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バーレーンにおける「アラブの春」の攻防

『「テロとの戦い」を疑え』より 「アラブの春」のダブルスタンダード

2011年2月、湾岸諸国の一つ、ペルシヤ湾に浮かぶ島国バーレーンに入国した。バーレーンとはアラビア語でバハル(海)の双数形、つまり「2つの海」という意味だ。アラビア語には単数、複数形以外に双数形がある。例えば「タリブ」は学生という意味で、複数形の夕リバーンは「学生たち」。双数形はタリパイン(2人の学生)となる。

バーレーンは面積が淡路島くらいの小さな国で、人口は100万人くらい。イスラム教シーア派が約70%を占めていて、約20%のスンニ派は少数派なのだが、政治権力はスンニ派が握っている(イラク、シリアと同じ少数派政権)。

なぜ「2つの海」なのかというと、それは真水と海水。地下水が出る緑豊かな島が、オアシス(真水)と美しいペルシヤ湾(海水)に囲まれているというわけだ。

普段のバーレーンは観光の島で、首都マナマには5っ星ホテルが並んでいるし、F1グランプリレースが開催されるのもこの島だ。

しかし11年2月のバーレーンは普段と全く違う状況、つまり「革命」が起ころうとしていた。チュニジア、エジプトで相次いで起きた民衆蜂起。「独裁政権打倒!」を叫ぶ人々が、なんとチュニジアではベンアリ、エジプトではムバラクという大統領を打ち倒してしまったのだ。

この「アラブの春」に敏感に反応したのが、相対的に貧しく、差別されてきたシーア派住民だった。首都マナマの「真珠広場」には、「独裁者、ハマド国王を倒せ!」「ハリーフア家(王家)からこの国を取り戻せ!」。数万人もの人々が叫びながら行進していたのだ。

2011年2月19日、厳戒態勢の空港で尋問されること4時間、なんとか入国を許可された私は、「革命」の舞台となっている首都マナマの「真珠広場」を目指した。タクシーを拾って広場に向かうが、広場に通じる道のすべてを軍と警官がシャットアウト。仕方なく遠く離れた場所で、車内から戦車と兵士を隠し撮り。大量に派兵された軍隊はほとんどがサウジアラビア軍で警察官はパキスタン、UAEから。なぜか?

国王を支援する国々は全てスンニ派政権で、バーレーンが崩壊してシーア派の政権になるのを恐れているのだ。

これでは真珠広場へ行けない。デモ隊も広場から退散させられたようだ。

マナマから橋を渡って対岸のシトラという町へ。実はこの町こそ、バーレーンにおける「アラブの春」の震源地。スンニ派が多く住む首都マナマに比べて、シトラは相対的に貧しく、弾圧されてきたシーア派住民の町である。

タクシー運転手のラティーファさん(女性です!)はシトラ出身で、昨日のデモで殺された被害者と顔なじみ。「これを見て!」案内されたのが墓地。警官隊の銃撃によって殺された若者アリーさん(22)がこの地に眠っている。イスラム教では遺体はすぐに埋葬しなければならない。墓地の前で合掌、冥福を祈る。

アリーさんたちの葬儀が町のモスクで行われている。モスクの壁面には昨日殺害された5名の写真が飾られている。アリーさんの父親が息子の写真を掲げてくれた。

「アリーはいいヤツだった」「日本からか? 彼は無抵抗で、平和的にデモをしていただけなのに撃ち殺されたんだ」。参列者が私のカメラに集まってくる。

その中の一人がおもむろにポケットから携帯電話を取り出した。

「これを見ろ! アリーたちが射殺された瞬間だ」

「えっ、あなたもデモに参加してたの?」

「もちろん。だからこの瞬間を撮影できたんだ」。

携帯の画面にデモ行進が写っている。真珠広場をまたぐ橋の上。バーレーンの国旗を持って叫びながら歩く人々。デモ隊は武器を持っていない。手にしているのは、国旗と花束だけだ。突然、前方に戦車と警官隊が現れる。

パンパンパン。銃声が響き、画面が乱れる。その間数秒。「アッラー、アッラー(神よ、神よ)」デモ隊の叫び声と銃声が重なる。5名の死骸が道路に横たわっている。泣き叫ぶ仲間たち、死骸に寄り添う人々…。

「昨日のデモか?」「そうだ。俺はすぐにこの動画をYou Tubeにアップした」。

彼の撮影した動画は、その後、衛星放送アルジャジーラが放送した。この「ライブ映像」を見たアメリカのオバマ大統領が「バーレーンでも民主主義が守られることを望む」とコメント。この動画はハマド国王にとって大きな痛手となった。

「アラブの春」は、しばしば「フェイスブック革命」つまりSNSが引き起こした革命といわれる。どういうことか?

真珠広場で数万のデモ隊が民主化を要求している時、国営放送は「お元気ですか? ハリーファ国王」などという番組を流している。インターネットのない時代、国民は国営放送や政府系御用新聞でしか、情報を得ることができなかった。国営放送では、民主化を求めるデモ隊を「過激派組織」と決めつけ、「一部過激派が武器を持って襲ってきたので、治安上、鎮圧しなければならなかった」と報道することができる。しかし今は「携帯電話を持った最前線のデモ参加者」が、アルジャジーラテレビの特派員になれる。動画を見れば、「デモ隊は武器を持っていない」し、「一方的に射殺したのは国王の軍隊」だということがわかる。そしてその映像は瞬時に世界に広がり、アメリカ大統領までが独裁政権に対して「懸念(=やりすぎ)」を表明しなければならなくなるのだ。

モスクでの葬儀参列者たちは「今日も真珠広場でデモをする」と言う。昨日は5名殺されている。そんなことをすれば、また…。

「これはまたとないチャンスだ。俺たちは30年間虐げられていた。殺されるのを恐れていては、現状は変わらない。大規模デモで真珠広場を取り返す」。

確かにそうかもしれんが、あんたら殺されてしまうがな…。

不安と興奮。彼らと一緒に真珠広場へ向かう。さすがにこのままこの人たちと広場へ向かうのは危険だ。「日本人、お前はここに残って我々デモ隊が勝つか、軍隊が勝つか、そのカメラで見ておいてくれ」。

真珠広場近くのサルマニア病院で待つように指示される。驚いたことに、病院の周囲には数千人の群衆。

今日もデモがある。軍隊は撃ってくる。負傷者が多数出る。負傷者は救急車で運び込まれてくる。つまり負傷者を励ますために病院は大群衆に取り囲まれていたのだ。

各国の衛星放送も取材に来ているので、アラビア語の他に英語の看板が目立つ。

単純に「ピース」とだけ書かれた看板もあるが、「俺たちはシーアでもスンニでもない。バーレーン人だ」「私はスンニ派ですが、この革命を支持します」などメッセージ系の看板も目立つ。

やがて病院の周囲は、犠牲者の写真を持つ人、国旗を打ち振る人でいっぱいとなり、やがて「ダウン、ダウン、ハマド!」(ハマド国王を倒せ!)の大合唱となった。午後4時過ぎ、大合唱が悲鳴に変わる。サイレンを鳴らして救急車が入ってきたのだ。地鳴りのような抗議と励ましの声。圧倒されつつ、人々の表情を撮影。

私のビデオカメラを見て、医師の一人が「こっちに来い!」と病室に案内される。

病院の廊下にベッドが出され、みるみるうちに野戦病院になる。催涙ガスを吸い込んで昏睡する人、酸素吸入器で応急処置されている人、ゴム弾が左胸にあたり、苦しそうに顔をしかめている人…。

そんな負傷者の中に、一輪の花をベッドに置いて横たわる若者。20歳の学生で、本日の集会に参加。軍に対峙している時、花一輪を手渡した。その後、軍と警察は「ピース」という看板を持っている人々に、ゴム弾と催涙弾を、花のお礼として「お返し」した。

「僕たちは石さえ持っていない。武器を持っていないことをアピールするため、両手を広げていたんだ。そしたら撃ってきた」。

救急車がやってきて負傷者が担ぎ込まれるたびに、悲鳴とうなりのような抗議の声がこだまする。群衆の怒りはピークに達していた。そんな時だった。

巨大なスピーカーからのニュースとともに、一斉に大きな拍手。

「革命だ!」「勝ったぞ!」と叫ぶ人々。何があったのか?

たった今、真珠広場から軍と警官隊が退場をはじめたと言う。

広場に向かう交差点では、喜びのクラクションが鳴り響き、みんな私のカメラに向かってVサインしている。

広場へ。

鳥肌が立った。数万の群衆。中央にはトラックを並べた即席ステージ。ステージには若者たちの遺影と抗議の横断幕。参加者の居場所が男性と女性、ロープで区切られているのはいかにもイスラム圏らしいが、どの顔も喜びと興奮に包まれている。

「軍隊は逃げていった。私たちは勝利した」主催者が叫ぶ。地鳴りのような大歓声が続く。この模様はCNNやBBCなど欧米メディアでもトップで報道された。昨日のデモ隊殺害をメディアが流したので、軍は実弾を撃てなかった。ゴム弾に切り替えていたため多数の負傷者が出たが、デモ隊の真珠広場への突入を止めることができなかったのだ。人々は広場を奪い返した。この時点では「勝利は近い」と思われた。

翌日、やはり真珠広場へ。1人の兵士も1台の戦車もない広場で、人々は踊り叫び、歌っている。一昨日までの「虐殺広場」が、「お祭り広場」に変わっていた。
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