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皆、「居場所」を探している

先週に引き続いて、未唯がやって来た。動物病院の看護師を永年やって来た。先が見えている。就職したときに、ネットで生まれたばかりのりくくんを見つけてつれてきた。 #りくくん
今週、OCR化した本 #新刊書
 居場所探し:『失われた居場所を求めて』『まちの居場所』⇒皆、居場所を探している
 社会を変える:『ソーシャルワーカー』『ソーシャルアクション! あなたが社会を変えよう!』⇒「社会を変える」の定義が間違っている。「常識」を変えること
 AIとBIは相性がいい:『人工知能と経済』
 シリアは世界中に広がっている:『シリア 震える橋を渡って』⇒トルコとかレバノン以外にコペンハーゲンが拠点になっている
 キーワードの探し方:『教え学ぶ技術』⇒17文字で表現する世界
 フランス革命:『革命を戦争のクラシック音楽史』 ⇒生ちゃんは好きだけど、「民衆の歌」は嫌い! フランス国民は何を得たのか! ボノジノにしてもピラミッドにしても。

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シリア インタビュー

『シリア 震える橋を渡って』より
二〇一二年秋のある夜、私はヨルダンの首都アンマンにある風通しの良いバルコニーでリマと出会いました。二〇一一年まで、リマはシリアでテレビの脚本家として働いていました。彼女はバッシャール・アル=アサドの権威主義体制に反対する活動に積極的に関わるようになり、その後、全国各地で抗議活動を指揮する地方ネットワーク委員会のスポークスパーソンを務めました。その活動により、彼女は政権に数日間拘束されてしまいましたが、釈放後再び仕事に戻りました。政権の諜報機関のエージェントは、より恐ろしい刑罰を科すと彼女を脅し、追跡してきました。彼女は隣国のヨルダンに逃れ、そこで私は友人にリマを紹介してもらったのです。リマは、危険を冒して活動を続ける大胆な女性というイメージとはかけ離れた、とても繊細な声で語りましたが、亡くなった友人たちや、いまだ多くの血を流し続ける祖国のことなど、彼女の肩に重くのしかかる悲しみについては触れませんでした。彼女の革命に対する想いは揺るぎないものでした。「シリアの人々は、路上に出て声を上げた瞬間に政権を打ち破ったのです」と彼女は言いました。「もう二度と誰にも私たちの夢を奪わせたりしません」。
ヨルダンの首都が広がる丘を見下ろしながら交わしたその会話から五年近くの間に、私は何百人ものシリア人男性、女性、そして子どもたちと知り合いました。その人々の中には主婦や反乱軍兵士、髪の毛をシェルで固めた若者や、パリッとしたシャツに身を包むビジネスマン、信念を持った活動家、そして戦乱に巻き込まれた多くの普通の家族たちがいました。本書執筆時点でのシリア難民の大多数がそうであるように、私の出会った人々のほとんどはアサドの支配に反対していました。シリアの人々が祖国を出て行かなければいけなくなった原因は、時の経過とともに変わっていきましたが、紛争初期の数年間に国外へ避難することのできた人々の多くは、アサドの支配に抗う個人や地域に対して行われた、政権による空爆や恐ろしい刑罰から逃れるために国を後にしたのでした。
この本は、シリア人のほんの断片に焦点を合わせたものに過ぎません。私がインタビューした人々の言葉は、シリア国内の複雑に入り混じる宗教や政治思想を持つ人々全てを代弁しているものではありませんし、特にアサド政権を支持している人の言葉ではありません。しかしわずかな断片とはいえ、自らの言葉で語られるそれらの人々の物語は、滅多に耳にすることのできない貴重なものです。世界中の政治家やコメンテーターが、シリア人を哀れな犠牲者、保護の必要な集団、もしくは非難すべき急進派、抑え込むべき恐ろしい脅威などとして語っています。世界的問題としてシリアを語るとき、それはまるで吹き荒れる旋風のような言葉の応酬となり、実際にそこに生きる人間としてのシリア人の声に耳を傾ける機会を見つけるのは難しくなってしまうのです。
この本は、そういった生きた声を届けるものです。中東を専門とする政治学の教授として教鞭を執っているノースウェスタン大学で、二〇一一年に繰り広げられた〝アラブの春〟の様子をパソコンのスクリーンを通して目にしたとき、私はシリア人の声を記録しようと思い立ちました。二〇年以上も中東地域で暮らし、その研究を続けてきた私は、陽気な路上の抗議者たちや、反抗的なスローガン、国から国へと伝わりていく、人々の連帯の織りなす感動的な川来事の虜となりました。他の人々と同様に、私はこの革命の波がシリアに届くことはないと思っていました。大勢の国民を動員したデモが発生した他のアラブ独裁政権と比較すると、シリアの一党警察国家体制はより抑圧的で、その軍隊はより深く体制と結びついており、市民社会の力は削がれていました。バッシャール・アル=アサドの政権は、国内受けのよい外交政策や、様々な福祉を提供する国家システムを継承し、一般的には国民の尊敬を集めている若い大統領がいるという強みを満喫していました。チュニジアやエジプトといった国々は、その大部分が同質的社会で、市民のほとんどは政府から疎外されていました。しかしシリアにはモザイクのように宗教的少数派が入り混じった多様性があり、国民は、アラウィー派という少数派出身である大統領を支持していました。それにもかかわらずシリア人たちは路上へ出てきたのです。怪我や逮捕、死ぬことさえありうる恐怖をものともしない何十、何百の群衆はすぐに膨れ上がり、何十万ものシリア人たちが意を決して抗議の声を上げたのです。リマの言葉を借りて言うならば、彼らは思い切って夢を描いたのです。
これらの抗議活動に興味を持ち、より近くで観察するにしたがい私は、人々が危険を冒してまで抗議活動に参加することの意味を知りたいと願うようになりました。この芽生えたばかりの民衆蜂起がどのように人々を変えてきたのか、そして同様に、人々はどのようにして歴史の流れを変えてきたのか理解したいと思うようになりました。シリア国内は危険な状況だったので、私はシリアから避難してきた数百万の人々の中から体験談を聞かせてもらうことにしました。二〇一二年の夏、私はヨルダンに渡航しました。そこで私は六週間かけ、可能な限り、避難してきたシリアの人々にインタビューをしました。二〇一三年、私は再びヨルダンに戻り、その後トルコでもニカ月間を過ごしました。そこで私は様々な出身地やバックグラウンドを持つシリア人にインタビューすることができました。二〇一五年と二〇一六年には、私はトルコでさらに数力月、レバノンで二週間、そしてドイツ、スウェーデン、デンマークに三ヵ月滞在しました。シリア人を見かけたら、私はどこでも取材をお願いしました。シカゴの自宅から自転車で行ける距離に新しく引っ越してきた家族や、学術会議などで訪問したドバイで出会った何十年もそこに住んでいるシリア人など、多くの人に出会いました。インタビューのたびに私は、より様々な経験を持つシリア人のコミュニティと繋がり、シリア紛争の記録となるこの本が生まれることになったのです。
その過程で私は、難民たちのコミュニティと関わることに没頭しました。ある家族と何週間も一緒に寝泊まりし、カフェラテを飲みながら夜更けまで話し込み、病院やリハビリテーションセンターで負傷者たちの傍らに座りました。埃っぽい難民キャンプや、不潔な非公式居住区、避難所となった体育館などを訪問しました。トルコとシリアの国境で中学生にジャーナリズムを教えたり、ペルリンの市街地で服を配ったりといった様々なボランティア活動も行いました。こういった場所や、他の数えきれないところで、子どもたちと遊んだり、食器を洗ったり、写真やビデオを撮ったり、タバコの副流煙を吸い込んだり、限られた予算の中で調理される素晴らしい食事をともにしたりしました。そして私は可能な限り、出会った人々にその個人的な物語を聞かせてくれるように頼みました。
それらのインタビューは、二〇一一年にシリアで民衆蜂起が起きる前、最中、そしてその後の期間について、それぞれの個人が自由に自らの人生を語り、再考するというものでした。それは二〇分程皮の会話やグループディスカッションであったり、数日にわたり個人の人生を記録したり、ときには数年後に別の大陸でインタビューの続きを行ったりといったものまで様々でした。そのほとんどのインタビューを私はアラビア語で行いました。アラビア語は、流暢に話せるようになるまでに、私が人生の大半を費やして学んだ言語です。おかげで通訳に頼っていたら不可能だったであろう、インタビューする側とされる側の密接な関係を築くことができました。その関係性は長く続いていく友情の基礎となり、実際に今でも私はこの本に登場する人々と連絡を取り合っています。
インタビューを本としてまとめるためには、ふたつの工程を必要としました。ひとつ目は音声録音されたインタビューを書き起こすことです。その後ほとんどの場合、そのインタビューをアラビア語から英語に翻訳する必要がありました。これらの時間を要する作業を現実的なスケジュールで終了させるために、私は二〇人以上の助手を雇い、訓練し、監督しました。それから数カ月かけて、私自身で徹底的にその文章を精査しました。これはインタビュー当時も感じたことですが、その編集作業を行いながら、それぞれの個人の物語が、これほどにもひとつのまとまった大きな物語と密接に繋がり、溶け合っていくものなのだろうかと感銘を受けました。ひとつひとつの物語の中に見られる明らかな一致が、個々の人生がいかに同じ段階を経てきたのか、そしていかに同じような困難に直面し、取り組んできたのかということを暴いていったのです。たとえインタビューに応じてくれた方々が同意しなくとも、それらの証言は、権威主義から革命へ、そして戦争、亡命へと続くシリアの歴史の軌跡の中に、個々人の歩みがどれほど深く刻印されているかということを明らかにしました。
私はその軌跡をこの本の軸に据えることにしました。そして読者がその軌跡を確実に歩んで行くための案内となるような証言を選り抜き、抜粋しました。私はその言葉をシリア人自身の言葉のままであるように注意して選びました。その証言は、決して個人的な逸話を語るだけではなく、私が何かを追記する必要もないほどに、いったいシリアがどのように変わっていったのかという分析的な洞察も与えてくれます。とはいえ、それはこの本に物語が存在しないという意味ではありません。物語は、順番に語られるそれぞれの証言のはざまに横たわっているのです。それは先立つ証言に基づいて成り立ち、後に続く証言へと繋がり、この複雑な背景を持つ紛争の新たな一面を浮かび上がらせるのです。その物語を前に進めていくために私は、特定のパッセージを選ぶ際には、代表性と表現力というふたつの基準を用いました。代表性という面では、重要な出来事に関するものや、何度も語られる中心的な問題、そしてこれまでにすでに出版、発信されてきた、膨大な量のシリアに関する情報と共鳴するものを選びました。これらの証言に現れる共通性は、この本の中で語られる個々の証言や体験が、より広い範囲のシリア人にもあてはまるものだという確信を私に与えてくれました。表現力という観点からは、感情的な衝撃や、詳細な人間模様を伝える証言を選びました。何か起きたか、それがなぜ起こったのかと事実を説明するだけでなく、それを経験したのはまさにそこに生きていた人間なのだと思い出させてくれる、そんな強い印象を与える証言に強く惹かれました。
私はまるでモザイク画をつくるように、インタビューを抜粋し、まとめあげる作業に取り組みました。それぞれの証言は貴重な原石のようでした。それぞれの原石は独自の宝石のような魅力を放っています。私の役割は、それがひとつの欠片であるときよりも、全体として組み合わされたときに、より偉大な絵を構成するように配置することでした。宝石をカットするのは繊細な仕事でした。インタビュー全文を載せようとすれば、何十ページにも及ぷ可能性があり、しかもその話の流れは、あちこち自由に逸れてしまうものでした。人々はときに現在の出来事について語り始め、それから遠く離れた記憶に飛び、より最近の話に戻り、それから一周して、それまでに語られた経験を理解するための重要な出来事を加えたりします。そういった証言の長さを調整し、読みやすく編集する際に私が心がけていたことは、文字通り彼ら自身の言葉をきちんと伝えるということに加え、その言葉の裏に比喩的に潜んでいる、彼ら自身の本質的な部分に耳を澄ますということでした。そういった声をきちんと捉え表現するには、時として数ページを要することもありました。逆に、その生きざまから発せられる力強いエネルギーを表現するのに、わずか数語で済む場合もありました。この本で紹介される、様々な証言の長さの違いは、人々の豊かな多様性を示しているのです。

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ベーシックインカムとは何か?

『人工知能と経済』より 再分配--ベーシックインカムの必要性
ベーシックインカム導入の目的
 「ベーシックインカム」(BI:Basic Income)は、収入の水準によらずにすべての人々に無条件に、最低限の生活を送るのに必要なお金を一律に給付する制度である。例えば、毎月7万円のお金が老若男女を問わず国民全員に給付される。世帯ではなく個人を単位として給付されるというのも重要な特徴といえる。もちろん、月7万円が最低限の生活を送るのに十分な額であるか否かは議論の余地がある。
 BIは社会保障制度の一種だが、この言葉は公的な収益の分配、つまり「国民配当」という意味でも使われる。例えば、イランの「現金補助制度」や「アラスカ永久基金」は、政府が石油などの天然資源から得た収益を国民に分配する制度であり、これらもBI的な制度として位置づけられる。ただし、最低限の生活保障を目的にしているわけではないので、本章ではあくまでも「BI的」ということにする。
 国民配当としてではなく、社会保障制度としてBIを導入する目的は主に2っある。1つはすべての人々を貧困から救済すること、もう1つは社会保障制度を簡素化し行政コストを削減することである。前者の目的は左派(社会主義者)が強調する傾向にあり、後者の目的は右派(新自由主義者、リバタリアン)が強調する傾向にある。左派はBIのもつ「平等性」を、右派は「自由性」を重視しているということもできる。したがって、左派のBI提唱者は、既存の社会保障制度を維持したままBIを導入すべきだと唱えることが多い。それに対し、右派の提唱者は、既存の社会保障制度を全廃したうえでBIを導入すべきだと唱えることが多い。右派は既存の社会保障制度をBIに一元化すべきだと主張しており、左派はその動きに警戒し、弱者の暮らしを破壊するものとして反対しているのである。そうすると、同じ「ベーシックインカム」という名の下に、全く異なった社会保障制度を目指しているということ`になる。
 ただしBI導入の際に、残すべき社会保障制度と廃止すべき社会保障制度があり、取捨選択すべきだという立場もありうる。筆者は、左派と右派の中間に位置するこの立場をとっている。これは、自由と平等はどちらも重要であり、可能な限りこれらの両立を目指すべきだという考えにもとづいている。取捨選択の基準については後述する。
普遍主義的社会保障
 BIは「普遍主義的社会保障」と位置づけることができる。その点を強調してBIを「ユニバーサル・ベーシックインカム」(UBI: Universal Basic Income)ということがある。
 BIのもつこの普遍性が前述した自由性と平等性をもたらしている。生活保護が「選別主義的社会保障」であるがために、自由と平等の両方を損ねているのとは対照的である。
 日本の生活保護は、憲法25条で定められた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するための制度のはずだが、実際にはそのような役割を果たしていない。いわゆる「水際作戦」がとられて、病気を患っている場合ですら、生活保護の窓口という水際で申請を拒絶されることがある。申請が受理された場合でも、資力調査(ミーンズテスト)が行われ、申請者本人ばかりか家族や親類の収入や貯蓄まで調査され、基準をクリアしなければ実際に受給資格は得られない。生活保護の給付を受けられないものと最初から諦めて、申請しない人も多くいる。そのため、生活保護基準以下の収入しかないのに給付を受けていない世帯が、日本では特に多く、捕捉率は2割といわれている。つまり、8割の人は給付を受ける権利があるのに実際には受けていないのである。
 それに対し、BIの給付にあたっては、労働しているかどうか病気であるかどうかは問われない。金持ちであるか貧乏であるかも関係ない。全国民があまねく受給するものだから取りこぼしがなく、誰も屈辱を味わうことがない。それゆえに、BIは普遍主義的社会保障といえるのである。
 BIではまた、貧困の理由が問われることがない。フリードマンは、もし目標が貧困を軽減することであるなら、われわれは貧困者を援助することに向けられたプログラムをもつべきである。貧困者がたまたま農民であるなら、彼が農民だからではなくて貧しいからということで、彼を援助すべき十分な理由がある。すなわち、特定の職業集団、年齢集団、賃金率集団、労働組織もしくは産業の構成員としてではなく、人びとを人びととして援助するようにプログラムは設計されるべきである。と述べている。農民が貧しいから農民を扶助しようとか、母子家庭は貧しいから母子家庭を扶助しようといった考えは間違っているという。そうではなく、政府が貧困を減らそうとするならば、理由を問わず貧しい者をすべからく扶助すべきだとフリードマンは主張している。
 人は母子家庭や失業といったさまざまな理由で貧困に陥る。現在、こうした理由の明確な貧困に対処するために、児童扶養手当(いわゆる母子手当だが2010年からは父子家庭も対象となっている)や雇用保険が制度化されている。しかし、政府が認めた理由以外で貧困に陥った場合、こうした救済を受けることができない。だが、すべての人が給付の対象となるのであれば、そういった制度は不要になる。そして、BIを導入し既存の社会保障制度を廃止することができれば、社会保障に関する行政制度は極度に簡素化される。社会保障に費やされる事務手続きや行政コストも大幅に削減される。
 ここで注意する必要があるのは、すべての人々を扶助するといっても、BIはあくまでも貧困に対処するものであり、それ以上のものではないということである。
 国民の生活を守るために政府が国民にお金を給付する制度である「所得保障制度」は、目的のみをみるならば、
  ・貧困者支援(生活保護、雇用保険、児童手当、児童扶養手当)
  ・障害者支援(年金保険、介護保険、医療保険、特別障害者手当)
 の2つに分けられる。小沢修司はr福祉社会と社会保障改革』で、社会保障を「現金給付」と「物的給付」とに分類しているが、それらはおよそ本章における「貧困者支援」と「障害者支援」に対応している。
 失業や母子家庭は、「貧困」を招くものとして考えられる。他方、老齢や病気、寝たきり、身体障害は「貧困」を招くばかりでなく、医療費の増加やそれ自体の労苦も問題となるので、「障害」(ハンディキャップ)として分類するのが適当だろう。
 BIは、貧困者支援のすべてに取って代わることができるが、障害者や傷病者の支援の代わりにはなりえない。したがって、BIを導入した場合でも、後者についてはこれまでどおりの制度が維持される必要がある。個人的にはもっと手厚い支援がなされるべきだと考えている。これが右派と左派の中間的な立場からBIを提唱している筆者の展望である。
メリットとデメリット
 BIの最大のメリットは、上記の目的と重なっているが、すべての人々を貧困から救済できることと社会保障制度を簡素化し行政コストを削減できることである。
 前述したように現行の生活保護は、受給資格のあるはずの人の2割程度しか受給できていない。つまり、8割の人々は貧困に陥っているにもかかわらずそこから脱却できずにいる。生活が困窮していると、「労働環境が劣悪な企業に入っても辞められない」「病気を患っていても働き続けなければならない」「暴力を振るう配偶者と離婚できない」「十分な期間育休をとることができない」といったさまざまな生活上の問題が発生する。
 BIのある社会では、これらの問題をある程度解消することができる。実際に、1974年カナダのドーフィンという町で行われたBIに関する実験では、ドメスティック・バイオレンスが減少し、育休期間が長くなることが確かめられている。そればかりか、「住民のメンタルヘルスが改善される」「交通事故が減少する」「病気や怪我による入院の期間が大幅に減少する」「学生の学業成績が向上する」といった思わぬ効果も現れた。
 一方BIのデメリットして最も頻繁に取り上げられるのは、労働意欲の低下だ。労働しなくても最低限の生活が営められるならば、多くの人が労働しなくなるのではないかということである。これは、BIをめぐる最も大きな誤解でもある。まず、「BIが導入されたら労働意欲は低下するか?」という質問に対して、YESかNOで答えるべきではないだろう。その答えは、給付額に依存する。一般には給付額が多いほど労働意欲は低下するが、少なければそれほど低下しない。月50万円も給付されたら、多くの人々が仕事をやめてしまうだろう。実際、筆者が30人の学生にアンケートをとったところ、全員が月50万円の給付が一生保障されるならば、就職しないと解答した。他方、これまで行われたBIに関する実験では、月当たり日本円にして、3万円から15万円程度の給付がなされてきたが、その程度では労働時間はわずかしか減ることがない。先に挙げたカナダのドーフィンで行われた実験では、全労働時間が男性では1%、既婚女性では3%ほど減少したに留まった。しかも、理由の多くは、子供と過ごす時間を増やすことや十代の若者が家計を支えるための労働をしなくて済むということだった。要するに、社会的に望ましいと思われるような形での労働の減少なのである。
 BIを導入すると人々が堕落するというのもまた誤解といえる。西アフリカのリベリアでは、スラム街に住むアルコール中毒者や麻薬中毒者、軽犯罪者に対し、200ドル(約2万円)を給付する実験が行われた。彼らは、そのお金をアルコールや麻薬ではなく、食料や衣服、内服薬などの生活に必要な商品に費やしたという。
 このように、BIにまつわる「労働意欲を失う」「人々が堕落する」という2つの大きな誤解を解くことができれば、BIの実現に向けて私たちの社会は数歩前進することができるだろう。

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「まちの居場所」となる公共図書館とは

『まちの居場所』より 「まちの居場所」としての公共図書館
かつての図書館は、本というモノのための場所であり、そこから直接恩恵を得る人々のための場所であった。しかし今では、情報を享受し、共有し、そして伝達する場所に変貌しつつある。そして、そこでは生身の人間の存在や役割が大きくなっている。つまり、デジタル化が進み、人の存在や営みが見えにくくなった現代社会の中で、人と知、知と知、そして人と人の関係が織りなす場所として再編された公共図書館に、自らの居場所を見いだそうとする市民が増えていると言える。これは、公共図書館がソーシャル・キャピタルの形成拠点の一つになりつつあると言い換えられるかもしれない。公共図書館が「まちの居場所」となっている所以である。
また高い公共性を有した空間、すなわち公共空間という点から考えると、公共図書館があらゆる市民の滞在場所となり、また市民同士をつなぐ役割を果たせるのは、ユネスコの公共図書館宣言にもあるように、何人も拒まず、無料で利用することが保証されているためである。これは、学校は子ども、病院は患者というように、実際には特定の利用者やニーズに応えるべくカスタマイズされた他の公共施設と大きく異なる点である。斎藤純一が指摘する公共性が備える三つの側面(Open、Common、Official)を援用すれば、非排他的(Open)で「知」という共有(Common)したい関心事や情報源などがあり、そこへのアクセスを制度上も保証する(Official)公共図書館は、まさに公共空間としての高い特性を備えている場所である。
わが国の地域社会における居場所づくりは、孤立化や無縁化が進む地域社会に対する一つの対応策であり、各地に「コミュニティカフエ」などが生まれているのはその具体例と言える。前書では、主宰者である「あるじ」の存在や主宰者主導の比較的小規模の空間づくり、また個別の事情に合わせた柔軟な運営を丁寧に取り上げた論考が並んだ。しかし近年では、本稿が取り上げた事例をはじめ、多くの市民にとっての「まちの居場所」となっていると感じられる公共図書館も少なくない。さらに最近では、同様な趣きや雰囲気を持った場所が他の公共建築、例えば児童館や学校、高齢者施設などでも確認できるようになってきた。公共建築を「まちの居場所」とすることは、これからの重要な計画目標になると思われる。
しかし、公共図書館が高齢者や親子の居場所となっている場合、その位相はコミュニティカフエのような利用圏が徒歩圏であったり、顔見知りの人々の居場所、つまり地域コミュニティ単位の居場所とはやや異なる。コミュニティカフエはおもに個人や組織が目を向けるCommonな課題に立脚しながら開設され、運営や空間づくりが行われているが、公共図書館はOpenを旨とするOfficialな運営や空間づくりが幅広い市民の来館と滞在を担保し、図書に限らない情報媒体を介した知的な活動や、それが行われる場所自体の持つCommonとしての特性が、人と公共図書館、もしくは人やコミュニティ同士をつないでいる。
よって、Officialの今日的なあり方が、公共図書館がいかなる公共空間になれるか、そして市民の居場所となりえるかの鍵を握っている。とはいえ、この三つの側面はそれぞれ独立しているわけではない。問われるのは三つのバランスであり、ひいては、「これからの公共空間はだれのためにあるべきか?」という問いかけでもある。このことは公共図書館だけでなく公共建築が「まちの居場所」となるための、また公共建築を市民や地域のニーズに応えながら「まちの居場所」へと育んでいくうえでの課題である。

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