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家族制度の変革が進行中

家族制度の変革がゆっくり、進行している。コンビニが急先鋒。冷凍カップチャーハン213円。自炊生活を可能にする。
家庭からごみを出さない、家族の組織化を阻止、個の存在の力を育生する。
全体を考え、先を見ていけばわかるはず。
家族制度の変革は自炊生活が必要。食に対して、主婦がいることを否定する。未婚率25%では当たり前の世界。主婦がなくし、女性の自立、男性の独立を図る。
マチネとソワレ、何のことかわからなかった。舞台公演で昼の部と夜の部のこと。客層がかなり異なるので、演者の意識も異なる。
スタバもマチネとソワレでスタッフと客層が異なる。スタッフは主婦のパート、学生のバイト、フリーター、そして、専業者。
昨日のライブビューイングで生ちゃんの素が見えた。最初は誰かわからなかった。惹かれるものがあった。立ち位置から生田絵梨花。いつもの笑顔でなく、素の感情そのもの。

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OCR化した10冊

 『アルコールと酔っぱらいの地理学』
  禁欲というムスリムの文化
 『Uberland ウーバーランド』
  Uberの新時代
   テクノロジーの消費は働き方のルールをどのように書き換えたか
   ドライバーは労働の新しい世界にどのように入り込むか
   Uberは私たちをどのように変えたか
 『公民館をどう実践してゆくのか』
  〈ちいさな社会〉をたくさんつくる--公民館を再考するために
  いい社会なのに活かせない
   誰もが長寿な社会
   少子化の本当の要因
   いい社会を活かすために
  人々が孤立する社会
   高い未婚率・雇用不安・出産育児の困難をつなぐもの
   直列していた個人-家族-会社-国
   サービス化される公共と消費者化する個人
  Society 5.0とあるべき公正な社会
   技術革新と社会的格差の拡大
   第二期教育振興基本計画の問題
   Society 5.0の社会へ
  「恩送り」の関係と人への想像力
   「ともにつくっている」という感覚の喪失
   長い箸の寓話
   人とつながっているということ
   人の喜びを自分の悦びとする本性
  人が人を想像する魅力的な社会
   人は頼りあうことで自立する
   イノベーションが起きない社会
   顔の見える〈ちいさな社会〉を無数につくる
  〈ちいさな社会〉が焦点化される時代
   学校の魅力化から地域の魅力化へ
   公民館活動から次世代育成へ
   「超高齢社会」悲観論から「人生一〇〇年時代」希望論へ
  〈ちいさな社会〉実装の取り組み
   多世代交流型コミュニティの実践
   若者たちによる中山間村活性化
   小中高校一二年間一貫のふるさとキャリア教育
   変わる企業・行政の立ち位置
  〈ちいさな社会〉をたくさんつくる
   円よりも縁
   やらされ感が大敵
   点(ドット)を増やす
   自分への駆動力を高める
   公民館を再考する
 『定年不調』
  男の孤独、孤立と向き合う
   生涯未婚率上昇と「親ロス」
   「日本の男性は世界一孤独」という多くの報告
   孤独と孤立の違い
   なぜ男性は孤独化・孤立化しやすいのか
   定年前に孤独対策を「試しに」行う
   定年前から地元の情報を集めて近所の人とつきあう
   ボランティア、寄付という行動を起こす
   人と話をするのは1週間ぶり
   熟年婚活に賛成
   孤独死は3日以内に見つけてもらおう
   「リビング・ウイル」が尊重される時代
 『エルドアンのトルコ』
  米中覇権戦争の中のトルコ
   現在のトルコ
   第二の冷戦
   「ニュー・ノーマル」①--中国の経済的台頭
   「ニュー・ノーマル」②」-中国の軍事的台頭
   米中貿易戦争勃発
  今後の世界
   アメリカ
   ヨーロッパ
   ロシア
   イラン
   中東
    サウジアラビア
    イスラエル
   アジアと日本
    米中覇権戦争の最も熾烈な戦場
    日本の選択
    ロシア・トルコ関係への注目
    他山の石
    独立した国家として
 『ユニバース2.0』
  宇宙の始まりは「無」だったのか?
  わたしたちは宇宙を創造するべきなのか?
 『読書教育の未来』
  読書環境の変化--書店と図書館
   近年の読書環境
   インターネットや新しい電子機器の普及
    インターネットの普及
    新しい電子機器の普及と電子書籍
    読書の経年変化
   書店の現状と課題
    リアル書店とネット書店
    書店の利用
    読書環境としての書店の課題
   図書館の現状と課題
    図書館の種類と特徴
    図書館の利用
    図書館の主なサービスとその変化
    読書環境としての図書館の課題
   おわりに
 『あなたと原爆』
  あなたと原爆
  復讐の味は苦い
 『情報革命の世界史と図書館』
  イスラム文明と紙
   イスラム帝国の官僚組織と商業ネットワーク
   バクダッドの都と知恵の館
  文明の大交流時代と図書館の新展開
   イスラム文明と図書館
   バクダッドの都と知恵の館
   ヨーロッパ
   日本
  グーテンベルクと印刷革命
   印刷術の革新とその普及
   印刷革命の影響
    出版業の興隆
    社会的変化の促進
    科学的研究の促進
    公用語・国語の普及
  産業革命後の図書館の発達
   イギリス
   アメリカ
  電信と図書館をつなぐ見えざる糸
 『世界戦争の世紀』
  ハンナ・アーレントと「ローンリネス」
  アーレントとハイデガー
  サルトル、現象学に出会う
  アーレント、ハイデガーとアドルノ
  ワルシャワ蜂起とヒトラー暗殺計画
  対独協力者への粛清
  「二十一世紀の資本」と「人類共同体」の可能性

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アーレントとハイデガー

『世界戦争の世紀』より アーレントとハイデガー
 あえて言ってしまえば、アーレントそのひとが、ゆらいだ経験、見捨てられた経験を持っていたと言えないであろうか。エルジビェータ・エティンガーの『アーレントとハイデガー』(一九九五年、邦訳一九九六年)は、アーレント研究者やハイデガー研究者から芸能ゴシップなみだとの悪意をもって受けとめられた。だが、この本で初めて公開されたアーレントのハイデガー宛の手紙(その後一九九八年に『アーレント=ハイデガー往復書簡 1925-1975』が公刊)のなかには、明らかに彼女もまた「不安の世代」の一員であったことを物語る記述が見いだせるように思われる。
 十七歳のアーレントは、一九二三年-二四年冬に書かれた「倦怠」と題する詩のなかで、このようにつぶやいている。
  わたしの愛したものを
  わたしは手につかまえておけない、
  わたしのまわりにあるものを
  そのままにして立ち去れない。
  なにもかも沈んでゆく。
  薄闇がたちのぼる
  無がわたしを屈服させる--
  人生とはこういうものか。
 さらに、一九二四年夏の詩(「無題」)では、さらに不安を語る。
  あてどもなく日々を行く。
  重みなしに言葉を語る。
  なにも見えないまま闇に生きる。
  舵なしの生。
  わたしの上を蔽う ただただおそろしいもの
  大きな黒い新種の鳥のような、
  夜の顔。
 アーレントの母方の祖父母は、ロシアから移民したユダヤ人であり、父方の曾祖母もロシアからの移民ユダヤ人だった。彼らは、ドイツ語を用いてドイツ文化に同化する方向性を選択したユダヤ人だった。アーレントの父母は、高い教育を受けて十代の頃から社会主義者であり、宗教的信仰を持たなかった。
 そのため、アーレントは、同化ユダヤ人であるがゆえの帰属意識の不安定さ、幼年期の一九一三年十月に父を失っていたことからくる年長者への依存欲求があった。また同世代の青年たちと同様に、既存の価値観の崩壊した戦後社会の不安のなかに生きており、不安定な自分を導いてくれる指導者への欲求も強かったはずである。
 そしてアーレントは、一九二四年秋、十八歳のとき、初めてハィデガーと知り合っている。マールブルク大学の助教授と新入生の関係だった。一八八九年生まれの戦場体験派のハイデガーは、このとき三十五歳ですでに妻エルフリーデ(一八九三-一九九二)がいた。知り合ってまもなく、一九二五年四月にアーレントぱ、ハイデガーに向けて自己分析とでも読めるような手紙(「影」)を書いている。
  「不安はかつての憧憬とおなじように彼女を捕らえてむしばんだ。こんどもまた、つねに特定されるなにものかへの特定可能な不安ではなく、生存一般への不安だった。多くを知っていた彼女は、この不安も以前から知ってはいた。しかしこんどはその手中に落ちてしまったのだ」。
 しかし、ひそやかに始まった二人の関係は、ハイデガーからの別れの言葉が告げられて一九二八年四月に終わった。アーレントは、一九二八年四月二十二日付けのハイデガーヘの手紙のなかで切々と自分の感情を露わにしている。
  「わたしは最初の日とおなじようにあなたを愛している。あなたはそれをご存知だし、私もいつも知っていました、こんどの再会の前にも。あなたがお示しくださった道は、わたしが思っていた以上に長くて困難です。それは長い人生まるごとを要します。この道の孤独さはみずから選んだもので、わたしに似つかねしい唯一の生の可能性です。けれども見捨てられた寂寥感は、運命がそれを止揚してくれましたが、世界のなかで生きる力をわたしから奪うだけではなく、この道そのものをわたしにたいして閉ざしてしまいかねなかったのです。なにしろそれは遠くて、世界をひと跳びで通り抜けられる道ではないからです」。
 一九二九年九月、アーレントは、ハイデガー門下のギュンター・シュテルン(哲学者・ジャーナリストとしての筆名・ギュンター・アンダース、一九〇二-九二。ヴァルター・ペンヤミンの従弟。父親のウィリアム・シュテルンは、「知能指数(IQ)」概念の考案者で児童心理学者)と結婚する。ハイデガーの弟子だったシュテルンは、ハイデガーの妻のエルフリーデから地元のナチ青年団に加わらないかと誘われたことがある。エルフリーデは、悪名高い反ユダヤ主義者であった。シュテルンが「ぼくはユダヤ人です」と答えると、うんざりしたように顔をそむけた。
 その直後、ハイデガーは、アーレントとその夫のもとを訪れ、談笑したあと、ハイデガーとシュテルンはフライブルクヘ汽車で行くことになった。アーレントは、ひそかに駅まで見送りにゆき、その後ハイデガーに手紙でその行為を告白している。
 彼女は、数秒間ハイデガーの前に立っていたのだが、彼のほうは気がつかなかった。そのとき、アーレントは、自分が目に見えない存在となってしまったという恐怖を感じ、子どものころの記憶が蘇ってきた。母親が読んでくれた、鼻がどんどん大きくなってしまった鼻小人がもう誰からも彼だとはわかってもらえなかった話を思い出したのである。そのとき、母の読み方が真に迫っていたため、まるで自分がそうなってしまったかのようだった。幼かった彼女は、「わたしはお母さんの子よ、わたしはハンナよ」とひたすら叫び続けた。こんどもそれとそっくりだった。
  「そのとき汽車はもうほとんど走りだしていました。そしてことは、私がすぐに思ったとおり、つまり、おそらくは望んでいたとおりになったのです。あなたがたふたりはすぐそこの上にいて、わたしはひとりで、まったく無力なまま、それに向き合っていた。わたしには、いつもそうであるように、出来事を起こるがままにしておく以外、待って、待って、待ちつくす以外には、なにもできなかったのです」。
 取り残された、見捨てられたという感情、自分のかたわらには誰もいないという無力感。アーレントもまたまぎれもなく時代の子であった。ゆえに、彼女が、後年『全体主義の起原』で最後に展開した「フェアラッセンハイト(見捨てられている状態)」論の背後に、彼女自身の青春の記憶がかすかに残っていたと見るのは強引であろうか。

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あなたと原爆

『あなたと原爆』より
 このさき五年のうちに我々が一人残らずみな原爆で木っ端微塵に吹き飛ばされてしまう可能性が極めて高いことを考えるなら、これまでに原爆が引き起こしてきた議論の広がりは、当初の予想よりはるかに小さい。新聞は、陽子や中性子がどうなって爆発を起こすのかという、一般の人間にはさほど役に立たない説明のためにおびただしい数の図表を載せ、「原爆は国際的な管理下に置かれるべきだ」という無益な声明も繰り返されてはきた。しかし奇妙なことに、少なくとも活字では、我々すべての人間にとって喫緊の関心である一つの話題がほとんど議論に上ることがないのである。その話題とはすなわち、「原爆を製造するのはどの程度困難なのか?」という問題である。
 この問題について我々--つまりは一般大衆--が知りうる情報は、原爆の製造に関する特定の秘密をソヴィエト社会主義共和国連邦には渡さない、というトルーマン米大統領の決断にまつわる形で、かなり回りくどい言い方でしか伝えられていない。数か月前に原爆がまだ噂にすぎなかった頃、原子分裂はもはや物理学者だけの問題で、彼らがその問題を解決すれば、壊滅的被害をもたらす新しい強力な兵器がほぼ誰でも手に入れられるようになるだろう、と広く信じられていた(噂にょれば、今すぐにも、実験室にこもった孤独な狂人が、花火に点火するような容易さで文明をバラバラにして吹き飛ばすことができるかもしれない、ということだった)。
 もしこの噂が事実だったなら、歴史の流れ全体が急変していたことだろう。大国と小国の間の区別が消え去り、個人に対して国家が及ぼす権力は著しく弱められたことだろう。しかしながら、トルーマン大統領の発言や、それに対する様々なコメントからわかるのは、この原爆という代物がとてつもなく高価であり、その製造には莫大な産業的努力が必要で、そのために世界でも三つか四つの国しか製造することができない、ということだ。この点は極めて重大である。なぜなら、原爆の発明は、歴史の流れを逆転させるどころか、この十年ほどはっきりしてきた傾向を単に強めるだけだろうからだ。
 文明の歴史とは概ね武器の歴史である、というのはよく言われることだ。とりわけ、火薬の発見がブルジョアジーによる封建制度の転覆をもたらしたことは何度も繰り返し指摘されてきた。もちろん、例外を挙げることも可能ではあるが、しかし、一般的に以下の法則は正しいと言えるだろう。すなわち、主要な武器が高価であったり製造が困難なものである時代は専制の時代であり、一方、主要な武器が安価で単純なものであれば、大衆にもチャンスがある。ゆえに、たとえば戦車や戦艦、爆撃機は本来的に専制に資する兵器であり、逆にライフル、マスケット銃、長弓、手榴弾は、その本質からして民主的な武器なのである。複雑な兵器は強者をより強者にし、単純な武器は--それに対する報復がない限りは--弱者に戦う術を与える。
 民主主義と国家自決の偉大なる時代は、マスケット銃とライフルの時代であった。火打ち石銃が発明されてから雷管が発明されるまでは、マスケット銃はかなり効率の良い武器であると同時に、仕組みが単純なためにおよそいかなる場所ででも製造することができた。この特性の組み合わせがアメリカ合衆国の独立やフランス革命の成功を可能にし、大衆による蜂起を、我々が生きている今この時代ではありえないほど重大な事態にしたのである。マスケット銃のあとには後装式のライフルが現れた。これはマスケット銃に比べるといくぶん複雑な武器であったが、それでも多くの国で製造が可能で、さらには安価で、密輸も簡単、使われる弾薬の量も経済的だった。もっとも遅れた国であっても、ライフルであればいつでもどこかしらから入手することができ、そのおかげでボーア人、ブルガール人、エチオピア人、モロッコ人、そしてチベット人さえもが独立のために戦うことができ、時として勝利を収めることまであったのだ。しかしそれ以降となると、戦闘方法の発達はすべて個人よりも国家の側に有利になるようにはたらき、遅れた国よりも工業化した国の味方となってきた。権力の中心はどんどん数が減り、一九三九年にはすでに大規模な戦争を遂行できる国は五つしかなくなり、いまではもう三国となっている--そしておそらく最終的には二国となる。この傾向はこの数年の間明白だったことであり、一九一四年以前でさえ、そのことを指摘する論者は少ないながらも存在した。この流れを逆転しうるものがあるとするならば、それは兵器の発明--より広く言うなら戦闘方法の発明--それも大規模集中型の工場に頼らない兵器や戦闘方法の発明である。
 様々な兆候から判断して、ロシア人たちは原爆製造の秘密をまだ手にしていないと推測できる。その一方で、これから数年のうちには手に入れるであろうというのも一致した見方だ。だから我々の目の前にあるのは、ものの数秒で数百万の人間を消し去ることができる兵器を持った、二、三の怪物のような超大国が、自分たちだけで世界を分け合うという未来予測である。これが意味するところは、より大規模でより凄惨な戦争であり、そしておそらくは機械文明の実質的消滅をもたらすだろうということが、いくぶん性急ながら考えられてきた。しかし、これは実際もっともありえそうな成り行きなのだが、残った大国同士がお互いに対しては原爆を使用しないという無言の取り決めを結んだらどうなるだろう? この二、三の大国が原爆、そしてそれがもたらす脅威を、報復する力のない者だけに向けるとしたら? そうなったら我々人類は、かつてあった状態へと戻ってしまうだろう。唯一の違いは、権力が昔よりさらに少数の手に集中して握られ、被支配者や抑圧された階級にとって見通しがさらに希望のないものになるということくらいだ。
 ジェームズ・バーナムが『経営者革命』を書いたとき、多くのアメリカ人にとって、ドイツがヨーロッパ側での戦争に勝つというのは十分ありうることに思えたし、そのため、ロシアではなくドイツがユーラシア大陸を支配し、日本が束アジアの支配者にとどまるだろうと予測するのは自然なことだった。結果的にこれは見込み違いだったのだが、議論の大筋に変わりはない。というのも、バーナムの描いた新世界の地勢図が正しかったことが明らかになったからだ。地球の表面が三つの大きな帝国に分割されつつあり、そのひとつひとつが自足して外の世界との接触を絶ち、それぞれが何らかの方法で偽装していようがいまいが、少数による独裁政治で支配されている、という事実が現在どんどん明るみになってきている。お互いの境界をどこに引くかの交渉はいまだ続いていて、まだ数年は続くだろうし、三つの超大国の三番目、すなわち、中国が支配する東アジアは、実在しているというよりはまだ潜在的な可能性にすぎない。しかし全体としての流れは間違えようもなく、昨今の科学的発見すべてがその流れを加速してきたのだ。
 かつて我々は、飛行機が「国境を無効にした」と教えられたものだ。しかし実際には、飛行機が本格的な兵器になってからというもの、国境は絶対的に越えられないものとなった。かつてラジオは国家間の理解や協力を押し進めると期待されたが、ふたを開けてみると、むしろある国をほかの国から分離する手段になるとわかった。原爆は、搾取されている階級や人々から、反抗するための力すべてを奪い、同時に爆弾の所有者たちを軍事的均衡の状態に置くことで、この過程を完成してしまうかもしれない。お互いを征服することが不可能なため、これらの超大国は自分たちだけで世界を支配し続ける可能性が高く、そのバランスが引っくり返されるとしたら、ゆっくりとした想定外の人口学的変化による以外は、考えにくい。
 人類は自分で作った武器で自らを破滅させようとしており、そうなればアリやなにかほかの群生生物が人間に取って代わるだろうという警告を、過去四十年、五十年の間、H・G・ウェルズ氏をはじめとした人々が発し続けてきた。破壊されたドイツの都市を目にしたことがある人なら誰でも、少なくともこの考えが現実となる可能性は高いと思うだろう。それでもやはり、世界を全体として眺めれば、ここ何十年の趨勢は、無政府状態ではなく奴隷制の復活へと向かっている。我々が向かう先にあるのは、全般的な崩壊ではなく、奴隷制のあった古代帝国と同じように恐ろしくも安定した時代なのかもしれない。ジェームズ・バーナムの理論は大いに議論の的となってきたが、そのイデオロギー的含意、つまりは征服不可能であると同時に周辺国とも永遠の「冷戦」状態にある国家において、おそらくは支配的になるだろう世界観、信念、そして社会構造について、よくよく考えてみた者は未だいないのだ。
 原爆が、自転車や目覚まし時計のように安価で製造が容易なものであったなら、我々を野蛮状態へと押し戻らせたかもしれないが、その一方で、国家主権や高度に中央集権化された警察国家にも終焉をもたらしたかもしれない。おそらくはこちらが現実なのだろうが、もし原爆が金のかかる希少な兵器で、戦艦と同じくらい製造が困難なものなら、原爆は、大規模な戦争の時代に終わりをもたらす可能性が高い。その代償として我々が手にするのは、いつまでも延長されていく「平和なき平和」のだが。

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