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コミュニティを再考する

『公務員の教養力』より

伊豫谷登士翁・斎藤純一・吉原直樹『コミュニティを再考する』平凡社新書、2013年6月

【キーワード】公共性・中間集団・政治的共同体・官製社会・産業社会・国民国家・連帯性/共同性・個人化・流動化・新自由主義

公共性ということをキーワードとした政治思想学者の斎藤純一は「コミュニティ再生の両義性」について述べています。人々の暮らしを豊かにしてくれるはずだった規制緩和による市場の自由化は、貧困と格差や国内産業の空洞化を生んでいます。布場や国家が信頼を失っていく中で、コミュニティは当事者として関与し、制御できる個人との関係とみなされています。国家による生活保障が後退していく中で、コミュニティは個人にとっては期待のできる関係と思われるのです。短期的な成果のための道具的な関係ではありません。また、従来の成長志向の生活様式とも相違する何かを感じられるのです。コミュニティは個人と国家の間に位置する中間集団の一つであることに間違いはありません。国家は政治的な共同体ですが、個人と直接的につながっているわけでもありません。コミュニティとは相互承認からなる感情的な関係であると考えられます。

分権化の政治的な流れは、一方では自己統治の促進、他方では行政コストの削減という両義性を有しています。「新しい公共」の下で、コミュニティが公共サービス提供の下請け組織に利用されていますが、一定の政治的・財政的な自律性がコミュニティを保障するものであることも間違いのないところです。

中間集団としてのコミュニティの再生では、市民からなる政治的共同体との関係をどのようにすればよいのでしょうか。市民が構成する政治的共同体とはコミュニティそのものであるとの考えですが、この共同体は富の再配分なしでは考えられないと思います。 しかしながら、その配分は利益ではなくて受益者負担という不利益です。国家からの支援が求められないものの、そこでの市民の連帯とは国家が関与する制度を媒介とした連帯でもあります。制度や政策が不利な条件下にあるコミュニティの可視化が、それを是正しようという連帯を生みます。ここではもう一つのコミュニティである政治的共同体の再生とともに行われなくては、制度を媒介とした連帯などは望めません。どのような条件下であっても、「お荷物」扱いの切り捨てなどは許されないはずです。避けられない流動化の中でも定着を重視する視点が必要になってくるのです。

都市社会学者のサッセンの翻訳を手掛けた伊橡谷登士翁は「豊かさを共有できた時代の終焉」を主張している。コミュニティは官製社会の復権につながり、参加と動員を抱き合わせにしたナショナルなものへと横滑りしています。ナショナルな単位こそが、高度な産業社会と民主主義に基づく政治を生み出しました。コミュニティ論をナショナリストのものと批判したり、これらの否定をアナーキストと批判することはたやすいことです。しかしながら、グローバリゼーションの対抗としてローカルなものがもてはやされたことをどう考えればよいでしょうか。この二つのものに挟まれて、国民国家は溶解していきます。しかしながら、国民国家がなくなるのではありません。経済や軍事における国家機能は増大しています。グローバル資本は脱国家とともに再国家化して、国家の支配機能は強化されています。国家は豊かな人々の財産を守り、リスクを引き受けてくれることによって、「安全と安心」を担保しています。ここでは中間層は没落し、その中開層によって構成されていたコミュニティも崩壊しているのです。国家間の植民地的な関係が、開発援助を前提に中心国の経済成長を支えています。人々は一握りの人のために存在する99%の存在であることに気が付いたのです。もう豊かさを共有することなどはありません。

最後にコミュニティを研究対象とする吉原直樹は、東日本大震災の状況にかんがみ、[ポスト3・11の地層から]を書いています。コミュニティヘの期待が実態から乖離している現実があります。コミュニティは文化的なものを取り込むことによって、連帯のナショナリティが復権しています。共助という文化的な伝統で蘇らせているのです。しかし、東日本大震災のときにはコミュニティがなく、近所の人に目もくれずに家族と自家用車で逃げ、ある者はクルマの渋滞に襲う津波によって命を落としました。公的なものより私的なものを重視する咄嗟の行動は、「コミュニティはあったけど、なかった」状態に陥れたのです。それ以前に国策として官製のコミュニティである町内会が作られましたが、地震発生時には、創発性に基づいた「連帯性/共同性」には至らなかったのです。変化に対して能動的に対応し、高次な特性を示す創発ドLは、その後の即興的なコミュニティである避難所において見られたのです。地域性、そして文化的なものとは何だったのであろうかを考えさせる3・11でした。

鼎談においては、吉原は、コミュニティ破壊の危機は中間集団の崩壊であるというパットナムの考えを紹介します。伊保谷は、アメリカのような中間層によるコミュニティは日本には馴染まないと主張します。吉原は、アメリカにおける都市的な社会は契約に基づく社会であると言います。さらに伊保谷は、アメリカはコミュニティではなくアソシエーションであるととどめを刺します。斎藤はベックの言う「個人化」された人々がコミュニティを求めることを指摘します。このコミュニティ再生の動きは、国民国家の動揺にあると考えます。トクヴィルの言う流動化と平等化(民主化)が避けられない趨勢において、共同性から解き放たれる個人にとっての共同性とはと踏み込みます。いずれにしても、日本おける中間層は本当の中間層でなくて、中流意識だけのことだったのかもしれません。吉原はギデンズが言うような効率と公正の同盟は新自由主義である、と指摘します。コミュニティという語句も時代と場所、そして論者の立場によって多様なものとなっています。

関係的に文脈的な共同性と地域性がコミュニティの実体と考えられます。しかしながら、西洋的な合理性に基づく個人主義(個人の権利や自由を選定に自律的な言動を自らの責任において行う考え)を経験していない日本のムラ社会(集落のような社会を形成して、仲間内での上下のタテ関係に安定を求める閉鎖的な集団の社会構造)において、個人は組織に埋没してしまっているのではなかろうかと考えられます。そのようなレベルにとどまっているところを、イエ社会(家父長を頂点にしたタテ関係のイエ構造を模した閉鎖的な集団の社会)やムラ社会からアソシエーション(association 連帯の協同組合。基本的に一定の資格でのヨコ社会を形成する)へと言われても無理があるように思えます。勝手に「強い個人」と思っているのかもしれませんが、戦前は「強い国家」に対する「弱い個人」、戦後においても「強い企業」に対する「弱い個人」のパターンは健在です。「強い企業」に属した「強い個人」と思っている人々が、[弱い個人]に対して言動するのが、現代目本の実情なのかもしれません。そこに福祉があるとしても、果たして「強い国家」の復活が必要なのでしょうか。少なくとも、「強い企業」は福祉に関しては介入したくないのが本音と思えます。               し
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「論考」と「探究」の間にあるもの

実感

 亡くなるのはいいけど、本当にこんなのでいいの。

武器の進化

 平原での戦いの後は、城をめぐる戦いになった。なかなか落ちなかった。1253年のコンスタンチノーブルの攻防戦から、大砲を使うことになって、白での攻め合いがダメになった。

デンマークのニルスさん

 デンマークのニルスさんのところの「風力発電協同組合」。そして、コミュニティ・パワー

「論考」と「探究」の間にあるもの

 ウィゲントシュタインの「論考」のはじめを入れるのであれば、「探究」のはじめも入れておきましょう。「論考」は自信に満ちていたけど、「探究」は自信がないの一点張りです。

 それにしても、哲学の論点が「存在」とか、そういうものと離れています。言語ゲームに格上げしたことにより、かなり、迷走しています。
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