goo

OCR化した10冊

『へーゲル・コレクション』

 歴史と摂理

  自由の実現

  理性の校智

  神との宥和

   宗教の本質

   教団と世界

   精神の完現

『住まいと町とコミュニティ』

 コミュニティはなぜ必要なのかを改めて考えてみる

 問い 「コミュニティはなぜ必要なのかを、20歳くらいの学生諸君に説明できますか?」

 「自分」の一生を考えてみる

 例えばお医者さんの話

 昭和な人生において目指された「自立」

 「自立」の賞味期限

 コミュニティ形成?

 ライフスタイルとしてのコミュニティ

 事件としてのコミュニティ

『人生のすてきな大問題』

 変化する日本社会の中でどう生きるか

 団塊世代と団塊ジュニア世代の人生

 戦後日本型循環モデルの特徴

 新しい循環モデルで支え合う社会に

『現代資本主義の終焉とアメリカ民主主義』

 左翼知識人:N.チョムスキー

  プラグマティズムと左翼知識人

  アソシエーション、デューイ派教育、チョムスキーの言語学

  脱構造主義哲学と新保守主義哲学へのチョムスキーの批判

『環境経営とイノベーション』

 ビジネスチャンスとしての水素社会と分散型発電

  水素とその製造方法

  エネファームと燃料電池自動車の開発と普及

  水素の輸送と貯蔵

  スマートコミュニティとしての水素タウン

  国策民営による水素社会の確立

『王妃たちの最期の日々』

 破れた夢クレオパトラ

 アレクサンドリア、紀元前三〇年八月

 アントニウスとオクタウィアヌスの対決

 アントニウスの死

 そして歴史は伝説となった

『「ラーニングフルエイジング」とは何か』

 老いと学びの共同性

  「老い」という問題

  老いることの意味

  老いにおける学び

  哲学対話と学びの共同性

  老いも若きも

 多世代共創社会に向けたワークショップ

  高齢者に向けた学習環境のデザインとワークショップ

  多世代で共に創るワークショップのデザイン

  超高齢社会におけるワークショップの可能性

『哲学的な何か、あと科学とか』

 哲学的な何か

 不完全性定理

 公理①

 公理②--ルイス・キャロルのパラドックス

 我思う、ゆえに我在り

 論理①

 論理②--言語ゲーム

 イデア論

 道具主義

 原理的に不可能

『社会学のエッセンス』

 不平等と正義

 社会に構造はあるか

 「サザエさん」にみる日本の理想の家族 

 社会構造とは

 社会構造の1つとしての社会階層

 属性主義と業績主義

 カステラを切り分ける


 格差と不平等

 所得格差

 学歴格差

 平等社会か、格差社会か

 不平等の是正から正義へ

『カウンター・デモクラシー』

 不得策な民主主義

  無力感と脱政治化の形象

   不得策の時代

   透明性の地平

   二種類の不得策

  ポピュリーズムの誘惑

   選挙・代議制民主主義の病理

   ポピュリズムと対抗民主主義

  不得策な経済の教訓

   ある用語の回帰

   監視の経済的機能

   市場、または拒否権の勝利

   不得策の経済
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

不得策な民主主義と経済

『カウンター・デモクラシー』より 不得策な民主主義

間接民主主義の諸形態と、経済の領域で作用しているメカニズムや振る舞いの全体とを照合する可能性が示唆される。監視、評価、監査のメカニズムは、まさに監視の権力を構成しており、それは私たちが政治の領域で記してきたものよりもはるかに構造化されていたりもする。こう言ってよければ、対抗民主主義はこのような形で、経済領域においてこそいっそうの完成を見ているのだ。

だが、次の事実も同様に際立っている。「制度化された民主主義」の諸形態は、そこでも同時に衰退しているのだ。たとえば組合の力はひどく浸食され、企業も次第に、代議制のような原理が支配する組織ではなくなっている。一九二〇年代から想像されてきたような「進歩」の形象から距離を置くようになったことは、この点においてまさに劇的だった。当時人々は、代議制民主主義のメカニズムはあらゆる近代的組織のプロトタイプをなし、結果的にそのメカニズムは政治の領域以外にも拡散していくだろうと予想していた。「工業化時代の民主主義」という一大テーマは、かくして何十年にもわたり、改革者たちを動機づけてきた。

フランスでは、たとえば一九六〇年代に活動家のフランソワ・ブロシュ=レネが組合勢力の支持を得て、企業内に選挙で選ばれた政府を作り、労働者、消費者、株主の代表から成る議会に対峙するという方式を呼びかけた。ドイツの共同統治のモデルも、同じような精神の産物だった。六〇年代末以降、自主管理という用語がそうした考え方を現実的なもの、急進的なものにした。組織の機能に個人をより直接的に関わらせるという新しい至上命令を加えたのだ。どの場合でも目標とされていたのは、肯定的に理解されていた民主主義の諸制度を、社会活動の様々な領域に移し替えていくことだった。▽九世紀の古いスローガン「企業に王政がはびこっていては、社会に共和制は実現しえない」は、依然として辿るべき道を示す指標となっていた。

今や明らかなのは、優勢になったのはそうした運動ではなかったということだ。一九八〇年代は否定しがたいほどに断絶で特徴づけられていた。古典的な代議制のモデルがある種の一般化を継続する代わりに、むしろ「あらゆる領域で」間接的形態の権力の発展が見受けられた。しかも誰もそのことを悔やんでなどいない。今や、たとえば企業の幹部を選挙で選び、よりいっそうの共通善を実現しようとする計画を擁護する者など一人もいない。国有化という理念も、やはりそれ自体「正しい権力」の成立という展望に独自のやり方で結びついていたが、同じ理由から平行して浸食されていった。

実際、各種統制メカニズムの多様化に信頼を寄せようというコンセンサスもある。監視の各種形式が拡大する傍らで、阻止の手続きの明らかな増加も見られる。もう一つ別の例を挙げよう。一九六〇年代にはまだ、経済の統制における未来は、市場に代わる柔軟な各種の計画経済にあると考えられていたが、今や各種の統制的権力の増大において、実現すべき改革が模索されている。他方、企業の経営者たちも、この新たな「世論的資本主義」の世界では、組合の内的な影響力が強かった時代に比べ、自分たちの地位がいっそう脆弱になっていることを自覚してきている。このような事実から何を結論づけるべきだろうか。まず、正当性と効率の見方が変わったということだ。間接的権力は実際、事物の流れにいっそう働きかけることができるように思える。同時にその働きかけの様態は、社会的にいっそう専有可能なものになってきている。あるいはそれらの権力は、公正さを特徴とするがゆえに資格ありと判断された組織によって行使されるようになってきている。

経済の世界と政治の世界の比較はこのように示唆的だが、しかしながらそこから素朴で性急な結論を導いてはならない。二〇〇〇年代に相次いだ金融スキャンダル(エンロン、ワールドコムなど)によって、一部の評価、監査、監視のメカニズムは脆弱で不十分であることが示されたからだ。すると今度は、監督者の監督という問題がなんとも赤裸々な形で浮上した。経済における間接的権力の機能によって突きつけられた諸問題は、政治の領域における同等物についても問い直しを促している。他方、その点に関連して次のことも指摘できる。間接的な政治権力、すなわちメディアやとりわけ判事の権力もまた、激しい異議申し立てに曝されたのだ。たとえ政治には、厳密に経済破綻に相当するものは存在しないにせよ。

ここで素描した比較は、一方でさらに先にまで進められる。経済圏における間接的権力の発展は、顕著な機能不全すらをも越えて、それらの権力が関わる「民主化」の動きにはいかなる政治的次元も含まれていないことを、鮮明な形で私たちに示してくれる。経済の領域では、それらの権力に見られる不得策という特徴の、過激化すら目にできる。そのことをまずもって証しているのが、透明性の原理の執拗な理想化だ。というのも、透明性は経済において、とくにその名にふさわしい価値があるからだ。それは完全な可視化の計画、完全な摩擦の欠如を表しており、それもまた、市場のュートピアを名指すもう一つのやり方にほかならない。監視と評価の権力は、この場合明示的に、あらゆる政治思想の対踏地として、見えざる手による支配の成立を提唱するのである。

だが経済の不得策の特徴はさらにその先にまで進む。それは次のような事実にも対応するのだ。企業や市場は今後ますます規制され、統制され、監視されていくだろうけれども、経済における政治問題、つまり富の再分配の問題は決して問われないだろうということが想像できるのである。ゆえに次のような指摘は際立つだろう。労働と資本との所得格差の溝は、企業内部での経営側と一般の賃金労働者の報酬格差の爆発的拡大と同様、統制と規制の機構が増加するのと時を同じくして生じているのだ。言い換えるなら、資本主義はこうして、いっそう枠に押し込まれながらいっそう不公正なものになり、いっそう透明でありながらいっそう不平等になっていく可能性がある。自由主義の言う統制と民主主義の言う統制との違いについて、私たちは前の各章でその重要性を示してきたが、その違いは改めて大いに強調しておく価値がある。経済との類比という拡大鏡は、対抗民主主義の性質や影響についてよりよく理解し、結果的に不得策の問題をより真剣に受け止めるよう促すために、そこでもまたとりわけ有益なのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

当たり前と思っていることを問うこと

存在することは自立すること

 存在することは自立すること。その上でつながること。

当たり前と思っていることを問うこと

 当たり前と思っていることを問うこと。これが哲学というのであれば、もっと深く考えて下さい。

 その結果は他者とともに考えるということで、相互承認できると言うけど、他者は本当にそこにいるのかという本質的な問い掛けするだけの勇気はあるのか。

 与えられたことを言って、合意してもしょうがない。何のために生まれてきたのか。何のためにそこにいるのか。今の時代はどうやるのか。

 相互承認。皆が自分を認めて欲しいと思っていると、簡単に言っているけど、そういうものではない。認めてもらって、どうするのですか。自分が夢廷内のに、他者もそこにいることも分からないのに。

内容が薄い本

 今週借りてきた本は内容が薄いものが多かった。当たり障りのない、平坦なものになっている。もっと、真剣に考え抜いてもらいたい。こんな本を出してどうするのか。単に金儲けに過ぎない。
OCR化した本の感想

 『社会学のエッセンス』

  格差と不平等は異なるもの

  社会的資源の多くは稀少であるという性格をもつ。そのため社会的資源を社会全体にどのように配分するかがきわめて重要になってくる。どのような配分原理にもとづくにせよ、稀少性ゆえ、社会的資源は不均等に配分される。その結果、社会全体では、社会的資源を多く保有する人とそうでない人が生みだされる。いわゆる「持つ者」と「持たざる者」との発生である。社会的資源が不均等に配分され、格差が生じている状態を、社会階層もしくは階層構造という。社会階層は、社会構造の一部をなしており、社会を安定化させる要因にもなれば、逆に不安定化させる要因にもなる。たしかにあまりに格差の大きい社会では、下層の人たちの不満が醸成されて、現体制を崩壊させるエネルギーとなるだろう。他方、若干の格差があっても、努力によって上の階層に立身出世できるならば、多くの人にとって、その社会は「努力すればナントカなる社会」とみなされて安定化するであろう。

  格差のあることがすべて社会不安の原因になるわけではない。社会の構成員によって、公正な格差とみなされるか、それとも不平等・不公平な格差とみなされるかどうかがポイントである。たとえば相撲やプロ野球といったプロスポーツの世界では、相撲の番付によって給料に差があることや、1シーズンの成績のよかった野球選手が、そうでない選手よりも高い年俸をもらうことは、当然のこととされている。この例から明らかなように、ここでは、格差と不平等とは概念的に異なるものだということをまずおさえておこう。

 『カウンター・デモクラシー』

  不得策な民主主義って何?

  処方的・全体的というよりも、猜疑的・状況依存的な、市民社会と政界とのこうした関係を記すために、「市民的民主主義」あるいは「機能的民主主義」という言い方をしてもよかったかもしれない。それらの表現には、市民にとっての至上命令の消失というライトモチーフとともに、断絶を特徴づけるという利点がある。だがそれでもなお、社会の介入と、社会の領域に整合性と一貫性を与える政治の場という理念とが、現代において分離していることを強調するにはおそらく十分ではない。だからこそ、「不得策な民主主義」という言い方をするほうがより適切ではないかと思われるのだ。現代の大きな問題は、基本的に、間接的な形での民主主義の拡大に、政治の衰退が付き従っていることだからだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )