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格差と不平等の是正から正義へ

『社会学のエッセンス』より 不平等と正義 社会に構造はあるか

所得格差

 戦後日本社会における格差の問題を、所得格差と学歴格差という2つの視点から眺めてみよう。所得格差は、日本社会における人びとの富(富力)の違いを測る1つの指標であるし、学歴格差は、人びとの教育機会および教育達成の違いを測る代表的な指標である。

 図11-1には、明治中期以降、約100年間の1人当たり実質国民所得の推移が示されている。図の左側が戦前の推移であり、図の右側は戦後の推移である。図から明らかなように戦前の60年間(1885~1945年)には、国民所得はわずかしか増加していないのに対して、戦後の1955年頃から95年までの40年間に急激に増加している。とくに生活水準が戦前の水準に回復した55年から、73年の第1次オイルショックに至るまでの時期における増加の勢いが急激である。第1次オイルショック以降、わが国は安定成長期に入るのだが、国民所得の増加の勢いがそれほど衰えていないことをこの図は示している。よくいわれるようにあの高度経済成長によって、日本社会は『ゆたかな社会バガルブレイスrゆたかな社会』岩波書店、原著1958年)になったのである。

 それでは、「ゆたかな社会」になっていくなかで、所得格差はどのような変化を示したのだろうか。図11-2は、1963年から2015年までのジニ係数(183頁参照)の推移を示したものである。この図から、高度経済成長期に所得格差は急激に縮小したこと、しかし1973年の第1次オイルショック頃から、所得格差は拡大しはじめ、とくに1980年代後半以降徐々に拡大傾向にあり、1990年から2015年までのジニ係数は、2003年、2004年、2005年で低下していることを除けば、ほぼ同じ水準で推移していることがわかる。したがって戦後日本社会は物質的な豊かさを実現していくなかで、富の不平等を縮小していったが、その後、経済的格差が拡大したまま今日に至っているといえる。

学歴格差

 図11-3には、戦後の就学率・進学率が示されている。この図から、高等学校進学率も、大学・短期大学進学率も1975年頃まで急激に上昇し、その後徐々に上昇していることが明らかである。高度経済成長の時代は、教育爆発の時代でもあったのである。

 高学歴化の趨勢のなかで、学歴格差は縮小していったのであろうか。図11-4は、出身階層別の大学・短期大学進学率を示したものである。この図から注目されるのは、どの出身階層においても、高等教育への進学率は上昇しているのであるが、出身階層間の進学率の差がそのまま維持されていることである。つまり、戦後日本社会において、高学歴化の趨勢がみられたが、出身階層間による格差は維持されたままだったのである。

 所得格差と学歴格差という限られた指標からではあるが、戦後日本社会においては、未曾有の高度経済成長によって「ゆたかな社会」が実現され、高等教育への進学率も上昇した。高度経済成長期には、格差も数年にわたって縮小した。しかし第1次オイルショック以降、もしくは1980年代以降、格差は縮小しておらず、とくに経済の領域では拡大気味であることが明らかになった。

平等社会か、格差社会か

 このような格差が、今後ずっと続くならば,その格差は人びとによって「不平等」として意味づけられるし、好きな言葉ではないが、「勝ち組」と「負け組」をっくってしまうことにもなる。人生におけるちょっとした「勝ち組」と「負け組」であれば、許容できるかもしれない。しかしその人にとって、取り返しのつかないような「負け」を生みだす社会であってはならないし、「負け組」が敗者復活戦によって、カムバックできるような社会でなければならないのだ。逆に、もし「勝ち組」と「負け組」が世代を超えて継承されるようになるならば、問題は深刻である。このように格差の程度が大きく、不平等が世代を超えて継承される社会は階級社会と呼ぱれて、格差社会とは区別されている。つまり大きい格差が、ちょっとした努力では埋められないような溝になっている社会が階級社会なのだ。階級社会は不平等が構造化された(不平等が埋め込まれた)社会だといってもよい。

 19世紀のイギリスにおける労働者階級の生活状態から、将来を予測したマルクスを持ちだす必要はないかもしれないが、格差社会が21世紀的な階級社会をつくりだすとしたら、そのことに警鐘を打ち鴫らすべきであろう。

不平等の是正から正義へ

 すでに述べたように これが平等な状態だと直截に定義するのはなかなか難しい。それでは、私たちにできることは何であろうか。社会学的想像力を働かせれば、格差の拡大にともなって、しだいに人びとが不平等だと感じるようになる事象に注目し、不平等を生みだすメカニズムを明らかにし、解決策を提示することはできるはずだ。

 もちろん不平等を解消しようとすると、ともすれば、近代産業社会の中核的原理である競争原理を規制したり、人びとの向上心を弱めたりすることになりかねない。不平等の是正と競争原理との両立という難問が立ちはだかっている。また日本社会における不平等問題にこでとりあげた所得格差、学歴格差以外に地域による格差、年齢による格差、性差による格差などがある)を考えるということは、日本人相互の不平等問題のみにとどまらない。しばしば日本社会における日本人と外国人との不平等の問題や、日本をはじめとする先進諸国と開発途上国との格差の問題を考えることへと発展していくのである。

 ここで不平等問題のひろがりと大きさを述べたのは、厄介な問題だとして、人びとにこの問題に対する消極的な態度や懐疑的な態度を醸成するためではない。ひとえに不平等の問題が近代社会の構造に、さらには社会の安定化ということに深く関係していることを強調したかったからである。

 近代社会におけるこれまでの歴史をふりかえってみると、眼下の不平等を一歩ずつ解決する試みがなされてきたことが明らかになる。社会の不平等や不正を社会問題として提起し、その解決策を考えていくのは、社会学が得意とするところでもある。不平等の是正が、平等という理想への第1歩であるし、正義への道程につながっていることもたしかだ。

 不平等の是正から正義へと至る道は、わずかでも記録を縮めようとする短距離ランナーや水泳選手の営みに似ている。どんなに努力しても、100mを7秒台で走ることも、30秒台で泳ぐことも不可能であろう。不平等を是正しかとしても、この世に完全に平等な社会を実現することは不可能なのかもしれない。見果てぬ夢というのが正鵠を得ているかもしれない。しかし100分の1秒でも記録を縮めるために、日夜、おのれの肉体を鍛え上げるアスリートのように前に進む以外ないのだ。ささやかだが、確実な1歩を踏み出すことが、いま、私たちに求められている。
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哲学的な何か 論理--言語ゲーム

『哲学的な何か、あと科学とか』より 哲学的な何か

言語ゲーム

 ダマされるな! 論理的な話に聞こえても、実は自作自演さ

 前の項では、「AはBである」という言葉について、「A=B」という観点で考えてきた。だが、一般的には、「AはBである」は、「AはBに含まれる」という意味で使われることが多い。たとえば、「ボクは人間である」は、「ボク」が「人間」というカテゴリに含まれている、という意味だ。

 だが、ちょっと待ってほしい。「ボクが人間というカテゴリに含まれている」となぜそんなことが言えるんだろうか? いったい、何の根拠があって、そんなことを言ってんだろうか?

 たとえばだ。脳死した体は人間だろうか? 胎児は人間だろうか? 卵細胞は人間だろうか? と考えてみたとき、そこに「人間」と「人間でないもの」を分ける明確な境界線などないことに気がつく。

 何百年も大昔なら「異教徒は人間ではない」「黒人は人間ではない」という文化を持つ国もあった。これらの言葉にも、「客観的な根拠」なんかない。それは国とか社会とかが、伝統的に「そういうもんです」と「決めつけた」だけである。

 これは「ボクは人間である」という言葉に限ったものではない。人間が使っている、あらゆる言葉がそうなのだ。

 これは、哲学史最大の言語哲学者であるウィトゲンシュタインの結論でもある。

 言葉とは、客観的な根拠によって成りたっておらず「伝統的文化的に決められた生活様式というルール」を根拠として述べているにすぎない。このことをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現した。

 「ボクは人間である」という一見正しそうな言葉でさえ、客観的な根拠を持たず、それを「正しい」としているのは、伝統的文化的なルール、つまり「決めつけ」である。

 だから、ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。そうすると、言葉を使って論理的に何かを述べたと思っていても、その正しさの根拠は結局のところ「決めつけ」によるものである。

 自分自身で決めたルールの中で、自分自身を正しいとしているのであるから、つまるところ「論理」というものは、「自作自演」なのだ。

イデア論

 あなたは「三角形」を見たことがありますか?

 「線」って見たことありますか?

 あると答えた人、「ほお~、そうかい、そうかい、じゃあ今すぐオレに『線』を見せてみろ、オラァ!」と問いつめさせてもらいます。

 「線なんて、すぐ見せられるよ」と言って、紙に、鉛筆で線を描いた人、「もっとじっくり見てみろ! 幅があんだろ! 幅があったら、線じゃねえじゃん!」と、あなたの頭をつかんで紙に押しつけさせてもらいます。

 そうなんです。「線」って誰も見たことないんです。ていうか、見られない。視覚的には、幅がないと見られないけど、そもそも幅があったら線じゃない。

 同様に、「点」も「面」も見られない。「三角形」も「四角形」も見られない。世の中には見えないものがたくさんあるんです。

 三角形の石を見ても、それはあくまで「三角形っぽい石」であって、実際には三角形ではない。よく見りや、角が丸まっていたり、ちょっと歪んでいたり……。理想的で完璧な「定義どおりの三角形」を見ることは絶対にできない。

 とすると、問題は、

  「じゃあ、なんで、見たこともないのに、オレらは『三角形』というものを頭の中で思い浮かべることができるのか?」

 ということになる。

 こういう問題について、紀元前400年くらいに、プラトンという人が考えた。プラトンさんは大胆だった。

  『三角形』という観念的なものが、どこかに『存在する』んだよ」と主張したのだ。

 この「観念的なもの」を「イデア」(ギリシャ語で「姿形、原型」)、イデアが存在する観念の世界を「イデア界」と名づけた。

 プラトンはこう考えた。

 人間は、現実世界の「デコボコの三角形っぽい石」を見ているとき、頭の中で「完璧な三角形」を思い浮かべて、「三角形だ」と言う。この「三角形」は、厳密で完璧な三角形であり、つまり「三角形のイデア」である。

 ようは、「三角形っぽい石」を見るときに、「三角形のイデア」も同時に見ており、ゆえに「三角形」だと認識できるのである。

 そして、「デコボコの三角形っぽい石」はいくらでも破壊することができるが、イデア界の「三角形」は壊すことができない。したがって、現実の世界にある存在よりも、イデア界にある存在こそが、普遍的で本質的な存在なのである。

 う~む、紀元前の人なのに、よくここまで考えたね~と感心します。

 「私は、見たものしか信じません!」という人だって、「三角形」がどんなものか理解している。見たこともないくせに……。

 改めて考えると、不思議なことじゃありませんか?
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哲学対話と学びの共同性

『「ラーニングフルエイジング」とは何か』より 老いと学びの共同性

2013年以来、私は東京大学駒場キャンパスにある「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」で「Philosophy for Everyone (哲学をすべての人に)」というプロジェクトを進めてきました。これは「子どものための哲学(Philosophy for Children)」の中心的手法となっている「哲学対話」を、子どものみならず、その名のとおり、あらゆる人に開いていくプロジェクトです。そしてこれまで、大学のキャンパスでイベントとして行う以外にも、学校や都市の地域コミュニティ、農村など、さまざまな場で、いろいろな人たちとともに哲学対話を実践してきました。

ここで言う「哲学」は、いわゆる大学で専門分野の一っとして学ぶような文献を読んで一人一人が思索を深めていくものとは大きく異なります。また「対話」とは、議論や話し合いと違って、誰が正しく、誰が間違っているかをはっきりさせたり、何か結論を出すわけでもありません。哲学対話で大切なのは、お互いに問い、語り、聞きながら、他者と共に思考することです。そうやって物事や相互の理解を深めたり、違った視点から考えたり、背景や前提を探るのです。

その特徴をさらに詳しく知るためには、哲学対話のルールを見るのがいいと思います。それは以下のようなものです。

 ①何を言ってもいい。

 ②否定的な発言はしない。

 ③発言せずに、ただ聞いて考えているだけでもいい。

 ④お互いに問いかける。

 ⑤誰かが言ったことや本に書いてあることではなく、自分の経験から話す。

 ⑥結論が出なくても、話がまとまらなくてもいい。

 ⑦わからなくなってもいい。

ここで重要なのは「発言と思考の自由」と、それを支える「知的安心感」、「参加者の多様性」です。

まず「発言と思考の自由」」に関わるのは、ルール①「何を言ってもいい」です。すなわち、どんな問いであれ思いであれ、言うことが許されて初めて、私たちは自由に考えることができる、ということです。

私はこれまで、さまざまな場所で対話をしてきましたが、世の中で本当に「何を言ってもいい」場というのは、ほとんどありません。特に学びの場であるはずの学校においてはそうです。そこでは、先生の意に沿うこと、すなわち正しいこと、いいこと、その場にふさわしいことを言うように教えられます。先生の意に沿わない間違ったこと、悪いこと、関係のないことを言えば、注意され、怒られ、笑われ、否定され、あるいは無視されます。最終的には何であれ「わかりました」と言うことが良しとされるのです。

しかしそうやって自らの疑問を押し殺し、外にある枠組みに自分をはめ込むことで、子どもたちは考えないように習慣づけられていきます。それに反発する子もいますが、正しいこと、いいこと、先生の気に入りそうなことの基準は同じで、それに反発しているだけで、そこに自由はないのです。

日本の学校教育に特徴的な「教えられることを身につける」という受動的な学びは、「生涯教育」に至るまで、多かれ少なかれこのような性格をもっています。それは結局、発言と思考の自由を許容しないものであり、この特徴は社会人になってからも同じか、むしろ強化されます。

親密な間柄であれば、何でも話せるかというと、そうでもありません。長く続いている関係では、役割が固定していて、自分らしくない発言はできません。今さら聞けないこともあります。相手のことを思って、言わないこともあるでしょう。そうした配慮じたいは悪いわけではなく、他人とともに生きていくうえで必要なことでもあります。しかし「何を言ってもいい」わけではないことには変わりないのです。

次に「知的安心感」と関連するのが、ルール②「否定的な発言をしない」であり、これが「何を言ってもいい」ことを保証します。私たちはしばしば、自分の発言が人から否定されるのではないか、受け止めてもらえないのではないかという不安から、言いたいことを言いません。逆に否定されないとわかっていれば、安心してどんなことでも言えるし、考えられます。ルール③「発言せずに、ただ聞いているだけでもいい」も、安心感につながります。私たちは、発言を強いられることもよくあります。それでいて何か言えば、否定されたり、ちゃんと聞いてもらえなかったりします。実際には、発言しない自由がなければ、発言する自由もないのです。

こうした「安心感」をたんなる気楽さと区別し、「知的安心感」にするのが、ルール④「お互いに問いかける」です。これにより対話は哲学的になり、共同の探求となります。これは言い換えれば、疑問に思ったら「なぜ?」「どういうこと?」「たとえば?」「本当?」と聞いていいということです。たんに安心して気楽に話ができるということなら、酒やお茶でも飲みながらおしゃべりすればいいでしょう。しかしそのような場で探求はできません。「なぜ?」「どういうこと?」などと聞いていたら、詮索しているか、突っかかっているみたいで、相手は不愉快に思うでしょう。哲学対話では、そうした問いかけが安心してできるのであり、これが「知的安心感」なのです。

次のルール⑤「誰かが言ったことや本に書いてあることではなく、自分の繩験に即して話す」は、参加者が対等に話すのを可能にします。他の人の意見や本に書いてあること、つまり外から仕入れた知識は、権威づけに使われます。そうすると、知識が多い人ほど有利になり、話すべき人と聞くべき人に分かれてしまい、自由な発言ができなくなります。しかし自分自身の経験から出発すれば、年齢や教育、職業にかかわらず、それは経験という点で優劣がっけられないため、対等に言いたいことが言えます。しかも自分の経験と結びつけて話をすることが、当事者として物事を考えることを可能にします。

誰もが自分の人生の当事者なのです。にもかかわらず、私たちは自分の問題を人に考えてもらったり、他人の判断や社会が決めた基準に従って自分を理解しようとします。哲学対話においては、自分の問題を自分事として考えます。そしてそれを自分の言葉で語るのです。それは、ささやかではあっても、自分の人生を取り戻すことに他なりません。自分の言葉を獲得すると、人間は自由になれるし、自分で自分の人生に責任が負えるようになるのです。

ルール⑥「結論が出なくても、話がまとまらなくてもいい」は、哲学的な問いには、明確な結論はないので当然でしょう。けれどもそれだけでなく、私たちはしばしば結論を出したり、話をまとめようとして、言いたいこと、聞きたいことを聞かないのです。あるいは、話がまとまらないと、落ち着かない人も多いでしょう。だから、そのような配慮をしないことで、「何を言ってもいい」場が可能になるし、安心して考え、語ることができるのです。

以上のような哲学対話では、「参加者の多様性」がきわめて重要です。通常私たちは、同じような境遇、立場の人で話したほうが、深い話ができると思いがちです。とはいえそれは、専門用語や内輪の言葉を使って、効率よく話をしているだけで、深いとしても、特定の視点から狭いところを掘り下げているにすぎません。しかも、そのような場では、知識が豊富な人の発言力が強くなり、皆が対等に何でも話していい自由がありません。

またそこでは、基本的な前提が問われないため、合意に達しやすくなります。そのため生産的であるような印象まで与えるのですが、実際のところ限定的な結論が出ているだけで、根本的に新しい着想は出にくいのです。他方、参加者の年齢、職業、性別、学歴などが多様であればあるほど、考えていること、感じていることの前提がそれぞれ異なっています。そして上記のように、自分の経験に基づいて話をすることで、お互いに対等な立場で、各自がもっている暗黙の前提におのずと目が向き、考えなおすことになります。

このように当たり前だと思っていることを問うこと、これがまさに哲学なのです。さらに問い、語り、聞きながら、他者と共に考える対話では、お互いを認め合う、相互承認が自ずと起こります。しかもそれは同じであることによる承認ではなく、異なる人たちどうしが、お互いの違いを違うからこそ認め合うのです。「自分の存在を認めてもらえた」「自分が存在していいと感じた」という感想は、哲学対話のイベントでしばしば聞かれる感想です。

このことは、老いにおける学びにおいて、とりわけ重要です。老いの問題は、「できる」から「できない」への変化に深く根ざしています。すでに述べたように、成長と「できる」を基本とする社会では、この変化を十分に受け止められず、「できない」は許容されません。これを、心身の衰えや社会的地位の低下のような個人レベルでの変化として見るのではなく、それぞれの人が他者と共に生きることから捉え直さなければなりません。それは、さまざまな意昧での「できる」と「できない」の差異を認め合うことです。このことは、老いの領域においては、家族との間で、介護者との間で、より社会的にはより若い世代(老老介護に見られるように、高齢者の間でも世代間の問題がある)との間で、しばしば起きる対立や戴語を緩和するのに必要です。そのために対話による共同の学びは、きわめて重要な場となるでしょう。

もう一つ、対話による学びには大きな利点があります。それは、いっしょに問い、考えることは、とにかく楽しく心地いいということです。これまでさまざまなところで哲学対話をしてきてよく思うのですが、誰もが話すこと、聞くこと、考えることで、普段では味わえない充実感、幸福感、解放感を味わっているようです。福島の郡山で行った対話で、ある70歳をすぎた女性が「こんな幸せを感じたのは人生ではじめてだ」と言っていました。現在多摩ニュータウンの百草団地で行っている高齢者の寄合所では、そこに普段から出入りしている人たちと、若い人が数人混じって、1ヵ月に一度対話の場を作っていますが、そこでもみな、ときに難しい顔をして考えながらも、一様に生き生きと語っています。

上で相互承認について書きましたが、みんな自分を認めてほしいのです。それが互いに満たされると、相手をそのまま受け入れられます。しかもそれは、何も言わずただ黙認するのはなく、お互いに問い、考え、理解し合うことではじめて可能になるのです。考えることが楽しい、疑問をもつのが楽しい、好奇心がふくらみ、いろんな物事、周りの人々のことを知りたいと思う--しかも他者とともに。それが学びの基本ではないでしょうか。
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生まれてきた理由に対して、平等って何

生まれてきた理由に対して、平等って何

 他者が居ない世界での平等とか格差の意味から考えていかないといけない。そうなると、他者の世界での出来事になります。

 自由に対してよりも難しいのは確かです。結局、比較でしょう。高級車に乗るとか、ブランド品を持っているとかは、それらを気にしないものには意味を持たない。むしろ、それを哀れむ。宗教の常套手段のように。

 キリスト教がローマ帝国に拡がったのは、奴隷の慰みだったから。同じ一神教でもムスリムは異なる。コミュニティ(ウンマ)で格差を吸収している。

 そうなると、平等は宗教を含んで考えないといけない。

 それと、究極の平等をといたのは、マルクスの共産主義だけど、こちらは人間が生まれてきた理由に及んでいない。ハイアラキーに頼ってしまった。スターリンは市民を信頼していないし、毛沢東は農民を道具にしただけ。

OCR化した本の感想

 『「ラーニングフルエイジング」とは何か』

  「老い」という問題

  「老いる」とはある種の変化だと述べました。成長が「できない」から「できる」への変化だとすれば、老化はその逆、「できる」から「できない」への変化だと言えます。成長にもさまざまな問題がありますが、それでも概して肯定的に捉えられるのは、社会が「できる」ことを基礎としているからでしょう。「できない」状態から「できる」状態への移行は、望ましい変化であり、いろいろ問題はあっても、個人としても社会としても積極的に対処しようとします。逆に、「できない」ことが増えていく老化は、個人の人生の中でも社会のなかでも、十分な位置づけをもたず、否定的な問題として、消極的にやむをえず対処するだけになります。そうなったとき、老いの問題は、個人的にも社会的にも、負担、欠損、不足、障害として現れます。けれども、老いに対しては、こうした否定的態度をとるしかないのでしょうか。より積極的な態度というのは、不可能でしょうか。

 『哲学的な何か、あと科学とか』

  言語ゲーム

   論理②--言語ゲーム

   ダマされるな! 論理的な話に聞こえても、実は自作自演さ

   「AはBである」という言葉について、「A=B」という観点で考えてきた。だが、一般的には、「AはBである」は、「AはBに含まれる」という意味で使われることが多い。たとえば、「ボクは人間である」は、「ボク」が「人間」というカテゴリに含まれている、という意味だ。

   だが、ちょっと待ってほしい。「ボクが人間というカテゴリに含まれている」となぜそんなことが言えるんだろうか? いったい、何の根拠があって、そんなことを言ってんだろうか?

   たとえばだ。脳死した体は人間だろうか? 胎児は人間だろうか? 卵細胞は人間だろうか? と考えてみたとき、そこに「人間」と「人間でないもの」を分ける明確な境界線などないことに気がつく。

   何百年も大昔なら「異教徒は人間ではない」「黒人は人間ではない」という文化を持つ国もあった。これらの言葉にも、「客観的な根拠」なんかない。それは国とか社会とかが、伝統的に「そういうもんです」と「決めつけた」だけである。

   これは「ボクは人間である」という言葉に限ったものではない。人間が使っている、あらゆる言葉がそうなのだ。

   これは、哲学史最大の言語哲学者であるウィトゲンシュタインの結論でもある。

   言葉とは、客観的な根拠によって成りたっておらず「伝統的文化的に決められた生活様式というルール」を根拠として述べているにすぎない。このことをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現した。
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