・メタル・スピニングの買収を事実上阻止している。世界的シンクタンクであるジャーマン・マーシャル・ファンド(GMF)のガリーマ・モーハンによれば「現在欧州の港湾能力の約一〇分の一--スペイン、イタリア、ギリシャという南欧だけでなくベルギーなど、欧州の心臓部の港もコンテナ・ターミナル全体の買収などにより中国のコントロール下にある。中国の軍艦がギリシャのピレウス港に入港し、中国がジブチの軍港を取得したことは中国の欧州近海への軍事的影響力の高まりを見せ付けた」ということだ。
 ジブチは紅海の南端にあり、中国は二〇一七年に海賊対策として軍事基地を開設。今では人民解放軍の数千人が駐留すると見られる。その後、隣接するドラレ港の開発を中国企業「招商局集団」が行った。GDP約一九億ドルのジブチに一〇億ドル以上を貸与し基地周辺を開発。建設は現地に雇用を生み出すことなく、ほとんど中国人の手で行われた。ジブチが面するアデン湾はスエズ運河から紅海を通るルートの南の出口に当たり、世界の船舶の三割が通過。日本の関係する商船も年間約二〇〇〇隻航行する。欧州とアジアを結ぶ要衝でもある。アメリカもこの国に軍事基地を置いており、このアフリカの小国がまさに「開かれたインド太平洋戦略」と「一帯一路」が交差するホット・ポイントとなっている。
 タルケル首相は「中国は欧州が直面する最も厳しい挑戦の一つだ」とし、ドイツ高官は「欧州が一丸となって中国への戦略をまとめられなければ、欧州は分断に陥る」と警告した。ドイツのように輸出が大きな割合を占める国にとり、アジア太平洋はョーロで(に次ぐマーケッ卜だ。欧州のアジア向けの輸出の九〇%がインド太平洋を通過する。この地域の安定と自由な航海が確保され、「ルールに則った秩序」が維持されることはヨーロで(の繁栄にも欠かせない。
 フランスは二〇一六年、「戦略的なバランスをインド太平洋に移し始めた」と発表した。フランスはこの地域にEEZを持ち、七〇〇〇名の兵を配置する。今後はさらにドバイやシソガポールに新しい拠点を作り、周辺の協力国と「航行の自由作戦」を展開していくとした。二〇一八年三月インドを訪問したマクロンはナレンドラ・モディ首相と「インド洋地域防衛協定」に署名、一八年五月には空母打撃群を東南アジアに展開させた。
 英国は「一帯一路」の覚書への署名は拒絶したが、ブレグジットを控え中国とは関係を維持したいと考えている。ファーウェイに対しても、条件をつけ警戒しつつもコントロールしていく方針を捨てていない。しかし、アメリカ、豪州、ニュージーランドなどとの関係を考えれば同盟関係を重視していかざるをえない。すでに英国王立防衛安全保障研究所は「ファーウェイ製品の導入を認めるのは甘い考えで『無責任』である」と警告し、国内で見解が割れている。
 マクロンは一九年三月に訪仏した習にEU加盟国を個別に切り崩す動きは容認できないと牽制した。EUとしては、インド太平洋でのルール作りに貢献したいとし、連携を高めることで人権や透明性、市場原理、関係国間の平等なアクセスなどを盛り込んだ一帯一路に代わる別の選択肢を提供できるのではないかと考えている。
 ガリーマ・モーハンによれば、連携の相手としてインド太平洋では日本、インド、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールなどがEUの視野に入っている。特に日本はヨーロッパとアジアの連携強化のための資金も能力もある信頼できるパートナーと見られているという。しかし日本は、EUが全面的に一帯一路に反対しているのではなく、国により濃淡があること、また、いずれの国も条件が合えば(透明性や市場原理、平等なアクセス)、個々のプロジェクトヘの参加の機会をうかがっていることは理解しておいた方がよい。
 イランに関しての欧州の立ち位置も今後変化するだろう。EUはイランを核合意に留めようとしているが、フランスのトタールはすでにイランからの撤退を決め、エアバスも約束通り民間機をイランに引き渡さない公算が大きい。イタリアもギリシャも原油の輸入をすでに止めた。アメリカはイランの原油取引を世界の主要な決済機関であるSWIFTから締め出そうとしており、そうなると買う側はバーター取引がキャッシュで払うしか方法がなくなる。前回の制裁の際もバーターで取引していた中国はともかく、多くの国にはイランからの原油を買うことは大きなリスクと認識されることになる。
 また、二〇一九年に入ってEUとイランの関係悪化が見られる。イランの情報機関がデソマークとフランスで反体制派の暗殺を計画していたと発覚。EUは二月八日イランに新たな制裁を科すことで合意し、イラン情報相と関わったイラン人二人のEU域内の資産を凍結した。これは、二〇一五年の核合意後、初めての制裁になった。
 また、トルコが一九年五月に東地中海のガス田を掘削する方針を国連の安全保障理事会に提出したことから、EU内のギリシャやキプロスとの確執が大きな問題になる。これに対しアメリカもキプロス支持の姿勢を明確にしている。しかし、トルコは六月までにキプロス沖に二回掘削船を送り込み、その意志を明確にし、EUとの対立を深めている。

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