未唯への手紙
未唯への手紙
脳の習性を知る
『脳に「ノー」と言えればスポーツパフォーマンスは上がる!』より
脳は主語がわからない
脳は主語が理解できません。
私たちが日常何気なく使っている言葉や文字は、私たちの脳に大きく影響しています。
脳は、大脳新皮質と大脳辺縁系に大きく二分できます。
大脳新皮質は理性や知性の脳として、大脳辺縁系は本能や感情そして生命を司る脳として機能しています。
人間特有の高度な精神活動を司る大脳新皮質は「主語」が認識できるのですが、大脳辺縁系は「主語」が認識できません。よって新皮質から送られてくる情報を丸ごと信用してしまう習性があります。
例えば、人の悪口を言ったとします。脳は区別がつかないので、自分の脳は、自分か悪口を言われた状態になります。つまり、他人の悪口を言うと、そのまま自分に対して悪口を言っていると脳は認識し、自分の心も同様に傷つけている状態になります。
「悪口を言う」ということは、他人を攻撃しているつもりでも、実は自分を攻撃しているのと何ら変わりはないのです。知らず知らず自己嫌悪に陥り、いつしか他人から攻撃をされているような感じがします。そして「あの人から、こんなことを言われているかも知れない」と被害妄想的な思考に取り憑かれてしまい、他人との付き合いが縁遠くなる人もいます。
心当たりのある人は、十分に気を付けてください。もし、心当たりのある人は、今まで以上に他人を認め、些細なことでも褒める言葉を意図的に使用していくよう心がけてください。自分が変わることにより、自分の周りの人も必ず変わってくるはずです。
スポーツの世界においてもこのイメージを大事にした考え方があります。
それを「ミラーイメージの法則」と言います。
この法則は、読んで字のごとく、自分のイメージが鏡に映るように自分に返ってくるという考え方です。
ここ一番、力を発揮したい場面で、普段のイメージがそのままパフォーマンスとなって現れてくるということです。
例えば、ゴルフの大会中に相手選手が数メートルのパットを沈めたら逆転もしくはプレーオフといったシーンがあるとします。その時に自分か描いたイメージが、自分自身の同様のシーンにおいても、同じように脳裏にイメージ化されてきます。人間はイメージした通りにしかパフォーマンスを表現することができません。マイナスはマイナスに、プラスはプラスにしか現れてきません。
「外せ!」と願うのか「良いパフォーマンスを!」と願うのかでは、違う結果を導いてしまうということです。
すべて、自分の心がけ次第なのです。
真似る
昔から「真似るは、学ぶ」と言われてきました。
間違いではないのですが、違うと言えば違うかもしれません。
一つは意識の違いです。「学ぶ」は、必ず意識が働きますが、「真似る」は無意識的行動です。しかし、「真似をしよう」と意識した瞬間「学ぶ」に自動的に変換されます。ただ言葉にすると「真似る」なので、勘違いを起こしやすいのです。
私たちの脳の中には「ミラーニューロン」という神経細胞があります。
ミラーニューロンは、1996年イタリアにあるパルマ大学のジャコモ・リッツォラッテイらによって発見されました。当時は遺伝子に並ぶ世紀の大発見だとも言われました。
ミラーニューロンは、目の前にいる人の言動を脳内でシミュレートする細胞です。「ものまね細胞」「共感細胞」とも呼ばれています。
私たち人間は日常生活の中で様々な行動をします。 トイレに行く、食事をする、頭を掻く、泣く、笑うなど、これらの行動はすべて自分の意思で行っていると思っています。しかし、実はミラーニューロンによって、無意識的に他人の行動をコピーしているのかもしれません。
例えば、「あくびがうつる」「友人がトイレに行くと、自分もトイレに行きたくなる」「人が何か食べていると、お腹がすいてくる」「泣いている人を見ると、涙が出てくる」「笑っている人を見ると、楽しくなってくる」「乱闘シーンの映画を見ると、主役同様自分も強くなった気がする」「コンサートに行くと、次の日その歌手の髪型にしてしまう」など、思い当たることはありませんか。
これらはすべてミラーミューロンの作用なのです。
他人の喜怒哀楽を自分のものとして捉えてしまうのです。
もう少し踏み込んだ話をしますが、怒っている人を見ると、嫌な感じを受ける人がいて、「あの人いつも怒っていて嫌だよね~」と感じているとします。
実はこれもミラーニューロンが機能している結果反応なのです。怒っている人の顔を見ると、自分の脳が自分も怒っている状態にコピーされ、自分の脳内も怒っている状態になってしまうのです。そのため、脳内物質が出て嫌な気分になるのです。他人のせいで、嫌になっているのでなく、自分か自然にそうなっているだけなのです。
「そんなことはない、私が嫌な思いをするのは、すべてあの人のせいだ」と言い張っても構いませんが、自分の周りをよくみてください。全員が、嫌な気分になってはいないはずです。嫌になっているのは自分だけです。ミラーニューロンにより、自分の脳が侵害されたとしても、それをコントロールする力がなければ、いつも嫌な思いをするのは自分だけということになります。
不思議な話ですが、これも自分の脳における癖なのです。
そういう意味では、外部情報や外部環境に即座に反応しない「鈍感力」を身に付けることが、人間社会の中で生きていく上で必要な力なのかもしれません。
笑顔
こんな実験がありました。
普通に本を読むグループとマジックを口にくわえて本を読むグループとでは、口にマジックをくわえながら本を読むグループのほうが、普通に本を読んだグループより、「本が面白かった」という結果となったのです。その答えは簡単です。「口角が上がっている」からです。違いはそれだけです。
人間は口角を上げて笑っている状態を意図的にっくることにより、脳が顔の表情(筋肉)から楽しんでいると読みとり、この本は面白い本であると解釈してしまうのです。
口角を上げた結果、脳内にドーパミンが放出され、その影響を感じているだけなのです。
「え~っ」と思われるかもしれませんが、私たちは自分の状態を自分の意思では決められないケースが大半だということです。
私たちは知らず知らずに「結果」や「状況」によって自分の状態を無秩序に揺さぶっているのです。逆に利用するケースもあります。ストレスを抱え落ち込んでいる状態の時に、「温泉に入る」「音楽を聴く」という行動です。この行動は、先はどのマジックをくわえて楽しくなるというのと同じなのです。自分の身体を通じて外部の情報を取り入れ、脳内状況を調整しているだけなのです。違いがあるとしたら、自分の行動に目的・意図があるかないか、効果・成果を意識できているかどうかということです。
人生は作話
私たち人間は、自分の脳が創りだした物語の中で生活しています。「えっ~!」と思われるかもしれませんが事実です。
例えば、食事をする、寝る、歯を磨く、スポーツをする、仕事に行く、トイレに行く、カラオケに行く、転ぶなどなど、自分の行動のほぼ大半、いやすべてが脳による作話(物語)で出来上がっています。ある意味その集大成が「自伝書」なのかもしれません。
例えば、「食事」です。生きていくためには栄養を摂取する必要があります。
「これが作り話? 食べることは本能だから自分自身ではどうすることもできないだろう」という人もいるかもしれません。しかし、考えてみてください。生きるためだからと食事をした結果、肥満が原因で死に至るというケースがあるのはなぜですか。さらに掘り下げていきます。自分が食べている食事は、健康に必要なものとして摂取していますか。それとも好き嫌いで食事内容を決めていませんか。
実際、生きるために必要なエネルギーである「栄養」を摂取していないのに体調が良い人もたくさんいます。その行為を「断食」と言います。睡眠も同様です。長生きをしている人の平均睡眠時間は7時間30分です。
「では、あなたの睡眠時間は何時間ですか?」
毎日7時間30分を確保するのは困難です。自分の都合により、日によって睡眠時間はまちまちではないでしょうか。これも人間という生き物の本能で睡眠時間を決めているのではなく、自分が決めていることなのです。
朝起きて、学校に行く、仕事に行くのも自分が創りだした作話の中での行動です。
「自分か仕事に行かなければみんなに迷惑をかけるし、絶対に休むわけにはいかない」と言いながら、風邪を引いた途端に、「休み」を選択します。「風邪を引いたのだから、みんなわかってくれるだろう」と自分の中で処理します。すべて個人の頭の中で創られた作話なのです。
作話は「未来思考」と「過去思考」とに二分されます。
私たちの行動は、計画通りの行動と行き当たりばったりの行動かのいずれかです。しかし、行き当たりばったりの偶然的な行動にせよ、今までの経験や知識が生み出したものであることに違いありません。人の意見に従いながら行動するのも、従わず行動するのも自分で決めた選択的行動なのです。
「過去思考」は過去の経験や知識を生かして行動することです。私たちの行動の大半はこの「過去思考」によるものと考えていただいていいかと思います。しかし問題もあります。過去の経験(良い経験や悪い経験)に意識を戻してしまい、今するべきことに集中していないことです。「あの時こうすればよかった」と過去にとらわれてしまい、今するべきふさわしい決断・行動ができずに無駄な時間を過ごしてしまうことです。そして怖いのは、無駄な時間を過ごしていることに本人は全く気が付いていないことです。
「未来思考」の行動は「夢や目標設定」です。あらかじめ自分で描いたシナリオ通りに行動していることです。「過去への行動」は「後付け(理由付け)」です。自分のとった行動の理由を探す行為です。「なぜ、自分はそんな行動をとったのだろうか?」と振り返りながら、「たぶん、○○○の理由だからだわ~」と自分に言い聞かせます。他人が「いいえ、コ○○だったからだよ~」と助言したとしても、「いいえ、私はこう思ったから○○○したのだから」と聞く耳を持ちません。結局は、自分の納得(精神的安定)を優先させることが条件となります。自分のとった行動の意味に自分自身で納得したいのです。理由としては後付けになりますが、自分のとった行動は変えることができません。しかし、その理由は、後で変更可能なので、自分が納得するまで、自分がとった行動の理由を幾度となく探し続けます。
他人に、社会に、依存した生き方をしている人、これも自分の作話なのです。1回しかない自分の人生ですから、「24時間、365日」すべて自分のために時間を使ってみてはいかがでしょうか。
脳は主語がわからない
脳は主語が理解できません。
私たちが日常何気なく使っている言葉や文字は、私たちの脳に大きく影響しています。
脳は、大脳新皮質と大脳辺縁系に大きく二分できます。
大脳新皮質は理性や知性の脳として、大脳辺縁系は本能や感情そして生命を司る脳として機能しています。
人間特有の高度な精神活動を司る大脳新皮質は「主語」が認識できるのですが、大脳辺縁系は「主語」が認識できません。よって新皮質から送られてくる情報を丸ごと信用してしまう習性があります。
例えば、人の悪口を言ったとします。脳は区別がつかないので、自分の脳は、自分か悪口を言われた状態になります。つまり、他人の悪口を言うと、そのまま自分に対して悪口を言っていると脳は認識し、自分の心も同様に傷つけている状態になります。
「悪口を言う」ということは、他人を攻撃しているつもりでも、実は自分を攻撃しているのと何ら変わりはないのです。知らず知らず自己嫌悪に陥り、いつしか他人から攻撃をされているような感じがします。そして「あの人から、こんなことを言われているかも知れない」と被害妄想的な思考に取り憑かれてしまい、他人との付き合いが縁遠くなる人もいます。
心当たりのある人は、十分に気を付けてください。もし、心当たりのある人は、今まで以上に他人を認め、些細なことでも褒める言葉を意図的に使用していくよう心がけてください。自分が変わることにより、自分の周りの人も必ず変わってくるはずです。
スポーツの世界においてもこのイメージを大事にした考え方があります。
それを「ミラーイメージの法則」と言います。
この法則は、読んで字のごとく、自分のイメージが鏡に映るように自分に返ってくるという考え方です。
ここ一番、力を発揮したい場面で、普段のイメージがそのままパフォーマンスとなって現れてくるということです。
例えば、ゴルフの大会中に相手選手が数メートルのパットを沈めたら逆転もしくはプレーオフといったシーンがあるとします。その時に自分か描いたイメージが、自分自身の同様のシーンにおいても、同じように脳裏にイメージ化されてきます。人間はイメージした通りにしかパフォーマンスを表現することができません。マイナスはマイナスに、プラスはプラスにしか現れてきません。
「外せ!」と願うのか「良いパフォーマンスを!」と願うのかでは、違う結果を導いてしまうということです。
すべて、自分の心がけ次第なのです。
真似る
昔から「真似るは、学ぶ」と言われてきました。
間違いではないのですが、違うと言えば違うかもしれません。
一つは意識の違いです。「学ぶ」は、必ず意識が働きますが、「真似る」は無意識的行動です。しかし、「真似をしよう」と意識した瞬間「学ぶ」に自動的に変換されます。ただ言葉にすると「真似る」なので、勘違いを起こしやすいのです。
私たちの脳の中には「ミラーニューロン」という神経細胞があります。
ミラーニューロンは、1996年イタリアにあるパルマ大学のジャコモ・リッツォラッテイらによって発見されました。当時は遺伝子に並ぶ世紀の大発見だとも言われました。
ミラーニューロンは、目の前にいる人の言動を脳内でシミュレートする細胞です。「ものまね細胞」「共感細胞」とも呼ばれています。
私たち人間は日常生活の中で様々な行動をします。 トイレに行く、食事をする、頭を掻く、泣く、笑うなど、これらの行動はすべて自分の意思で行っていると思っています。しかし、実はミラーニューロンによって、無意識的に他人の行動をコピーしているのかもしれません。
例えば、「あくびがうつる」「友人がトイレに行くと、自分もトイレに行きたくなる」「人が何か食べていると、お腹がすいてくる」「泣いている人を見ると、涙が出てくる」「笑っている人を見ると、楽しくなってくる」「乱闘シーンの映画を見ると、主役同様自分も強くなった気がする」「コンサートに行くと、次の日その歌手の髪型にしてしまう」など、思い当たることはありませんか。
これらはすべてミラーミューロンの作用なのです。
他人の喜怒哀楽を自分のものとして捉えてしまうのです。
もう少し踏み込んだ話をしますが、怒っている人を見ると、嫌な感じを受ける人がいて、「あの人いつも怒っていて嫌だよね~」と感じているとします。
実はこれもミラーニューロンが機能している結果反応なのです。怒っている人の顔を見ると、自分の脳が自分も怒っている状態にコピーされ、自分の脳内も怒っている状態になってしまうのです。そのため、脳内物質が出て嫌な気分になるのです。他人のせいで、嫌になっているのでなく、自分か自然にそうなっているだけなのです。
「そんなことはない、私が嫌な思いをするのは、すべてあの人のせいだ」と言い張っても構いませんが、自分の周りをよくみてください。全員が、嫌な気分になってはいないはずです。嫌になっているのは自分だけです。ミラーニューロンにより、自分の脳が侵害されたとしても、それをコントロールする力がなければ、いつも嫌な思いをするのは自分だけということになります。
不思議な話ですが、これも自分の脳における癖なのです。
そういう意味では、外部情報や外部環境に即座に反応しない「鈍感力」を身に付けることが、人間社会の中で生きていく上で必要な力なのかもしれません。
笑顔
こんな実験がありました。
普通に本を読むグループとマジックを口にくわえて本を読むグループとでは、口にマジックをくわえながら本を読むグループのほうが、普通に本を読んだグループより、「本が面白かった」という結果となったのです。その答えは簡単です。「口角が上がっている」からです。違いはそれだけです。
人間は口角を上げて笑っている状態を意図的にっくることにより、脳が顔の表情(筋肉)から楽しんでいると読みとり、この本は面白い本であると解釈してしまうのです。
口角を上げた結果、脳内にドーパミンが放出され、その影響を感じているだけなのです。
「え~っ」と思われるかもしれませんが、私たちは自分の状態を自分の意思では決められないケースが大半だということです。
私たちは知らず知らずに「結果」や「状況」によって自分の状態を無秩序に揺さぶっているのです。逆に利用するケースもあります。ストレスを抱え落ち込んでいる状態の時に、「温泉に入る」「音楽を聴く」という行動です。この行動は、先はどのマジックをくわえて楽しくなるというのと同じなのです。自分の身体を通じて外部の情報を取り入れ、脳内状況を調整しているだけなのです。違いがあるとしたら、自分の行動に目的・意図があるかないか、効果・成果を意識できているかどうかということです。
人生は作話
私たち人間は、自分の脳が創りだした物語の中で生活しています。「えっ~!」と思われるかもしれませんが事実です。
例えば、食事をする、寝る、歯を磨く、スポーツをする、仕事に行く、トイレに行く、カラオケに行く、転ぶなどなど、自分の行動のほぼ大半、いやすべてが脳による作話(物語)で出来上がっています。ある意味その集大成が「自伝書」なのかもしれません。
例えば、「食事」です。生きていくためには栄養を摂取する必要があります。
「これが作り話? 食べることは本能だから自分自身ではどうすることもできないだろう」という人もいるかもしれません。しかし、考えてみてください。生きるためだからと食事をした結果、肥満が原因で死に至るというケースがあるのはなぜですか。さらに掘り下げていきます。自分が食べている食事は、健康に必要なものとして摂取していますか。それとも好き嫌いで食事内容を決めていませんか。
実際、生きるために必要なエネルギーである「栄養」を摂取していないのに体調が良い人もたくさんいます。その行為を「断食」と言います。睡眠も同様です。長生きをしている人の平均睡眠時間は7時間30分です。
「では、あなたの睡眠時間は何時間ですか?」
毎日7時間30分を確保するのは困難です。自分の都合により、日によって睡眠時間はまちまちではないでしょうか。これも人間という生き物の本能で睡眠時間を決めているのではなく、自分が決めていることなのです。
朝起きて、学校に行く、仕事に行くのも自分が創りだした作話の中での行動です。
「自分か仕事に行かなければみんなに迷惑をかけるし、絶対に休むわけにはいかない」と言いながら、風邪を引いた途端に、「休み」を選択します。「風邪を引いたのだから、みんなわかってくれるだろう」と自分の中で処理します。すべて個人の頭の中で創られた作話なのです。
作話は「未来思考」と「過去思考」とに二分されます。
私たちの行動は、計画通りの行動と行き当たりばったりの行動かのいずれかです。しかし、行き当たりばったりの偶然的な行動にせよ、今までの経験や知識が生み出したものであることに違いありません。人の意見に従いながら行動するのも、従わず行動するのも自分で決めた選択的行動なのです。
「過去思考」は過去の経験や知識を生かして行動することです。私たちの行動の大半はこの「過去思考」によるものと考えていただいていいかと思います。しかし問題もあります。過去の経験(良い経験や悪い経験)に意識を戻してしまい、今するべきことに集中していないことです。「あの時こうすればよかった」と過去にとらわれてしまい、今するべきふさわしい決断・行動ができずに無駄な時間を過ごしてしまうことです。そして怖いのは、無駄な時間を過ごしていることに本人は全く気が付いていないことです。
「未来思考」の行動は「夢や目標設定」です。あらかじめ自分で描いたシナリオ通りに行動していることです。「過去への行動」は「後付け(理由付け)」です。自分のとった行動の理由を探す行為です。「なぜ、自分はそんな行動をとったのだろうか?」と振り返りながら、「たぶん、○○○の理由だからだわ~」と自分に言い聞かせます。他人が「いいえ、コ○○だったからだよ~」と助言したとしても、「いいえ、私はこう思ったから○○○したのだから」と聞く耳を持ちません。結局は、自分の納得(精神的安定)を優先させることが条件となります。自分のとった行動の意味に自分自身で納得したいのです。理由としては後付けになりますが、自分のとった行動は変えることができません。しかし、その理由は、後で変更可能なので、自分が納得するまで、自分がとった行動の理由を幾度となく探し続けます。
他人に、社会に、依存した生き方をしている人、これも自分の作話なのです。1回しかない自分の人生ですから、「24時間、365日」すべて自分のために時間を使ってみてはいかがでしょうか。
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〈コンヴィヴィアルな道具〉としてのアーカイブ
『コミュニティ・アーカイブをつくろう!』より はじめに--なぜコミュニティ・アーカイブなのか
専門性の危機
そもそも、東日本大震災が明らかにしたことのひとつは、専門家に頼ることの危険性、すなわち「専門性の危機」でした。
専門家ですら対策を考えきれていなかったような、大きな、広範囲にわたる被害をもたらす地震が起きました。科学者たちが予測しなかったような、原子力発電所の事故が起きました。行政だけでは支援が足りず、市民ボランティアたちの手が不可欠でした。ジャーナリストたちだけでは取材や情報発信が不足し、市民らによるネットを駆使した情報発信が有効に機能しました。
専門家にも対応できない事態があり得る、ということ。そして専門家に依存しすぎることが危機をもたらすことがある、ということ。それが明らかになったのが、東日本大震災と原発事故の最大の教訓のひとつでした。
「専門性の危機」について、東日本大震災のずっと前から指摘していた人がいます。
ウィーンに生まれ、アメリカ・メキシコ・ドイツなどで活躍した思想家、イヴァン・イリイチ(1926~2002年)です。
イリイチは、科学や技術は便利なものであり、専門家がそれらを駆使することが、一定の利益をもたらすことを認めます。けれども、科学や技術がよりいっそう専門性を増し、社会が専門家に対する依存度をさらに高め、高度に発展した道具のつかいかたが素人の手の届かないものとなるとき、専門化は利益だけでなく弊害をもたらすようになる、といいます。そして時として、利益よりも弊害の方が大きくなることもある。かつてイリイチは、そう指摘したのです。
こうしたイリイチの発言は、東日本大震災以後に読み返すと、まるで予言のように思えてきます。
経験を記録し伝えるのは誰の仕事か
専門性の危機は、記録を伝える仕事についてもあてはまります。
わたしたちはこれまで、大きな事件や社会的出来事などの記録を、報道や記録の専門家にまかせてきました。ジャーナリストや歴史研究者、社会学者や人類学者、行政の担当者たち、そして映画や小説をつくるアーティストたちなどを、ここでいう専門家に含めることができますが、かれらは特別な技術と、社会的な後ろだてを持っています(新聞記者における新聞社や新聞という制度、研究者における学会や大学などがそれにあたります)。記録の成果は、テレビや新聞、学術雑誌や行政資料など、かれら白身がそれを所有していたり管理しているメディアをつかって、ほぼ一方的に発信されてきました。
多くの市民はそれを受身的に見るだけです。その内容に傷ついたり、不満をもったりしても、できることはテレビに対してぼやくことがせいぜい。本気で異論を唱えようとすれば、かなりの労力が必要でした。ほんの20年くらい前までは。
メディアのこうした一方向性は、今や大きく変わろうとしています。東日本大震災のときには、TwitterやFacebookが、重要な情報を伝えるメディアになりました。映像はYouTube でシェアされ、想いはブログに綴られました。インターネットが「自分たちのための(for the rest of us)」道具になったのです。
しかし、ネット上ではあらゆる表現が可能です。何か真実で何かフェイクなのか、何か現状を正しく伝える情報なのかを読み解くことにはいつも困難がっきまといます。あらゆる立場から発信される情報がネット上で錯綜するなか、2016年イギリスのEU離脱時には、客観的な事実にもとづく報道よりも、「確からしい」「共感しやすい」と感じられる感情的アピールの方が世論天衆感情)を動かしたとして、「真実以後{ポスト・トゥルース)」ということばが流行語にもなりました。
出来事の意味を伝える仕事がマスメディアに専門化しすぎることは、たしかに問題です。しかし、わたしたちにとっての共通世界であるネット空間が、何か真実なのかを見極めがたい、無数のつぶやきによって「情報オーバーロード」してしまうこともまた、それと同じくらいに、あるいはそれ以上に大きな問題だといえます。
見るための道具、つくるための道具
こうした議論を個々の「道具」という観点から見ると、少し違った風景が見えてきます。
たとえば、テレビは与えられたものを一方的に見るための道具です。新聞も(投書はできますが、そのほとんどは)一方的に読むだけの情報を届ける道具です。
これに対して、1980年代に発売開始されたワードプロセッサ(ワープロ)は、「いままで受身いっぽうだった普通の生活人」にとって、「自分たちの本や雑誌を安く手軽につくるための道具」として、その姿を現しました。自分たちで、自分がっくりたい本や雑誌をつくる。そのための道具や技術が、ワープロという道具によって、普通の生活人の手元へとやってきたわけです。
もちろんワープロは、家電企業が新たな利益を生みだすためにつくりだした商品でもあります。しかし、鉛筆や万年筆と同様に、ワープロは単なる商品ではありませんでした。
「自分たちのための道具」としての技術の系列には、カセットレコーダー、フィルムカメラ、パーソナルコンピュータ、ビデオカメラ、デジタルカメラ、そしてインターネットをつけ加えることができます。特に、2010年代以後のビデオカメラやデジタルカメラやスマートフォンは、写真・映像・音声など、さまざまなメディアを圧倒的に安く、簡単に扱うことを可能にしました。80年代のワープロ同様、これらは「自分たちのための道具」として現れたのです。
ここでとりわけ重要なのが、インターネットの普及です。
なぜなら、インターネットの普及によって、デジタルカメラやコンピュータは、個人でものをつくるための道具としてだけでなく、つくったものを多くの人たちに向けて流通させ、共有するための道具に変貌したからです。
家庭内で子どもの成長を記録しているかぎり、カメラは個人的・私的なツールにすぎません。けれども、わたしたちの多くに関係するであろうことがらを、個人がビデオカメラをつかって撮影し、それをネットで公開すれば、カメラとネットは社会的・公共的な行為のための道具になります。
このとき、見る人とつくる人との関係は、同じ立場という意昧での「水平的」関係ではありません(そこには、情報を提供した人と、それを受け取る人との違いがあります)。しかしそれは、これまでのメディアに見られたような、専門家と視聴者とのあいだの「垂直的」関係でもありません。それは、つくる人が見る人にもなり、見る人がっくる人にもなる関係性、いわば「斜めの関係性」としてあります。
〈コンヴィヴィアルな道具〉
つくるための道具、共有するための道具の登場は、これまで専門家にまかされてきた活動の一部を「自分たちのために」取りもどすことを可能にしました。これは、単に個人が映像をつくれるようになったとか、個人がっくったものが広くブロードキャストされることが可能になったということを越えて、一方的な受動性として生きるか、それとも部分的にであれ能動性を取りもどすのかという問題でもあります。
さきほど触れたイリイチが特に重視していたのが、この「専門家に占有されてしまった技術」を、「よりよく生きるための道具に転換させる」ことでした。そこでの道具のありかたを、彼は「コンヴィヴィアルな道具」ということばをつかってとらえようとしています。
少し長くなりますが、引用しましょう。
道具は社会関係にとって本質的である。個人は自分が積極的につかいこなしているか、あるいは受動的にそれに使われているかする道具を用いることで、行動している自分を社会と関係づける。彼が道具の主人となっている程度に応じて、彼は世界を自分で意味づけることができるし、また彼が自分の道具によって支配されている度合いに応じて、道具の形態が彼の自己イメージを決定するのである。コンヴィヴィアルな道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力[ヴィジョン]の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具はコンヴィヴィアルな流儀で用いることはできない。
〈コンヴィヴィアルな道具〉に対置されている、〈産業主義的な道具〉から説明します。
〈産業主義的な道具〉とは、つかいかたも用途も決まっている道具です。そのつかいかたは、その道具をつくった人たちによって隅々までデザインされています。たとえば、自動販売機は、わたしたちにのどの渇きを意識させ、飲料を買わせるための産業主義的な道具です。なぜなら自動販売機は、「他人と人工的環境によって強いられた需要への、各人の条件づけられた反応」、つまり「飲み物を買う」という行動しか触発しないからです。
水筒は、飲み物の保管器という意味では自動販売機に似ています。しかし、「何を入れるかを自分自身で決められる/好みの飲み物をつくる活動を促す/ゴミを出さず、環境を豊かなままにする」など、さまざまな行為を潜在的に触発しうる道具です。水筒は「各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わり」「人格的な相互依存のうちに実現される個的な自由」を可能にすることができるのです。
イリイチが、「コンヴィヴィアリティ conviviality」ということばでつかまえようとしていたのは、こうした自由の可能性です。それは、個々人が、周囲の事物や環境とのあいだに、また周囲の人たちとのあいだに、自立しながらも相互にかかわりあうことで、ともに生き生きとしている状態のことでした。それを可能にする道具が「コンヴィヴィアルな道具」です。
現代社会には、さまざまなガジェットが氾濫しています。しかし、ガジェットを利用する個人のみを豊かにするような道具は、コンヴィヴィアルな道具ではありません。コンヴィヴィアルな道具とは、たとえ個人のヴィジョンを実現するために用いられるとしても、自分の周囲の人びとを含む環境を、結果として豊かにするような道具なのです。
コンヴィヴィアルな道具としてのコミュニティ・アーカイブ
ビデオカメラもインターネットも、そのままでコンヴィヴィアルな道具であるわけではありません。では、こうした道具をどのようにつかえば、個々人がその道具を思い思いにつかうことが、結果として環境を豊かにすることができるようになるのでしょうか。どうすれば、記録のための道具が、記録者の想像力をはばたかせる道具として機能し、そしてその結果できあがった記録が、その記録を見る他者や記録者の周囲にある社会を豊かにするような道具になりえるのでしょうか。アーカイブを、そのような道具としてつくることは、どのようにすれば可能になるのでしょうか。
わすれンーの活動は、この問いに対する試行錯誤そのものです。そこには、専門家=スタッフがデザインしたプロジェクトに、素人=市民が参加し、予定された活動を行ってプロジェクトが終了するという図式はありません。わすれンーは、現代の技術を駆使した記録が、どのようにすればわれわれの記憶を豊かにするのかという点をめぐる、答えの見えない、見えないからこそ活動のなかで進む道を考える、きわめて実践的な活動なのです。
それは、機械による記録の可能性を無視せず、かといって身体による記憶の意義も捨て去らない方向性を探るもの、と考えることができます。わすれンーの映像記録は、機械による記録でありながら、生身の身体による記憶のような特徴をもった映像の群れを構成しています。それは、機械による記録と、身体による記憶のあいだを縫うものなのです。
ビデオカメラもインターネットもつかう。でも、生身の人間が、記憶をもとに語る、それを聴くことがもっとも大切なのだという感覚も大事にする。その上で、個々人がやりたいことをすることが、結果として社会を豊かにする。本書の課題は、そのような「道具」のつくりかた、つかいかたを考えることにあります。
アーカイブをつくったり、つかったりすることは、まだ野球ほどには、わたしたちの身体に馴染んでいません。ここでプローアーカイブのつくりかたを見習って、市民もアーカイブをつくる、というのもひとつの方法ではあるでしょう。でも、本書としてはむしろ「草」的活動からはじめることの方にこそ、可能性があると考えます。手持ちの素材をつかって、ブリコラージュ的に、DIY的に、草の根活動的にアーカイブをつくる試行錯誤にこそ、アーカイブを「コンヅィヴィアルな道具」にしていく近道がある。そう本書は考えているのです。
プラットフォームとしてのセンター。そこにいるスタッフ。参加者たち。記録対象となる人たち。記録を見る人たち。アーカイブをつかう人たち。わすれンーには、これら多様な人たちが関わっています。「カメラとコンピュータとインターネットを組み合わせてつくられる、現代における〈コンヅィヴィアルな道具〉としてのコミュニティ・アーカイブ」とは、少なくともこれらの人びとの生を、結果的により豊かなものにすることができなければなりません。そのやりかたについて、わすれンーを事例としで実践的に考えること。これが本書の課題です。
専門性の危機
そもそも、東日本大震災が明らかにしたことのひとつは、専門家に頼ることの危険性、すなわち「専門性の危機」でした。
専門家ですら対策を考えきれていなかったような、大きな、広範囲にわたる被害をもたらす地震が起きました。科学者たちが予測しなかったような、原子力発電所の事故が起きました。行政だけでは支援が足りず、市民ボランティアたちの手が不可欠でした。ジャーナリストたちだけでは取材や情報発信が不足し、市民らによるネットを駆使した情報発信が有効に機能しました。
専門家にも対応できない事態があり得る、ということ。そして専門家に依存しすぎることが危機をもたらすことがある、ということ。それが明らかになったのが、東日本大震災と原発事故の最大の教訓のひとつでした。
「専門性の危機」について、東日本大震災のずっと前から指摘していた人がいます。
ウィーンに生まれ、アメリカ・メキシコ・ドイツなどで活躍した思想家、イヴァン・イリイチ(1926~2002年)です。
イリイチは、科学や技術は便利なものであり、専門家がそれらを駆使することが、一定の利益をもたらすことを認めます。けれども、科学や技術がよりいっそう専門性を増し、社会が専門家に対する依存度をさらに高め、高度に発展した道具のつかいかたが素人の手の届かないものとなるとき、専門化は利益だけでなく弊害をもたらすようになる、といいます。そして時として、利益よりも弊害の方が大きくなることもある。かつてイリイチは、そう指摘したのです。
こうしたイリイチの発言は、東日本大震災以後に読み返すと、まるで予言のように思えてきます。
経験を記録し伝えるのは誰の仕事か
専門性の危機は、記録を伝える仕事についてもあてはまります。
わたしたちはこれまで、大きな事件や社会的出来事などの記録を、報道や記録の専門家にまかせてきました。ジャーナリストや歴史研究者、社会学者や人類学者、行政の担当者たち、そして映画や小説をつくるアーティストたちなどを、ここでいう専門家に含めることができますが、かれらは特別な技術と、社会的な後ろだてを持っています(新聞記者における新聞社や新聞という制度、研究者における学会や大学などがそれにあたります)。記録の成果は、テレビや新聞、学術雑誌や行政資料など、かれら白身がそれを所有していたり管理しているメディアをつかって、ほぼ一方的に発信されてきました。
多くの市民はそれを受身的に見るだけです。その内容に傷ついたり、不満をもったりしても、できることはテレビに対してぼやくことがせいぜい。本気で異論を唱えようとすれば、かなりの労力が必要でした。ほんの20年くらい前までは。
メディアのこうした一方向性は、今や大きく変わろうとしています。東日本大震災のときには、TwitterやFacebookが、重要な情報を伝えるメディアになりました。映像はYouTube でシェアされ、想いはブログに綴られました。インターネットが「自分たちのための(for the rest of us)」道具になったのです。
しかし、ネット上ではあらゆる表現が可能です。何か真実で何かフェイクなのか、何か現状を正しく伝える情報なのかを読み解くことにはいつも困難がっきまといます。あらゆる立場から発信される情報がネット上で錯綜するなか、2016年イギリスのEU離脱時には、客観的な事実にもとづく報道よりも、「確からしい」「共感しやすい」と感じられる感情的アピールの方が世論天衆感情)を動かしたとして、「真実以後{ポスト・トゥルース)」ということばが流行語にもなりました。
出来事の意味を伝える仕事がマスメディアに専門化しすぎることは、たしかに問題です。しかし、わたしたちにとっての共通世界であるネット空間が、何か真実なのかを見極めがたい、無数のつぶやきによって「情報オーバーロード」してしまうこともまた、それと同じくらいに、あるいはそれ以上に大きな問題だといえます。
見るための道具、つくるための道具
こうした議論を個々の「道具」という観点から見ると、少し違った風景が見えてきます。
たとえば、テレビは与えられたものを一方的に見るための道具です。新聞も(投書はできますが、そのほとんどは)一方的に読むだけの情報を届ける道具です。
これに対して、1980年代に発売開始されたワードプロセッサ(ワープロ)は、「いままで受身いっぽうだった普通の生活人」にとって、「自分たちの本や雑誌を安く手軽につくるための道具」として、その姿を現しました。自分たちで、自分がっくりたい本や雑誌をつくる。そのための道具や技術が、ワープロという道具によって、普通の生活人の手元へとやってきたわけです。
もちろんワープロは、家電企業が新たな利益を生みだすためにつくりだした商品でもあります。しかし、鉛筆や万年筆と同様に、ワープロは単なる商品ではありませんでした。
「自分たちのための道具」としての技術の系列には、カセットレコーダー、フィルムカメラ、パーソナルコンピュータ、ビデオカメラ、デジタルカメラ、そしてインターネットをつけ加えることができます。特に、2010年代以後のビデオカメラやデジタルカメラやスマートフォンは、写真・映像・音声など、さまざまなメディアを圧倒的に安く、簡単に扱うことを可能にしました。80年代のワープロ同様、これらは「自分たちのための道具」として現れたのです。
ここでとりわけ重要なのが、インターネットの普及です。
なぜなら、インターネットの普及によって、デジタルカメラやコンピュータは、個人でものをつくるための道具としてだけでなく、つくったものを多くの人たちに向けて流通させ、共有するための道具に変貌したからです。
家庭内で子どもの成長を記録しているかぎり、カメラは個人的・私的なツールにすぎません。けれども、わたしたちの多くに関係するであろうことがらを、個人がビデオカメラをつかって撮影し、それをネットで公開すれば、カメラとネットは社会的・公共的な行為のための道具になります。
このとき、見る人とつくる人との関係は、同じ立場という意昧での「水平的」関係ではありません(そこには、情報を提供した人と、それを受け取る人との違いがあります)。しかしそれは、これまでのメディアに見られたような、専門家と視聴者とのあいだの「垂直的」関係でもありません。それは、つくる人が見る人にもなり、見る人がっくる人にもなる関係性、いわば「斜めの関係性」としてあります。
〈コンヴィヴィアルな道具〉
つくるための道具、共有するための道具の登場は、これまで専門家にまかされてきた活動の一部を「自分たちのために」取りもどすことを可能にしました。これは、単に個人が映像をつくれるようになったとか、個人がっくったものが広くブロードキャストされることが可能になったということを越えて、一方的な受動性として生きるか、それとも部分的にであれ能動性を取りもどすのかという問題でもあります。
さきほど触れたイリイチが特に重視していたのが、この「専門家に占有されてしまった技術」を、「よりよく生きるための道具に転換させる」ことでした。そこでの道具のありかたを、彼は「コンヴィヴィアルな道具」ということばをつかってとらえようとしています。
少し長くなりますが、引用しましょう。
道具は社会関係にとって本質的である。個人は自分が積極的につかいこなしているか、あるいは受動的にそれに使われているかする道具を用いることで、行動している自分を社会と関係づける。彼が道具の主人となっている程度に応じて、彼は世界を自分で意味づけることができるし、また彼が自分の道具によって支配されている度合いに応じて、道具の形態が彼の自己イメージを決定するのである。コンヴィヴィアルな道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力[ヴィジョン]の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。産業主義的な道具はそれを用いる人々に対してこういう可能性を拒み、道具の考案者たちに、彼ら以外の人々の目的や期待を決定することを許す。今日の大部分の道具はコンヴィヴィアルな流儀で用いることはできない。
〈コンヴィヴィアルな道具〉に対置されている、〈産業主義的な道具〉から説明します。
〈産業主義的な道具〉とは、つかいかたも用途も決まっている道具です。そのつかいかたは、その道具をつくった人たちによって隅々までデザインされています。たとえば、自動販売機は、わたしたちにのどの渇きを意識させ、飲料を買わせるための産業主義的な道具です。なぜなら自動販売機は、「他人と人工的環境によって強いられた需要への、各人の条件づけられた反応」、つまり「飲み物を買う」という行動しか触発しないからです。
水筒は、飲み物の保管器という意味では自動販売機に似ています。しかし、「何を入れるかを自分自身で決められる/好みの飲み物をつくる活動を促す/ゴミを出さず、環境を豊かなままにする」など、さまざまな行為を潜在的に触発しうる道具です。水筒は「各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わり」「人格的な相互依存のうちに実現される個的な自由」を可能にすることができるのです。
イリイチが、「コンヴィヴィアリティ conviviality」ということばでつかまえようとしていたのは、こうした自由の可能性です。それは、個々人が、周囲の事物や環境とのあいだに、また周囲の人たちとのあいだに、自立しながらも相互にかかわりあうことで、ともに生き生きとしている状態のことでした。それを可能にする道具が「コンヴィヴィアルな道具」です。
現代社会には、さまざまなガジェットが氾濫しています。しかし、ガジェットを利用する個人のみを豊かにするような道具は、コンヴィヴィアルな道具ではありません。コンヴィヴィアルな道具とは、たとえ個人のヴィジョンを実現するために用いられるとしても、自分の周囲の人びとを含む環境を、結果として豊かにするような道具なのです。
コンヴィヴィアルな道具としてのコミュニティ・アーカイブ
ビデオカメラもインターネットも、そのままでコンヴィヴィアルな道具であるわけではありません。では、こうした道具をどのようにつかえば、個々人がその道具を思い思いにつかうことが、結果として環境を豊かにすることができるようになるのでしょうか。どうすれば、記録のための道具が、記録者の想像力をはばたかせる道具として機能し、そしてその結果できあがった記録が、その記録を見る他者や記録者の周囲にある社会を豊かにするような道具になりえるのでしょうか。アーカイブを、そのような道具としてつくることは、どのようにすれば可能になるのでしょうか。
わすれンーの活動は、この問いに対する試行錯誤そのものです。そこには、専門家=スタッフがデザインしたプロジェクトに、素人=市民が参加し、予定された活動を行ってプロジェクトが終了するという図式はありません。わすれンーは、現代の技術を駆使した記録が、どのようにすればわれわれの記憶を豊かにするのかという点をめぐる、答えの見えない、見えないからこそ活動のなかで進む道を考える、きわめて実践的な活動なのです。
それは、機械による記録の可能性を無視せず、かといって身体による記憶の意義も捨て去らない方向性を探るもの、と考えることができます。わすれンーの映像記録は、機械による記録でありながら、生身の身体による記憶のような特徴をもった映像の群れを構成しています。それは、機械による記録と、身体による記憶のあいだを縫うものなのです。
ビデオカメラもインターネットもつかう。でも、生身の人間が、記憶をもとに語る、それを聴くことがもっとも大切なのだという感覚も大事にする。その上で、個々人がやりたいことをすることが、結果として社会を豊かにする。本書の課題は、そのような「道具」のつくりかた、つかいかたを考えることにあります。
アーカイブをつくったり、つかったりすることは、まだ野球ほどには、わたしたちの身体に馴染んでいません。ここでプローアーカイブのつくりかたを見習って、市民もアーカイブをつくる、というのもひとつの方法ではあるでしょう。でも、本書としてはむしろ「草」的活動からはじめることの方にこそ、可能性があると考えます。手持ちの素材をつかって、ブリコラージュ的に、DIY的に、草の根活動的にアーカイブをつくる試行錯誤にこそ、アーカイブを「コンヅィヴィアルな道具」にしていく近道がある。そう本書は考えているのです。
プラットフォームとしてのセンター。そこにいるスタッフ。参加者たち。記録対象となる人たち。記録を見る人たち。アーカイブをつかう人たち。わすれンーには、これら多様な人たちが関わっています。「カメラとコンピュータとインターネットを組み合わせてつくられる、現代における〈コンヅィヴィアルな道具〉としてのコミュニティ・アーカイブ」とは、少なくともこれらの人びとの生を、結果的により豊かなものにすることができなければなりません。そのやりかたについて、わすれンーを事例としで実践的に考えること。これが本書の課題です。
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日本の仏教って、何なの
法事用のズボンが入らない
そろそろ歩こうか。法事用のズボンがまるで入らない。奥さんにはズボンが小さくなったのかでごまかしたが。ヨーロッパに行かない理由を潰さないといけない。
行けなくなる。奥さんは期限切れを狙ってくるでしょうから。
父親の十三回忌
父親の十三回忌。この近所はまだまだいいけど、ちょっと街へ行くともうやらない、やれないみたいです。母親は来年の7回忌で打ち止めにしようと、奥さんと妹が相談していた。だから、私は三回忌で十分と言っておいた。その時もマクドナルドでいいと言ったら、せめてモスにしたいということでした。
先週、奥さんが 法事を予約した時にスケジュールはガラガラだった。その後、葬式が予約なしに2件入ったそうです。忙しそうだった。明日も一件、葬式があるそうです。この季節は商売繁盛?
日本の仏教って、何なの
お経を聞きながら、日本になぜ仏教学校ないのか考えていた。ハンガリーは午後から、キリスト教の講義。アラブ社会にはムスリム学校がある。社会のそこ支えを行なっている。坊さんは幼稚園を経営すると言っていた。 園児は法華経の唱えられるとのこと。
ネットでの坊さんの派遣。みんなやりたがるそうです。気に入ったら、継続できるから。日本の仏教って何なのか。精神の支えなしに生きていける日本はどうなってるの。そんなことをお経を聞きながら、考えていた。
そろそろ歩こうか。法事用のズボンがまるで入らない。奥さんにはズボンが小さくなったのかでごまかしたが。ヨーロッパに行かない理由を潰さないといけない。
行けなくなる。奥さんは期限切れを狙ってくるでしょうから。
父親の十三回忌
父親の十三回忌。この近所はまだまだいいけど、ちょっと街へ行くともうやらない、やれないみたいです。母親は来年の7回忌で打ち止めにしようと、奥さんと妹が相談していた。だから、私は三回忌で十分と言っておいた。その時もマクドナルドでいいと言ったら、せめてモスにしたいということでした。
先週、奥さんが 法事を予約した時にスケジュールはガラガラだった。その後、葬式が予約なしに2件入ったそうです。忙しそうだった。明日も一件、葬式があるそうです。この季節は商売繁盛?
日本の仏教って、何なの
お経を聞きながら、日本になぜ仏教学校ないのか考えていた。ハンガリーは午後から、キリスト教の講義。アラブ社会にはムスリム学校がある。社会のそこ支えを行なっている。坊さんは幼稚園を経営すると言っていた。 園児は法華経の唱えられるとのこと。
ネットでの坊さんの派遣。みんなやりたがるそうです。気に入ったら、継続できるから。日本の仏教って何なのか。精神の支えなしに生きていける日本はどうなってるの。そんなことをお経を聞きながら、考えていた。
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経済成長の限界と可能性 いくつかの可能性
『経済史』より 経済成長の限界と可能性
資源争奪戦と文明崩壊
不足した資源を奪い合って戦争になり、文明が崩壊してしまうことを人類はこれまでに何度か経験してきました(ダイアモンド。金属器のない時代(つまり兵器は石器や棍棒)でも、戦争でえ明か崩壊した事例はありますが、現在、それよりもはるかに強力な兵器があります--地球上を何度も焼丿払えるはど多くの核暖器がいまなお存在しています--から、資源争奪戦から文明崩壊にいたる事態が発生した場合、かつてのように一地域の文明が崩壊するに留まらず、地球の文明全体が崩壊する危険性も否定できません。したがって、資源争奪が発生しないように人口増加や物財。エネルギー需要の増大を統御することが最も大切です。とはいえ、他国の自然と過去の自然に依存した現在の文明は脆弱なので、ごくわずかの変動や事故で食料や化石燃料の争奪に陥る危険性もあります。それゆえ、二次的な課題としては、争奪状態が発生しても、それを拡大・昂進させず、軍事カによらない問題解決のさまざまな技--妥協し、折合いをつけて共存する外交的・社交的な取引・交渉・協議の技だけでなく、軍事(人の生命・身体・財産を暴力的に破壊する力とそれによる飼喝)以外の仕方で、競い、決着をつける、納得性が高く、かつ憎悪の連鎖を生み出さない技--を開拓しておくこと、万一、軍事紛争が発生した場合に、軍隊の指揮官や政治指導者が使いたくなる手段=兵器の存在と質と量とを予め制限しておくこと(軍事においては手段‥兵器の存在ないし利用可能性がしばしば目的〔国家目的・戦争目的・戦略等〕を規定してきました。小野塚、そして、軍事力・軍事同盟強化の鏡像的な悪循環に陥る抑止力理論から脱却すること、および各国の兵士の生命の政治的・社会的な費用を高くすること、これらが大切となるでしょう。
リアルタイムの管理社会
人の行動・位置・視線等を即時に監視・観察することは、現在の技術ですでに充分に可能ですし、体温・脈拍・呼吸数・血圧なども着用可能な簡便な感知装置で監視可能です。そうした技術を活かした労務管理やスポーツの訓練などもすでに実際に行われています。この延長上に、伊藤計劃が描いたように、人の見るものや体調まで即時に監視・観察される社会が、遠くない将来に訪れる可能性も否定できません。それはSFの世界の法螺話だろうと軽視する方がいるかもしれません。しかし、法哲学などの領域においても、いまや統治功利主義が大まじめに論じられています。そこでは、人格・自由・自律といった近代が達成した価値を軽々と超越して、統治者の「功利主義リペラリズム」なる思想が擁護されているのです。「人格亡きあとのリベラリズム」の構想は、統治者ですら従わざるをえない規範の体系(掟・定・分・矩)であった前近代への回帰であると同時に、超近現代の一つの可能性--決して夢や希望に満ち溢れた耳心地よい可能性ではありませんが--を示しているようにも思われます。
個人の際限のない欲望を即時に管理し、また、欲望を適切に維持・創出し、個人の行為・感情までを「望ましい」方向に即時に誘導・介入する社会構造を実現できるなら、人類の文明を、文字通り調和(ハーモニー)のとれた形で末永く維持し、かつ成長と資本主義を可能ならしめることができるのかもしれません。労務管理と生活管理の究極の姿をそれは示しています。そこには、基底的価値としての人格・自由・自律はありませんが、擬似的(ないし構成的)な人格・白山・自律が確保できるなら、それは、介入的自由主義の現代を、新たな人間操作技術と統治技術・思想によって再建することになるのでしょう。
非物財的な経済成長
物財やエネルギーの生産・消費量の増大に結び付かない経済成長のあり方について考えてみましょう。いまの日本で誰もがすぐに思いつくのは、育児や介護などの対人サービスの充実でしょう。いわゆる福祉の分野は社会の重荷、政府の財政負担と考えられがちですが、北欧諸国で実現できているように、新たなビジネス・モデルと雇用スタイルを生み出すことができるなら、それは経済成長の絶好の機会となります。育児と介護に加えて男女共同参画の推進、労働時間短縮と余暇拡大(ワークシェアリングとワーク・ライフ・バランス)、社会教育の充実などの課題を一つずつ解決していくなら、それは着実に経済成長を促し、投資機会をもたらすでしょう。たとえば、学校教員の長時間労働と過労の問題を軽減するためには、学級人数の減少(教員定数の増員)とともに、放課後の課外活動・部活の指導を、顧問教員に押し付けるのではなく、その分野の専門家に委ねて、地域的な社会教育と位置付けることが有効ですが、スポーツや音楽など社会教育分野の諸活動の指導者を養成することは、現在の日本では教員養成系学部に要請される喫緊の課題ということができます。
物財を作り、それを世界中に売るという経済のあり方の中だけで成長を構想しようとするなら、低賃金諸国の技術が向上すれば、先進諸国はますます技術的に高度化した分野に追い込まれ、それは結局、輸出産業としては兵器・航空・宇宙などへの偏倚をもたらし、国内的には軍事支出と公共事業--諸種の土建事業、オリンピック、マイナンバーなど--の増大へと傾斜せざるをえません。しかし、それは、課題先進国の進むべき道としては、適切でも得策でもありません。
いまや、貧困問題も物財の不足や欠乏の問題に限定するのではなく、社会資源の剥奪という仕方で総合的に捉えられるようになっています。そこでは、特に、困窮し、混迷しているときに、声を掛けてくれ、また、僅かでも助言・助力をしてくれる他者が身近にいるかいないかといった対人的な資源の問題が注目されています。
自立した個と他者との関係の再建
物財的ではない成長の可能性を探ろうとするなら、以上見てきたように、人の主体性と能動性をより精緻に考察することが求められます。その精緻化とは、自己と他者を截然と区別することで成立する個という近代的な主体設定を見直し、相対化する作業に踏み込むことで果たされるでしょう。近現代社会が想定する主体とは自由で自律的な個人(ヒト個体)であり、すべての個人にとって、自己と他者とは相互に分離し、独立した存在であるという自他二項対立的な人間観のはらんできた難点・弱点は、生の極限的な状況において、すでにあちこちで露呈しています。
たとえば、「良いケア」とは何かという問いを立てた場合に、「自立支援」(当人がしたいと望むが、独力では困難なことを助けて自立を促す)という原理(身体障害者支援において先に確立した原理)は必ずしも有効な指針だりえません(中村[旨品一]。殊に高齢者介護において、認知能力や身体能力が低下していて自己の意思を明瞭に表明できない場合に、自他二分法のうえに成り立つ「自立支援」の無理が露呈します。「意思表明がないから何をしていいかわからない」とか「意思表明がないから何もしなくてよい」といっているのでは、ケアはできませんが、平均的な「普通のケア」というのもありえません。意思自治を基礎とする発想では答が出せず、誰か他者が個々の状況に即して判断し実行しなければならない、つまり育児や教育と同型の強制やお節介の要素(自他二項対立的な人間観からの逸脱)を介護も免れないことを示しています。
同様にして、終末期ケアでは、ときに、「やり残しか個人の物語を完遂させようとして」、逆に家族・友人・仲間との人間関係を削ぎ落として、当の「個人」だけの「最後の物語」を演じるように誘導されることがあります。そこには、親しい人間関係から分離させて「個人の物語」に閉じ込めることによって、終末期の個人を裸の主体性にしてしまう問題があると同時に、「能動的で自立した個」という物語に最後まで固執させることによって「ホスピスの患者らしさ」が求められるという顛倒的な問題もあります。
安楽死が制度化された社会において、それを望まないことの意思表明は、特攻隊において「特攻を熱烈に志願し」ないと表明するのと同程度に困難で、人は状況の中で安楽死や特攻を希望する意思へと、しかも明示的にではなく、隠微な暗黙の強制力によって誘導されます。また、安楽死の判断基準となる生の質(QOL)とは、その当人の身体状態のみに注目して、「その人らしい(あるいはその人にふさわしい)生」を外在的に決定する傾向があり、そこでも、「生」から、家族・友人・仲間との人間関係という面が削ぎ落とされています。
このように、自他二項対立的な主体性・能動性という設定を前提とするなら、釈然としない解き方しかできない問題群があちこちにあります。介護、終末期ケア、安楽死のいずれも、自他を截然と分ける「硬い個人」の設定ではなく、人を近しい他者との関係性の中で捉える「柔らかい個人」の設定の方が、これらの問題は現実的に解くことができるはずです。同様にして、貧困を単に当該個人の能力や利用可能な物的資源の問題に限定するのではなく、社会的紐帯や関係性の中で捉えるなら、それは先述したように社会資源の「剥奪」や「社会的排除」と認識する方が現実的でしょう。それゆえ、貧困の解法は「社会的包摂」や「参入」の課題として設定されるようになってきました。死に直面しない生の過程でも主体性・能動性を個人に回収し尽くさない人間観が明らかに出現しつつあります。
美的価値・身体的礼の回復
いまの次の時代を展望するために、最後に、近現代社会と前近代との相違をいまいちど整理しておきましょう。前近代社会は掟・定などの規範によって際限のない欲望が規制されていただけでなく、欲望の対象物の遣り取りとは、一般的互酬性・贈与・蕩尽あるいは朝貢と返礼のように、(格好良さ」を表現する関係・行為でしたが、近現代では交換における等価性のみが突出して重視されるように変化しました。礼などの身体的・美的な徳は、近現代社会では貨幣で計られる単一の徳に取って代わられました。礼とは状況依存的、属人的で、多面的な徳でしたが、富の最も抽象的な形態である貨幣が近現代の普遍的な徳となり、単位時間当たりあるいは一人当たりの貨幣という単一の物差しで徳が計られているのです。この結果、前近代社会が許容していた多種性・異種性は、近現代にあっては、一つの尺度の中の多様性へと変じています。時間についても、前近代には、過去から未来まで永遠に続く切れ目のない時間という観念がありましたが、いまでは、刻々と同じ速度で進行して、刻まれ、消費される時間が支配的な観念であり、それは「時計という言葉に端的に表現されています。近現代の時間は計られ、記録されるものであり、注視されなければならないものとして、わたしたちの生を支配しています。
「隠れファシズム」対「小さく弱い規範」
資源争奪戦から文明崩壊にいたるのはぜひとも避けるべきですが、上述の(2)から(5)までは、実は同じようなことを、別の言葉で表現しているのではないかという批判はありうるでしょう。かつて近代において自明であった「個」を見直す作業は、予め定まった共同性の方向への隠微な統制を導き出すのではないかという批判です。次代の構想が、「家庭の回復」(家族支援法案)や、「愛国心を養う教育」や、自由・権利に無条件で優越する「公益および公共の秩序」という仕方で、かつてあった(と思われている)大きく強い規範を求める動きと重なり、それに包摂されてしまう「隠れファシズム」に陥る危険性は確かに否定できません。それゆえ、新版「近代の超克」論のような安易な言説へ絡め取られる可能性もあることは、予め注意する必要があります。その注意とは、保守派との連帯はけしからぬということではなく、近代的な「個」を、どの程度の普遍性をもって、どの方向に向けて見直すのかが大切であって、ただ見直し、否定し、代わりのあれこれの人間=社会像を闇雲に提示すればことたりるわけではないということです。
本書の主張をより積極的に表現するなら、大きく強い規範の再建を一挙に目指すのではなく、小さく弱い規範を、美的価値や身体的礼にも注意しながら、一つずつ再建する中で、進化論的に次代を構想しようということです。一挙的な伝統主義・設計主義・合理主義を振りかぎして次代を構想するユートピアを唱えるなら、それはほぼ間違いなくディストピアしかもたらさないということが、次代について何らの構想ももてないままに、いまが現代の終焉にyち至っている理由なのだと本書は考えます。中央集権化された権力による上からの管理・支配・開発・近代化に対抗し、不服従、面従腹背、妥協的な共存などを繰り広げて、自由・自主・自律を求める「モラル・エコノミー」や「アナキズム」の叡智をいま参照するのなら、近現代の大きく強い規範によって設定された物差しが見落としてきたところで、小さく弱い規範を実践することが大切であると考えます。
設計された合理的なユートピアや、「かつてあった古の麗しき伝統」を実現しようとする試みが無謀であるのは、それが一度も成功しなかったところに表されています。これまで人類が経験してきた転換期には次代の構想がいくつも示されていましたが、そうした大きく強い規範で彩られた構想のいずれか一つが綺麗に実現したのではなく、実際の時代の転換とは、実は小さく弱い規範の試行錯誤の取捨選択と集積だったのです。近代から現代への転換を設計し構想する試みはたくさんありましたが、実際に生成した現代社会とは、福祉国家であれ、フォード・システムやトヨタ・システムであれ、小さく弱い規範の試行錯誤の産物にほかなりません。
それゆえ、わたしたちにとって、一方では、そうなってほしくない次代を、ディストピアや反理想として明瞭に描き、それを避ける方向に試行錯誤的に進化することが大切です。他方では、一例にすぎませんが、季節性のある在地食材を用いた新しい食の快楽を自分の生きている具体的な場所で創造するといった、多種性・異種性を確保する中で、小さな「格好良さ」を追求するところに、未来を切り拓く多様な可能性が潜んでいるはずです。たとえば、イタリアの「スローフード」運動も、また精神病院の閉鎖病棟や身体拘束を廃止して、精神障害者を支援する協同組合を設立する取組みも政治闘争や経済闘争とは別のところで、反理想を明晰にしたうえで、多種性・異種性を確保しようとする次代の構想の試みと見ることができます。
資源争奪戦と文明崩壊
不足した資源を奪い合って戦争になり、文明が崩壊してしまうことを人類はこれまでに何度か経験してきました(ダイアモンド。金属器のない時代(つまり兵器は石器や棍棒)でも、戦争でえ明か崩壊した事例はありますが、現在、それよりもはるかに強力な兵器があります--地球上を何度も焼丿払えるはど多くの核暖器がいまなお存在しています--から、資源争奪戦から文明崩壊にいたる事態が発生した場合、かつてのように一地域の文明が崩壊するに留まらず、地球の文明全体が崩壊する危険性も否定できません。したがって、資源争奪が発生しないように人口増加や物財。エネルギー需要の増大を統御することが最も大切です。とはいえ、他国の自然と過去の自然に依存した現在の文明は脆弱なので、ごくわずかの変動や事故で食料や化石燃料の争奪に陥る危険性もあります。それゆえ、二次的な課題としては、争奪状態が発生しても、それを拡大・昂進させず、軍事カによらない問題解決のさまざまな技--妥協し、折合いをつけて共存する外交的・社交的な取引・交渉・協議の技だけでなく、軍事(人の生命・身体・財産を暴力的に破壊する力とそれによる飼喝)以外の仕方で、競い、決着をつける、納得性が高く、かつ憎悪の連鎖を生み出さない技--を開拓しておくこと、万一、軍事紛争が発生した場合に、軍隊の指揮官や政治指導者が使いたくなる手段=兵器の存在と質と量とを予め制限しておくこと(軍事においては手段‥兵器の存在ないし利用可能性がしばしば目的〔国家目的・戦争目的・戦略等〕を規定してきました。小野塚、そして、軍事力・軍事同盟強化の鏡像的な悪循環に陥る抑止力理論から脱却すること、および各国の兵士の生命の政治的・社会的な費用を高くすること、これらが大切となるでしょう。
リアルタイムの管理社会
人の行動・位置・視線等を即時に監視・観察することは、現在の技術ですでに充分に可能ですし、体温・脈拍・呼吸数・血圧なども着用可能な簡便な感知装置で監視可能です。そうした技術を活かした労務管理やスポーツの訓練などもすでに実際に行われています。この延長上に、伊藤計劃が描いたように、人の見るものや体調まで即時に監視・観察される社会が、遠くない将来に訪れる可能性も否定できません。それはSFの世界の法螺話だろうと軽視する方がいるかもしれません。しかし、法哲学などの領域においても、いまや統治功利主義が大まじめに論じられています。そこでは、人格・自由・自律といった近代が達成した価値を軽々と超越して、統治者の「功利主義リペラリズム」なる思想が擁護されているのです。「人格亡きあとのリベラリズム」の構想は、統治者ですら従わざるをえない規範の体系(掟・定・分・矩)であった前近代への回帰であると同時に、超近現代の一つの可能性--決して夢や希望に満ち溢れた耳心地よい可能性ではありませんが--を示しているようにも思われます。
個人の際限のない欲望を即時に管理し、また、欲望を適切に維持・創出し、個人の行為・感情までを「望ましい」方向に即時に誘導・介入する社会構造を実現できるなら、人類の文明を、文字通り調和(ハーモニー)のとれた形で末永く維持し、かつ成長と資本主義を可能ならしめることができるのかもしれません。労務管理と生活管理の究極の姿をそれは示しています。そこには、基底的価値としての人格・自由・自律はありませんが、擬似的(ないし構成的)な人格・白山・自律が確保できるなら、それは、介入的自由主義の現代を、新たな人間操作技術と統治技術・思想によって再建することになるのでしょう。
非物財的な経済成長
物財やエネルギーの生産・消費量の増大に結び付かない経済成長のあり方について考えてみましょう。いまの日本で誰もがすぐに思いつくのは、育児や介護などの対人サービスの充実でしょう。いわゆる福祉の分野は社会の重荷、政府の財政負担と考えられがちですが、北欧諸国で実現できているように、新たなビジネス・モデルと雇用スタイルを生み出すことができるなら、それは経済成長の絶好の機会となります。育児と介護に加えて男女共同参画の推進、労働時間短縮と余暇拡大(ワークシェアリングとワーク・ライフ・バランス)、社会教育の充実などの課題を一つずつ解決していくなら、それは着実に経済成長を促し、投資機会をもたらすでしょう。たとえば、学校教員の長時間労働と過労の問題を軽減するためには、学級人数の減少(教員定数の増員)とともに、放課後の課外活動・部活の指導を、顧問教員に押し付けるのではなく、その分野の専門家に委ねて、地域的な社会教育と位置付けることが有効ですが、スポーツや音楽など社会教育分野の諸活動の指導者を養成することは、現在の日本では教員養成系学部に要請される喫緊の課題ということができます。
物財を作り、それを世界中に売るという経済のあり方の中だけで成長を構想しようとするなら、低賃金諸国の技術が向上すれば、先進諸国はますます技術的に高度化した分野に追い込まれ、それは結局、輸出産業としては兵器・航空・宇宙などへの偏倚をもたらし、国内的には軍事支出と公共事業--諸種の土建事業、オリンピック、マイナンバーなど--の増大へと傾斜せざるをえません。しかし、それは、課題先進国の進むべき道としては、適切でも得策でもありません。
いまや、貧困問題も物財の不足や欠乏の問題に限定するのではなく、社会資源の剥奪という仕方で総合的に捉えられるようになっています。そこでは、特に、困窮し、混迷しているときに、声を掛けてくれ、また、僅かでも助言・助力をしてくれる他者が身近にいるかいないかといった対人的な資源の問題が注目されています。
自立した個と他者との関係の再建
物財的ではない成長の可能性を探ろうとするなら、以上見てきたように、人の主体性と能動性をより精緻に考察することが求められます。その精緻化とは、自己と他者を截然と区別することで成立する個という近代的な主体設定を見直し、相対化する作業に踏み込むことで果たされるでしょう。近現代社会が想定する主体とは自由で自律的な個人(ヒト個体)であり、すべての個人にとって、自己と他者とは相互に分離し、独立した存在であるという自他二項対立的な人間観のはらんできた難点・弱点は、生の極限的な状況において、すでにあちこちで露呈しています。
たとえば、「良いケア」とは何かという問いを立てた場合に、「自立支援」(当人がしたいと望むが、独力では困難なことを助けて自立を促す)という原理(身体障害者支援において先に確立した原理)は必ずしも有効な指針だりえません(中村[旨品一]。殊に高齢者介護において、認知能力や身体能力が低下していて自己の意思を明瞭に表明できない場合に、自他二分法のうえに成り立つ「自立支援」の無理が露呈します。「意思表明がないから何をしていいかわからない」とか「意思表明がないから何もしなくてよい」といっているのでは、ケアはできませんが、平均的な「普通のケア」というのもありえません。意思自治を基礎とする発想では答が出せず、誰か他者が個々の状況に即して判断し実行しなければならない、つまり育児や教育と同型の強制やお節介の要素(自他二項対立的な人間観からの逸脱)を介護も免れないことを示しています。
同様にして、終末期ケアでは、ときに、「やり残しか個人の物語を完遂させようとして」、逆に家族・友人・仲間との人間関係を削ぎ落として、当の「個人」だけの「最後の物語」を演じるように誘導されることがあります。そこには、親しい人間関係から分離させて「個人の物語」に閉じ込めることによって、終末期の個人を裸の主体性にしてしまう問題があると同時に、「能動的で自立した個」という物語に最後まで固執させることによって「ホスピスの患者らしさ」が求められるという顛倒的な問題もあります。
安楽死が制度化された社会において、それを望まないことの意思表明は、特攻隊において「特攻を熱烈に志願し」ないと表明するのと同程度に困難で、人は状況の中で安楽死や特攻を希望する意思へと、しかも明示的にではなく、隠微な暗黙の強制力によって誘導されます。また、安楽死の判断基準となる生の質(QOL)とは、その当人の身体状態のみに注目して、「その人らしい(あるいはその人にふさわしい)生」を外在的に決定する傾向があり、そこでも、「生」から、家族・友人・仲間との人間関係という面が削ぎ落とされています。
このように、自他二項対立的な主体性・能動性という設定を前提とするなら、釈然としない解き方しかできない問題群があちこちにあります。介護、終末期ケア、安楽死のいずれも、自他を截然と分ける「硬い個人」の設定ではなく、人を近しい他者との関係性の中で捉える「柔らかい個人」の設定の方が、これらの問題は現実的に解くことができるはずです。同様にして、貧困を単に当該個人の能力や利用可能な物的資源の問題に限定するのではなく、社会的紐帯や関係性の中で捉えるなら、それは先述したように社会資源の「剥奪」や「社会的排除」と認識する方が現実的でしょう。それゆえ、貧困の解法は「社会的包摂」や「参入」の課題として設定されるようになってきました。死に直面しない生の過程でも主体性・能動性を個人に回収し尽くさない人間観が明らかに出現しつつあります。
美的価値・身体的礼の回復
いまの次の時代を展望するために、最後に、近現代社会と前近代との相違をいまいちど整理しておきましょう。前近代社会は掟・定などの規範によって際限のない欲望が規制されていただけでなく、欲望の対象物の遣り取りとは、一般的互酬性・贈与・蕩尽あるいは朝貢と返礼のように、(格好良さ」を表現する関係・行為でしたが、近現代では交換における等価性のみが突出して重視されるように変化しました。礼などの身体的・美的な徳は、近現代社会では貨幣で計られる単一の徳に取って代わられました。礼とは状況依存的、属人的で、多面的な徳でしたが、富の最も抽象的な形態である貨幣が近現代の普遍的な徳となり、単位時間当たりあるいは一人当たりの貨幣という単一の物差しで徳が計られているのです。この結果、前近代社会が許容していた多種性・異種性は、近現代にあっては、一つの尺度の中の多様性へと変じています。時間についても、前近代には、過去から未来まで永遠に続く切れ目のない時間という観念がありましたが、いまでは、刻々と同じ速度で進行して、刻まれ、消費される時間が支配的な観念であり、それは「時計という言葉に端的に表現されています。近現代の時間は計られ、記録されるものであり、注視されなければならないものとして、わたしたちの生を支配しています。
「隠れファシズム」対「小さく弱い規範」
資源争奪戦から文明崩壊にいたるのはぜひとも避けるべきですが、上述の(2)から(5)までは、実は同じようなことを、別の言葉で表現しているのではないかという批判はありうるでしょう。かつて近代において自明であった「個」を見直す作業は、予め定まった共同性の方向への隠微な統制を導き出すのではないかという批判です。次代の構想が、「家庭の回復」(家族支援法案)や、「愛国心を養う教育」や、自由・権利に無条件で優越する「公益および公共の秩序」という仕方で、かつてあった(と思われている)大きく強い規範を求める動きと重なり、それに包摂されてしまう「隠れファシズム」に陥る危険性は確かに否定できません。それゆえ、新版「近代の超克」論のような安易な言説へ絡め取られる可能性もあることは、予め注意する必要があります。その注意とは、保守派との連帯はけしからぬということではなく、近代的な「個」を、どの程度の普遍性をもって、どの方向に向けて見直すのかが大切であって、ただ見直し、否定し、代わりのあれこれの人間=社会像を闇雲に提示すればことたりるわけではないということです。
本書の主張をより積極的に表現するなら、大きく強い規範の再建を一挙に目指すのではなく、小さく弱い規範を、美的価値や身体的礼にも注意しながら、一つずつ再建する中で、進化論的に次代を構想しようということです。一挙的な伝統主義・設計主義・合理主義を振りかぎして次代を構想するユートピアを唱えるなら、それはほぼ間違いなくディストピアしかもたらさないということが、次代について何らの構想ももてないままに、いまが現代の終焉にyち至っている理由なのだと本書は考えます。中央集権化された権力による上からの管理・支配・開発・近代化に対抗し、不服従、面従腹背、妥協的な共存などを繰り広げて、自由・自主・自律を求める「モラル・エコノミー」や「アナキズム」の叡智をいま参照するのなら、近現代の大きく強い規範によって設定された物差しが見落としてきたところで、小さく弱い規範を実践することが大切であると考えます。
設計された合理的なユートピアや、「かつてあった古の麗しき伝統」を実現しようとする試みが無謀であるのは、それが一度も成功しなかったところに表されています。これまで人類が経験してきた転換期には次代の構想がいくつも示されていましたが、そうした大きく強い規範で彩られた構想のいずれか一つが綺麗に実現したのではなく、実際の時代の転換とは、実は小さく弱い規範の試行錯誤の取捨選択と集積だったのです。近代から現代への転換を設計し構想する試みはたくさんありましたが、実際に生成した現代社会とは、福祉国家であれ、フォード・システムやトヨタ・システムであれ、小さく弱い規範の試行錯誤の産物にほかなりません。
それゆえ、わたしたちにとって、一方では、そうなってほしくない次代を、ディストピアや反理想として明瞭に描き、それを避ける方向に試行錯誤的に進化することが大切です。他方では、一例にすぎませんが、季節性のある在地食材を用いた新しい食の快楽を自分の生きている具体的な場所で創造するといった、多種性・異種性を確保する中で、小さな「格好良さ」を追求するところに、未来を切り拓く多様な可能性が潜んでいるはずです。たとえば、イタリアの「スローフード」運動も、また精神病院の閉鎖病棟や身体拘束を廃止して、精神障害者を支援する協同組合を設立する取組みも政治闘争や経済闘争とは別のところで、反理想を明晰にしたうえで、多種性・異種性を確保しようとする次代の構想の試みと見ることができます。
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Googleが最大のライバルになる
『デジタル・デイスラプション時代の生き残り方』より リクルートのAirレジ
今後、Googleが最大のライバルになる
一〇年前、リクルートは差別化の戦略として、ューザーに喜ばれる価値をどのように提供し続けていくか?明るい未来だけではなく、我々が必要とされなくなる暗い未来が起こる危険性を議論していました。
オフラインにあるものがデジタル化され、オンラインに移行するとソフトウェアの価値が非常に高まります(Software is eating the world.)。そうなると、最終的にはGoogleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと心配したのです。
当時リクルートにとって仮想のライバルは、旅行領域であれば楽天トラベル、飲食領域であれば、ぐるなび、食ベログでした。これまでは、同じ領域の似たような競合とどのように競っていくかが主でしたが、今後は、彼らではなくEC分野に進出したGoogleが、強力なライバルとして立ちはだかると予想したのです。つまり、Googleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと。
もちろん、ただ状況を眺めていたわけではなく、以下のような領域で勝負できると考えていました。
・Googleが得意でないこと
・Googleがやろうとしないこと
・Googleがやろうとしてもできないこと
・私たちリクルートだからできること
自分たちの活路はこれらにあるのではないかと、連日のように議論を行いました。そして出てきたのが、四つのキーワードでした。
・リアル
・ローカル
・お店
・フロー情報
Googleはネットを主戦場とするプレーヤーなので、リアルに関しては明らかにリクルートに分かあります。これは、口ーカルやお店に関しても同様です。
さらにフロー情報。Googleはクローラーと呼ばれる検索エンジンで、ネット上にあるあらゆる情報を収集するクローリングを行っていますが、クローリングに引っ掛からないのは、リアルタイムに流れるフロー情報です。
私たちがGoogleに勝つためには、リアル、ローカル、お店、フロー情報から、Googleが持ち得ないものを獲得する必要があります。この四つのキーワードを踏まえて、「独自性があり、かつ大量のコンテンツをもつことが継続的に可能なエンジン」を構築するべきと結論づけて、生まれたのがこのAirレジです。
一〇年後の社会を想定して手を打つ
リクルートは、BtoCビジネスやBtoBtoCビジネスを長く運営していて、今回のAirレジの着想はこれらの経験をもとに、我々は未来にどんな貢献ができるかを考え続ける中で生まれました。まず遠い未来を考える、さらに近い未来に戻ってきて考えるという手法をとったのです。三年後にフォーカスするなら、まずはI〇年後の社会がどう変わっているかを考える。次に、そこから七年前に時間が戻ったと仮定して、どんな未来になっていて、どんな手を打っているかを考えたのです。これは、Backcastといわれるプロセスです。
まず二〇〇七年の時点で、すべての人はスマートフォンを持ち、インターネットに常につながり、端末を通じてオンラインとオフラインの境目がなくなっていく。その結果、デジタルと親和性の高い金融や決済のシーンが変わる、現金など使う場面がなくなるというような未来をイメージしました。検証してみると、この予想は、行き過ぎていたかもしれませんが方向としては当たっていたと考えています。
Airレジは、日々お店の方々が使うものとして、なくてはならないものになる。そのためには、スピーディーにサービスを始めて、継続的に仕組みを磨きながら提供する機能を拡大する。さらに周辺のサービスの集合体と連携し、最終的にそれらがエコシステムとして回っていくようにしたいという構想を持っていました。
いまはまだ存在していなくても、将来はこういったものが必要となってくるからそれらを予めつくっておこうと思って事業を始めたのです。
以下、二つのフレームワークについては、自分たちが何としてもやるべきであるという覚悟を決めてスタートしました。ひとつは、ビジネス的に価値がある、未来も見据えて技術的に実現が可能、ユーザーにとって価値があるという三要素の交差点。もうひとつは、情熱を持って取り組める、自社が世界一になれる、経済的原動力になる、という三要素の交差点。これらは、リクルートでは最も大切にしているものですので、この二つの交差点を意識して未来に向けての構想を練っていきました。
立ち上げた五つのサービスの中で、Airレジだけが残った
仕事におけるアナログの部分にITを導入することで、面倒な業務からお店の方々を解放してあげたい。これが初期のAirレジのコンセプトです。
プロダクト、体験、ビジネスモデル、生態系、組織、人材、カルチャー、評価制度、これらすべてをデザインし、時には変化を加えながら、この数年でいくつかのサービスを立ち上げてきました。
具体的にいうと、私の主導で五つのサービスを稼働させましたが、その中でいま、残っているのはAirレジだけです。他の四つのサービスに関しても、それぞれ可能性や意義は実感していましたが、利用者数が思ったように仲びていないという理由で、全部やめました。これは、本当に苦しい決断でした。ただし、「未来にとっての当たり前」をつくろうとチャレンジをすることに対して、百発百中で成功することはない。多くの試行錯誤が不可欠ですし、自分自身を鼓舞してチャレンジし続けるしかないのが、現実です。では、どのようにA・lrレジを立ち上げたのか、具体的なプロセスを説明します。
最初行ったのは、ユーザー対象となる人たちを深く知ることです。調査といえば、相手に話を聞きに行くヒアリングを想定しがちですが、このやり方だと、本人が自覚していることしか話に出てきません。「いま使っているレジはどうですか」「POSに不満はありますか」という質問に対しても、「あまり気にしたことがない」「料金が高い」といった想像可能な答えが返ってくるだけです。
では、どうすればいいのか。それは、ユーザーをよく観察して、その人になりきることです。たとえば、仕事中ずっと一緒にいてその人の一挙手一投足を観察してみる。そうすれば、その人が本当に解決してほしいと思っていることが見えてきます。
飲食店でアルバイトをさせてもらったこともあります。すると、ヒアリングだけでは見えてこない飲食店経営の実態が浮かび上がってくるのです。
閉店時間は午後一〇時か一一時くらいですが、そのあとに当日の売上を確認するレジ閉めがあり三〇~四〇分くらいかかる。すると閉店が遅れた場合、従業員が終電に間に合わなくなることもある。
個人店舗の場合、オーナーがすべて把握していなければならないため、休むことができない、人手が足りない、なかなかいい人を採用できない、採用してもすぐ辞められてしまう、売上や経費を正確に把握できていないなど、調査の結果、多くの飲食店がこのような問題を抱えていることがわかったのです。
この問題を解決するために私たちが貢献できることは何かと考え続けて、生まれたのがAirレジでした。
その際に、ユーザーに対してどのような価値を大切にしてサービスをつくっていくかという「ブレない軸」が必要ですが、それらをまとめたのが図12です。
キャッシュレジスターの使い方は簡単ですが、数万円する。しかも、ネットにつながっていないため便利な機能には制限がかかります。
ネットにつながったレジスターは、これよりも少し便利になりますが、二〇万円ほどします。
コンビニなどが使っているPOSシステムは、高機能ですが複雑で、数十万円もかかります。
このように、レジスターは、機能が増えれば増えるほど、操作は複雑になって価格も高くなるので、私たちは高機能かつ誰でも使えて価格が安いものを目指しました。つまりシンプルで、簡単で、スマートで、誰にでも手が届くPOSレジをつくれば、必ずユーザーに選んでいただけるという確信を持ったのです。
では、商品にするためにはどうすればいいか。まず画用紙にアプリ画面のイメージを描いた紙芝居をつくり、それを使ってお客さんに説明し、その後はβ版アプリを数名でつくってフィールドテストを行いました。現場の意見をきいて改善を繰り返し、レジに必要な機能を備えて予約や在庫管理まで可能なアプリが完成したのです。
現在、Airレジのユーザーは二五万人ですが、私たちはこの人数をマクロの観点でとらえていません。一人ひとりのューザーの、帰ることができない、休むことができない、人手不足、費用がかさむ、状況がわからないという課題をどう解決していくかというミクロの観点でとらえています。これからも、一人ひとりの体験、一人ひとりのストーリーを見続けてさまざまなチャレンジを行っていくつもりです。自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながる
ここまでAirレジというPOSレジの話を中心にしてきましたが、この話はもともと「お店の人たちの課題に寄り添って解決する」ことから出てきたものです。Airレジは第一歩で、今後POSレジでは不可能なレジ回りの課題解決へと、サービスの幅を広げていくつもりです。
すでに、順番待ちの不満を解消する受付管理アプリ「Airウェイト」、予約管理をシンプルにするウェブサービス「Airリザーブ」、カードも電子マネーも利用できるお得な決済サービス「Airペイメント」、訪日外国人を呼び込む決済サービス「モバイル決済forAirレジ」のサービスをスタートさせ、多くのューザーに使っていただいています。しかも、これらは、AirレジのIDで使えるようになっていて、面倒なID登録の必要がなく直観的に使うことができますし、それぞれのサービスで蓄積されたデータをすべてのAirサービスで活用できるように設計されています。
これらのサービスは、使えば使うほど、業務の効率化につながります。加えて、自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながり、提供価値を高め合うことも積極的に行っています。
最初にアライアンスを組んだのは、決済サービスを提供しているSquareです。Airレジを立ち上げる前からSquareと連携することでお店の課題を解決できると確信していました。そのためSquareが日本に上陸した際、Airレジと組むことで双方のバリューが上がる交渉をして、アライアンスが実現しました。それ以外にも会計サービスを提供しているfreeeとも同じタイミングで連携しています。
現在、Squareやfreeeのほかにも複数のサービスと連携しています。そこには従業員管理、仕入れ・発注、給与計算、勤怠・シフト管理、会計、予約・順番管理、集客などがあります。
こうしてAirレジを中心としたエコシステムを構築していけば、レジ機能はあまり必要ないけれども決済機能はほしいという方もAirレジを使っていただける。さらに多くのサービスを使えば使うほど便利になり、Airレジはユーザーにとって「なくてはならない存在」となるのです。
今後、Googleが最大のライバルになる
一〇年前、リクルートは差別化の戦略として、ューザーに喜ばれる価値をどのように提供し続けていくか?明るい未来だけではなく、我々が必要とされなくなる暗い未来が起こる危険性を議論していました。
オフラインにあるものがデジタル化され、オンラインに移行するとソフトウェアの価値が非常に高まります(Software is eating the world.)。そうなると、最終的にはGoogleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと心配したのです。
当時リクルートにとって仮想のライバルは、旅行領域であれば楽天トラベル、飲食領域であれば、ぐるなび、食ベログでした。これまでは、同じ領域の似たような競合とどのように競っていくかが主でしたが、今後は、彼らではなくEC分野に進出したGoogleが、強力なライバルとして立ちはだかると予想したのです。つまり、Googleがすべてをのみ込んでしまうのではないかと。
もちろん、ただ状況を眺めていたわけではなく、以下のような領域で勝負できると考えていました。
・Googleが得意でないこと
・Googleがやろうとしないこと
・Googleがやろうとしてもできないこと
・私たちリクルートだからできること
自分たちの活路はこれらにあるのではないかと、連日のように議論を行いました。そして出てきたのが、四つのキーワードでした。
・リアル
・ローカル
・お店
・フロー情報
Googleはネットを主戦場とするプレーヤーなので、リアルに関しては明らかにリクルートに分かあります。これは、口ーカルやお店に関しても同様です。
さらにフロー情報。Googleはクローラーと呼ばれる検索エンジンで、ネット上にあるあらゆる情報を収集するクローリングを行っていますが、クローリングに引っ掛からないのは、リアルタイムに流れるフロー情報です。
私たちがGoogleに勝つためには、リアル、ローカル、お店、フロー情報から、Googleが持ち得ないものを獲得する必要があります。この四つのキーワードを踏まえて、「独自性があり、かつ大量のコンテンツをもつことが継続的に可能なエンジン」を構築するべきと結論づけて、生まれたのがこのAirレジです。
一〇年後の社会を想定して手を打つ
リクルートは、BtoCビジネスやBtoBtoCビジネスを長く運営していて、今回のAirレジの着想はこれらの経験をもとに、我々は未来にどんな貢献ができるかを考え続ける中で生まれました。まず遠い未来を考える、さらに近い未来に戻ってきて考えるという手法をとったのです。三年後にフォーカスするなら、まずはI〇年後の社会がどう変わっているかを考える。次に、そこから七年前に時間が戻ったと仮定して、どんな未来になっていて、どんな手を打っているかを考えたのです。これは、Backcastといわれるプロセスです。
まず二〇〇七年の時点で、すべての人はスマートフォンを持ち、インターネットに常につながり、端末を通じてオンラインとオフラインの境目がなくなっていく。その結果、デジタルと親和性の高い金融や決済のシーンが変わる、現金など使う場面がなくなるというような未来をイメージしました。検証してみると、この予想は、行き過ぎていたかもしれませんが方向としては当たっていたと考えています。
Airレジは、日々お店の方々が使うものとして、なくてはならないものになる。そのためには、スピーディーにサービスを始めて、継続的に仕組みを磨きながら提供する機能を拡大する。さらに周辺のサービスの集合体と連携し、最終的にそれらがエコシステムとして回っていくようにしたいという構想を持っていました。
いまはまだ存在していなくても、将来はこういったものが必要となってくるからそれらを予めつくっておこうと思って事業を始めたのです。
以下、二つのフレームワークについては、自分たちが何としてもやるべきであるという覚悟を決めてスタートしました。ひとつは、ビジネス的に価値がある、未来も見据えて技術的に実現が可能、ユーザーにとって価値があるという三要素の交差点。もうひとつは、情熱を持って取り組める、自社が世界一になれる、経済的原動力になる、という三要素の交差点。これらは、リクルートでは最も大切にしているものですので、この二つの交差点を意識して未来に向けての構想を練っていきました。
立ち上げた五つのサービスの中で、Airレジだけが残った
仕事におけるアナログの部分にITを導入することで、面倒な業務からお店の方々を解放してあげたい。これが初期のAirレジのコンセプトです。
プロダクト、体験、ビジネスモデル、生態系、組織、人材、カルチャー、評価制度、これらすべてをデザインし、時には変化を加えながら、この数年でいくつかのサービスを立ち上げてきました。
具体的にいうと、私の主導で五つのサービスを稼働させましたが、その中でいま、残っているのはAirレジだけです。他の四つのサービスに関しても、それぞれ可能性や意義は実感していましたが、利用者数が思ったように仲びていないという理由で、全部やめました。これは、本当に苦しい決断でした。ただし、「未来にとっての当たり前」をつくろうとチャレンジをすることに対して、百発百中で成功することはない。多くの試行錯誤が不可欠ですし、自分自身を鼓舞してチャレンジし続けるしかないのが、現実です。では、どのようにA・lrレジを立ち上げたのか、具体的なプロセスを説明します。
最初行ったのは、ユーザー対象となる人たちを深く知ることです。調査といえば、相手に話を聞きに行くヒアリングを想定しがちですが、このやり方だと、本人が自覚していることしか話に出てきません。「いま使っているレジはどうですか」「POSに不満はありますか」という質問に対しても、「あまり気にしたことがない」「料金が高い」といった想像可能な答えが返ってくるだけです。
では、どうすればいいのか。それは、ユーザーをよく観察して、その人になりきることです。たとえば、仕事中ずっと一緒にいてその人の一挙手一投足を観察してみる。そうすれば、その人が本当に解決してほしいと思っていることが見えてきます。
飲食店でアルバイトをさせてもらったこともあります。すると、ヒアリングだけでは見えてこない飲食店経営の実態が浮かび上がってくるのです。
閉店時間は午後一〇時か一一時くらいですが、そのあとに当日の売上を確認するレジ閉めがあり三〇~四〇分くらいかかる。すると閉店が遅れた場合、従業員が終電に間に合わなくなることもある。
個人店舗の場合、オーナーがすべて把握していなければならないため、休むことができない、人手が足りない、なかなかいい人を採用できない、採用してもすぐ辞められてしまう、売上や経費を正確に把握できていないなど、調査の結果、多くの飲食店がこのような問題を抱えていることがわかったのです。
この問題を解決するために私たちが貢献できることは何かと考え続けて、生まれたのがAirレジでした。
その際に、ユーザーに対してどのような価値を大切にしてサービスをつくっていくかという「ブレない軸」が必要ですが、それらをまとめたのが図12です。
キャッシュレジスターの使い方は簡単ですが、数万円する。しかも、ネットにつながっていないため便利な機能には制限がかかります。
ネットにつながったレジスターは、これよりも少し便利になりますが、二〇万円ほどします。
コンビニなどが使っているPOSシステムは、高機能ですが複雑で、数十万円もかかります。
このように、レジスターは、機能が増えれば増えるほど、操作は複雑になって価格も高くなるので、私たちは高機能かつ誰でも使えて価格が安いものを目指しました。つまりシンプルで、簡単で、スマートで、誰にでも手が届くPOSレジをつくれば、必ずユーザーに選んでいただけるという確信を持ったのです。
では、商品にするためにはどうすればいいか。まず画用紙にアプリ画面のイメージを描いた紙芝居をつくり、それを使ってお客さんに説明し、その後はβ版アプリを数名でつくってフィールドテストを行いました。現場の意見をきいて改善を繰り返し、レジに必要な機能を備えて予約や在庫管理まで可能なアプリが完成したのです。
現在、Airレジのユーザーは二五万人ですが、私たちはこの人数をマクロの観点でとらえていません。一人ひとりのューザーの、帰ることができない、休むことができない、人手不足、費用がかさむ、状況がわからないという課題をどう解決していくかというミクロの観点でとらえています。これからも、一人ひとりの体験、一人ひとりのストーリーを見続けてさまざまなチャレンジを行っていくつもりです。自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながる
ここまでAirレジというPOSレジの話を中心にしてきましたが、この話はもともと「お店の人たちの課題に寄り添って解決する」ことから出てきたものです。Airレジは第一歩で、今後POSレジでは不可能なレジ回りの課題解決へと、サービスの幅を広げていくつもりです。
すでに、順番待ちの不満を解消する受付管理アプリ「Airウェイト」、予約管理をシンプルにするウェブサービス「Airリザーブ」、カードも電子マネーも利用できるお得な決済サービス「Airペイメント」、訪日外国人を呼び込む決済サービス「モバイル決済forAirレジ」のサービスをスタートさせ、多くのューザーに使っていただいています。しかも、これらは、AirレジのIDで使えるようになっていて、面倒なID登録の必要がなく直観的に使うことができますし、それぞれのサービスで蓄積されたデータをすべてのAirサービスで活用できるように設計されています。
これらのサービスは、使えば使うほど、業務の効率化につながります。加えて、自社以外のさまざまなサービスとオープンにつながり、提供価値を高め合うことも積極的に行っています。
最初にアライアンスを組んだのは、決済サービスを提供しているSquareです。Airレジを立ち上げる前からSquareと連携することでお店の課題を解決できると確信していました。そのためSquareが日本に上陸した際、Airレジと組むことで双方のバリューが上がる交渉をして、アライアンスが実現しました。それ以外にも会計サービスを提供しているfreeeとも同じタイミングで連携しています。
現在、Squareやfreeeのほかにも複数のサービスと連携しています。そこには従業員管理、仕入れ・発注、給与計算、勤怠・シフト管理、会計、予約・順番管理、集客などがあります。
こうしてAirレジを中心としたエコシステムを構築していけば、レジ機能はあまり必要ないけれども決済機能はほしいという方もAirレジを使っていただける。さらに多くのサービスを使えば使うほど便利になり、Airレジはユーザーにとって「なくてはならない存在」となるのです。
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民主的行政と「行政の自由」
『行政学講義』より 自由と行政
民主的行政と「行政からの自由」
個人の自由という目的に対して、手段として存在する民主主義は、個人の自由を侵害してはいけないわけです。とはいえ、多数の個々人が相互に衝突することもありますから、ある程度の自由を制約しなければならない場面が出てきます。その意味で、支配の側面は発生します。個々人に支配の具体的活動として現れるのが、行政です。しかし、支配はできるだけ少ない方がよいといえましょう。したがって、行政はゼロにはできないが、行政はできるだけ少ない方がよい、という発想があります。
権力分立制とは、もともとは、君主に統治権を全て握られている状態から、立法権・司法権を分立させ、君主の行政権を制限するものでした。仮に民主的行政になったとしても、立法および司法による行政統制が必要なくなるわけではないのです。こうした状態を、「立法国家」とか「司法国家」と言います。行政が自由を過剰に侵害しないょうに法律で事前に枠を嵌め、「法律による行政」を求めます。そして、行政が活動した結果を事後的に裁判所で審査することを求めます。いわば、「行政からの自由」というわけです。「自由放任」や「小さな政府」という議論があります。実質的には行政活動を小さくするという発想です。行政活動を小さくすれば、行政によって規制されることも少なくなり、行政から租税を徴収される量も減ります。規制緩和・減税(増税反対)は、「小さな政府」のイメージと合います。
もっとも、「小さな政府」で行政活動を制約すると個々人の自由が増大するかというと、一概には何とも言えません。個々人や団体は行政と無関係に活動した結果、生存競争や弱肉強食を繰り広げることもあります。暴力・実力を持った個人・団体による、他の個人・団体に対する支配です。前者の個人の自由は増えるかもしれませんが、後者の個人の自由は減ります。そのため、「小さな政府」や「司法国家」といえども、個々人の暴力・実力行使を無制限に許すわけではないので、最低限の警察機能は必要です。「夜警国家」とも言われます。要するに、夜間警備というような、最低限のことに限る消極的な存在という意味です。
民主的行政と「行政による自由」
しかし、個々人の間の暴力・実力だけを政府が阻止すれば、個々人の自由が守られるとは限りません。市場経済活動でも、個々人は様々な権力を持ちます。市場経済とは、財力による支配です。金を持っている人、金を稼げる人が、実力’暴力を使わなくても、他人を自由に支配します。富裕層・稼ぎ主や経営手腕・経済才覚のある人は自由です。結果的には、財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の自由は、乏しいものになってしまいます。カネのある人の言うことを聞かざるを得ないのです。
こう考えると、ある程度は財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の実効的な自由を確保する必要があります。そのためには、富裕層や経営者の善意と自発性だけに頼るわけにはいきません。もし、富裕層や経営者の善意(メセナ・寄付)で全ての個々人の自由が確保できるのであれば、行政の出番はないでしょう。しかし、実際にはそうはいきません。そこで、特に経済的弱者の自由を行政によって保障する必要が出てきます。いわば、「行政による自由」です。行政の役割が大きくなるので「行政国家」です。経済的給付が必要になりますから、「大きな政府」になります。単なる夜間警備だけではないので、「サービス国家」「福祉国家」とも言われます。
民主的行政と「行政への自由」
民主主義では、個々人は平等な政治的自由を持ちます。誰かの声が誰かより強い、ということは制度的にはありません。いねば、個々人は平等に行政統制に関わる参政権・参加権を持つわけですから、「行政への自由」が民主的行政の制度です。しかし、形式的な「行政への自由」がどのような結果になるかは、自明ではありません。経済活動の自由と平等が、結果としての経済格差に繋がり得るのと、ある意味で似ています。
市場経済活動の結果により格差が生じれば、富裕層は少数になるわけですから、民主主義のもとでは多数者である経済的弱者を救済して、格差是正を目指す行政がなされるかもしれません。少なくとも、普通選挙権が認められ、大量の無産者・労働者が有権者になった、民主化の過程の初期においては、そのように考えられました。しかし、必ずしもそうはなりませんでした。市場経済で成功した経済的強者は数は少なくとも、政治活動でも潤沢な財力と、様々な経営手腕と、能力主義のもとでの社会的名声などを持つわけですから、民主主義のもとでも権力を持ちます。こうなると、多数の中産層・貧困層が、富裕層からの「おこぼれ(トリクルダウン)」に期待することも、不思議ではありません。したがって、「行政への自由」を含む民主的行政によって、「行政による自由≒が平等に個々人に保障されるとはかぎらないのです。
政治的才覚と経済的才覚が異なるときは、「行政による自由」が達成される可能性もあります。端的に言って、経済的弱者が政治的強者であり、経済的強者が政治的弱者である、という組み合わせのときです。しかし、経済的弱者と経済的強者が、政治的には同等であれば、行政によって経済格差を埋めることはできませんから、「行政による自由」は達成できません。また、経済的強者が同時に政治的強者であれば、行政による格差是正などあり得ません。市場経済による格差を放置するか、さらには、経済格差をより拡大する行政を進めることすら可能です。この場合、貧困層にとっては、行政は活動すればするほど経済状況は悪くなるのですから、せめて「行政からの自由」を求めることになるでしょう。
民主的行政と「行政からの自由」
個人の自由という目的に対して、手段として存在する民主主義は、個人の自由を侵害してはいけないわけです。とはいえ、多数の個々人が相互に衝突することもありますから、ある程度の自由を制約しなければならない場面が出てきます。その意味で、支配の側面は発生します。個々人に支配の具体的活動として現れるのが、行政です。しかし、支配はできるだけ少ない方がよいといえましょう。したがって、行政はゼロにはできないが、行政はできるだけ少ない方がよい、という発想があります。
権力分立制とは、もともとは、君主に統治権を全て握られている状態から、立法権・司法権を分立させ、君主の行政権を制限するものでした。仮に民主的行政になったとしても、立法および司法による行政統制が必要なくなるわけではないのです。こうした状態を、「立法国家」とか「司法国家」と言います。行政が自由を過剰に侵害しないょうに法律で事前に枠を嵌め、「法律による行政」を求めます。そして、行政が活動した結果を事後的に裁判所で審査することを求めます。いわば、「行政からの自由」というわけです。「自由放任」や「小さな政府」という議論があります。実質的には行政活動を小さくするという発想です。行政活動を小さくすれば、行政によって規制されることも少なくなり、行政から租税を徴収される量も減ります。規制緩和・減税(増税反対)は、「小さな政府」のイメージと合います。
もっとも、「小さな政府」で行政活動を制約すると個々人の自由が増大するかというと、一概には何とも言えません。個々人や団体は行政と無関係に活動した結果、生存競争や弱肉強食を繰り広げることもあります。暴力・実力を持った個人・団体による、他の個人・団体に対する支配です。前者の個人の自由は増えるかもしれませんが、後者の個人の自由は減ります。そのため、「小さな政府」や「司法国家」といえども、個々人の暴力・実力行使を無制限に許すわけではないので、最低限の警察機能は必要です。「夜警国家」とも言われます。要するに、夜間警備というような、最低限のことに限る消極的な存在という意味です。
民主的行政と「行政による自由」
しかし、個々人の間の暴力・実力だけを政府が阻止すれば、個々人の自由が守られるとは限りません。市場経済活動でも、個々人は様々な権力を持ちます。市場経済とは、財力による支配です。金を持っている人、金を稼げる人が、実力’暴力を使わなくても、他人を自由に支配します。富裕層・稼ぎ主や経営手腕・経済才覚のある人は自由です。結果的には、財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の自由は、乏しいものになってしまいます。カネのある人の言うことを聞かざるを得ないのです。
こう考えると、ある程度は財力のない人、稼げない人、経営手腕・経済才覚のない人の実効的な自由を確保する必要があります。そのためには、富裕層や経営者の善意と自発性だけに頼るわけにはいきません。もし、富裕層や経営者の善意(メセナ・寄付)で全ての個々人の自由が確保できるのであれば、行政の出番はないでしょう。しかし、実際にはそうはいきません。そこで、特に経済的弱者の自由を行政によって保障する必要が出てきます。いわば、「行政による自由」です。行政の役割が大きくなるので「行政国家」です。経済的給付が必要になりますから、「大きな政府」になります。単なる夜間警備だけではないので、「サービス国家」「福祉国家」とも言われます。
民主的行政と「行政への自由」
民主主義では、個々人は平等な政治的自由を持ちます。誰かの声が誰かより強い、ということは制度的にはありません。いねば、個々人は平等に行政統制に関わる参政権・参加権を持つわけですから、「行政への自由」が民主的行政の制度です。しかし、形式的な「行政への自由」がどのような結果になるかは、自明ではありません。経済活動の自由と平等が、結果としての経済格差に繋がり得るのと、ある意味で似ています。
市場経済活動の結果により格差が生じれば、富裕層は少数になるわけですから、民主主義のもとでは多数者である経済的弱者を救済して、格差是正を目指す行政がなされるかもしれません。少なくとも、普通選挙権が認められ、大量の無産者・労働者が有権者になった、民主化の過程の初期においては、そのように考えられました。しかし、必ずしもそうはなりませんでした。市場経済で成功した経済的強者は数は少なくとも、政治活動でも潤沢な財力と、様々な経営手腕と、能力主義のもとでの社会的名声などを持つわけですから、民主主義のもとでも権力を持ちます。こうなると、多数の中産層・貧困層が、富裕層からの「おこぼれ(トリクルダウン)」に期待することも、不思議ではありません。したがって、「行政への自由」を含む民主的行政によって、「行政による自由≒が平等に個々人に保障されるとはかぎらないのです。
政治的才覚と経済的才覚が異なるときは、「行政による自由」が達成される可能性もあります。端的に言って、経済的弱者が政治的強者であり、経済的強者が政治的弱者である、という組み合わせのときです。しかし、経済的弱者と経済的強者が、政治的には同等であれば、行政によって経済格差を埋めることはできませんから、「行政による自由」は達成できません。また、経済的強者が同時に政治的強者であれば、行政による格差是正などあり得ません。市場経済による格差を放置するか、さらには、経済格差をより拡大する行政を進めることすら可能です。この場合、貧困層にとっては、行政は活動すればするほど経済状況は悪くなるのですから、せめて「行政からの自由」を求めることになるでしょう。
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研究に切り替えましょう
研究に切り替えましょう
「存在の力」があるうちに研究に切り替えます。自分しかないのだからかっこつけることないです。ただし悟られないように。それを感じた途端に右足がつってきました。
これは警告でしょう。他者を気づせずにやるしかない。
四年に一回の戯れ言
オリンピック関連で「カー娘」って何なんだ。車と娘? 頭おかしいんじゃないの。
「ニコニコ日記」の思い出
大杉漣と木村文乃?で一つのドラマを思い出した。私は唯一、DVDを持っているドラマが「ニコニコ日記」です。ニコちゃんが未唯そっくり! 小鳥遊(たかなし)という名前が記憶に残っている。ニコちゃんの永井杏は女優なると思っていた。
年齢が一回り違うと思ったら、木村佳乃だった。
「存在の力」があるうちに研究に切り替えます。自分しかないのだからかっこつけることないです。ただし悟られないように。それを感じた途端に右足がつってきました。
これは警告でしょう。他者を気づせずにやるしかない。
四年に一回の戯れ言
オリンピック関連で「カー娘」って何なんだ。車と娘? 頭おかしいんじゃないの。
「ニコニコ日記」の思い出
大杉漣と木村文乃?で一つのドラマを思い出した。私は唯一、DVDを持っているドラマが「ニコニコ日記」です。ニコちゃんが未唯そっくり! 小鳥遊(たかなし)という名前が記憶に残っている。ニコちゃんの永井杏は女優なると思っていた。
年齢が一回り違うと思ったら、木村佳乃だった。
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悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない
『メイキング・オブ・勉強の哲学』より 別のエコノへミーへ
悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない
いまの社会は、「大学で学ぶことがすぐに役に立つ、食い扶持につながる」という実学的な意味を求め過ぎていますよね。もちろん、そういう視点も必要だけど、もっと長期的に問題を考える力も必要だということを言っていかないといけない。一方では、文化論のような、一見すると趣味みたいに思える分野も、新しい商品やサービスの企画を考えるのに有用なのだと説明することもできます。しかし、もっと根本的に、「思考力のベース」を鍛えるために教養的な学びが必要なのだということをもっと言っていかなければなりません。
もっとも、教養教育の重要性をたんに声高に強調するのでは不十分です。いま、「学ぶこと」の有用性以外の価値について根本から考え直す必要がある。僕としては、とくに人文系の学問を再定義するような仕事が急務だと思っています。僕のこれからの研究では、そこにつながる考察をする予定です。もう少し言えば、それは、「人文系「も」役に立つよ」という話を越えるためのプロジェクトです。これについてはまだアイデアを温め中ですが、ともかく、「無駄なものだからこそいい」などと言っているのでは、たんに無能なだけです。それでは、プレゼン能力がありませんと言っているようなものです。
哲学の有用性をどう説くか。おそらく、哲学の本質主義者みたいな人の存在によって、巨大な謎にぶつかって悩んでフリーズすることこそが哲学だ、みたいなイメージが一般的にあると思います。巨大な謎を相手にするというのは確かにそうなのですが、でも実際にはただフリーズするのではなく、哲学者は工夫して議論を組み立てているのです。言語を駆使して。
哲学をするというと、じっと静かに考えているようなイメージがあるかもしれない。でも実際にはそれだけではなくて、もっと活動的な面があります。図を描いたりして、手をひっきりなしに動かしている。仲間と語り合うこともよくあります。哲学者は「概念を操作する労働」を日々たくさんしているのです。そういう建設的な面をアピールした方が、哲学の一般的印象も良くなるのではないかと思います。
行き詰まりと有限性
新しいアイデアが生まれるためには、環境の有限性が大事です。ところで僕の場合、行き詰まっているときに「あ、そうか!」と突破口が見つかるのは、もっぱら朝です。作業を区切って=有限化して、寝ることが大事。外山滋比古も『思考の整理学』(ちくま文庫)のなかで、寝ることの大切さを説いています。いったん中断し、寝ている間に考えが整理され、発酵する。だから、僕は寝る時間を作業予定のなかに組み込んでいます。朝一に締め切りがあるような場合を除いては、基本的に徹夜はしません。たんに休みが必要だというだけではなく、区切って作業すること、作業の有限化は、考えの形成にとって本質的に必要なことなのだと思います。
それから行き詰まりの解決法として有効なのは、友達としゃべることです。迷惑をかけてしまいますが、僕は、突然電話をして「ところでいまこういうことを考えてるんだけれど、どう思う?」みたいなことをいきなり聞きます。他者に説明することで、行き詰まりのポイントを客観視できるし、ちょっとした掛け合いが突破口になることもある。話すことはすごく重要です。他者は、自分とは異なる価値観で判断するので、自分一人で考えていたときには無限に続くかに思われた悩みのループも、あっさり切断してくれることがよくあります。そういう意味で、他者=友人も有限化の装置なのです。僕の書くものには必ず、いろいろな人とのやり取りが織り込まれています。
もちろん、本を読んで突破することもあります。インプットが足りないから仕事が進まない、ということはよくあります。すぐに電子書籍で買ってパッと読む。で、それを元にまた考える。……こんなふうに、基本的に僕は動きすぎなんです。博士論文を元にした最初の本『動きすぎてはいけない--ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』では、「動きすぎてはいけない」と自分で自分を律しているわけなんです。しかし、先ほど説明したように、僕は寝ることの「生産性」も言おうとしてしまう。これはおそらく僕の強迫観念なのです。きっと何かを生産していないと不安なんです。ただただ非生産的であるような状態に耐えられない、そうなのかもしれない。『動きすぎてはいけない』のテーマである「非意味的切断」は、生産性にどう距離を取るかという僕の実存的な問題に関わっているのかもしれません。
悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない
いまの社会は、「大学で学ぶことがすぐに役に立つ、食い扶持につながる」という実学的な意味を求め過ぎていますよね。もちろん、そういう視点も必要だけど、もっと長期的に問題を考える力も必要だということを言っていかないといけない。一方では、文化論のような、一見すると趣味みたいに思える分野も、新しい商品やサービスの企画を考えるのに有用なのだと説明することもできます。しかし、もっと根本的に、「思考力のベース」を鍛えるために教養的な学びが必要なのだということをもっと言っていかなければなりません。
もっとも、教養教育の重要性をたんに声高に強調するのでは不十分です。いま、「学ぶこと」の有用性以外の価値について根本から考え直す必要がある。僕としては、とくに人文系の学問を再定義するような仕事が急務だと思っています。僕のこれからの研究では、そこにつながる考察をする予定です。もう少し言えば、それは、「人文系「も」役に立つよ」という話を越えるためのプロジェクトです。これについてはまだアイデアを温め中ですが、ともかく、「無駄なものだからこそいい」などと言っているのでは、たんに無能なだけです。それでは、プレゼン能力がありませんと言っているようなものです。
哲学の有用性をどう説くか。おそらく、哲学の本質主義者みたいな人の存在によって、巨大な謎にぶつかって悩んでフリーズすることこそが哲学だ、みたいなイメージが一般的にあると思います。巨大な謎を相手にするというのは確かにそうなのですが、でも実際にはただフリーズするのではなく、哲学者は工夫して議論を組み立てているのです。言語を駆使して。
哲学をするというと、じっと静かに考えているようなイメージがあるかもしれない。でも実際にはそれだけではなくて、もっと活動的な面があります。図を描いたりして、手をひっきりなしに動かしている。仲間と語り合うこともよくあります。哲学者は「概念を操作する労働」を日々たくさんしているのです。そういう建設的な面をアピールした方が、哲学の一般的印象も良くなるのではないかと思います。
行き詰まりと有限性
新しいアイデアが生まれるためには、環境の有限性が大事です。ところで僕の場合、行き詰まっているときに「あ、そうか!」と突破口が見つかるのは、もっぱら朝です。作業を区切って=有限化して、寝ることが大事。外山滋比古も『思考の整理学』(ちくま文庫)のなかで、寝ることの大切さを説いています。いったん中断し、寝ている間に考えが整理され、発酵する。だから、僕は寝る時間を作業予定のなかに組み込んでいます。朝一に締め切りがあるような場合を除いては、基本的に徹夜はしません。たんに休みが必要だというだけではなく、区切って作業すること、作業の有限化は、考えの形成にとって本質的に必要なことなのだと思います。
それから行き詰まりの解決法として有効なのは、友達としゃべることです。迷惑をかけてしまいますが、僕は、突然電話をして「ところでいまこういうことを考えてるんだけれど、どう思う?」みたいなことをいきなり聞きます。他者に説明することで、行き詰まりのポイントを客観視できるし、ちょっとした掛け合いが突破口になることもある。話すことはすごく重要です。他者は、自分とは異なる価値観で判断するので、自分一人で考えていたときには無限に続くかに思われた悩みのループも、あっさり切断してくれることがよくあります。そういう意味で、他者=友人も有限化の装置なのです。僕の書くものには必ず、いろいろな人とのやり取りが織り込まれています。
もちろん、本を読んで突破することもあります。インプットが足りないから仕事が進まない、ということはよくあります。すぐに電子書籍で買ってパッと読む。で、それを元にまた考える。……こんなふうに、基本的に僕は動きすぎなんです。博士論文を元にした最初の本『動きすぎてはいけない--ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』では、「動きすぎてはいけない」と自分で自分を律しているわけなんです。しかし、先ほど説明したように、僕は寝ることの「生産性」も言おうとしてしまう。これはおそらく僕の強迫観念なのです。きっと何かを生産していないと不安なんです。ただただ非生産的であるような状態に耐えられない、そうなのかもしれない。『動きすぎてはいけない』のテーマである「非意味的切断」は、生産性にどう距離を取るかという僕の実存的な問題に関わっているのかもしれません。
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ハンガリーの学校教育 個性重視と多様な選択肢、才能発掘
『ハンガリーを知るための60章』より
水準が高いと言われるハンガリーの教育を日本人の眼から見て特徴付けるとすれば、個性重視と多様性ということだろうか。とにかく選択の幅がとても広い。小学校から専門的な分野に特化する学校がいろいろあるので、本人の興味や希望、親の関心才能などにあわせて音楽やスポーツ、数学、語学など小さいうちから専門的な教育を受ける機会が保障されている。
小学校へ入るにも子供の発達程度と親の意向により1~2年の幅が設けてあるので、ピカピカの一年生も皆同じ年齢ではない。義務教育は通常4年プラス4年の8年、これが日本の小中学校に当たる基礎教育、その後高校が4年間で、大学までに12年を要するのは日本と同じである。既に高校も義務教育に準じる扱いで、最近は16歳まで学校に通うことが義務になった。高校になると学校間の差ができて、名門校への進学は難関となる。キリスト教系の学校などでは中高一貫教育で高いレベルを達成するところもある。
授業は基本的にお昼までで、科目が増えて午後にかかる高学年になっても、皆で一斉に昼食ではなく、おなかが空いた人は適当に軽食を取り、一般授業が終わってからお昼ごはんになる。帰宅する子供は帰宅するし、希望者は学食で食事をする。そして午後は選択に応じて様々な専門的教育が行われる。
また、二カ国語学校といって国語や自国の歴史以外を外国語で授業するところもある。おもに英語、ドイツ語などヨーロッパの主要言語に限られているが、こういう学校を出ると格段に語学も上達するようだ。
一クラスの人数も、以前は25人くらいと恵まれていたが、最近はちょっと増えて30人程度が平均的。そして試験、というか達成度を測る手段はもっぱら口答で行われる。これもハンガリーの特徴と思うのだが、大学でも口答試験が重要な位置を占めている。口答試験というのは総合的な深い理解とそれを的確に表現する力が試される。生徒の答えによって先生が次々に質問を発展させていくので、知識の丸暗記ではだめなのだ。日本からここへ留学すると慣れていないのでカルチャーショックである。ハンガリーでは小学校から先生の質問に口頭で答えるということをずっとやってきているので、自然とそれが身についている。議論好き、おしゃべり好きの国民性はどうやらこんなところに背景があるらしい。長い夏休みには宿題もないというし、制服などとも無縁。子供たちはじつにのびのびと育っている。
ハンガリーはヨーロッパの中堅的な王国として豊かな歴史と文化を築いてきたので、教育も古い伝統に培われている。20世紀には二つの大戦の敗北や共産主義のせいで教育現場も困難な時期が続いた。それでも何人ものノーベル賞受賞者を輩出し、発明家や音楽家、スポーツ選手など日本でも知られる世界的な人材を送り出している。個性を重視し、才能を育てることには社会のなかにコンセンサスができているようだ。
小さい時からその才能が現れる音楽やバレエ、スポーツなどについては特別な英才教育を施す機関があり、全国から選抜された一握りの子供たちがその道の大家から専門的教育を受けている。たとえばリスト音楽院には〝特別才能クラス〟があり、選ばれた小学生くらいの子供たちは午前中普通科目、午後は毎日専門教科の実技、ソルフェージュ、楽典などの授業を受けている。専門家に囲まれた環境のなかで舞台の経験をどんどん積んで演奏家に育っていく彼らを見ていると、ハンガリーが音楽大国として世界に君臨する様子がよくわかる。国にとっても本人にとっても特別な力を引き出すしくみが整っているのは幸せなことなのだろう。開花した才能による芸術を楽しむのは一般の国民なのだから……。もちろんもう少し一般的な音楽教育をする音楽小学校などは地区ごとに設けられていて、裾野のケアもしっかりしている。
また、共産主義時代に禁止されていた宗教教育も体制転換後、徐々に復活した。学校では入学時に親の意向で道徳教育科目をどれにするか選択できる。キリスト教のどの宗派か、あるいは宗教に属さないかを選んで決めている。その時間になるとクラスは皆分散し、宗派から各々神父さんたちが学校へ教えに来ている。昨今、日常的に教会へ通う人はそれほど多くないのだが、やはり幼児洗礼は習慣として行われていて、多くの親御さんがキリスト教の教義を子供のために選んでいるという。
さて、そんなハンガリーであるが、EUに加盟したので、この十年はさまざまな変革が行われた。特に大学はほとんどがボローニャ体制に組み込まれて、学士課程3年、修士2年、博士3年という枠組みに変わった。そして定員も大幅増、並行して大学の数も一気に増えた。長い間大学進学率は12%ほどで、エリートが行くところだったが、最近はすでに30%を超えている。時代と社会のニーズに合わせて学科もどんどん新設されたし、専門大学もたくさん出来た。人気は今どきでコミュニケーションや心理学、歴史も根強い人気がある。語学の中では日本語人気も非常に高い。授業料は今も昔も小学校から大学までずっと無料である。しかし数年前に大学の学生数が増えてから初めて、成績に準じ、一部の学生から授業料を徴収している。
他の欧州諸国と同様、ハンガリーでも高校卒業の全国一律試験があり、これだけは統一された基準で行われる。そして今は大学入学試験をも兼ねている。高卒資格と同時に大学入試という若い人たちにとって人生の岐路となる一大イベントだ。これに語学試験点数などいくつかの加点項目があり、大学入学が決まる。合理的で平等なようだが、大学が独自の入学試験を出来なくなったので、以前、専門の試験を課していた学科などには戸惑いも多かった。日本学科もその一例である。一方、外国留学は格段に広がったし、時代のニーズに合う人材の教育に力を入れている。新制度の評価はこれからであろう。研究者になると博士号取得の後には教授昇進資格のハビリテーション、その上にはアカデミーの大博士号というのもあって、上には上の資格が用意されている。高等教育における教育年数や制度の違いが日本との間にもあり、これらをお互いにどう擦り合わせていくかも、グローバル化の中で今後の課題である。
というわけでハンガリー教育の良さ、それも日本と違う点を主に紹介してきたが、そうすると、たとえば日本人が得手な、言われたことを早く正確に一斉に秩序だってやる、といったことはあまり得意でない人が多いのも事実である。集団か個人か、といった考え方の違いがよく出ている。学校の自由度が高いため、学閥的な現象もないし、同級生の帰属意識など希薄なようだ。国家の計は教育にありというが、国民性を形成するのに教育がいかに大きく影響するかを痛感するところである。
水準が高いと言われるハンガリーの教育を日本人の眼から見て特徴付けるとすれば、個性重視と多様性ということだろうか。とにかく選択の幅がとても広い。小学校から専門的な分野に特化する学校がいろいろあるので、本人の興味や希望、親の関心才能などにあわせて音楽やスポーツ、数学、語学など小さいうちから専門的な教育を受ける機会が保障されている。
小学校へ入るにも子供の発達程度と親の意向により1~2年の幅が設けてあるので、ピカピカの一年生も皆同じ年齢ではない。義務教育は通常4年プラス4年の8年、これが日本の小中学校に当たる基礎教育、その後高校が4年間で、大学までに12年を要するのは日本と同じである。既に高校も義務教育に準じる扱いで、最近は16歳まで学校に通うことが義務になった。高校になると学校間の差ができて、名門校への進学は難関となる。キリスト教系の学校などでは中高一貫教育で高いレベルを達成するところもある。
授業は基本的にお昼までで、科目が増えて午後にかかる高学年になっても、皆で一斉に昼食ではなく、おなかが空いた人は適当に軽食を取り、一般授業が終わってからお昼ごはんになる。帰宅する子供は帰宅するし、希望者は学食で食事をする。そして午後は選択に応じて様々な専門的教育が行われる。
また、二カ国語学校といって国語や自国の歴史以外を外国語で授業するところもある。おもに英語、ドイツ語などヨーロッパの主要言語に限られているが、こういう学校を出ると格段に語学も上達するようだ。
一クラスの人数も、以前は25人くらいと恵まれていたが、最近はちょっと増えて30人程度が平均的。そして試験、というか達成度を測る手段はもっぱら口答で行われる。これもハンガリーの特徴と思うのだが、大学でも口答試験が重要な位置を占めている。口答試験というのは総合的な深い理解とそれを的確に表現する力が試される。生徒の答えによって先生が次々に質問を発展させていくので、知識の丸暗記ではだめなのだ。日本からここへ留学すると慣れていないのでカルチャーショックである。ハンガリーでは小学校から先生の質問に口頭で答えるということをずっとやってきているので、自然とそれが身についている。議論好き、おしゃべり好きの国民性はどうやらこんなところに背景があるらしい。長い夏休みには宿題もないというし、制服などとも無縁。子供たちはじつにのびのびと育っている。
ハンガリーはヨーロッパの中堅的な王国として豊かな歴史と文化を築いてきたので、教育も古い伝統に培われている。20世紀には二つの大戦の敗北や共産主義のせいで教育現場も困難な時期が続いた。それでも何人ものノーベル賞受賞者を輩出し、発明家や音楽家、スポーツ選手など日本でも知られる世界的な人材を送り出している。個性を重視し、才能を育てることには社会のなかにコンセンサスができているようだ。
小さい時からその才能が現れる音楽やバレエ、スポーツなどについては特別な英才教育を施す機関があり、全国から選抜された一握りの子供たちがその道の大家から専門的教育を受けている。たとえばリスト音楽院には〝特別才能クラス〟があり、選ばれた小学生くらいの子供たちは午前中普通科目、午後は毎日専門教科の実技、ソルフェージュ、楽典などの授業を受けている。専門家に囲まれた環境のなかで舞台の経験をどんどん積んで演奏家に育っていく彼らを見ていると、ハンガリーが音楽大国として世界に君臨する様子がよくわかる。国にとっても本人にとっても特別な力を引き出すしくみが整っているのは幸せなことなのだろう。開花した才能による芸術を楽しむのは一般の国民なのだから……。もちろんもう少し一般的な音楽教育をする音楽小学校などは地区ごとに設けられていて、裾野のケアもしっかりしている。
また、共産主義時代に禁止されていた宗教教育も体制転換後、徐々に復活した。学校では入学時に親の意向で道徳教育科目をどれにするか選択できる。キリスト教のどの宗派か、あるいは宗教に属さないかを選んで決めている。その時間になるとクラスは皆分散し、宗派から各々神父さんたちが学校へ教えに来ている。昨今、日常的に教会へ通う人はそれほど多くないのだが、やはり幼児洗礼は習慣として行われていて、多くの親御さんがキリスト教の教義を子供のために選んでいるという。
さて、そんなハンガリーであるが、EUに加盟したので、この十年はさまざまな変革が行われた。特に大学はほとんどがボローニャ体制に組み込まれて、学士課程3年、修士2年、博士3年という枠組みに変わった。そして定員も大幅増、並行して大学の数も一気に増えた。長い間大学進学率は12%ほどで、エリートが行くところだったが、最近はすでに30%を超えている。時代と社会のニーズに合わせて学科もどんどん新設されたし、専門大学もたくさん出来た。人気は今どきでコミュニケーションや心理学、歴史も根強い人気がある。語学の中では日本語人気も非常に高い。授業料は今も昔も小学校から大学までずっと無料である。しかし数年前に大学の学生数が増えてから初めて、成績に準じ、一部の学生から授業料を徴収している。
他の欧州諸国と同様、ハンガリーでも高校卒業の全国一律試験があり、これだけは統一された基準で行われる。そして今は大学入学試験をも兼ねている。高卒資格と同時に大学入試という若い人たちにとって人生の岐路となる一大イベントだ。これに語学試験点数などいくつかの加点項目があり、大学入学が決まる。合理的で平等なようだが、大学が独自の入学試験を出来なくなったので、以前、専門の試験を課していた学科などには戸惑いも多かった。日本学科もその一例である。一方、外国留学は格段に広がったし、時代のニーズに合う人材の教育に力を入れている。新制度の評価はこれからであろう。研究者になると博士号取得の後には教授昇進資格のハビリテーション、その上にはアカデミーの大博士号というのもあって、上には上の資格が用意されている。高等教育における教育年数や制度の違いが日本との間にもあり、これらをお互いにどう擦り合わせていくかも、グローバル化の中で今後の課題である。
というわけでハンガリー教育の良さ、それも日本と違う点を主に紹介してきたが、そうすると、たとえば日本人が得手な、言われたことを早く正確に一斉に秩序だってやる、といったことはあまり得意でない人が多いのも事実である。集団か個人か、といった考え方の違いがよく出ている。学校の自由度が高いため、学閥的な現象もないし、同級生の帰属意識など希薄なようだ。国家の計は教育にありというが、国民性を形成するのに教育がいかに大きく影響するかを痛感するところである。
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ネアンデルタール人の絵画
ネアンデルタール人の絵画を描いたのはだれ?
描いている途中なのに、現人類に邪魔された!
描いている途中なのに、現人類に邪魔された!
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