『ナポレオン 2』より ピラミッドの戦い
--ああ、自信を持て。
ナポレオンは自らに言い聞かせた。これは運とか不運とかの問題ではない。純粋に軍事の問題だ。戦術の問題だし、兵種の、そして兵器の問題なのだ。俺は士官学校を出ている。軍事的才能も多くに認められてきた。逆にどれだけの幸運児でも、軍事音痴では勝てないのだ。
--勝利の女神など必要ない。
ナポレオンは右翼に向けた望遠鏡を覗きこんだ。四千騎は二手に分かれた。二千騎がレイニエ師団に、二千騎がドゥゼー師団に向かうようだったが、最初に交錯しそうなのは、陽動をしかけた中央デュガ師団に近い、レイニエ師団のほうだった。
馬の疾駆にひらひら絹布を泳がせながら、マムルーク騎兵は手綱を口に唾え始めた。突撃の速度を緩めることなく、かつまた両手を自由にして、巧みに武器を扱うという訓練を、奴隷として買われてきた子供の頃から積まされている。それはナポレオンも聞いていたが、両手で操作するのは弓矢ではなく、イギリス製のカービン銃になっていた。
「パラパラパラ、パラパラパラ」
伝統の騎馬突撃も、さすがに中世そのままではなかった。が、戦慄の銃声も、これだけ開けた砂漠では風に擢われ、なんだか迫力がなかった。
それが幸いしたか、レイニエ師団の兵士たちは動じなかった。銃弾も飛んできたが、遥か手前で横一線の砂を舞わせたのみだった。はん、銃身の短い騎兵銃を、そんな遠くから撃ち放して、誰を傷つけられるというのか。
鼻で笑うかたわら、ナポレオンは自信を深めた。やはり中世の騎士だ。火器の戦争を知らない。仮に銃器の扱いには習熟しても、それを用いた戦い方には通じていない。ましてやフランス軍の歩兵戦術のなんたるかなど、想像もつかないに違いない。
「だから、恐れるな。だから、逸るな。だから、慌てるな」
ナポレオンは自分に言い聞かせるように呟いた。
望遠鏡の向こう側ではカービン銃が仕舞われていた。くるりと回して、太腿の下に敷くと、マムルーク騎兵たちは今度は短銃を構えた。ろくろく狙いもつけず、パンと早々に撃ち放せば、二千と数を連ねたところで、やはり音だけの武器に終わる。
肩越しに放り投げれば、その短銃を砂から拾い上げるのが、走って追いかけてくる各々の従者である。すぐさま弾龍めにかかるわけだが、その間にマムルークは楯子で作られた槍を投げる。さすがに距離がわかっている。こっちのほうが恐ろしい。自由になった右腕に、半月刀が白く光を閃かせれば、フランス軍のほうもそろそろである。
「五百歩の距離まで待て」
と、ナポレオンは命じていた。フランス軍の一七七七年型マスケット銃は、射程距離が三百メートル、銃の調子や実包に詰められた火薬の不備を加味しても、百五十メートルは有効射程距離とみなすことができる。だから、五百歩の距離だ。そこまで敵を引きつけてから、一斉射撃を浴びせるのだ。
「撃て」
ナポレオンの呟きに合わせたように、パラパラと銃声が空に響いた。硝煙と砂埃に視界が遮られたが、方陣作戦の成功は疑うまでもなかった。一キロほどの距離を置いて、なお悲鳴が聞こえてきたからだ。地鳴りのように感じられたのは多分、突進してきた馬が次々と横倒しになったのだ。
「撃て」
ドゥゼー師団も射撃に出ていた。同じように十分に引きつけてからの一斉射撃で、その効果の程は風で煙が流れたあとの、レイニエ師団の前面にみる先例に確かめられる通りだろう。
黄色い砂上に、人が、馬が、寝そべっていた。最初の射撃で全体の一割ほどが倒れたろうか。まだマムルーク騎兵は多く残っている。先駆けの一団とて、皆が撃たれたわけではない。のみか、銃弾なにするものぞと突撃を続行して、いよいよ方陣の最前列に肉薄する。が、それまた狙い通りなのだ。
驚くべき速さのアラブ馬が、フランス軍の戦列を前に急停止だった。馬だからだ。飛び越えられない壁を前にすると、足踏みする習性があるからだ。
城壁、防壁は無論のこと、それが人間の壁であっても、獣は躊躇してしまう。高さは越えられるとしても、幾列にも分厚く奥に並ばれるなら、もう跳躍はあきらめる。
勢いに乗った騎手の身体は、それでも急には止まらない。振り落とされる格好で、落馬が相次いでいた。なんとか凌いだマムルークも、自ら下馬して、いよいよ半月刀を振りかざす。が、こちらで待ち受けるのは、同じように刀剣を高く構える騎士ではない。
それどころか、低く構える。後列の銃撃を許すために、地面に片方の膝をついているからだ。その低い姿勢から、銃剣をずらりと横に並べるのだ。イスラムの騎士に迫られても、それを皆で一緒に突き出すまでである。
ナポレオンの位置まで悲鳴が聞こえてきた。血を流したマムルークの、あるいは怒りの咆嘩たったか。
個の武勇と集団行動の戦いになっていた。中世と近代の戦いといってもよい。身ぶり手ぶりで挑発し、一騎打ちを所望するマムルークもいたが、それも突撃を迎える後列の一斉射撃で、フランス軍に屠られるだけだった。
--どうだ。
手柄を立てることができたのは、至近距離で撃たれたために、死してフランス軍の方陣に倒れこんだ馬だけだった。戦列の崩れ目から、まんまと方陣のなかに進んだマムルークもいたのだが、それも回れ右した内側の兵士たちに討たれるか、あるいは捕虜に取られてしまうだけだった。
ピラミッドが見下ろす砂漠に、人馬ともども死体が山になっていた。レイニエ師団、ドゥゼー師団、どちらの前面も血煙で空が薄ら赤くみえる。
フランス軍の「生ける要塞」には攻め手がないと観念したか、残り半数ほどのマムルーク騎兵は、ほどなく退却してしまった。
両師団の間を抜けても、やはり一斉射撃を見舞われるだけなので、西には行けない。もとより東はナイル河で、はじめから退路は断たれている。半分は北のエムバベ村に入り、あとの半分は河沿いを南下して、ギザに逃げこんだようだった。
まずは完勝である。なるほど、この俺が負けるはずがない。ジョゼフィーヌと離婚すると、心を決めたとたんに、いきなり負けが込むはずもない。だから、あの女は勝利の聖母でも、幸運の女神でも、なんでもないのだ。これまでも俺の勝利は俺のもので、あの女など関係がなかったのだ。