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エジプトの直接民主主義

論理的なプレゼンをつくる

 半分は全体のことを考えないといけない。無理か! 三分の一にしておきます。

 1.1.1でプレゼン化をしてみたけど、どうしても、空間論になります。キーワードで空間を作り、遷移を言葉で行うカタチです。

 孤独から真理を求める⇒孤独であるということ、真理を求めること、そして、武器としての数学、それで未来を見つける。未来と真理をくっつける。

 プレゼンでPPTを使うかぎりは空間配置です。言葉ほどの威力は持たないけど、何となく、その気にさせる。今のプレゼンの中からキーワードを空間配置すればいいです。

 プレゼンとインスピレーションを持っているので、あとは大きく振っても大丈夫です。詳細とプレゼンを分化と統合のカタチで持ちます。言いたいのは、中分類の要約で表しているので、それを空間配置する。図解することで、他の図との超越した関係が表現できます。

 最後の全体の絵を描きたいけど、それは難しいですね。何しろ、多重ですから表現ではなく、認識を使っていきます。キーワードをつなが得ると同時に、小項目の見出しをその間に入れ込みます。完全に新しいタイプです。2・5次元でしょうか。

 8項目×10ジャンルを一つにします。全体のつなぐもそこで、行います。どことつなげるか。中項目の下のブロックでつなげます。

 各単元ごとにDNAを抽出して、展開する。それでもって、4.2.1辺りを変えていく。

H.G.ウェルズをどのように埋め込むか

 4.2の中に、H.G.ウェルズをどのように埋め込むか。ナチ以降のあまりにも、グローカルの世界観に囚われた現在の未唯空間をどのように拡大させるか、縮小させるか。H.G.ウェルズは西洋に偏っているのは確かです。だけど、あれぐらいは入れ込まないといけない。それもコンパクトに。

 特に、宗教を含めた文化の面です。武器の歴史の歴史も、アレキサンダーで述べています。

 未唯空間に哲学と宗教を入れるところをキッチリさせないといけない。ターゲットは違うが、私の場合はナチから未来に向かっています。

全てを知りたいの呪縛

 全てを知りたいということであれば、哲学と宗教の歴史は割けないといけない。全てを知りたいというのは、業です。大変なことです。

エジプトの直接民主主義

 エジプトでは、都市と地域の差、知識人と農民の差があまりにもひどくて、選挙をすると、7割の農民に支配されてしまう。これは、エジプトを旅行した時に、バスから見た地域の様子からも分かります。トルコと雰囲気が違います。

 トルコのように、農業国家から観光立国をして、地域を健全なカタチにしないと、民主主義選挙が成り立たないのかもしれない。

 だから、どういう社会にするのかという部分が同意が取れていない。これは、中国も同じ状況だったんでしょう。今や変わりつつあります。

 なぜ、エジプトはそんな格差がついてしまったのか。アムロさんではないけど、先鋭的な分とそうでない分がハッキリしている。

 街頭へ出るという、直接民主制度はユーロッパには在ります。ギリシャもそうだし、エジプトもそうです。倒すことはできるけど、その後にまとまることかどうかです。

 議会制民主主義と直接民主主義(街頭の政治)の間に、正当性をめぐる対立が露わになっている。海賊党のような、テーマ毎のバーチャル政党が今後の方向になるような気がします。

 エジプトの場合は、それに、軍部というモノが入っているので、複雑になってきている。軍部は利権を持ちます。エジプトはスエズ運河防衛と対イスラエルのために、軍部は避けられない。
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マホメットとイスラム教

『世界文化小史』より

このアラビア人の炎に点火したマホメットという男は、メッカという町の、ある豪商未亡人の若い亭主として、はじめて歴史に現われる。四十歳になるまでは、彼は世間で有名になるようなことはほとんどやらなかった。彼は宗教的論議にかなりの興味を持っていたようである。メッカは、当時偶像崇拝者の町で、全アラビアを通じて非常な評判となっていた、カーバという一つの黒い石が特に崇拝され、巡礼の一中心地となっていた。しかしこの地方にはユダヤ人の数も多く、--実際アラビア南部はすべてユダヤ教を奉じると公言していた--、またシリアにはキリスト教会もあった。

ほぼ四十歳になって、マホメットは、彼より千二百年以前のヘブライ予言者たちにみられたような予言者的特性を現わしはじめた。彼はまず自分の妻に唯一の真の神のことや、徳と悪業に対する応報懲罰について話した。彼の思想がユダヤ教やキリスト教の観念によってきわめて強く影響されていることは疑う余地がない。彼は自分のまわりに小範囲の信者を集めて、やがて町なかで、広く普及している偶像崇拝に反対する説教を始めた。これがために、彼は仲間の町民にひどく嫌われた。なぜならばカーバヘの巡礼がメッカを繁栄させたおもな源泉であったからである。彼の教えはいっそう大胆でいっそう明確になり、自分は宗教を完成する使命を託された最後の選ばれた神の予言者であると宣言した。彼の宣言によると、アブラハムやイエス・キリストは彼の先駆者であった。彼は神の御意の黙示を完全にし完成するために選ばれていたのであった。

彼は、天使によって自分に伝えられたと自称する詩文を創作し、また自分は天国を通って神のところに連れてゆかれて使命を授けられたのだという奇妙な幻想をいだいていた。

彼の教えが勢力を増すにつれて、仲間の町民の敵意もまた増大していった。ついに彼を殺す陰謀が企てられた。しかし彼は自分の忠実な友であり弟子であるアブ・ベクルとともに、彼の教義を採用したメディナという好意的な町にのがれた。メッカとメディナとの間には戦争行為が続いたが、これはついにある盟約を結んで終結した。メッカは唯一の真の神の崇拝を採用して、マホメットをその神の予言者として受けいれることになったが、しかしこの新しい信仰の支持者たちがなおもメッカに巡礼しなければならなかったことは、彼らが偶像崇拝者であった時分とまったく同じであった。このようにしてマホメットは、メッカ巡礼者の往来をさまたげることもなくメッカに唯一の真の神を確立したのである。六二九年、彼はその支配者としてメッカに帰ってきた。これは彼がヘラクリウスや太宗やカヴァードや世界の全統治者たちに、あの使節たちを送り出した一年後のことであった。

それからさらに四年の間、六三二年にマホメットが死ぬまで、彼はその勢力をアラビアの残りの地域に広げていった。彼は晩年多くの妻をめとり、その生活は、概して現代の基準からすると教訓となるほどのものではなかった。彼は、きわめて少なからぬ虚栄心と、貪欲さと、ずるさと、自己欺瞞と、それに全く誠実な宗教的熱情との複合した男であったようである。彼は、コラーンという、戒告と解説の一書を口授して、これは神から自分に伝えられたのだと言明していた。文学ないしは哲学として見れば、コラーンは、たしかに、それが申し立てているような神の作にあたいするものではない。

だが、マホメットの生活と著述の明白な欠陥を斟酌してみた時、イスラム教という、彼がアラビア人に課したこの信仰の中には、なお多くの力と霊感が残るのである。一つの特性は、それが妥協性のない一神教だということである。すなわちそれが神の定めと父性を単純で狂信的に信仰するということであり、また神学的な複雑さがこれにはないということである。もう一つは、これが生贅を司どる僧侶と神殿から完全に分離していることである。それは全くの予言宗教であり、血の生贅にふたたび逆戻りするようなどんな可能性も通用するものではない。コラーンには、メッカヘの巡礼の限られた儀式的性質のことが、異論をさしはさむ余地もなく述べられており、またマホメットの死後彼自身を神格化することのないように、あらゆる予防策がマホメットによってとられている。それから、有力な第三の要素は、神の前では全信者が、その皮膚の色や生まれや身分がどうであろうと、完全に兄弟であり平等であるというイスラム教の主張にある。
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イエスの教え

『世界文化小史』より

イエスは、ティペリウス・カエサルの治世下にユダヤに現われた。彼は一予言者であった。彼は以前のユダヤの予言者たちの流儀にならって説教をした。彼はほぼ三十歳くらいの男であったが、説教を始める以前の彼の生活様式については、われわれにはまったく知るところがない。

イエスの生涯とその教えに関する、われわれの唯一の直接的な情報源は、四福音書〔マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の四書〕である。この四書は、すべて、非常に明確な一つの人物像をわれわれに与えてくれることで一致している。われわれはこう言わざるをえない、--「ここには一人の男がいた。このことは作り話ではありえなかったであろう」と。

しかし、ちょうどゴータマ仏陀という人物が、のちの仏教の金色の偶像である、こわばった坐像によって、歪められ、あいまいにされてきたのと同じように、イエスというやせた奮闘的な人物も、誤まった崇敬の念から、近代キリスト教芸術におけるイエスの肖像に加えられた、非現実性や紋切り型によって、大いにそこなわれているような気がする。イエスは、一文無しの指導者であった。彼は、埃っぽい、太陽に焼け死なんばかりのユダヤの国土を放浪し、ゆきあたりばったりに恵まれる食物を食べて生き続けたのであった。ところが、彼はいつでも、きれいで、髪は櫛ですかれ、しかも身なりはきちんとしていて、よごれのない衣類を身につけ、直立し、そしてあたかも彼が空気中をすべっているかのように、彼のまわりには何か静止したものをそえて、描写されている。これだけでも、この物語の中核を、装飾的で愚かな、無知な信仰の付加物から区別しえない多くの人々に対して、イエスを非現実的なものにし、信じられないものにしてしまっている。

この記録から、こうしたわかりにくい付属物を取り除いてしまうと、われわれに残されるのは、きわめて人間的な、きわめて真面目で熱情的な、すぐに怒ることのできる、そして一つの新しく、そして単純で、しかも深遠な教理--すなわち、愛情深い普遍的な父なる神と天国の到来と--を教える一人間の姿である。彼は、明らかに、--平凡な言葉を用いれば--人格的魅力の強い人物であった。彼は教徒たちを惹きつけ、彼らに愛と勇気とを満たしてやったのである。弱き悩める者たちは、彼がいることによって元気づけられいやされるのであった。けれども彼は、たぶんきゃしゃな体質であったようである。それというのも、彼は十字架にはりつけられたことの苦痛のためにすぐに死んだからである。彼は、慣習に従って、処刑場まで十字架を背負うて運ばされた時気絶したのだという伝説もある。彼は自分の教理を広めながら三年間国土を遍歴して、それからイェルサレムにやってきたのであるが、ユダヤに奇妙な王国を建てようとしているという非難をうけた。彼はこのとがを着せられて、二人の盗賊といっしょにはりつけにされた。この二人の盗賊が息をひきとるずっと前に、イエスの受難は終わっていた。

イエスの主要な教えであった、天国の教理は、たしかに、かつて人類の思想をかき立て変化させた、最も革命的な教理の一つである。その当時の世界の人々が、この教理の十分なる意義を把握しえず、また人類の既存の習慣や制度に対するそのすさまじい挑戦を、半ば理解しただけであわててあとずさりしたとしても、さほど不思議ではない。というのは、イエスが説いたと思われる天国の教理は、苦しみもだえるわれわれ人類の生活の、完全なる変化と浄化、すなわち、内面的・外面的な、徹底的浄化を求める、大胆かつ強硬な要求にほかならなかったからである。このとほうもない教えについて保存されているいっさいのことを知るためには、読者は、福音書を見なければならない。われわれは、ここではただ、この教えが既存の諸観念に与えた衝撃の激しい震動を問題にしているにすぎない。
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ゴータマ仏陀の生涯

『世界文化小史』より

インド人は、力や知識は極端な苦行生活によって、断食をしたり眠らなかったりみずから苦しみを求めることによって、獲得されるものと信じようとするのが常であった。ゴータマはいまやこの考えを試してみることにした。彼は五人の門弟仲間とつれだって叢林におもむき、そこで断食や恐ろしい難行苦行に没頭した。彼の名声は、「中空の天蓋にかけられた大きな鐘の音のように」広まっていった。しかしそれがために彼は真理に到達したという感じにはならなかった。ある日のこと、彼は衰弱状態であったにもかかわらず、思索しようとしてあちこちと歩きまわっていた。突然、彼は意識不明に陥った。そして意識をとりもどした時、このような半魔術的な方法で知恵を求めることのばからしさが、彼にははっきりとわかった。

彼は、普通の食事を要求したり、難行苦行の継続を拒否することによって、仲間たちをびっくりさせた。およそ人間の到達しうる真理は健全なる身体の栄養豊かな頭脳によって最もよく到達されるのだと悟ったのであった。そうした考え方は、この国とこの時代の考えとはまったく異質のものであった。彼の弟子たちは彼を見捨てて、心も重くベナレスに去っていった。ゴータマはただ一人さまよい歩くのだった。

人の心が大きなこみいった問題を解決しようと苦心する時には、その心の進歩は一歩一歩であり、突然に、ふいの光明に照らされることによって心の勝利を悟るまでは、それまでに獲得されたものには、ほとんど気づかないものである。ゴータマの場合も、たまたまそうであった。彼は食事をしようとしてある川辺の大樹の下に腰をおろしていた。その時、彼にはこのはっきりした先見の悟りが現われたのである。彼にはありありと人生を看取したように思えた。彼は、終日終夜腰をおろして深遠な思索にふけり、そしてそれから自分の先見を世に分け与えんとして立ちあがったと言われる。


彼はベナレスヘとおもむき、そこで失った自分の弟子たちをさがし出して、彼の新しい教えに引き入れた。彼らはベナレスにある王の鹿猟園のなかにみずから小屋を建て、一種の学校を設立したが、ここには知恵を求める多くの人々がやってきた。

彼の教えの出発点は、「なぜ自分は完全に幸福ではないのか」という幸福な若者としての自分自身の問題であった。それは一つの内省的問題であった。それは、タレースやヘラクレイトスが、宇宙の諸問題を考究していたときの、率直で没我的な外在化された好奇心や、あるいは最高潮に達した予言者たちが、ヘブライ人の心に課していた、やはり没我的な道徳的義務の重荷とは、質的に非常に異なった問題であった。このインドの教育者は自我を忘れず、自我に中心をおき、それを破棄しようとした。彼の教えによれば、あらゆる苦悩は個人の貪欲な欲望のせいであった。人間は自己の個人的な渇望を征服してしまわない限り、その人生は苦悶であり、その最後は悲哀である。人生に対する渇望には三つの主要形態があるが、それらはすべて邪悪であった。その第一は、食欲、財欲およびあらゆる形態の感覚的欲望であり、第二は、個人的で利己的な死にたくないという欲望であり、第三は、個人的成功や、名利、強欲などに対する渇望であった。こうしたあらゆる形態の欲望は、人生の苦悩や煩悶からのがれるためには克服されなければならなかった。これらが克服された時、自我がまったく消滅してしまった時、この時こそ魂の平静、すなわち涅槃という至高の善が達成されるのであった。

これが彼の教えの骨子であった。それはたしかに、きわめて精妙で形而上学的な教えではあるが、恐れることなく正しく見て知れというギリシア人の戒めや、神を畏れて正義を成就せよというヘブライ人の命令のようには、とても容易に理解できるしろものではなかった。それはゴータマの直弟子ですらなかなか理解しえない教えであったし、彼の個人的影響がなくなるやいなや、堕落し卑俗化していったのも不思議ではない。この当時インドでは、何年に一度かの知者がこの世に現われるが、この知者は仏陀として知られる、ある選ばれた人のなかに体現されるということが、広く信じられていた。ゴータマの弟子たちは、彼こそは仏陀であり、諸仏陀のなかの最後の仏陀であると宣言した。もっとも彼自身がこの称号をかつて容認したという証拠は何一つ存在しない。彼が安楽な死をとげる以前から、彼については一連の幻想的な伝説が編まれはじめた。人間の心は道徳的努力よりも奇跡物語を好むのが常であったが、ゴータマ仏陀も、きわめて不可思議なものになった。
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